8月13日「お墓参り」


二十五日目






 坂道をゆっくりと登る。陽がじりじりと私たちを照らす。それでも、私は岳志の手を離さず、体をくっつけて歩いた。変な感じだ。気恥ずかしい。急に自分たちの関係を意識してしまう。お兄ちゃんがこれを見たらどう思うだろう? 多分、笑う。きっと。あの人なら。


 蝉が鳴く。熱い。汗が流れる。それでもお構いなしに、私は岳志の手を握る。離れたくない。離したくない。この数日、何が変わったわけじゃない。ただ、彼は私に笑うし、私も彼に笑う。それだけですごく嬉しい。私の弱さまで見透かされているんじゃないか、と思う時がある。


 岳志は強い。きっと。彼が朝倉志乃という子の事を好きだったのは知っている。私が夏目君に抱いていた気持ちとは価値が全然違う。岳志は志乃という女の子を、心の底から想っていたから。私はただ単に、お兄ちゃんと重ね合わせていただけだから。それは夏目君にとってもいい迷惑だったと思う。

 だから時々思う。岳志が本当に私の事を見ていてくれているのか。


 不安──うん、すごく不安。


 多分、こんな感情とまっすぐに向き合ったのは初めてかもしれない。嫉妬が湧き起こるのをかろうじて押さえる。浅ましいと思う。でも、と岳志の顔を私は見る。岳志は不思議そうな、少し照れた表情で私を見る。


「どうしたの、桃?」


「なんでもない」


 なんでもないわけないのに、私はそう言う。岳志は小さく笑う。私は顔を上げる。けど、岳志は何も言わずに歩いていく。私は岳志を追いかける。岳志は強い。私は弱い。こんな私を見たら、お兄ちゃんはなんて言うんだろう。きっと笑うに違いない。


 岳志は強い。


 私は弱い。それがとても悔しい。もっと強くなって岳志のように強くなりたい。後ろを向かず、振り向かず。自分の足で立ち上がる強さを。

 くいっと岳志は指をさす。墓地が見えてきた。私は花束を。岳志をお供え物を両手に抱えて歩き続ける。


 立方体の今は亡き人々の家を通り抜けて。


 お盆だ、墓参りに来る家族は多いはずなのに、今の時間は誰もいない。


 わざと早く家を出てきた。誰にも──岳志以外に、私のこんな顔を見られたくないから。私は、ぎゅっと岳志の手を握り返す。岳志も私の手を強く握ってくれる。


 私は小さな十字架をかたどった墓の前に止まる。キリスト教の父と母のおかげで、こんな墓になった。きっとお兄ちゃんも向こうで苦笑しているだろう。私はその墓にたてかけるように、花を置く。岳志も、お供え物を私にならって置く。こういう習慣は日本のもので、十字架の墓には似合わない気がしたけど、お兄ちゃんの好きな食べ物を私は毎年置いている。きっとお兄ちゃんは喜んでくれると思うから。もっとも、もう少しおいしい物買ってこいよ、と愚痴を言っている気がしなくもないけど。


 例え、カラスの餌になっていたとしても。それでも、私がお兄ちゃんにできる唯一の精一杯の事だから。


「桃」


 と岳志が私に声をかけた。私は岳志の顔を見る。


「もっと笑えばいいよ」


「え?」


「せっかく兄さんに会いに来たのにそんな顔じゃ、兄さんのほうが心配になるだろ」


 風がさわさわと、葉を撫でた。


 まったくだ──


 そんな声が聞こえたような気がした。気のせい、幻聴、空耳、思い込み。私は空を見上げる。雲の流れが速い。お盆に死者が帰ってくるのなら、こんな風に乗って会いに来ているのかもしれない。お兄ちゃんはすぐ傍にいるのかもしれない。死んだらそれまでだけど。それでも、帰ってくる人を待つ儀式は素敵だと思う。だから私は、お兄ちゃんを待ち続ける。きっと、これからもこれからも、この先もずっと。


