8月16日「交渉」


二十八日目






 朝倉は目の前に座っている女性と対峙し、一抹の寂しさと緊張感を覚える。寂しさは親友の姉だから。緊張感は油断成らない相手だから。夏目日向は、そう善意で通るような人間じゃない。利益と損。そんな利害関係の一致、それで人が成り立つ事を日向は明言している。日向は彼女の弟以外は、その関係に徹した。その方が冷静に応対できるし、いざとなった時に排他する事も容易だ。日向にとって「かけがえのない人」は弟一人でいい。それを朝倉は否定しようとは思わない。


「いらっしゃい、日向さん」


 と妻の朝倉緑はコーヒーを出す。コーヒーをブラックで。その習慣を朝倉夫妻は忘れていない。一方、弟の陽は緑茶をんでいた。変な姉弟だ、と思う。陽の息子、陽一郎は緑茶。陽大はコーヒーをブラック。なんとなく、どう誰に何が遺伝されたのか納得できる。ちなみに美樹は紅茶、晃はコーラ、亜香理は苺牛乳。まぁ、年齢差というものもあるが。


「晋哉君、久しぶり」


 淡々とした口調。コーヒーに口をつける。


「……帰ってたのか」


「今、夏目家にお世話になってる」


「陽一郎達の家にか?」


「この街で夏目の名字は他に無いと思うけど。ああ、陽のお墓以外はね」


「陽一郎がよく受け入れたな」


 彼らを取り巻く親戚一同を嫌悪していた陽一郎達だ、日向に対しても辛辣だったはずだ。


「とても素敵な洗礼を受けたけどね」


 と微笑む。朝倉はおやっ? と思った。珍しく表情が柔和だ。決して協調的と言えない日向だが、陽の息子達には愛情を示している。陽の息子達だから、というのはあるかもしれない。むしろ、だからなのかもしれないが。


「で、用件は?」


 なんとなく嫌な予感はしていた。陽と一緒だった時は穏和だが、一人となると途端にシャープで鋭利だ。アメリカでプロの写真家として一人で渡り歩いた日向だからこそ見せる表情。朝倉のもっとも苦手とする相手である。


「あら単刀直入に言っていいの?」


「遠回しにいじめられるよりもマシだ」


「じゃ言わせてもらう」


 くすっと微笑む。それがまた、気色悪い。


「なんなんだ」


「陽一郎達を夏目の家に戻したいの」


「は?」


 目が点になった。コイツは何を言ってる?


