8月24日「風そして活路」


三十六日目







 視界に飛び込んできたのは、真っ暗闇。その中に小さな火が浮かんでいた。晃はまるで幻覚でも見るように、その火を眺めていた。今にも消えそうな、弱々しい炎。呼吸しただけで、その吐息で火は消えてしまいそうだ。


 ゆらゆらと揺れている。命はこの火よりも簡単に消える。


 どうなった僕は?


 意識が朦朧とする。砂の雨。いや、砂の波。津波と言うに相応しい。飲み込まれた。それでどうした? あの子の手が伸びた。うん、あの子の手を僕は掴んだ。その手が一瞬で離れた。


 (離れた?)


 晃は手を伸ばす。そこには何も無い。ただ、空気を掴む。

 いなくなるのは嫌だ、と思った。闇雲に、狂ったように手を伸ばす。温かい何かに手が触れた。


「きゃ」


 小さな悲鳴。


「亜香理?」


 晃はぼやけた目で、その手を握る。違う、亜香理の手より大きい。声が亜香理じゃない。火が動いた。晃の目の前で、弱々しく燃える。ジッポライターだ。


「ねぼけんな、ねぼけんな」


 聞き覚えのある声がした。晃は考える。この声の人を。少し乱暴だけど、それに悪気はない。むしろ一生懸命なんだ。


「晃、俺だ。吉崎だ」


 ぼやけた思考が少しずつ晴れる。


 砂の海へ溺れかけた晃とあの子を助け出そうと、駆け寄る人影。しかし流砂はそれよりも早かった。砂に飲み込まれて圧死しそうなほど苦しくて、目がぐるぐる回った。口の中の砂利の味だけが今も蘇る。視野に差し込む光のフェードアウト、思考の停止、そして今フェードイン。でも、あるのは暗闇。感覚が戻るのが鈍い。


 晃は首を振った。頭が少し痛い。


「高志、無理はさせない」


 と優理の声がした。はっきりと今度はそれを認識できる。


「晃君、どこも怪我は無い?」


「あ、はい。大丈夫、なんともない、みたい」


 と手を伸ばして、温かいものにまた触れる。え? と思う。晃の呼吸が一瞬、とまる。柔らかい唇、なんだと思う。ほんの一瞬、それが指先に当たった。


「え?」


「あ?」


 声が重なる。亜香理じゃない。でも、この声は憶えてる。あの向日葵庭園で会った妖精の女の子。会えた──安堵する。無事だった。晃は今度こそ前進の力が抜けて、ぺたりと倒れ込んだ。その体を慌てて、小さい体が晃を支えようとする。


「あ?」


「え?」


 緊張している声。でも、彼女はその手を離さないでいる。吉崎はライターの火を消す。気を利かせたつもりなのかもしれない。晃は顔どころか体中火照って、熱くなる。どうして火を消すの? って思う。余計に恥ずかしさが二乗されていく気がする。限界なくらい心臓の鼓動が早い。


「よかった」


 と彼女は言った。晃は思わず顔を上げて、彼女の顔のある方を探す。鼻先が彼女の髪に触れた。近い、こんなにも近い。優しい香が、晃の鼻孔をくすぐる。どう言っていいのか分からない。たた、口をパクパクさせて、言葉にならず唾を飲み込んでしまうだけだ。


「よかった」


 安堵したような声。彼女はもう一度、何度も何度も「よかった」「よかった」を繰り返した。それが次第に言葉にならなくて、泣き声に、嗚咽になる。晃は面食らって、体が余計に硬直する。


「え?」


 疑問符しか出せない自分が情けない。でも、彼女が泣いている理由が分からない。


「何か言ってやれよ、お前も」


 がさがさと物音をたてながら、吉崎が口を開いた。


「……灯り、つけてほしんですけど?」


「ばーか。オイルなくなったらお終いだろ。いいから待ってろ」


 何を待てばいいのか分からない。クスクスと隣で優理が笑っている。


「でもよかったね。みんな無事で。ね、志保ちゃん」


「はい」


 泣きじゃくりながら、彼女------志保は頷く。そうか、志保って名前なのか。妖精じゃないのか、と晃は見当違いな事を思った。ますます力がぬけたような、そんな事は始めから分かっていたような。不思議な感覚が両方。それ以外にも胸を刺すようなズキズキとした感覚。彼女の声、温もり、香、存在を感じるたびに、鼓動が跳ね上がる。これは? これはなんなんだろう?


