8月14日「帰省」


二十六日目








 電車が通過するのを見て、吉崎の鼓動は早まるのを感じる。やっと会える。腕時計の秒針を見やる。時間が長く感じる。一秒一秒が長い。カチカチと打つ音が、耳につく。まだか、まだかと線路の向う側を見やる。こんなにたった一人の事を待ち焦がれている自分に驚く。吉崎の事を知っている人間なら、こんな姿は想像できないに違いない。北村でも、微苦笑で応じるに違いない。それだけ吉崎は一秒一秒、待ち焦がれていた。


 優理に会える。やっと会える。


 長かったと思う。距離がはがゆい。高校生の資金力では、関東と日本の北端を行き来するのは難しい――というよりも、不可能に近い。自分で行けないのが物凄く辛い。優理がお盆のため帰省するのを待つしかない。そんな自分が無力だと思う。


 男だから、優里の元へ自分の足で会いに行きたいとは思う。言葉には出さないし、本人には絶対に言わないけれど。ただ、電話の向う側で優里はいつも小さく微笑んでいるのが分かる。全てお見通しとでもいうかのように。それが吉崎には癪でたまらない。と言って、いつも優理の前では頭があがらないのだが。


 正直、自分が優理に対して、こんなに素直になれるのが信じられない。安心した、というのはあるのかもしれない。北村は朝倉の後姿と想い出を追いかけなくなった。何がこの短い間にあったのか語る事は無い。ただ表情がこれほどまでになく穏やかなのだ。北村の口からは一切、朝倉志乃の名前は出てこない。絵そのものも気付くと、のびのびと描いている。まるで別人だと思う。その事を問うと北村は小さく笑って、絵に集中するのみだ。吉崎としては首をひねるしかない。


 その事を電話で優理に話すと、クスクスと笑みを漏らして


『鈍感だね、高志は』


 とおかしそうに言う。そう言われても吉崎には何が何やら全然わからない。優理はさらに微笑んで吉崎に囁いた。受話器を通じて、ドキドキするほど甘い声だったと思う。


『北村君に好きな子ができたんだよ』


 それは吉崎には想像さえしていない事実だった。むきになって反論する。そんなはずがない。何が根拠で吉崎はそう言ってしまったのか意味不明だ。ただ毎日のように北村の家に押しかけている自分が全然気づけなくて、優理が気付く。いつも優理にはかなわないと思い知らされる。何を言っても、どんなに気丈なポーズを見せても、優理の前では子どもでしかないと思う。サッカー部のレギュラーが、自分より背が小さくて運動音痴な女の子に負けているのだ。女気の皆無だった吉崎が、知る人が見れば唖然とするかもしれない。


 そして北村が優理の言う通りだったと知り愕然とする。自分が鈍感というよりは、優理が聡すぎるのではないかと思う。離れていて洞察する様は魔女としか言い様がない。


 電車が来た。金属と金属の摩擦の音が鳴り響き、止まる。


 駅員のアナウンス。

『危険ですから黄色の線の内側へお下がり下さい。到着。到着。この列車は──』


 人々の喧噪。一息つくことなく、歩みその電車を後にする人達。吉崎に肩がぶつかっても、声すらかける事なく去っていく人達。が──そんな事は吉崎にはどうでもよかった。時間が吉崎の目の前で制止したかのように、ただ一人の人に釘付けになった。


 お昼の十二時の電車で帰ってくるからね。お父さんとお母さんは次の日に来るけど、私はその前の日から行くからね。高志に会えるよ。


 電話の声はそう言った。確かにそう聞いた。嘘じゃない。現実だ。目の前にいる人は現実だ。電線を通して伝わる機械信号の声じゃない。直接、その声がその耳に言葉を届けてくれる。