「陽一郎達を本家に戻したいのよ、協力してくれる?」


「お前、誰に頼んでいるのか分かっているのか?」


「目の前の晋哉君にだけど」


「俺は一応、陽の親友だ。アイツが抜け出してきた家に何で戻さないといけないんだ?」


「ママが会いたがっているの。おじいさまが死んで、病状は悪化したから」


「孫に会いたいと。それだけじゃないだろ?」


「勿論、陽一郎達の保護も」


「分家の連中が端金に群がっていたみたいだが?」


「それは照が行ったグループ整理のせいね。利益の出ない会社は潰しにかかってる。血路として陽達の保険金に目をつけた、というあらすじかしら」


「それで、俺にどうしろと? 陽一郎達の説得か? それは到底、無理だな。陽に茜を諦めろ、と言うようなもんだ」


 一番、近い例えだと思う。日向もそれは自覚している。でも、ここで引き下がれない。決して、本家に保護されることは、陽一郎達にとってマイナスではないはずだ。


「きっかけを作ってほしい」


「きっかけ?」


「旅行と称して、夏目の地につれてきてほしい。旅費は勿論、こっちでもつわ」


「姑息だな。陽一郎はともかく、陽大が勘ぐるぞ。そうしたら」


「……厄介な兄弟だわ、本当に」


「第一、本家に戻るかどうかは陽一郎達の意志だ。アイツらの意志を大人の力でねじ曲げられると思うな。怪我するぞ、その時は」


 それもまた、ここ数日で実感している。


「でも、陽一郎達には保護者が必要なのよ」


「悪いな、書類上の今のあいつらの保護者は俺だ」


「……………」


「日向、あんたらしくないな。照の操り人形になるなんて」


「そんなんじゃ──」


「まぁ、いい。夏目の家に連れて行く事は否定しない。親族に会うのもいいだろう、アイツらの選択肢を増やすという意味ではな」


「協力してくれる、という事ね」


「協力じゃない。条件に乗ってやるだけだ」


「条件?」


「だから、こちらからも条件を出す。強制的にあの兄弟に手を触れるなよ。意志決定は陽一郎達にある」


「あの子達はまだ子どもなのよ!」


「と照に言われたのか?」


「……」


「あんたらしくもない。陽なら正反対の事を言うな。『子どもは生きた人形じゃない』ってな。あいつらにも選ぶ権利はある」


 日向はコーヒーを飲み干す。朝倉の言葉は全て正論だ。日向が思ってることそのものだから。自分だって夏目の家に無理に戻したくない。ただ母親が孫達に会いたがっている。日向が尊重したい所はそこだけだ。ただ、照の言うとおり、彼らに経済的な保護者が必要なのは事実だ。


「それと、夏目兄弟とうちの家族だけでなく、町内会の有志もこの旅行に参加させてくれるのが条件だ」


「は?」


 目を点にするのは日向の番だった。朝倉は涼しげな顔で麦茶を飲んだ。夏目の家で陽一郎達を孤立させない為の手段を先手打つ。甘んじて無条件で協力するほど、世の中うまくはできていない。日向はつくづく、朝倉晋哉という男に感嘆する。そうやって彼は陽と茜の結婚も成立させてしまった。夏目の家の妨害も何のことなく。


 日向は両手を上げて、ギブアップのサインを示す。


「いいわ。それぐらい、あの男に呑ませましょう」


「けっこうなことで。楽しい旅行になりそうだ」


 とニッと笑む。この町内の結束力は高い。かつて本家の人間の妨害をこの町から撤退させたのも、それぞれの結束あってこそだ。無関係であろうがなんであろうが、一肌脱ぐと息巻く男女が多い。それがまた、余計なお節介になること稀にあり、夏目夫婦新婚当初は、避妊具を一年分プレゼントする薬屋がいたりと、てんやわんやだったのも記憶にある。ようはバカな連中が多いわけだ。その一人が自分なのも十分に自覚している。


 やれやれ。とんでもない展開になったな。ため息混じり。でも、これを陽が見たら、きっと笑うのかもしれない。それはそれで面白いだろ? と言って――。


 そして朝倉はいつも渋い顔でこう言う。


 (何も面白くなんかない)


 そうかい?


 陽は屈託ない笑顔で応えるはずだ。陽一郎はきっと俺と同じ反応をするはず。陽大なら怒りを露わにするだろう。美樹なら陽大に乗じて毒舌トークを発揮する。だから長谷川の息子も連れて行かないといけない。晃は亜香理を守り通すだろう。亜香理が晃を守り通すとおり。そして陽一郎には志乃がいる。陽大には辻弥生という苦手な女の子がいることは調査済みだ。みんな道連れだ。みんなで守り通す。夏目の思い通りにはさせない。


 あの時と同じだ。


 朝倉もコーヒーに口をつける。味がしない。舌が麻痺した気分だ。だが日向との応酬はたいした事はない。肝心の問題を解決しておかないといけない。

 朝倉はコーヒーを飲み干して、息をついた。味は、しない──。


 


 






「おじさん、用って?」


 夏目日向が帰り、次に夏目陽一郎が朝倉の目の前で正座している。陽一郎の隣には志乃。先ほどの緊張感は消えたが、ボロを出せばお終いだ。どっちにしろ、夏目の家に行くと知れた時点で、陽一郎は激怒するに違いない。どうせ怒らせるなら、現地で怒らせた方がいい。奴らのやり口は相変わらず好意をもてないが、祖母に会う事まで否定しようとは思わない。


「単刀直入に言おう。お前らだけで旅行に出かけようとしているな?」


「え……」


 絶句。陽一郎は志乃と顔を見合わせる。志乃は目一杯、横を首に振り否定する。それが可笑しくて、少し苦笑いが浮かぶ。そこらへんはやはり子どもだな、志乃?


