8月23日「枯れた緑」


三十五日目











 こんなにのんびりしてて、良いんだろうか? というほどのんびりと時間は流れていく。夏休みだ、これくらい許されてもいいだろう。僕は草や花の写真を撮りながら、そう思う。時々、花の写真を撮ってるふりをして、志乃の写真を撮りながら。


「陽ちゃんっ」


 ぷーっと頬を膨らませて、志乃が怒っていた。隠し撮りしちゃダメといつも志乃は怒るけど、カメラの前でポーズを撮る表情って自然な顔では無いんだ、実は。


 記念用の顔。だから、本当はそんな顔しなくてもいいのに、無理に笑ったり、無理に仲良くする振りをしたりする。僕はそれがとても違和感あるように感じてしまう。


 怒った志乃の顔も可愛い、と僕はシャッターを切る。

 手を振り上げて、僕に抗議する志乃がファインダーに納められた。


「陽ちゃんっ!」


 このへんにしておかないと、フィルムを捨てられそうだ。小学校の頃、無理に撮ってフィルムを引っ張り出された記憶がある。女の子はどうやら、一番最高の状態で写真を撮ってほしいらしい。素の顔──それを晒したくない、というのが僕の結論だ。


 確かに素──自分をさらけ出すってのは怖い。だから、みんな格好つけるし、色々なスキルを身につけていく。自分だって両親が死んでから、一人で走り続けていた。兄弟を守りたい。これは言い訳でしかない。本当は自分を晒すのが怖い。自分が弱いのが怖い。突けば崩れる砂山のように、足をかけたら転んでしまうほど、僕は弱い。


 今なら志乃の気持ちも分かる。


 女の子は、一番「綺麗な私」を撮ってほしい。でも、素の志乃が一番綺麗なんだよ、いつもそう囁いてしまう。囁けば、志乃は真っ赤になって俯いてしまうけど、いつそう思う。


 かしゃり。シャッターを切る。


 ファインダーに陽大がうつる。我関せず、ただ風が陽大の髪を撫でるにまかせて、釣りに没頭している。その隣で一緒に釣りにいそしむ弥生。二人は何も言葉をかわさないのに、なんだか一緒にいるのが当たり前の空気。僕は志乃と顔を見合わせた。小さく笑む。


 意識するとぎくしゃくしてしまう弥生。気付いているのかいないのか、全く分からない陽大。でも、これは兄の勘だが、間違いなく陽大は気付いていない。


 ちゃぷ。釣り糸が引く。陽大は焦らない。


「ちょっと、委員長引いているよっ」


 陽大は小さく頷く。引く糸に合わせて力を反らせたり、合わせたり。呼吸を合わせている。母さん直伝だ、その姿も板についている。そう言えばと思う。陽大が釣りをしている姿を久しぶりに見る。少し離れて対峙している吉崎も、ちらりと目を向けていた。


「大きいの?」


「それなりに」


 と陽大は飄々と答える。余裕すら浮かべる顔だ。ただ、その手は少しずつ手繰り寄せている。距離は段々と短くなっている。


「陽ちゃん?」


「うん?」


「陽ちゃんも釣りすればいいのに」


「無理」


 あっさり却下する僕に志乃は大きく頬を膨らませた。


「なんでよー、陽ちゃんだってお母さんに教えてもらったんでしょ!」


「あ、うん。なんだけど……」


「私も陽ちゃんが釣りしてるところみたい」


「はぁ?」


「弥生ちゃんみたく、ああやって二人でのんびりとした時間を過ごしたいっ」


 暗に写真ばっかり忙しく撮ってる、と言いたいらしい。丘の方では北村が桃と亜香理をモデルにスケッチをしている。巨木に抱かれるように。囁く風、広がる青空、差し込む木漏れ日。亜香理が少しうとうとしているのが見える。


 ――モデルに借りてもいい?


 と北村から申し出があったのは昨日の夜の事だ。別に断る理由も無いから、後は亜香理に聞いてくれと言っておいた。どうやら交渉は成立したらしい。ここから見上げると、三人とも豆粒のようだ。


 北村はその絵をコンテストに出すらしい。痛い言葉だ。僕もそろそろその事を考えないといけない。秋は文化系部活のコンテストで目白押しだ。例外なく写真部も、出品を予定している。志乃の全部を撮りたい思う陽一郎だが、どうしても素顔をさらけ出すまでにはいかない。


 一枚、志乃と一日目に墓参りに行った時に撮った、向日葵を抱きしめてる写真。あれ以上のものを撮れていない。志乃の顔を見すぎている。それも一因だ。平凡な幸せに自分の感覚が埋もれているのを感じる。その平凡な表情で満足しているのだ。


 父さんならどう言う?