 ま、いっか。


 晃は考える事をやめた。その子の手を握る。こういう時はどう言ったらいいんだろう? 志保は少し体を硬くした。晃はゆっくり、ゆっくり耳元で囁いた。


「君が無事でよかった」


 にっこりと笑う。それは本音を込めた気持ちだった。


「ん……うん。うん。君が無事でいてくれてよかった」


 志保は何とか声を出す。そのまま晃に抱きついた。暗闇のせいもあるのかもしれない。孤独感、孤立感、騒ぎ出す恐怖。何より起こりえない事が起きた事への衝撃。あれに巻き込まれて平静でいる事の方が難しい。


 晃は優しく志保を受け止めた。そういえば、と思う。亜香理が幼稚園の頃、デパートで迷子になったのを見つけた時、真っ先に晃に抱きついて大泣きした記憶がある。懐かしい感覚かもしれない。


 志保が無事だと知ったから、なのかもれない。志保と亜香理の空気が似ているのかもしれない。志保に何もなかったから。何よりここに吉崎と優理がいるから。恐れは無い。ただ自分にもできる事はある。それを最初にやらなくちゃ。


 その最初にできることは志保を落ち着かせる事なんだと思う。


「私、私!」


「うん?」


「ごめんね、ごめんね」


「何が?」


「だって私達は君を騙して──」


「騙したの?」


「君が私を妖精だって信じたから、だから」


「うん」


「みんなで追い出そう、って」


 感情が炸裂しそうなほど声が高くなる。


「夏目を追い出せ、って」


「そっか」


「私は、私は」


「ごめんね」


「なんで君が謝るのよ!」


「僕が夏目だから、だよ。こんな事になっちゃったし、巻き込んじゃったし、嫌な想いさせたでしょ?」


「ちが──」


「町の人にも謝らないとね。夏目の中途半端な開発が原因だったのなら、僕らは責任とらないといけないもの」


「ちがう──」


「本当にごめん」


「違う!」


 と志保は声を上げる。晃の言葉を封じ込めるように。


「私は、私は、君と友達になりたかっただけだもんっっっっっっっ!」


 幾重にも声が響き渡る。残響音が耳元に残る。晃は唖然と、その言葉を何回も脳内でなぞった。ねぇ? 今は何も見えないから許される? ねぇ、陽兄? 志乃ちゃん? 女の子をこうやって抱きしめる事は許される事なのかな?


 でも、と思った。晃は強く強く強く、志保を抱きしめた。晃は志保の温度を感じた。同じく晃の温度を志保に感じて欲しいと思った。生きている。此処にいる。今、呼吸している。だから、僕らは友達なんだ。間違いなく友達なんだ。もう友達だから。そこに理由なんかいらない。友達なんだ、僕らは。


「友達だよ、僕達は」


 耳元で囁く。


「君は僕を助けてくれたもの」


「私は何もしてない」


「心配してくれた」


「君だって、わざわざ危険なのに、私の方に来たじゃないの。逃げれば助かったのに」


「もう一人、バカがいたけどね」


 ぼそりと外野の一人が呟いた。


「そのバカについてきたお前はもっとバカだ」


 小声で吐き捨てるように吉崎は反論する。


「惚れた弱みだから、ね」


 ニコニコして言う。吉崎は鼻をふん、と鳴らしただけだ。優理はそれが照れ隠しなのを百も承知している。


「君の名前……まだ聞いていない」


 と志保は言った。そういえば、と思う。何もお互いのことを知らない。


「僕は晃」


 名字を言うのを躊躇う。でも、僕は夏目だ。仕方無い、そう言い聞かせる。謝らないといけない、ここの人達に。


「夏目、晃」


「晃君か、良い名前」


 言葉、って不思議。今までお互いにとって男の子女の子だったのに、名前を口にされた途端、とても距離が近くなるような気がする。遠い遠い他人が、ほんの少しだけ、距離が近くなるような感覚になる。


