8月15日「二組の兄弟」


二十七日目









 カタカタと音が鳴り響く。受話器の向こう側で、話をしながらも追われている仕事のノルマ、一つ一つを片づけている。相変わらず、忙しい人だ、と夏目日向は嘆息せざるえない。


「その状況を聞くと、陽一郎は陽に似て頑なだな」


 カタカタ。貴方もね。苦笑いを浮かべつつ、思う。


「陽一郎はとても陽に似ているわね」


「ふん。ならなおさら会いたくないな」


「陽一郎も同意見だと思うけど」


「……保険金を寄こせじゃなくて、遺産を渡すと言えば、会うか? 奴は?」

「会わないでしょうね、確実に」


 日向は率直に言う。相手は困惑の呻き声を上げた。


「さすがに陽の息子だけはある」


「何を感心してるのよ」


「元はといえば親父が悪い」


 またその話だ。何かといえばすぐにその話題になる。日向はそれを飽き飽きしつつも、黙って聞いてあげる。それは彼に対する彼女の義務だからだ。


「親父は俺に会社を託した。そのかわりお前ら二人に遺産を半分ずつ譲った。遺言上はな」


 金なんかいらない、とはっきりと明言する兄だからこそ、父の判断は正しかったと思う。彼は家族を作らない。恋をしない。誰かのためには生きない。陽に負けたから。言葉にはしない。彼のプライドがある。でも、茜は陽を選んだ。死ぬ時まで一緒だった。その事実はこれからの彼の生をなおさら重くしていく。言葉にはしない。でも兄妹だ、一応は。そんな彼の感情は手にとるように分かる。でも、そのうち感情が感傷にかわる。そう時間がたたないうちに。


「陽は遺産を受け取らなかった。じゃあ、その遺産はどうなる?」


「陽の息子達に」


「だが、ハイエナ達がいる」


「それは照アキラがグループの解体を行ったからでしょ」


「経営不振な子会社は見直しをたてないといけない。親父は偉大だとは思うが、おいしい水に群がるハイエナ達が増えすぎた。無能は切り捨てる。自分の会社も守れずグループの資金源をあてする子会社は癌でしかないだろ?」


「さぁね、私は難しい話はよく分からないから」


「お前も陽もそうやっていつも逃げる」


「私には興味ないだけ。多分、陽もよ」


「知ってる。だから、俺がいる」


「おじいさまもそれを必要としていたでしょ」


「お前は親父の事をいつもそうやって線を引くな」


 彼の言う通りだ。父は、そう言われることを一番嫌う。言い出したのは陽だった。まるで赤の他人の余所の人のように言う。父はそれで激怒した。照にとっては偉大な父だったかもしれないが、陽にとっても日向にとっても不在の父だった。長男照と陽・日向が10歳以上、年の差があるのも要因にはあるかもしれない。日向は少なくとも真っ正面から語りかけてくれる姿は一切、記憶にない。だから「おじいさま」が的確だった。たまに帰ってくる、そんな人。それが二人の認識だったから。


 照はため息をついた。兄妹同士の壁は自覚していた。だいたい夏目の家を捨てて、野草のように生きていた二人の感覚は照は理解できないものがある。陽にあって照にないもの。それはその感覚そのものだったのではないか、と思う。だから茜は陽を選んだ。今となっては、それがもっとも明確な答えのように思える。それを悔しいとは思わない。事実を事実として受け止めるだけだ。照が茜の事を想う気持ちはどんなことがあっても変わらないから。それは日向も分かっているからなおさら。


「馬鹿だよね、本当に」


 と思う。


「ん?」


「もしかしたら茜ちゃんは兄さんに心動かされたかもしれないのに?」


「ないね」 


 即答。


「そんなきっぱりと言わなくても」


「分かってる事だからだ。茜は陽の事しか頭になかった。そんな事は分かっている」


「それなのに茜ちゃんの事がやっぱり好きなの?」


「好意という意味でか? 恋愛感情という意味でか?」


「もちろん、後者でしょ」


 その質問に彼は小さく笑んで返す。その全て流す照の態度が日向は苦手だ。全て達観し、冷静に分析する。だからこそ、父に会社の全てを任されていたのだが。人間的感情が除外されているような言葉の一つ一つ。感情的に動く日向とは相反する相手だ。時々、電話で話す以外では、実の兄でなければ会いたくない相手だ。親戚一同からは犬猿の兄妹とも言われている。子どもの頃はいつも喧嘩の日々だった。そんな二人を仲裁してくれるのがいつも陽だった。その陽がもういないから、なのか。照の言葉に刺が少ない。