「ただいま」


 にっこりと。満面の笑顔でそう吉崎に言葉を伝えてくれる。


「お……お帰り」


 かろうじて言葉を絞り出す。声がかすれて、本当はもっと言いたい事が山ほどあるのに言葉にならない。


「高志、こらこら」


 彼女は微笑む。


「こんな所で泣かないの」


「泣いてなんか」


「私が泣かせたみたいでしょ。それに立場逆じゃないの、それじゃ。会えて泣きたいほど嬉しいのは私もなんだからね」


 と吉崎の手を優しく握る。吉崎は小さく、視線をそらして頷いた。自分が優理に弱い事は知っている。

 電車が発車する。風が二人の髪を優しく撫でた。優理の肩までかかる髪が、さわっと揺れる。柔らかい香り、温もり、微笑み、全部嘘じゃない。


「行こう」


 とショルダーバックを重そうに背負いなおしながら、優理は言う。


「行く……ってドコへ?」


「時間はないんだからね。ほら、荷物もってね、高志」


「おもっ」


「一週間いるんだから、それ相応でしょ?」


「一週間……?」


 それは初耳だ。電話ではお盆期間しか居られない、という話しだった。優理はクスクス笑う。半泣きになっていた吉崎の涙を人差し指で、優しく拭う。


「今日一日でやっておかないといけない事がたくさんあるの。高志のお節介のせいでね」


「は?」


「やっておかないといけない事はその時にやってしまわないとね」


「なんのことだよ?」


「……高志は人の気持ちを最低、三人分踏みにじったんだからね」


 厳しい目で、優理は吉崎の目を覗き込んだ。非難の色合い強く射抜く。吉崎は息を飲んだ。優理が怒る姿はあまり見られない。ただ吉崎がいつもカッと怒鳴って、それを優理ににたしなめられるというパターンが毎回だった。だからなお、その怒りが吉崎を責め立てる。それも一瞬だったが。


「行こうか」


 優理の表情が和らぐ。吉崎はほっと胸を撫で下ろすした。歩きだした優理の後を吉崎は荷物をかかえながら、ついて歩く。最低、三人分の気持ちを踏みにじった。心当たりが無いわけじゃない。むしろある。胸が突き刺すほどに、自分の拳が痛み出してしまいそうなほどに。


 でも優理は何も言わない。


 それがなおさら痛い。無言で優理に責め立て続けられている錯覚すら覚える。今までそんなことも忘れていたが、吉崎は侵してはいけない過ちを犯した。


「高志は分かってるよね?」


「……何が?」


「人には入っていい場所と入っていけない場所がある、ってこと」


 蝉がうるさい。苛々する。あの時、吉崎は北村の為に絶対に間違っていない行動をおこしたと思った。だから、優理が非難する理由が分からなかった。今なら、完全とまでは言わないまでも分かる。吉崎は朝倉志乃の事を「裏切り者」と罵倒した。「北村を捨てた」と激昂して。夏目陽一郎に拳を振り上げて。そのたびに北村の見せた「痛そうな」表情に気付かなかった。


 ──バカ。


 あの日の夜、受話器越しから小さく怒る優理の声。顔が見えなくても、本気で怒っているのが手にとるように分かった。夏目の妹と同じ事を優理は言った。


『いつから高志は、北村君の事を全部理解できるくらいの親友になれたの?』


 返す言葉がなかった。北村はもうその事には触れない。時間が全てを解決してくれる。でも、それは北村の場合だ。吉崎が蹂躪した領域を時間に流していいわけじゃない。あえて避けて目をそらしていた事実を、優理は「許さない」と言う。優しくて、誰かの為に怒れる吉崎だから、優理はそれが許せない。それが痛いほど吉崎には伝わる。それが分からないほど、優理との繋がりは希薄じゃない。


 吉崎は小さく小さく頷いた。


「行こう」


 きゅっ、と優里は吉崎の手を握り、引っ張る。足は憂鬱で重い。が、それでも優里は容赦なく吉崎を引っ張る。やっていなかった事はやっておかないといけない。優里のバックを背負いながら、吉崎は前へと目を向けた。誰のためでもない自分のために。それを優里は知っている。それが分からない自分が情けない。