 多分、と晃は思う。晃が志保の名前を口にしたら、もっと近くなる。


「私は、玉置志保」


「志保ちゃん、か」


 声にした。もう僕らは友達だ、って思う。晃と志保は座り直す。志保もだいぶ落ち着いたらしい体の距離を少し離す。気恥ずかしさがあるから。


「晃」


 と吉崎が言った。


「一応、聞いておく。灯り、つけていいか?」


「え?」


 一瞬、意味が分からなかった。ただ、うんと頷く。カチリライターが点火される。その火が何かに引火して強烈な煌めきを生んだ。吉崎が手にしているのは、木の枝を何重にも集めて縛った松明だ。だが、その光以上に、優理の足下に血が池を作るように広がっていたのが目に焼き付いた。


「優理!」


 吉崎が叫ぶ。

 優理は蒼白な顔で微笑を浮かべていた。











 晃は松明を持つ。優理は出血のわりには、傷は浅いらしい。清潔とは言い難いが、吉崎はハンカチとタオルで応急処置の止血を行った。優理より吉崎の顔の方が青く見える。血がまるで抜き取られたようだ。ただ一心に優理の止血の処置に集中する。大丈夫らしい、と聞いて晃も志保も安堵した。


「バカか、お前は。怪我してるんらもっと早く言え!」


「痛いなぁ、っては思ってたんだよ」


「これが痛いなぁ、ってレベルかっ!」


「だって暗くて分からないし」


「だからお前の体だろ!」


「心配した?」


「しねぇよ!」


「そっか。心配しなかったんだ」


 と言いつつ、口調はニヤニヤしている。心配してない顔じゃないのは、晃の目から見ても明らかだ。本当に不器用な人だな、と思う。陽兄を殴りに来た時もそうだ。この人はまっすぐ過ぎる。北村が傷つけられたから。問題はそんなに単純じゃないけど。でも、と思う。誰かを助けたいとか、一生懸命になる事は単純でいいんじゃないか、と思う。晃は吉崎を見てるとそう思う。多分自分は、考えて考えた挙げ句、思考が混乱したり萎縮して、何もできなくなる事が多かったから。


「なんか高志、いやらしいよ」


「は?」


「私のスカートをまくり上げて、太股のあたりを撫でて」


「あのなぁ!」


 吉崎は真っ赤になって怒鳴る。タオルがすぐ赤くなる。そのうえからもう一枚、タオルできつく縛った。ちょっとだけ優理は苦痛な表情を見せる。優理の薄い緑のワンピースも、土埃で汚れて、血が滲んで台無しになっている。吉崎の為にお洒落したんだろうな、と思う。多分、吉崎は微塵もそんな事に気付いてはいないだろうが。


「でも、嬉しいかも」


「あ?」


「高志が私を心配てしくれて」


「だから、心配なんかしてねぇよ」


「うん」


 と言う笑顔だ。吉崎は頭を掻きながら、無言で作業に没頭した。そんな二人を置いて、晃は自分のいる場所の観察に思考を集中する。思ったよりも広い――と言うよりも広すぎる。陥没してできた空間じゃない。ぴちゃんと落ちる水滴。その水滴の元を見上げる。天井にいくつか鍾乳管がある。間違いなく天然の洞窟だ。そこに亀裂が生じて、山の砂や木が侵入して、洞窟内を滅茶苦茶にして、砂が天井を塞いでしまった。そんなシナリオかもしれない。――最悪の展開だ。


 それにしても良く助かったな、とさえ思う。周りに散乱する木一本そのまま横たわっていたり、砂が丘のようになっていたりするのを見ながらそう思う。まるで異世界だ。松明の材料には事欠かなかったに違いない。