「言わなくても分かるだろ、あからさまに母さんに『友達と旅行に行く』を連呼していれば」


「だから友達と!」


「その友達は誰だ?」


「それは……」


 そこで適当な名前を出せればいいのに、詰まってしまうのが志乃だったりする。良くも悪くも素直すぎるのだ。


「陽一郎と行くのか?」


 さらに意地悪に笑む。その一言に志乃は真っ赤になって反論できない。まぁ父親に率直に言われて、開き直れるほど、擦れた娘でないのは誇りに思ってもいいのかもしれない。それでこそ、からかいがいがある。


「おじさん」


 と陽一郎は渋い顔で言葉を選ぶ。優しいヤツだ、と心底思う。陽一郎は必要以上に大人だ。自分の言葉、表情、感情、そのどれを察知されても、志乃に及ぶ悪影響について考えている。例え、朝倉の言った事が事実だったとしても、陽一郎は冷静にそれを覆い隠す。陽の言う必要な嘘だ。


「僕らは旅行を確かに計画していましたが、志乃は無関係です。陽大達に夏休みの醍醐味を味合わせてあげようと思っただけです。それだけなら、なんの問題もないでしょう?」


「充分、問題はある」


「おじさん!」


「お前達はまだ子どもだぞ、旅先でなにかあったらどうする」


「僕が責任を持ちます。長男ですから。それに危ない場所にも、遠くにも行くつもりはありません」


「むしろ、志乃をつれていけ」


「はぁ?」


「志乃に八つ当たりされるのは俺はごめんだ」


 とニヤニヤと二人を見やる。陽一郎は困惑するし、志乃は怒気を含んだ視線で父を射る。我が娘ながらなかなか殊勝なことだと、微笑すら浮かぶというものだ。


「陽一郎、お前達は俺の息子のようなものだ、前にも言ったよな」


「それは……でも、朝倉さんに迷惑をかけたく──」


「その言葉は無しだ。陽の子どもは俺の子どもだ。尻の青いガキが大人ぶるな」


「そんなつもりは……」


「実はな、町内会の有志で旅行を計画していたんだ。団体旅行だから旅費も安い」


 本題を切り出す。そこまで攪乱しておけば、核心に気付くことはないだろう。日向がボロを出さなければ、だ。日向との面会の後、電話で町内の主要メンバーに根回しはしておいた。今日中に旅行計画が回覧されるはずだ。「夏目」の「な」の字もでないよう口裏は合わせてある。


「おじさん、そこまで甘えるわけにはいきません」


「陽一郎、何もかも背負い込むな。たまにリラックスして臨んでみろ。どうあがいてもお前はまだ子どもだ。子どもは子どもらしく、大人に甘えろ」


 そして大人の理論で、子どもを屈服させようとしている。汚い大人だ。いっその事絞め殺してやりたいくらい夏目に関る自分が憎たらしい。きっと陽一郎達が事実を知ったら、はげしく朝倉に激怒するかもしれない。陽と茜といた時の自分は、そんなしがらみを感じることはなかった。今でも頭の中では、「夏目」の事はどうでもいい。それでも、有無を言わさず、あの兄妹のいいなりになっている。意識の中で、陽の面影がちらつくからなのかもしれない。陽一郎に両親の想い出の地を見せたいという、深層心理が。


 (それは否定できない──)