 優里は吉崎の顔を見ずに言った。


「情けないとか言わないでよ。誰にだって間違いはあるし、間違いたくて間違う人もいないんだから」


「でも……」


 優里は有無を言わせず、吉崎の手を引く。吉崎は苦笑した。前をむこう。もっと前を。強くなろう、もっと強く。優里に負けないくらい強く。優里を守れるくらい強く。


「過ちは訂正できないけど間違いは訂正できる。だって間違っただけなんだから」


 にっこりと優里は笑う。吉崎は小さく


「うん」


 と頷くことしかできなかった。


 


 


 とくん。冷静な素振りで装ってみたが、夏目陽一郎を目の前にして、鼓動が早まるのは押さえられない。あれだけ傷つけた朝倉志乃が目の前にいる。夏目の家の前で当の二人に会うことができた。太陽は夕陽となり、その朱色が西に傾きかけていた時だった。


 それは吉崎が行くのを迷っていたせいもある。あの時は北村に対する同情で夏目家の前で陽一郎を殴った。今は、自分の弱さを突きつけられた気がして、ただひたすらその周辺をぐるぐると回っていた。優里はそれを批判せず、ただ黙ってついて歩いた。吉崎は答えを出す。それを信じているから。


 だから吉崎も、答えを出さない訳にはいかない。陽一郎が誰かを憎む人間じゃない事は知っている。直情的に行動する吉崎は自分の脆さを感じた。突けば崩れる弱さ。誰かを殴れる強さなんて、あって無いに等しいものなんだ、という事をこの数時間で舐めさせられた。苦いと思う。痛いと思う。


 あの時と同じ場所で、同じ位置で、朝倉志乃は相変わらず吉崎の顔を見て、痛々しそうに立ちすくんでいる。


 実感した。志乃に吉崎が与えた傷は大きい。同じく北村にも。


 ──言葉がでてこない。なんて言っていいのか分からない。


 優理は後ろで吉崎を見守っている。息を吸う。吐くその繰り返し。夏目陽一郎は何を気にするでもなく吉崎の言葉を待っている。


「……すまない」


 吉崎は頭を下げる。志乃はきょとんとした顔で吉崎を見た。信じられない、そうその顔には書いてある。志乃は志乃なりに、北村への気持ちを整理してきた。自分の感情には勝てない。でも北村を裏切った事実は変わらない。それを志乃は何度も自分でなぞってきた。別れたらお終いになるのであれば、男女の関係は楽だ。そうでないから誰かを好きになるのは苦しい。誰かを好きになったからと言って、昔の誰かを忘れるわけじゃない。忘れた、と誰かが言う。でもそれは忘れたふりをするだけ。以前の北村がそうであったように。


 優理が吉崎の前に出て頭を下げた。


「高志がご迷惑おかけしました、ごめんなさい」


「優理、お前は口を出すな」


「そうはいかないでしょ。誰が原因なの?」


「だから俺が……」


「なら、もっと早く謝るべきだったと思うよ。知らないふりをして、高志はうやむやにしようとしていたでしょ」


「それは……」


「それは絶対、駄目。私はそんなの許さない」


 返す言葉もない。こうやっていつも吉崎は優理に勝てない。夏目陽一郎はそんな二人を見て、小さな苦笑いを浮かべていた。


「俺は何も気にしてないよ」


 とにっこりと笑う。吉崎は初めて、陽一郎の表情を見たと思う。じっくりと。なんて優しい表情をする男なんだ。五人兄弟の長男だから? 親がいないから? 高校生でも生活のために自立しているから? そんなの理由にならないほど表情が大人だ。あの兄弟達が陽一郎を必死に守る姿の意味を理解できた気がする。こんな兄がいたら、多分無条件で拳を振ると思う。──駄目だ、また喧嘩でしか考えられない。悪い癖だ。


「私も何も気にしていないから、吉崎君」


 とかすれた声で言う。陽一郎ほど役者になれないのがその声で分かる。優理の志乃の事はよく覚えている。あの北村が好きになった子だ。転校前に二人で見送ってくれた姿は、まだ記憶から薄れていない。