「死者はさ、どうやったら本当に死んじゃうと思う?」


「岳志?」


「俺が言ったんじゃないよ」


 小さく笑う。少し、寂しげに。


「だって死んだら、お終いで、それが死ぬって事で、後には何もなくて──」


「違うよ」


 また岳志は笑う。今度は優しく、柔和に唇を綻ばせて。違うね。風が頬を撫でる。さわさわと。さわさわと。暖かくて、包み込むような、微睡みそうな、涼しくて、差し込む陽が少し眩しくて。違うよ。そう岳志は、十字架に目を向けて、囁く。


「生きている人が、死者を忘れなかったら、まだそこにいるんだ。うちの親父の台詞だけどね」


 遠い目だった。私は岳志の事を何も知らないと思った。本当に何も知らない。私は自分の事を岳志に一生懸命話していたけど、岳志は自分の事を何一つ語っていない。私の知っている唯一の事と言えば、朝倉志乃と言う子をつい最近まで、本気で好きだったという事実だけ。


 きっかけなんか何でも良かった。私はお兄ちゃんのように笑ってくれる人が欲しかった。夏目君はそういう人だった。でも、岳志はそういう人じゃなかった。だから、なのかもしれない。私の中の戸惑いは。


 岳志は強い。私は弱い。もしも私だったら、好きな人を諦める事なんかできない。今、もしも岳志が朝倉志乃という子の元に戻る事があったら、私はどんな手段を使ってでも自分の方へ振り向かせる手段を講じると思う。私と岳志の関係は幼い。実際、好きという感情なのかどうかも分からない。それでも──


 隣にいてほしい。


 たった数日だけど。出会って間もないけど。それでも、私にとってこの数日はとても重い。お兄ちゃんはこんな私を見たら、やっぱり笑うんだろうか? それとも可愛い妹に手を出しやがって、と怒るんだろうか。──それは無い気がする。きっとニタニタ笑って、こんな馬鹿女をよろしく。さっさと嫁に持っていってくれ、とか言いそうだ。だってお兄ちゃんは本当に口が悪い。


 さわさわとまた風が吹く。木が揺れる。葉が囁く。


 ──余計なお世話だ。


 そう呟いている気がする。気のせい、幻聴、空耳、思い込み。それでもいいと思う。岳志に言われなくても、分かっていた。私の傍には、私の近くに、私の中にお兄ちゃんはいる。私は忘れないから。忘れなかったら、死者が本当に死ぬ事はないから。忘れたら、その時こそ、その人の存在を消してしまう事になるから。


 岳志は屈み込んで、十字架を見つめる。そこには、お父さんが不器用に刻んだエビタフがある。墓碑銘が何とか判読できる程度に刻まれていた。


「家族の一人、最初に旅立つ」


 岳志はそのエビタフを優しく撫でる。私はその意味について考える。漠然としか、考えた事がなかった。最初に旅立つ。ということは、後で時が来れば誰かが旅立つ。旅立てば、巡り会う日もくる。しかし今はその時じゃない。


 お兄ちゃんの傍に行きたいと思った時もあった。自殺願望のあった時もあった。でも、それは旅立つ事にはならない。きっとお兄ちゃんは怒るから、そんな事したら。やる事をやって、為すべき事をして、それからお兄ちゃんに会いに行く日を待てばいい。それまで私にはやらなくちゃいけない事がたくさんある。私には岳志がいるから。先に旅立った人を追いかけるよりも、今、傍で私を見てくれている人の事を私も見続けたいから。


 岳志は私の隣に立つ。

 私は岳志の手を繋ぐ。


 岳志は十字架を見つめる。

 私はお兄ちゃんを見ている。


 さわさわと、さわさわと風が吹く。


 気のせい、幻聴、空耳、思い込み? それでもお兄ちゃんは傍にいてくれている気がした。だから、私は多分、今までで一番の笑顔で岳志にむけて、笑ったと思う。

 背を向ける。手は離さない。私の中にお兄ちゃんはいる。私が忘れない限り、お兄ちゃんはいなくならない。同じくらい、岳志の手を離すつもりは無い。この感情がなんなのかよく分からないけど。それでも、それでも、絶対に傍から離れたくない人なんだ、と思っているのが自分でもはっきりと分かる。


