8月22日「花の妖精」


三十四日目











 陽一郎は黙って空を見上げていた。月が淡く輝く。隣には志乃がいる。歩く。歩く。夏目の広大な庭を歩く。まるで山道のようだが、ここも夏目の庭だと言う。迷うな、と照には言われた。庭とは言え、山岳地帯だ。迷えばあっさり遭難できる。


「本気なんだね?」 


 志乃が聞く。うん、と小さく頷く。ついさっきまでの応酬を思い出す。夏目に訪れた最大の問題------それは誰の力もいらない、と拒絶する事。陽大は同席させなかった。そこにいたのは、夏目照。そして朝倉志乃のみ。延々と親戚連中との応酬が再現された。


 ──無理はするな。

 してません。


 ──それが無理だ。

 してないです。


 ──子どもだけで何ができる?

 今までやってきました。これからも生活を守り通していくだけです。


 ──生活が破綻するだけだ。


 しませんよ。志乃がいてくれます。陽大が、美樹が、晃が、亜香理がいます。誠がいます。朝倉さんがいます。北村君が、吉崎君が、笹原が。みんながいます。僕はもう不安じゃない。


 ──お前が倒れてしまうぞ?


 倒れませんよ。にっこりと笑って陽一郎は言う。正確には倒れることはできない。倒れることは許されない。そう戒めている。だから前みたいな無理はしない。無理なんかさせてくれない。それも充分に自覚している。


 ──朝倉の娘と離れたくないから、ってだけの台詞じゃないだろうな。


 違いますよ。揺るがない言葉で陽一郎は意志を示す。そうじゃない。それも理由には勿論あるが。離れたくないんじゃなくて、離れられないのだ。甘いかもしれない。浅いかもしれない。子どもの感情かもしれない。でも、陽一郎の居るべき場所は志乃の隣だと思う。


 陽一郎は揺るがない。どんな言葉も。どんな誘惑も。どんな交渉も。


 ──お前は陽とそっくりだ。


 夏目照は苦笑して、背中をむける。


 ──帰るまでに、心が変わったら言え。俺はお前達を保護する責任がある。

 はい。


 陽一郎は小さく頷いて、照の私室を出る。そのまま、当てもなく夏目の屋敷を出て、外を彷徨っていた。


「陽ちゃん?」


「志乃……」


 きゅっと、陽一郎は志乃を抱きしめる。


「え? え?」


「俺は正しかったかな?」


「え?」


「もしかしたら、俺は間違っていたのかも知れない。陽大達の事を考えたら、保護されるべきだったのかもしれない。あいつらに何の心配もさせずに、生活させてやりたい──」


「陽ちゃん」


「俺には力が無い。ただ意地だけで今まで来たから」


「陽ちゃん!」


 志乃は首を振る。精一杯、否定する。違う、それは違う。絶対に違う。


「私は部外者だよ。夏目の人間じゃないから言う資格なんて無いけど、今まで陽ちゃんが頑張ってきた事は、私が良く知ってる」


「でも、焼け石に水だ。照さんの言うとおり、生活が破綻するだけだ」


「怖い?」


「うん」


「陽ちゃんは不安を言わないからだよ」


「え?」


「陽大君も美樹ちゃんも晃君も亜香理ちゃんもそう思ってる。私だってそう思ってる。不安な時は言って欲しい。一人で歩かないで」


 なお強く強く抱きしめる。だから、離れられなくなる。志乃はそれも同じ。陽一郎の胸に顔を埋めて、鼓動を感じながらそう思う。優しい陽一郎、弱い陽一郎、たくましい陽一郎、頼りない陽一郎、写真だけに夢中な陽一郎。全部、陽一郎。そんな陽一郎が志乃は愛しくて愛しくてたまらない。


 夏目に行く前は「離れないで」と言った。


 でも、今は「一人で歩かないで」と言える。


 志乃にとって陽一郎の存在は最早、呼吸だ。必要不可欠な酸素。陽一郎と距離がほんの少し遠くなるだけで、酸欠になってしまう。今だって、さっきの照との会合だって、もしかしたら陽一郎がいなくなるかもしれない、という決断の一つに怯えていた。


 (バカみたい)


 でも、だからこそ、志乃は陽一郎に真っ直ぐになれる。独占欲もあるかもしれない。誰よりも一番触れていたい人。だから、だからなおさら、誰よりも傍にいたい。でも、だからこそ、最悪の決断を選ばないで、と志乃は言えなかった。じっと、じっと、その会見を聞くしかなかった。