「おじさん?」


「え?」


「折角のご好意ですから、参加させていただきます」


 陽一郎はにっこりと笑う。朝倉は麦茶をゆっくりと飲み干した。そして、小さく笑んで頷く。


「そうか」


 漏れるため息は安堵か苦渋か。


「断られたらどうしようかと思ったぞ」


「え? なんで?」


「お前達なら、大人の理屈にも屈服しないだろう?」


 陽一郎は微笑み返す。麦茶に小さく口をつけて。


「別に敵を作りたい訳じゃないですよ」


「そうか?」


「僕はただ、自分の生活が守りたいだけですから」


「そうか」


 コクリと頷く。夏で良かったと思う。額に浮かぶ汗は、暑さのせいじゃない。一抹の冷たさ。陽一郎は本当に陽によく似ていると思う。不屈な意志、揺るがない視線、その先に見ている確かな人達。嘘をついている事を自覚しているからこそ、陽一郎と志乃を正視するだけで、汗が噴き出る。


 志乃はじっと朝倉の目を見る。志乃は疑問を抱いている。理由は分からない。でも、嘘をついている。そう疑問符を投げかけているのが、ありありと伺える。


「陽一郎」


 口が勝手に動いていた。


「はい?」


「お前は自分の親父の故郷を見たいと思うか?」


 脳内神経の全てが警告している。動悸が、呼吸が、体が震える。今まで組み立ててきたお膳立てをふいにしてしまう。それでも、朝倉の本音はその言葉を吐き出した。


 陽一郎はじっと、その言葉を考えている。


「そうですね、見たいですよ」


 熟考したすえの答えは、簡明なその一言だった。


「そうか」


 朝倉は空になったコップの中を見据えて、小さく頷いた。


 








「どうしたんですか?」


 麦茶にしますか? それともコーヒーですか? という妻の問いに朝倉はビールを頼んだ。妻は微苦笑を浮かべて応じる。こぽこぽと勢いよく、ジョッキにビールを注ぐ音が、朝倉の緊張を解いていく。


「らしくないですね」


「ん?」


「陽一郎君にとってはたいした問題じゃないですよ」


「お前……」


 呆れた顔で妻の顔を見る。彼女は笑顔を絶やさずに、自分もビールを飲む。


「陽君と茜ちゃんの結婚の時に比べたらたいした問題じゃないですよ」


「それは……」


「それに陽一郎君は一人じゃないですし」


「兄弟達の事か?」


「それも一つでしょうけど、今の陽一郎君は強いですよ」


「は?」


「志乃が傍にいつもいるからですよ」


 朝倉は目を点にする。


「陽一郎君にとってはどんな状況であっても、陽大君達と志乃がいれば問題は無しのはずです」


「保護者がいなくてもか? 安定した収入がなくてもか?」


「あなたは陽君達が結婚したのは何歳の時だったか、覚えてますか?」


「……覚えてる」


 自分は年をとったのか。


「アイツが19の時だ」


「私たちは陽一郎君の親にはなれませんよ。それは日向さんでも、照さんでも同じです。陽一郎君達にとっては陽君と茜ちゃんが全てなんですから」


「そうだな」


 風鈴の音が涼しい。そして優しい。全て妻の言うとおりだ。


 朝倉はビールを飲み干す。酔いはからだにまったく回らない。アルコール成分は分解され、ただ喉に泡が通り過ぎる感触だけがする。


 目を閉じる。

 陽の声、茜の表情を思い出して。


 風鈴の音にのって、あの二人は永遠の愛を誓ったのだ。この庭先で、小さなパーティーをして、恥ずかしがりながらも、幼い唇と唇を重ねた新郎新婦。その胎内にすでにいた陽一郎とともに。そしてまだ気付いていなかった志乃もまた、妻の胎内で一緒に。


 ちりん。りん。


 この風鈴が、祝福を告げる鐘だった。朝倉は倒してあった写真立てを手にとる。そこにはあの日の幼い陽と茜がはにかみながら、寄り添い、微笑んでいた。


「行こう、一緒に」


 ちりん。

 大丈夫、心配ない。問題ない。満面の笑顔で写真の二人が朝倉に語りかけている。そんな気がしたのは、遅い酔いが回ってきたせいなのか? それとも──。








 


 寝息をたてている夫に、妻はタオルケットをかける。


「大丈夫、心配ない、問題ない」


 と旧友の夫婦がかつて口癖のように言っていた言葉を囁きながら。


 同意するように、風鈴がちりんと優しく鳴り響いた。

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