 きっと――コンテストに大切な人を出す気は無いね、と言うに違いない。


 でも、これは一つの挑戦だ。驕ってるわけでは無い。一応は全国区で入賞もしているし、劇場関係だけでなく、デザイン関係から注目されているらしい。あんまり意識してないし、気にもしてないけど。


 プロのカメラマンになりたいという気持ちはある。ただ、今、自分が何を撮りたいのかと言えば、志乃なんだ。志乃一人を撮りたいと思う自分がいる。幸せそうな顔の志乃を撮る事は、幸せな自分を写す事にも繋がる。志乃は鏡だ。志乃はまるっきり僕を映す。体の内面、細胞の奥底まで。志乃が悲しいと、僕の奥底の細胞も軋んでいくような、そんな感覚に囚われる。


 志乃無しでは考えられない生活。だから、なおさら、志乃の表情をファインダーに納めたいと思う。


「あっ!」


 志乃が声を上げた。水飛沫が舞う。釣り糸が銀色に煌めく。銀鱗が眩しい。冷静に陽大は竿を振り上げ、釣り糸を掴んだ。獲物──ふっくらとした鮎が元気に体をくねらせている。陽大は手際よく、仕掛けをはずしていく。


 その瞬間を僕は見とれることなく、写真を撮る。陽大の冷静な表情、弥生の歓喜、志乃の見とれるような表情、全部。


「やるなぁ」


 と吉崎も感心している。そう言いながらも、陽大に劣らないヒット率ではあるのだが。


「高志、負けてられないよぉ」


 吉崎の隣でにこにこして、優理は言う。


「ばーか。釣りってのは、魚との根比べなんだよ。相手は人間じゃねーよ」


「料理担当としては今夜のご飯の分だけ、お魚を何とか確保してね」


 にこっと笑って言う。夏目に来ての最大のイベントということで、僕達だけでキャンプを決行している。大人達は忙しくテントを張っている。その間に、というわけだ。全員がキャンプに参加というわけではないが、それでも大所帯。騒がしい事はこのうえない。夏目照までもがテントを張っている光景というのは、どうも今までのイメージとしては釣り合わない。


 美樹は誠をはじめ、長谷川家とともに山菜取りに出かけている。誠の親父さんは、本当にこういう分野は強いと思う。と言うよりも、料理に命をかけているという感じがする。誠にもその遺伝は確かに受け継がれていて、料理となると普段見せないほど真剣な表情になる。志乃とはまるで違う職人の顔だ、と思う。


 美樹は本当に誠になついている。子どもの頃から変わらず。最近ではよくなつきすぎているような気もするけど、誠には感謝してしまう。つらいのは自分だけじゃない。そんな事は分かってる。でも、どうにもならない、と思う時がある。


 美樹は精神的に強い。タフだ。だが、それでも女の子だ。虚勢を張っている時もある。それを感じても僕は何もできない。長男として不覚だ、と思う。それでも何もできない。ただ走るしかなかった。志乃がいなかったら──いつ倒れてもおかしくなかった。


 美樹だけじゃない。陽大も、晃も亜香理も、辛い時に何もしてあげれなかった。自分の事しか考えられなかった。長男がそんな事で──。


「志乃?」


 志乃が僕の手を握る。強く強く、なお強く。その小さな手で精一杯の力を、心からこめて。こういう不安や嘆き、自嘲はあっさりと以心伝心してしまう。望まなくても、隠そうとしても隠匿できない。


 志乃にはどんな嘘もつけない、か。苦笑混じりのため息が漏れる。志乃の視線は何よりも説得力がある。言葉にはしない。あえて。言う必要も無い。言うべき言葉、聞くべき言葉は分かっているから。