 志乃の本音はあの時は言ってはいけなかった。陽一郎もそれを望んでいなかった。あくまで夏目一家の長兄としての意見を、夏目照に提出したにすぎない。結局、答えはかわらない。陽一郎の意見は兄弟の総意。旅行前から分かっていた結論だ。


 でも、今だから言う。志乃の本音を。旅行の前から変わらない結論を。


「一人で行かないで。私、置いていかれるのイヤだよ」


「うん」


「他の女の子に笑うの、もっとイヤ」

「いや、それは……」


「分かってるよ。ワガママだもん。でも、もう遠慮しないって決めたんだもん」


「ん……」


「笹原さんの事みたいに、私が知らないうちに、陽ちゃんが他の人に笑ってるイヤだもん」


「根に持ってるな」


 陽一郎は苦笑して見せる。が、志乃は真剣だ。


「違う。本当にイヤなの」


「だから、それは過ぎた事で──」


「私が知らない間に、陽ちゃんが他の人の事見てたのがイヤなの」


「それは志乃だってそうだろ?」


「うん……」


 でも違う。志乃は呟く。自覚がある。志乃は結局、北村と居た時から陽一郎の事しか考えていなかった。でも、陽一郎は違う。幼い恋心かもしれないが、笹原桃を一瞬でも彼女として大切にして、手を握って、キスをした。


 女同士の約束──そう桃とは暴露しあった。志乃だって北村とキスをした。お互い、複雑そうな気まずい表情になりながらも、本音を話した。桃とは親友同士になれる、そんな気がしたから。


 結局、と桃は苦々しい笑いを見せた。男なんて、そんな生き物なんだね。


 困ったもんだ、と二人で大きく頷く。


 本当に困ったモノだ、と思う。


 志乃はもう失いたくない。失う事は恐れていない。歩く事と失う事はイコールだという自覚もある。陽一郎以外なら、いくらでも失える。でも、陽一郎だけは失いたくない。


 結局、答えはかわらない。絶対という保証は無いから怖い。でも、それ以外は何も怖くない。


 そっと陽一郎は志乃の頬に唇を寄せる。

 志乃はしがみつく。


 二人は歩く。何がしたいわけじゃない。ただ、再確認をしたいだけ。











「母さん、ふられたよ」


 照は自嘲気味に笑んだ。夏目雛は寝息で答えている。雛が寝ている時しか、照はこの場所に踏み入れる自信は無い。息子の事を認知できない。それは何よりも辛い。


「陽はどこまでも、自由であろうとしている」


 遺伝子は確かに受け継がれている。照には自信があった。陽一郎達を保護する自信が。――だが、夏目兄弟を──陽の息子達を見たときから、その自信は揺らいだ。甘い、と思う。だが、無理だ。陽一郎は鷹、陽大は鷲、美樹は鳶、晃は隼、亜香理は白鳥を思わせる。籠は無用だ。陽一郎が肩に止まるべき場所は志乃だと断言している。まさに陽と茜にそっくりじゃないか。


「そうですね」


 声がした。振り向かない。悪趣味な奴め。


「楠――」


「陽さんにそっくりです」


「照さんは陽君にこだわりすぎよ」


 楠夫人も居たか。揃いも揃って悪趣味め。

 楠はサングラスを外す。多くは語らない男だ。夏目太陽の時も、そして現在、夏目照にも忠実に任を果たしている。妻の華にしても、優秀な忠言役だ。だが、いい加減、自分の足で歩かないといけない。それも時間している。保護され続けているのは、夏目照に他ならない。


「まぁ、いい収穫もあったでしょう」


「あ?」


「陽大君からは、同じ匂いがするわよ。照さんと同じ」


「だから何だ?」


「別に照さんは孤立してもないし、私たちが過保護にしているわけでもない」


「………」


「私たちは進言しているだけ。照さんは照さんの意志で、全て選択してきたわ」


「社長、時代はかわるものです」


 と楠壮次郎は嬉しそうに言った。童顔を隠すためのサングラス。そこには大きな瞳をした、人なつっこい顔がある。本当な夏目太陽の孫達を優しく見守る世話係にでもなって、引退したいところだろう。