「俺はな」


 その声が優しさに溢れるのに日向は驚く。


「陽の事は可愛がってたつもりだが」


 ニッと悪戯めかした笑みが電話越しから伝わる。まさか照の口からそんな言葉がでてくるとは思わなかった。


「陽に似ているから会いたくない、って今言ったばかりじゃない」


「いなくなった事を実感するからな」


「でも茜ちゃんを好きだったのは事実でしょ」


「年齢差がある」


「そんなの気にしてなかたくせに」


「保護者としての感情移入だ、きっとな」


「かわいくない」


「なんと言われてもいい。どんな手段であれ茜は幸せだった。俺はそれで満足だ」

「……照は器用すぎるんだね」


「器用だろう、日向に比べたら明らかに。明白に」


「うるさいわね!」


「まぁ、そんな与太話はどうでもいい。陽一郎をつれてこい」


 率直すぎる言葉に日向は反応もできない。


「その答えはさっき言ったはずでしょ」


「お前の見解なんかどうでもいい。夏目の家に陽一郎達を連れてくるんだ」


「私は兄さんの部下じゃない! 召使いじゃない!」


 それが夏目の家を出たかった一番の理由。今も何もかわってない、この人は。


「お前の見解は関係無いんだよ、日向」


「……陽一郎は拒否するよ。あの子は芯の強い子だもの。兄さんの事も他の親戚連中と同じ目でしかみないよ。自分達の生活を邪魔する奴の一人としてしか」


「それも別にどうでもいい。問題は母さんが陽の息子達に会いたがっている。それだけだ」


「ママが?」


「そう」


 息を吸い込む。会話に夢中になってか、気付かない間に照はキーボードを打つ手を止めていた。沈黙と間隙。照と日向には、そんな溝がいつもある。陽はそんな溝を埋めてくれた唯一の存在だった。今は一緒に住んでないからいいものの、もし同じ空気を吸っていたら、お互い殺したいと思うかもしれない。それぐらい憎める妹だ。そして兄だ。兄妹という感覚は無い。むしろ他人だ、そんな表現の方がしっくりとくる。日向が「おじいさま」と呼ぶ父のように。 


「お前一人で不可能なら朝倉を使え。奴なら喜んで協力してくれるだろうな」


「だから私も朝倉君も、照の召使いじゃないって言ってるでしょ! その口を閉じなさいよ、しまいには殺すわよ。本気で」


「お前も無い頭で陽一郎を帰す手だてを考えろ。高校生と言っても、所詮は子どもだ。保護者が必要なのは間違いない」


「陽一郎達はその保護者を必要だとは一切思って無いのよ」


「くどいな」


 呆れたように言う。


「何度も言わせるな」


「………」


「思う思わないは問題じゃない。俺達が陽の息子達を守るか守らないかが問題なんだ。保険金なんていうはした金も問題じゃない。子どもだけで生活させている現状が問題だ。いずれ大人の壁に挟まれて自滅するぞ、陽一郎は」


「でも彼は頑張っているわよ、弟達と妹を守るために」


 そして志乃を守るために。真摯な陽一郎の姿勢が本当に眩しいと思う。


「日向、いい加減にしろ。所詮は子どもだ。何もできない。最低限の生活は確保できても、陽一郎の体はボロボロになるのは目に見えている。お前は陽一郎を見殺しにしたいのか?」


 陽の息子だ、そこらへんは。無茶と無理が専売特許なところまで確実に遺伝されている。陽もまた茜のためなら自分の全てを投げ捨てる男だった。――そして投げ捨てた。夏目の血筋をあっさりと捨てた。日向が夏目を捨てる事ができたのも、陽のおかげだと思う。私も陽も自由になりたかった。今でもそう断言できる。少なくとも陽はそれで幸せだった。


 じゃ陽一郎は? 