「志乃ちゃん」


「え?」


「安心して。北村君を支えてくれる子が現れたみたい。高志もいるし私もいるから北村君は大丈夫。もう自分を責めないでね」


「……大丈夫だよ。私、鈍感だから」


「駄目だよ」


 志乃は顔を上げて、優理を見る。優理は志乃に満面の笑みをおくる。


「女の子はね、無条件に誰でも幸せになる資格があるんだからね」


 くるっ、と優理は背をむける。志乃はその言葉を何回もなぞるように耳を傾けていた。吉崎も陽一郎も絶句するしかない。


 黄昏時の風は少し冷たい。優理の髪を優しく撫でている。


「ありがとう」


 と言った志乃の声は泣きそうだった。吉崎に謝らせたのは目的じゃない。吉崎本人が曲がった事が嫌いなくせに、曲がったままにしておくのは嫌だった、というのは否定しないけど。


 志乃がもっと夏目陽一郎に向き合えるように。


 そうしたら北村も、何の負い目もなく笹原桃という女の子と向き合えるはずだから。


 陽一郎であれ桃であれ、相手が前の人の事を考えている姿を見る事ほど辛いものはないはずだから。転校前、吉崎がサッカー部マネージャーの先輩ばかり見ていた時の気持ちが蘇る。それでも優理は負けなかった。全力で吉崎と真っ正面から向き合い、距離の離れた今でも自分だけしか見せないように努力している。独占欲じゃない。ただ、どんな時でも自分の事を考えていて欲しいだけ。


 同じ女の子として、志乃にも桃にも頑張って欲しい。


「ありがとう」


 と夏目陽一郎も言った。優理はコクンと頷いて見せたが、別に君の為じゃないよ、と内心で呟く。志乃と桃のため。何より吉崎にあの台詞を聞かせたかった。


 女の子は──と言うより私が、無条件で幸せになる資格があるから。


 ちらりと吉崎を見る。吉崎は困った表情で視線をそらした。多分、陽一郎なら、それこそ無条件で志乃を受け止める。その目が声もなくそう言っている。北村なら有無を言わさず行動で示してくれる。しかし自分のパートナーは照れてばかりで、ちっとも肝心な事を見てくれない。


 それでもいい。夏は短い。優理が吉崎の隣にいられる時間はそれよりもっと短い。だからこそ、一生懸命になる。だからこそ、吉崎にはいつまでも自分らしくいて欲しい。些細な最大の願い。それはとりあえず理解してくれている。優理が怖かったのは、戻ってきた時に吉崎が自分の知らない世界の人間になっている事。でも、それは取り越し苦労だった。それにほっとしている、というのもある。


 夏は短い。大好きな人と一緒にいれる時間はもっと短い。だからだから全ての女の子は無条件に幸せになる資格がある。そう言い切って欲しい。


 夏は短い。優理に残された時間はもっと短い。でも、だからこそ必要な最初の一日だと思う。吉崎が吉崎である為に。優理が優理である為に。気持ちを確かめたいから。面倒くさい最初の一歩。でも、やっぱり吉崎は吉崎のままなんだ、と知って安心している自分がいる。


 短いからこそ、幸せにしてほしい。今だけじゃない、これからその先も。その保証がほしい。そんな保証なんか最初から無いのは知っているけど。安心させてほしい。そしてずっと今のままでいてほしい。


 優理は吉崎の腕をしっかりと掴んで、無言でそう訴えていた。


 志乃もそれは同じなんだ、と思う。そして陽一郎は何よりそれを理解している。


 無条件に誰でも幸せになる資格がある。女の子も男の子も。ただ、ちょっとだけ不器用でちょっとだけ気付かなくて、前に進めない時があるけど。それは前に進める証拠とも言えるから。


 夏は短い。でも、まだまだ夏は終わらないから。終わらせたくないから。

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