「私は社長が、パソコン事業を興すと言った時、嬉しかった」


「お前、反対しただろ」


「経営として、ですよ。薬剤でやってきた夏目に、ノウハウは何もありませんでしたから」


「でも、照さんはノウハウを奪ってきた。小規模チームから始めてね」


「朝倉さんに北村さん。彼らは未だ夏目コンピュータの第一戦技術者です。社長の目に狂いは無い」


「だが、親父の目指した『夏目』とは違う」


「いいんですよ」


 楠は穏やかに言う。昔を回顧してか。夏目太陽を思い出してか。


「時代は変わります。その時代のニーズにあったものを見つけていく。実際、経営としても薬剤部門と両立している訳ですから、問題は無しです」


「してないだろ」


「そう。してないですね。薬剤部門は赤字です。他の部門も。黒字はコンピュータ事業だけですね」


「だからこそ、結果の出せない部門の編成を行ってたいんたでしょ?」


「あぁ」


「なのに唐島さんを残す理由は何?」


 楠夫人の言葉は途端に冷たくなる。雑談したい訳では無い。進言をしに来たのだ、この二人は。


「薬剤部門を奴に一任する」


 照の言葉に、楠夫妻は顔を見合わせた。


「本気ですか?」


「本気だ」


「どうして?」


 信じられない、と楠夫人は吐き捨てる。あれほど経営編成の邪魔をしてきた男を立てる理由が分からない。


「どうして、と言われてもな」


「理由をお聞かせ下さい」


 楠壮二郎が強く出るのは珍しい。あの時以来か。朝倉達を擁した、コンピュータ部門を設立を決めた時。もうかれこそ、二十年も前の話だ。


「唐島なら出来る、と思ったからだ」


「出来るわけないでしょ!」


 華は呆れた。怒声に近い声を上げ、夫に手振りで声のトーンを落とせ、となだめられる。夏目雛は入眠中だ。そもそも、ここで話す事でも無い。だが、照はたいして気にもしていないようだ。今までは、過剰にこの部屋で仕事の話をする事を毛嫌いしていたのだが。


「踏ん切りがついた」


「は?」


「俺も経営には介入する。だが主導は唐島に任せる」


「だから、その理由を!」


「唐島は出来る。絶対に出来る。経営を立て直す」


 断言する。


「ただ、名誉欲が邪魔しただけだ」


「旧、唐島ですか」


 と葛城は何となく、納得する。


「そのころからのノウハウがある。ぶっちゃけ、薬学は奴の専門だ。研究員と経営者の両面をもっている。適任だ。俺は経営の面でダメだしをして、従業員の嫌われ役になればいい」


 つまり規模の縮小、編成のメスを入れる事に変わりは無い、という事だ。


「でも、名誉欲は消えたとは思えないわ」


 華は厳しい。と言うより当たり前だ。そんな簡単に消えてたまるか。夏目を憎む気持ちは消えてもらっては困る。陽大にもそれを望むが、下克上するくらいの反旗の意志が欲しい。


「それでいい」


 あっさりとそう言い捨てる。


 楠夫妻は微苦笑をお互い、唇に浮かべている。分かるか、分からないか。そんな些細の表情の変化だが。


「分かりました」


 と楠は言った。


「今は納得しておきます」


 あの時と同じ台詞か──。


「重要なのは結果だからね、照さん」


 無論だ。頷く。


 ドアが開いて、閉まる。楠夫妻は出て行く。


 照は関せず、母の顔を見つめていた。呆然と。選択は誤りか? 母は答えな──。


「照さんの好きなようにすれば、いいわよ」


 母の口から漏れる言葉。夢を見ている。きっと、そうだ。彼女は照を認識する事すら無い。


 優しい口調、そしてまた寝息。

 照は母の手を握る。少しだけ、強く、母の体温が感じられるように。












 吉崎はぼーっと、窓から夏目の景色を見下ろしていた。電気が無い。真闇にたたずむ森。朧月。天の川。夏の大三角がよく見える。


「お前は心配じゃないのか?」


「何がですか?」


 陽大は静かに聞く。


「お前達の生活がかかってるんだろ?」


「そうですね」


 と興味なさげに言う。


「あのな」


 呆れる。隣で優理がクスクスと笑っていた。


「な、なんだよ?」


「高志のお節介」


「べ、別にそんなんじゃねーけど!」


「何?」


「朝倉が……一人になるのは可哀想だ」


 吉崎の吐き出したような言葉に、離れて聞いていた北村は小さく微笑む。北村は亜香理と夏休みの宿題の一つである写生に取り組んでいる。朧月と夜の森。炎天下だけでは無い夏を亜香理は描きたい、と言った。絵は専門だろ? と陽一郎に任されて、今向かい合っている。