「ありがとう」


 僕は誰にも分からないように囁いた。志乃はこくんと頷く。なお力をこめて、精一杯、志乃は僕に囁き返している。


 充分やっている、って。無理してもなんの解決にもない、って。志乃の想いは痛いほど胸に突き刺さる。一人じゃない、って。みんなを代弁していつも志乃は小さな体で、僕達を守ってくれている。情けない話だ。僕がもっとしっかりしていれば──手を握る力がまた強くなった。真摯な瞳が僕を見ている。どうやら、伝わったらしい……本当に何も隠せない。


 僕はカメラのファインダーを覗き込む。


 晃がぼーっと川の流れを見ていた。物思いにふける、という表現がぴったりだ。ただ、川の流れ、そして森の奥へと目を向けている。誰かをまるで探しているような表情。釣り糸が何回か引かれたが、晃は無頓着だ。ただ、目は何かを必死に探している。


「晃?」


 声をかけても、晃は返事をしない。釣り糸が引くのを止めた。どうやら獲物はまんまと食事にありついて逃走したらしい。


「晃?」


「え?」


 はっとして、僕を見る。夢から引き返してきたような、麻酔から覚めたような、夢見心地のようなそんな顔。


「どうした?」


「晃君、具合悪い?」


 と志乃も屈み込む。晃は小さく首を横に振った。その目はまた川の流ればかりを追いかけている。おかしい、あまりにも変だ。志乃が晃の隣に座った。僕もそれにならう。


「どうしの?」


「ん。うん……」


 いつもの元気が無い。


「話してみろ、晃」


 と僕は声をかける。


「たいして役にたたない兄貴だけど、話だけは聞けるぞ?」


「そんな事ないよ」


 晃の否定に僕は口をぽかんと開けた。志乃に劣らず強く強く否定する。目が心の奥底まで覗き込むように僕を見ていた。僕の思い上がりでなければ、その目に信頼の色が含蓄している。そんな目で見られると何だか照れる。そんな兄貴なんだろうか? という迷いすらも吹き飛す信頼を寄せてくれる。


 そんな眼差しに反して、晃は絞り出すように言葉を吐き出した。


「陽アニは妖精っていると思う?」


 僕は思わず、小さく縦に頷いた。











 妖精──主として西洋の伝説・物語に出てくる精霊。善良なるもの、悪がしこい小人など、その姿・性格は多様である。フェアリー。


 僕は辻弥生ちゃんの辞典で調べた言葉を反芻する。


 志乃は月を見上げていた。

 凪ぐ風、優しすぎる。志乃の甘い香りが、僕の鼻孔をくすぐる。


 満月、黄金色じゃない、銀色と表現した方が良いような妖しい月。僕はついカメラーのシャッターを切る。フラッシュ。またフラッシュ。志乃はぽかんとして、そして次には膨れた表情で抗議を示す。


「陽ちゃんはどうしていっつもそーなの!」


 ぷぅ、と頬は膨れて。


「あまりにも綺麗だったからさ」


 素直に僕は言った。


「綺麗じゃないもん」


 なんでそこで、いじけるんだ?


「綺麗だよ。志乃は本当に綺麗だ。月明かりがね、不思議なんだ」


「え?」


「いつもの志乃じゃないように見える。なんか、ますます惑わされそうになる」


 そう言って僕は志乃の髪を手で梳く。さらさらとした髪が月明かりで洗われるような、そんな感覚。何より綺麗な僕の志乃を、あの月の迷宮へ攫っていきたくなるような錯覚。そのかわりに志乃の表情の一つ一つを、僕はフィルムの中へと納めていく。


「私が悪女みたい」


 ますます拗ねる。何を言っても今の志乃には逆効果らしい。へそを曲げると、いつも志乃はこうだ。何を言っても、どんな言葉も聞き入れてくれない。本当に頑固だ。その頑なな姿は今も昔もまるで変わってない。だから──なんだと思う。僕らのバランスがとれているのは。