 と志保が小さな枝にあった実を何個かもぎ取る。


「これ美味しいよ」


 と何事も無いかのように言う。


「え? 食べれるの?」


「美味しいから食べてみて」


「うん……?」


 黄色な奇怪なぶにゅぶにゅした実だ。志保は最初に食べてみる。晃もそれに習って、一気に口の中に放り込んだ。


「あ、甘い!」


「でしょ~。これね、モミジイチゴって言うんだよ。吉崎さん達にも後であげようね」


「そうだね」


 と言いつつ晃は苦笑した。自分も楽天家なほうだと思うが、志保も晃には負けないプラス思考らしい。亜香理がこの状況を見たら「呑気!」と苦笑するかもしれない。もう一つ、囓りながら晃は松明の火を見つめる。


 その松明の火が微かだが、揺れている。


「え?」


 まさか、と思う。まさかだが、晃は指を舐めて、上へ突きだした。一瞬の間。何も感じない……気のせい? いや違う。冷や冷やとした風を感じた。


「吉崎さん、風だよ」


 と晃は言った。吉崎は松明に目を向ける。小さく頷く。その表情に活気有る意志が宿った。その刹那、冷たい空気が晃達の頬を撫でる。決定打だ。


「もしかして」


 と志保は言う。


「え?」


「天禄山の洞窟かも」


「天禄山?」


「崩れた山の事。あそこはね、昔から神様が住んでいる山、って言われていたの。だから近づいちゃいけない、って」


「洞窟が山の下にあったのか?」


「はい。ただ、みんな近づかないから、行く人なんていないから」


 ニヤリと吉崎は笑う。それは晃も同じだ。晃と吉崎は無言で、握手を交わす。


「え?」


 と意味が分からないのは志保だ。優理はやれやれと苦笑している。活路は見出した。後は行動あるのみ、という事らしい。吉崎は有無を言わず、優理を簡単に抱きかかえた。俗に言うお姫様抱っこというヤツだ。


「ちょ、ちょっと、高志! 歩ける、歩けるよ!」


「やかましい。そんな足で歩けるか」


「ちょっと、恥ずかしいもん」


「恥ずかしがってる状況か!」


 そんな二人を尻目に晃は志保の手を引いた。行動あるのみ。風が吹く方向へ。風が呼んでいる。もしかしたら父さんと母さんが手招きしているのかもしれない。諦めるな。こっちへ来い、って。やるべき事はまだ有る。考えろ。闇雲にじゃなくて、活路を見いだせ。その活路は今、目の前にある。


 だから進む。何が何でも、出てみせる。無事に帰ってみせる。


 結局、優理は吉崎に背負ってもらう事で納得した。抵抗していたわりには、満更でも無い表情だ。むしろ、肩にしっかりと手を回して抱きついている、という表現がぴったりで。


 仕方ねぇな、と文句を言う吉崎の目は優しい。こういう二人も微笑ましいな、と思う。そして本当に自分は緊張感が無いと思う。だが、それでいい。自然体でいるしかない。どうした所で状況は変わらない。冷静でいれるならそれでいい。


 晃達は進む。ただ真っ直ぐ、向こう側の闇を目指して。


 かちり。

 かちん。


 金属の音がした事に晃も誰も気付かなかった。聞き落とした。見落とした。小さく岩に刻み込まれている文字に。


──荒神棲む領域、足踏み入れるべからず。禁忌犯した神、触れるべからず。贄はもう無し。金塊と死骸有るのみ。厳重に封す――


 風なのか、誰かの吐息なのか。一瞬、晃は顔を上げる。志保が不思議そうな顔で、晃を見つめていた。


「どうしたの?」


「うん……多分、何でもない」


 と志保の手を引いて歩き続ける。今では何気なく志保に言葉を返している自分が不思議だ。まるでずっと昔から知っていたような錯覚すら憶える。絶対に帰る。志保の温度を確認するたびに晃はそう思う。


 荒神が棲む言わる領域へ足を踏み入れる。松明は揺れる。燦々と輝く光が何かの影をうつす。迫っている。距離を一つ一つ、近づけて。晃達に気付かれないように気配を殺しながら。


 距離は縮まる。それは歓喜する。鼓動が止まらない。歓喜して狂気するのか、感情のコントロールがきかなくなる。だが、それを抑え付ける。まだ早い、とそれは呻く。


 まだ、早い。

 まだ──はや、い。


 

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