 桃はそれを真剣な表情で見ていた。


「どこかの誰かさんは、お友達をを裏切った、って喚いてたんでしょ?」


 優理に言われて、反論できない。口をぱくぱくさせて、何か反撃しようと思うのだが、事実だから唇を噛んで閉ざしてしまう。


「でも、いい目だよね」


 と美樹は誠と将棋をしながら言う。飛車、角なしのハンデ勝負。優勢はしかし、誠だ。


「あ?」


「いい目してた。あそこまでバカみたいに純粋だと、かえって気持ちいいよ」


「バカにしてるのか?」


「バカにはしてないさ」


 と誠は小さく笑う。


「美樹は素直だから。ストレートなんだよ」


「歯に衣着せない、って言うけどね」


 と陽大はニヤリと笑った。吉崎はむっとして、そっぽを向く。


「どうせ直情径行だよ」


「でも、僕は吉崎さんは好きだよ」


 と陽大はさらに笑む。どことなく妖艶さを唇の端にちらつかせて。


「ちょ、ちょっと、委員長!」


 弥生は慌てる。時々、陽大はどこまで冗談でどこまで本気なのか分からない時がある。


「俺は男に趣味はねーよ!」


「分からないじゃないですか」


 とにこにこして言う。


「試してみます?」


「ダメー」


「絶対、ダメっ」


 前者は弥生、後者は優理。思わず二人とも立ち上がって、拳に力が入っている。


 陽大はクスクス笑っている。


「陽大兄さん、あんまり人をからかうもんじゃないと思うよ」


 と亜香理に言われて、陽大はいつもの表情に戻して小さく笑む。


「亜香理に怒られちゃったね、ごめんごめん」


 でも、付け加える。


「もしも僕が女だったら、吉崎さんは好みのタイプだよ」


 真顔で言われると、背筋が凍りそうになる。冗談何一つ感じさせ無い顔だから笑うに笑えない。吉崎が何か言おうとする前に、優理が飛びついて、吉崎の唇にキスをした。


「お、おい?」


 唖然とする。


「私は高志の一番じゃないとイヤだよ」


 気丈じゃない優理。滞在期間を伸ばしてまで、旅行についてきた優理。いつも一生懸命で、いつも真剣で、いつも吉崎の出す言葉の一つ一つを真剣に受け止めている。だだをこねたり、口悪く言ったりするのは愛情の裏返し。美樹は似てる、と思った。とても自分と似てる、と思う。


「大兄もからかいすぎ」


 と美樹は忠告する。その冷静な面持ちでそんな事言われたら、誰だってパニックだ。だから弥生はなおさら迷ってしまう。陽大の台詞は本意なのか嘘なのか。罪作りだ、と思う。弥生の気持ちは本物だ。


「王手」


 と誠は言った。


「え? 嘘」


 すっかり目を離していた。王を囲まれている。抜け道がない。用意周到に気付かないように、布陣を敷く様はさすがだ。頭脳戦では陽大ともひけ劣らない。でも、誠の事だから、何か抜け道を用意しているはずだ。考えろ、考えろ。美樹は頭をフル回転させ一生懸命、考える。


「銀を取らせて。王は逃げます。飛車で、そのまま一直線。そうしたら、美樹ちゃんも王手です」


 と弥生が指示する。本当だ。


「え? あ、本当だ」


 まるでがら空きだ。しかも、誠は自陣をあまり動かしていないので、王将の動きがとれない。飛車を取っても攻めていた角が、王将を取る。美樹から取った駒を使おうにも、分が悪い。イマイチ、意味は無い。