 精神的支柱は肉体的な支柱にはならない。今は夏休みだから生活にゆとりがあるが、今のペースでバイトをこなしていくとなれば、陽一郎の疲労は限界をあっさりと超える。まして生活費だけじゃない、弟や妹の学費もかさんでくる。


 照は常に冷静だ。だから日向は自分の兄が嫌いだった。完璧で、穴がなく、自分の意見を押しつけてくる兄が。だが正論だ。それが最大にして、妥当な正論だった。


「……別にお前が憎くてこんな事を言うんじゃない。ただ、陽を見放す事をしたくないだけだ」


「え?」


 どういうこと? その質問は志乃の怒鳴り声で止められた。怒気の含んだ声。憎しみしか無い声。あの優しい子にはありえない言葉。今、志乃は下でなんて言っていた?


「兄さん、ごめん。一回切る」


「は? 日向、いったいどうしたんだ?」


 と言う言葉を聞くことなく、日向は電話を置いた。階段を駆け下りる。あの優しい子が、誰かに向けて「死んでしまえ」と言った。憎悪だけを込めた言葉。それは陽一郎にでも、他の夏目の弟達、妹にも向けた言葉じゃない。ただ、憎い人へ放つ言葉。それは志乃にとっても、日向にとっても一人しかいない。


 日向は居間のドアを開けた。







 


 

 そこにいたのは、白髪のまじり始めていた婦人だった。質素ながらも気品の漂う。ただその表情には年よりも深く刻まれた皺がある。悲壮と絶望。でも、虚ろな目じゃない。志乃の言葉を真っ正面から受け止めている。


 婦人は深々と頭を下げた。


「謝られても、陽ちゃんのお父さんとお母さんは帰ってこないの!」

「…………」


 激昂する志乃。取り憑かれたように、憎しみが志乃を染めている。一方、そこにいた美樹も晃も亜香理も声すら出せずにいる。陽大も静かに傍観している。その視線には志乃同様の感情が凝縮されている。


「志乃ちゃん」


 美樹の声。美樹だって憎い。でも憎んじゃいけない。そう陽一郎は言った。日向もその言葉を聞いていた。陽大はそれに首を縦にはふらなかったが。墓前の前で花を捧げながら、陽一郎はそう言っていた。晃と亜香理は食い入るように、墓石の名前を見つめていた。


「貴方の息子さんのせいです!」


「そうです」


「貴方の息子さんがいなければ!」


「いたから」


「陽ちゃんのお父さんとお母さんは死んだの!」


「うちの息子の罪は永遠に許されない事も存じております」


 表情一つ変えずに志乃の言葉を受け止めた。涙目の志乃は目をそらす。その憎しみを陽一郎が望んでいない事を志乃は知っている。陽大だって知っている。それでも吐かないと気持ちが静まらない。いっそのこと、目の前の人を殺してしまいたいと思う。心の底からそう思う。


「ですが言う機会を与えて下さい。本当に、本当に申し訳ありません」


 泣き崩れる。耐えていたものが壊れた。それで許されないことを彼女は知っている。家族に残された膨大な慰謝料の金額が、一生ついてまわる。まるで烙印のように。それで全てが解決されるわけがない。家族から父と母を奪った代償は、何をもってしても償えない。