 こんな時だから、なおさら僕は志乃へ言葉をかけていく。ただ言葉を間違ったらアウトだ。慎重に丁重に、志乃の怒りを解きほぐしていく。そんな姿を晃は呆れて見てた。


「なんだよ?」


「陽アニは幸せだなぁ、って」


「は?」


「見てるこっちがはずかしいよ」


 そう言われると、こっちが恥ずかしくなる。志乃も同じようで顔を真っ赤にして俯いていた。


 晃は懐中電灯を向ける。


 風が生暖かい。父さん達の向日葵庭園。今頃大人達は酔っぱらいの最高潮だし、亜香理は晃がいなくてそわそわしている頃かもしれない。


「ねぇ、晃君」


「うん?」


「晃君は妖精さんにどうしてまた会いたいの?」


「分からない」


 葉が囁く。草花を踏みしめる音が耳につく。多分、会いたいことに理由なんか無い。晃の目を見ていると分かる。理由は無いんだ、でも会いたい。今会わないと間違いなく──。


「もう二度と会えない気がするんだよね」


 はにかんで笑う。もう二度と会えない──晃には父さんと母さんの事が重なっているのかもしれない。でも、それだけじゃない。僕も志乃も疎遠になっていた事があるとはいえ、所詮は同じ街の中。会えなくなるという事はなかった。それは晃だって同じだった。


 でも、二度と会えない。もう一度だけ会いたい。そんな人に出会ってしまった。その気持ちは僕には知り得ない感情でもある。父さんと母さんをのぞいては。


 僕は晃の横顔も撮った。晃は真剣に周囲に目を配らせている。その目が一点を凝視する。


 淡い灯りがちらつく。


「陽ちゃん?」


 志乃は緊張する。光は明滅し、増え続ける。呻き声が響く。足音だ。ゆっくりと僕らへ近づいている。


「陽アニ」


 晃も僕の手を握る。やれやれ、と思った。男の子が情けない。


「晃、手を離せ」


「え?」


「怖くないから大丈夫だよ」


 晃は恐る恐る手を離す。僕はカメラをかまえてフラッシュを焚いた。フラッシュ。もう一つフラッシュ。十人はいたかもしれない子どもや大人の顔が暗闇の中から浮き出しになった。その誰もが懐中電灯に色セロファンをつけている。何とも素敵な演出だ。呻き声は彼らの自慢の声にレコーダー。華麗すぎるほど陳腐だ。人を驚かす事にかけては父さんや朝倉さんに負けている。


 一斉に誰もが逃げ出す。


「あ」


 その中に晃は目的の女の子を見つけたらしい。彼女は一番最初に背中を向けて逃げ出す。晃はすぐに反応して追いかけた。


「晃君!」


「志乃」


 と僕は声をかけた。


「そっちは晃に任せよう」


 そう言って僕は逃げ遅れた少年の手を取る。坊主頭にランニングシャツの悪ガキは、僕に唾を吐いた。僕は軽くかわす。別に怒りも無い。


「こんな事をして何か意味あるの?」


「………」


 沈黙。でも、目はぎらぎらと怒りをはらんでいる。そっぽむいてる少年の頬を志乃はむっとして、力任せにぎゅーっとつねる。


「イタイタイタタイタイタイタッ」


 と悲鳴を上げる。


「何すんだ、ババア!」


「お、おい志乃」


「陽ちゃんはちょっと黙ってて。人を驚かしたり唾はいたり、そんな事許されると思ってるの?」


 そう言うや否や、志乃は彼の体を抱きかかえて、お尻を叩き出す。


「イタイ、イタイ」


「痛いじゃないの! 人にやっていいことと悪いことの区別もつかないの!?」


「つく、つくよ! 勘弁してよ!」


 すでに涙声だ。哀れ少年、志乃を怒らせた君が悪い。体は小さいが気性はお母さん体質だ。


「勘弁してじゃないの! 陽ちゃんは何でこんな事したのか、って聞いてるんでしょ!」


「だっておじさん達が夏目が悪い、って」


 もはや泣き出し寸前だ。今時の子どもは怒られるという事も少ないというのは聞いていたけど、彼はよほどショックだったらしい。


「もうそのへんにしとけよ、志乃」


 と僕は彼に屈み込んだ。


「なんで、夏目が悪いんだい?」


「………」


 そっぽ向こうとして頬を志乃はさらに倍の力でつねる。と言うよりも、強引に引っ張る。


「イタイ、イタイよぉぉぉぉぉぉ」


「人の目を見て話す、ちゃんと聞く。聞かれたら答える。そんな事もできないの、君は」


「知らない人と話しちゃいけない、って母ちゃん言ってたもんっ」


「知らない人を怖がらせるのはいいの?」


 彼は言葉につまってしまう。僕は微苦笑を浮かべた。


「君の負けだ。もしも僕らが君らの領域を侵したのなら謝る。まるっきり夏目と無関係では無いけど、でも僕らはただの観光客だよ? 君らの怒りを買う憶えが無い」


「やっぱり夏目なんだろ!」


 と少年は吠える。


「君の名前は?」


「大館一郎!」


「じゃあ仮に僕が大館って人に自分の親を殺された、って言ったら」


「は?」


「僕は君も殺していいかい?」


 笑みも冗談の色合いも見せず、一郎君に僕は言う。大人が子どもに、とも思うがこうでも言わないと話が進まない。夏目の企業の暴利が、ここにもでているらしい。里の人間にはよく思われていないというのは、日向からも朝倉からも聞いていた話だ。