「んー」


 と誠は苦笑いをする。作戦をかえますか。


「多分、長谷川さんは飛車を潰しにきます。だから、美樹ちゃんは王をそのまま動かして。後は出てきている桂馬で進撃して、布陣を崩しましょう」


「うん!」


 女性ペア誕生である。


「誠さん」


「ん?」


 陽大は嬉しそうに笑みを浮かべている。気持ち悪いくらい。


「なんだよ?」


「辻は頭がいいから、負けないようにね」


「……嬉しそうだな」


「うん」


 あっさり肯定。まるで意味が分からない。


「辻が何かしようとしている姿、僕は好きなんですよ」


「愛の告白か、それは?」


「かもしれません」


 誠は呆れて、陽大を見る。当の辻弥生は顔を真っ赤にして俯いているが、陽大はそれにも気付いてない様子だ。


「お前はやっぱり、陽一郎の弟だな」


「え?」


「鈍感」


 と美樹が追い打ちをかける。しかし陽大は何のことか全然分からない。陽一郎と志乃の次は、陽大と弥生。苦恋に労する弥生の前途に幸あれ。


「賑やかだな」


「まったく」


「………」


 とビールを飲みながら、朝倉は長谷川と北村に声を掛ける。町内会で出陣してきたこの勝負の山場は今日、終わる。陽一郎がどちらかを選択する。そして陽大の自信から、どちらを選択するかは分かっている。それほど、強い信頼で結びついている。


「だが、来てよかった」


 北村は閉じた口を開く。


「ん?」


「一時はどうなるかと思ったが、うちの岳志が他人の為にあそこまで動くとはな」


「友達だからだろ?」


 と長谷川は言う。


「恋敵だったのにか?」


「関係ないね」


 と長谷川は断言する。


「そういう時期だ」


 コクリと朝倉も頷く。


 朝倉も北村も夏目に所属している。だから後ろめたさもあった。それでも、夏目の陽の息子達を渡すわけにはいかなかった。沈黙の冷戦は、双方の暗黙の了解といってもいい。ただし、仕事では手をぬかない。だが、そんな密約なんかしなくたって、この子達は昨日喧嘩しても、今日はその人の為に一生懸命になれる。羨ましいくらい眩しい。


「岳志があんなに熱い奴だと思ってなかったから、だな」


「それはうちも同じだ」


 と長谷川は息子を見て言う。自分の血を分けた子どもなのに、初めて見る表情がある。あの笑顔は何よりも大切な宝物だと思う。親として守りたい。陽もきっとそう思っている。だが、夏目兄弟は誰の手も借りずに、自分達の足で立とうとしている。


 そこに不安は無い、という表情だ。


 いや、それは大人達のエゴだ。大人は子どもを飼育している、と思う節がある。でも子どもだって守らないといけないものに対しては、精一杯の努力を示す。


 陽一郎は誰も失いたくない。だから努力をする。


 朝倉は缶をゴミ箱に捨てた。もう一本を開ける。


 努力してるだろうか――?


 大人になると面倒な事が多くなる。陽達の葬儀の後、陽一郎達に言葉すらかけられなかったのは、どう言い訳する?


 (なんの努力もしてねぇじゃねーか)


「そんな事はありませんよ」


 と朝倉の妻はにっこりと笑う。


「何度も言ってますけどね」


「俺は何も言って無いぞ」


「顔に書いてあります」


 クスクスと顔を綻ばせて。


「あなたは分かりやすいんです」


「ほっとけ」


「会社じゃ、一応クールなエンジニアで通してるけどな」


 北村が余計な事を言う。


「やかましい」


「まぁ、緑さんに隠し事はできないからな、お前さんは」


 と長谷川はしみじみと言う。反論できないから、黙るしかない。


「うちは長谷川さんほど、隠し事って無いんです」


 朝倉緑はクスクス笑う。


「羨ましい。うちは赤字をどう隠すかで大変だ」


「それを息子が四苦八苦してるのもどうかと思うが」


 と朝倉はやり返してやる。こうなれば、子どもの喧嘩だ。


「お前だって、人の事言えないだろっ」


「だから、隠してもばれる」


「いばんなっ!」


「大の大人がみっともない」


 北村の酷評も喧嘩の火種でしかないらしい。


「うるせぇ、再婚の意気地の無い奴が口を挟むな」


「な、それとこれとは関係無いだろ!」


「長谷川、知ってるか? こいつ会社で結構もてるんだぞ」


「ほー」


「嫌らしい目で俺を見るな」


 と北村はため息をつく。


「再婚はしない。絶対に」


「一途な奴だ」


 と朝倉はにんまりと笑って、ビールを飲み干す。


 横に座っていた妻もそれにならった。


 一瞬、北村の息子と目が合う。親も子どもの表情を知らないように、子どもも親の知らない表情がある。それでいいのかもしれない。お互い、知る努力をしたら、きっと人間の関係はうまいく。