「だから」


 陽大が腰を上げた。


「それじゃ、父さんも母さんも帰ってこない」


 冷たい目。冷たい言葉。感情も何もかもが今の陽大は凍っている。


「大アニ、やめて。陽アニもそんな事は望んでない! 父さんも母さんも!」

 美樹のその声も陽大には今、届かない。


「あなたの息子さんが僕達の父さんと母さんを殺して、勝手に死んだ事実は変わらない」


「陽大!」


 日向は止める。陽大は日向を冷ややかに睨んだ。ここでは日向は部外者、暗にそう表情は警告している。


「そんな言葉じゃ僕らは許さない。それで忘れることなんか出来ない」


「忘れてくださいねとは言ってません。許してほしいと言うつもりもありません。ただ……」


「ただ?」


「伝えたかったんです。その一言を。本当に――申し訳ないことをしました」


 何か言葉を続けるが、彼女の言葉は続かない。ただ嗚咽になるばかりだ。陽大は追い打ちをかけるように、言葉を紡ごうとした。が、その声は息を吸い、そして飲み込まれた。


「気がすんだか、陽大?」


 日向の隣に背筋を伸ばして、陽一郎が自嘲気味に佇んでいた。すっ、と手が動く。


 拳が陽大の頬を全力で殴りつけた。

 無抵抗の陽大は壁に叩き付けられる。


「陽ちゃん!」


「陽アニ」


 志乃の声。弟、妹達の声。大事な人達の声。呻く陽大の声。その声を無視して、陽一郎は婦人に一礼した。


「家族が無礼を。なんとお詫びしていいか」


「陽アニ!」


 晃は信じられない、という顔つきで声を上げる。


「何か、問題はあるのか、晃?」


「兄さん」


 壁にもたれかかったまま、陽大は兄に抵抗する。


「陽大、お前らしくもない。夏目家の家訓を忘れたか?」


 その言い方は長男のそれではない。一家の主の言葉だ。


「え?」


「人を傷つけない、人を欺かない、人を貶めない。父さんの言葉を忘れてしまったか」


「陽一郎君、いいのよ。私は憎まれても仕方ないの。それは覚悟してきたんだから」


「君塚さん、それをうちの父は一番嫌っているんです。陽大にそれを破らせるわけにはいかない」


 その言葉は日向も聞いた覚えがあった。本来は陽の言葉じゃない。日向と陽の他人に近い兄、照の言葉だった。古風だけど正論、頑固だけど当然、単純だけど不変。それを陽は夏目の家を出ても、茜と一緒に守り通していた。日向の目頭もなんだか熱くなる。


「陽ちゃん……」


 泣き顔で、ぐしゃぐしゃの志乃の顔を陽一郎はハンカチで拭う。


「志乃も。絶対にそんな事言っちゃ駄目だよ。父さんも母さんもそんな事望んでいない。絶対に望んでいない」


「兄さん」


 と陽大が顔を上げた。冷静な陽大の表情に涙が浮かんでいる。悔し涙。誰にたいしてでもない。ただ、自分の不甲斐なさにたいして。


「殴って悪かったな」


「……大丈夫」


「陽大、顔洗ってこい。みっともないぞ」


「うん」


「美樹、亜香理と一緒にお茶をいれてきてくれ」


「分かった」


「はーい」


「晃は茶菓子を用意してくれ」


「了解」


 長兄の指示の通り、弟、妹達は動いていく。反論不平はなかった。陽大が前に言っていた言葉を日向は思い出す。兄さんの言うことは絶対だから。そう照れもなく言ってのけた。それが兄弟達が暗黙の了解で決めたルールらしい。だからみんな揺らぎなく団結している。照が思う以上に、夏目家の絆は強固だ。本家のバラバラな家族とは全く違う。


 きっと陽が望んでいた家庭の姿がそのままあるんだ。此処には。眩しいくらい羨ましい。


「ご焼香させていただいてもよろしいでしょうか」


「はい、どうぞ」


 微笑する。痛い微笑だと思う。全てを飲み込んで、理解して、表情には何一つださない。此処に辿り着くまで、陽一郎自身悩み抜いてきた結果ではあるのだろうけど。


 陽一郎は志乃の手を離さなかった。

 その手が少し震えている。


 志乃は陽一郎の手を離すまいと、ぐっと力をこめていた。悩み抜いた結果がそこにある。

 ほんの少しの震え。痛すぎる震え。


 日向は分からなくなってきた。


 陽一郎達を救うために自分は今、彼らの傍にいると思う。

 照は確信をもって「陽一郎達には保護者が必要だ」と言う。


 でも、と思う。陽は一度も保護される事を望んでいなかった。自由の鳥はカゴの中の安楽よりも、大空の広さをとった。どんなに辛くて苦しくても。茜という名の翼とともに。


 鳥の子どもは鳥。飼われることを望まない鳥。


 照はそれを飼おうとしている。


 日向は小さく息を吸った。どうしていいか分からない──。

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