 私は十字架を振り返る。


 風が止まる。お兄ちゃんは私を見ている。私は前を見る。風が吹く。葉が飛ぶ。供えた花の花弁が私の上で、ひらひらと舞う。岳志はその花弁の一枚を掴む。私はその花弁を見る。幻聴、空耳、思い込み?-──違う。


 これがきっとお兄ちゃんの声だから。


 私はもう振り向かない。誰にも逃げない。逃げる為に岳志と一緒に歩くんじゃない。岳志と前に進みたいから。ただそれだけだから。私は弱い。そんなの知っている。岳志は強い。でも強くない。それも分かっている。だから二人なんだ。一人じゃなくて二人なんだ。


 ──いいから、さっさと行け。


 それがお兄ちゃんの声。ぶっきらぼうで、愛想なくて、無神経な声。


 岳志の手を引くように、私は歩く。振り向かない。振り返らない。戻らない。視線は前へ。空より上へ。歩幅は小さくていい。手なら離さない。


「桃?」


「次は岳志のお母さんのお墓に行くよ」


「え?」


 目を点にし驚く。当然、岳志は自分の事は何も語ろうとしなかったから。でもね、と私はクスクス笑った。女の子って、見る物は見てるんだよ。岳志の耳に囁く。仏壇にある写真と名前、誰もいない静まりかえった家、乱雑な居間、男臭い洗面所、洗い物のたまったキッチン、それだけで、北村家の内情は分かる。私はそこまで鈍感じゃない。岳志が時々、見せる寂しげな表情の意味も。みんなみんな全て全て。


 岳志は困った顔で、頬をかく。言葉には出さないけれど、男って強くみせなくちゃいけない生き物なんだと思いこんでいる節がある。そんなに強くなくていい。一人で乗り越えられないのなら、二人で乗り越えたらいい。私はそのためにいる。


 岳志の足が止まった。


 私は岳志を見る。岳志は墓石の周りの雑草をむしっている壮年の男性に目を向けた。彼は、ゆっくりとこちらを見て、そして立ち上がる。


「岳志か」


「親父……」


 岳志は固まったように、お父さんを見る。お父さんは私を見て、優しく微笑んだ。それだけで言葉はなかった。そのまま、また草むしりに没頭する。私は岳志の手を引いたまま、お墓の前へ行く。岳志は子どものように抵抗するが、私は有無を言わさない。


 お墓の前で手を合わせる。岳志も仕方なさそうに、手を合わせた。隣で、クスリとまるで息を漏らすか漏らさないか程度の笑みを、お父さんは浮かべていた。息子はジロリと睨むが、父は意に介していない。そのまま草むしりの作業を続ける。


「あの」


 私は声をかけた。


「私も手伝います」


 彼はぽかんとした顔で、私を見た。そしてまた小さく笑って、頷く。岳志は困った顔で私を見る。困ったのは私だ。まさかこんな所で、岳志のお父さんに会うなんて思っていなかったんだから。


 私はお父さんと黙々と草むしりに熱中した。岳志も仕方なさそうに、作業に加わる。


 と、お父さんは私に自分の麦わら帽子をかぶせてくれる。


 言葉は無い。でも、穏やかな表情で「ありがとう」と言ってくれている気がした。だから私も微笑んで「ありがとう」を返した。


 岳志は小さくため息をついた。私はそれを見て気付かれないように笑みをこぼす。今の岳志はまるで子どものようだ、と思う。


 強い岳志、弱い岳志、子どもみたいな岳志、大人な岳志。

 弱い私、弱いままじゃいたくない私、子どもの私、子どものままじゃいるつもりのない私。


 振り向かない。振り返らない。戻らない。視線は前へ。空より上へ。歩幅は小さくていい。手なら離さない。岳志の手を絶対に離さない──離さない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る