「王手」


 美樹と弥生の勝ち誇った声が重なる。誠は無言で、頭を掻いた。いよいよピンチらしい。

 王手──だ。夏休みは終わる。











 晃は向日葵庭園にいた。一人で。ただ、朧月を見上げて。


 父さんと母さんがいた場所。声に出してみる。


「父さん、母さん」


 聞こえているのか。聞こえていないのか。夏目家で一番、寂しがり屋なのかもしれない。亜香理が強いと思う。父さんと母さんがいなくなった事に順応している。でも、晃にはまだ、それをする事ができない。


 こんな月の日は──母さんが言っていた事を思い出す。


 トールキンやエンデの小説のように、妖精が出てきそうね。


 そう晃の小さな手を繋いで、言ってくれた事を思い出す。「指輪物語」や「果てしない物語」を知ったのもつい最近の事だったけど、妖精という響きが好きだった。


 夏目の里は、ある意味、妖精の出てきそうな場所だった。


 晃の住んでいた場所が「街」だからかもしれない。


 「緑」に溢れた場所。生きた鼓動を感じる。


 だから、センチメンタルなのかもしれない。「街」は「時間」を容赦なく流す。でも此処では、自然とともにある。ゆったりとした時間の中で、一つ一つを抱きしめることが出来る。


 月のスポットライト。妖精のダンシング。無音のステップ。


 晃は顔を上げる。

 そこに女の子の顔があった。


「うわをををををををっっっっっっっっわわわわ!」


 声にならない絶叫。彼女は一瞬、声に驚いて腰を退くが、すぐにくすりと微笑をこぼした。


「夜の森は危険よ?」


 空気を振るわすような声。月明かりに溶けそうな淡い肌。茶色の瞳。黒髪。腰まで長く。見つめ合う時間はさらに永く。晃より低い背丈、でも晃より大きく見える存在――。


 (妖精?)


 呼吸がとまらない。ドキドキする。驚きの鼓動は消えた。そのかわり、息苦しい魔法のようなものが胸に滲む。それは消えずに病み続ける。


「昨日もいたてでしょ?」


「うん」


「この森は私の領域よ。殺してあげようかと思ったけど」


 ビクン。晃は体を震わす。


「でも、君は悪い事はしないみたいだから」


「悪いこと?」


「他の子みたく、ここの向日葵を抜いたり、踏みつぶしたり──」


 愕然とする。父さんと母さんの場所に、そんな事をする奴らがいるのか。許せない、と思う。


 晃は拳を固めた。


「花は生きてるんだ」


「うん?」


 きょとんとして、彼女は聞き返す。そして頷く。晃が怒る意味を理解して。


「誰にだって、頑張って咲き続ける花を奪う権利なんかないっ」


「君は花が好きなの?」


「……父さんと母さんにそう教えられた。花は好きか嫌いかと言われたら、よく分からないけど」


「私が花の妖精だとしたら、君はどうする?」


 やっぱり、妖精なの? 晃は息を飲んで彼女を見る。


「君はどうする?」


「僕は……多分、花を守りたいと思う」


 月明かりが淡く差し込む。風の囁き。森の息吹。向日葵達は首を傾げて、二人の呼吸を感じている。晃はこんなに誰かの息遣いを感じた事は無い。近い、と思う。綺麗だと思う。何て優しい目をしているんだろう、って。素直にそう思える。


 もしも花の妖精なら、この人が護りたいと思う花達を、晃も守りたいと思う。偽り無くそう思う。


 くる、っと彼女は背を向ける。

 月が隠れる。


 風が凪ぐ。


 晃は空を仰ぐ。


 向日葵は揺れる。


 その一瞬。刹那で、彼女の姿は消えていた。名前も聞けなかった。──否、今まで会話していた事が現実なのか──その実感も無い。ただ、鳴りやまない鼓動が、晃にそれは現実なんだと囁く。幻なんかじゃない、ついさっきまで一緒に呼吸していた事実を。


「妖精?」


 その問いに誰も答えない。


 月が再び、雲の隙間から顔を出す。朧な月明かりに照らされて、晃は動けない。まるで魔法にかかったように。


 鼓動が収まらない──。

 夏休みは終わらない──。

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