「夏目なんて名字は腐るほど有る。大館もそうだよね。僕が夏目の何で、どんな関係か君達は理解して言ってる?」


「…………」


「質問をかえよう。夏目は確かに僕の遠い親戚だけど、君達に夏目は何をした?」

「言ったって──」


「遠い親戚をおどかして喜ぶ程度?」


「違う!」


 大館少年の目は真摯だ。だから僕も真剣に答えている。


「夏目は緑を汚してる!」


 僕は志乃と顔を見合わせる。少年は山の一つを指さす。


「あの山の裏側は、丸裸だよ、兄ちゃん達」


 乱開発、か。


「ゴルフ場作るから、ってみんなから強引に買収して、山を殺そうとしてるんだ。結局、丸裸にするだけして開発は中止だってさ。山が痛がってるよ」


 優しい子だ、と思う。僕は思わず、彼のイガクリ頭を撫でる。つんつんんして手に刺さるような感触。精一杯の言葉を僕へぶつけてくれるこの少年に親近感が湧く。有る意味、晃と似ているかもしれないな、と思った。


「あの山はね、兄ちゃん達」


 一郎君の目が濡れていた。暗闇だから気付かないと思ったらしい。僕も志乃も気付かないふりをした。男は泣かないもんだ。どんなに悔しくても、悲しくても。そんな哲学が一郎君の小さな体から感じられるから。


「神様が住んでるんだ。あの山の頂上に、ね。兄ちゃん達の親戚は、神様の家を踏み荒らしたんだよ」


 別に一郎君は熱心な仏教徒でも何でもないと思う。僕らは所詮、都会の人間だ。自然の偉大さ、雄大さ、苛烈さを知らない。所詮は観光でしかない。でも一郎君達にとって、そして里の住人達にとって、山──自然は共にあるべき存在なんだ。


 夏目は文字通り、そこを土足で踏み汚したことになる。


 高度経済成長期。いつしか偽りの成長と偽りの契約が飛び交った時代。誰もが日本はもっと豊かになると信じていた時代。樹を倒し、草花を踏みつぶし、自然が欲しいならプランターで育てたらいい、緑が欲しいなら建物を緑色にしちまえばいい、と本気で言っていた時代らしい。


 アホだろ?


 ──父さんの嘲笑にも近い講釈は、実は同じ夏目としての自嘲だったのかもしれない。


「陽ちゃんっ」


 志乃が声をかけた。耳をすまして、何かに聞き耳をたてる素振りを見せる。


「どうしたの?」


「聞こえない?」


「え──」


 聞こえた。ずん、と底から響く音。そして地面が激しく揺れる。僕は思わず、志乃と一郎君を抱きしめた。地震? いや違う。すぐに収まった。でも、なんだか落ち着かない。


 また揺れる。


 僕は目を疑った。志乃も一郎君も僕にしがみついたまま、一点を凝視した。神様が住んでいる山の唯一残っている緑の肌が、土砂で倒壊していく。その様が肉眼でしっかりと見て取れた。スローモーション、僕はフラッシュで焼きつけるようにその様を見つめていた。木が倒れる。砂が流れる。飲み込まれる。陥没していく。岩肌が崩落する。一瞬、刹那で山は姿を変えた。


 かちかち、と一郎君は震えている。


 志乃は僕の手を強く握る。


 僕は息をする事も忘れて呆然と、見つめていた。月明かりしかないのに、まるで焚いたフラッシュ。鮮明に頭の中でリフレインしていく。ふと気付く。晃は?


 砂埃。静寂。虫の声すらしない。


 一郎君が息を飲む。動けない──。


 後ろで僕らの名前を呼ぶ声が聞こえたが、唖然呆然と立ちつくすしかなかった。


 

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