8月4日「花火」


十六日目







「え?」


 誠は目をパチクリさせて聞き返した。


「だからな、陽一郎がどこの店の誘いも、今日昨日は蹴っているんだ」


 と不思議そうな顔で言ったのは最近、人気急上昇中のラーメン『熊五郎』の店主、大膳熊五郎だ。


 彼は夏祭りになると、屋台でラーメンをうりさばく。祭りの人気スポットの一つだ。小さいどんぶりに、食べきりサイズが人気で、特に女性に人気である。ここ数年はラーメンブームにのって、人気はうなぎ上りだ。自分の親の店と比べて、誠は思わず苦笑を漏らした。誠の親はその年の気分で出す店をかえる。さすがに今年は飲食店経営がどうして射的なのか、まったくもって謎である。


「そういうな」


 と大膳は、小さく微笑む。誠の思考は大膳には筒抜けらしい。


「いや、思うなか?」


「でも……」


「長谷川のやり方と俺のやり方は違うさ。俺はアイツのやり口がとても好きだがな」


 ラーメン熊五郎定休日、必ず喫茶長谷川に、大膳は訪れる。黙々と本を読み、店主と小さく言葉を二言三言かわして帰っていく。誠にはすっかりと見なれた光景だった。


 後ろでニヤニヤしつつ、客と向き合う自分の父親に誠は再度、苦笑を漏らした。元々、儲けを求めて商売をしている訳ではないのは誠もよく知っている。父は趣味優先なのだ。自分の美味しいコーヒーを飲みたい。そしてそれを誰か飲んで欲しい。原点がそこにある。


 夏祭りの夜店にしても、それこそあの男には『お祭り』なのだ。それは母親も同じで、伝票の収支を睨んでいる誠は頭痛のする想いである。赤字にだけはしないでくれ、それが誠の唯一の祈りだった。


「で、陽一郎なんだが」


「あ、はい」


 と言う大膳と誠の目の前を二人の人影が通っていった。誠は言葉を失って、その背中を追いかけた。

 手と手をしっかりとつないで、人ゴミの中へと消えていく。


「陽一郎?」


 そういう事か。誠は自分の体の力がぬけていくのを感じた。

 笛の音色が、鈴の音が、太鼓の音が鳴り響く。

 大膳も納得したように頷いた。


「ようやくだな?」


「え?」


「陽一郎と志乃、随分回り道したんじゃないか?」


「うん……そう……そうですね」


 良かった。言葉にならなかった。人をさんざん、心配させやがって。毒づく。たった一人の存在が、あの日、今にも死にそうだった男の顔に、笑顔を戻したのか? 


 昔、三人で笑っていた時の表情。そのままの笑顔で、陽一郎は志乃に笑っていた。


「マコちゃん」


 と自分を呼ぶ声がする。その呼び方をするのは一人しかいない。


「美樹……?」


「手伝いにきたよ」


「今日は別にいいんだぞ、たいしたお金にならないし。絶対、うちの店は儲からない」


「いいの」


 にっこりと笑う。


「でも、他の兄妹が……」


「家族サービスは昨日したし、今日は自分のしたい事をしたいじゃない?」


「だったら友達と行ってくればいいじやないか。無理にこんな店に来なくたって」


 こんなの一言に、店主長谷川は渋い顔をしてみせるが、誠は知ったことじゃない。


「せっかくの祭だもん、マコちゃんのお手伝いしたいもの」


 誠はやれやれと、髪をかいた。美樹は言い出したらきかないのは既に承知済みだ。伝票と睨んでいても暇なだけだ。折角の夏祭りなんだし美樹と一緒に──と思ってはっとする。美樹の言いたい事はそういうことか。思わず、苦笑がこぼれた。


 そういうことか。──と大膳は背をむけて、小さく笑った。


 大膳は美樹に勝ち気な小娘という印象しかなかったが、志乃が陽一郎にむける目と同じ目をしているのに気付き、微笑が自然にこみあげてくる。


 大膳は自分の店の仕事へと戻った。

 花火が上がる。夜空を真っ赤に染めて。


 






 真っ赤に染まったのは、夜空だけじゃなかった。


 多分、志乃の表情も赤くなっていたのかもしれない。それでも目をそらさず、陽一郎の事を見ていた。近い、と思う。とても近い。陽一郎との距離が近い。今まで以上に近い。それが嬉しいし、怖い。


 花火が今度は青く花開く。


 花火の音も、賑やかな行き交う人の声も、志乃の耳には届いていなかった。かわりに、ぴったりとくっついて感じる陽一郎の体温と呼吸。そして優しい声。それが志乃を満たしてくれる。


 陽一郎は志乃の事を瞬きすら忘れて見つめていた。


 その瞼の裏にまで志乃の笑顔を焼きつけたいと思った。


 志乃の写真をもっと撮りたい。誰かが幸せな瞬間の写真は一番貴重だ、と言ったのは陽一郎の父だった。アマチュアのカメラマンとしては、個展を開いたりと知名度の高かった父の写真は、家族の写真を撮る事は少なかった。ただ、陽一郎と志乃の写真は多かった。二人のやりとりを見てると、何だか微笑ましくてな、と志乃と会う事が少なくなった日に、父は言葉を漏らした。


 だがそれ以上に圧倒的に母の──妻の写真が多かった。

 でも、写真だけじゃ得られない瞬間があることに最近、気付いた。


 桃色の浴衣を着て照れた笑う志乃を抱き締めているこの瞬間の鼓動とぬくもり。これは陽一郎にしか分からない。誰にも教えるつもりは無い。気持ちを素直に出しただけで、どうしてこんなにまっすぐになれるんだろう、と思う。



 真っ赤に染まったのは夜空だけでも、志乃だけでも無かった。

 陽一郎は躊躇わず、志乃を見て、その唇に自分の唇を重ねた。


 花火の音が、何回も何回も、上がる。そのたびに二人は色々な色に彩られていく。

 志乃は少し、驚いて、そして目を閉じた。


 キスは瞬間。幼い、唇と唇が触れただけの戯れ合いに等しい行為。恋人が手と手を繋いだにすぎない行為。でも、二人にとっては、確かに意味のある行為。二人がこれからもっともっと二人で歩くための行為。


 青い、まだ幼い二人を、花火が青く灯して、そして消える。


 






 北村は部屋で花火に見とれていた。夏祭りに行かないと言い張る北村に、吉崎は苦笑し何故か部屋に居座って、ジュースを飲んでいる。本当はビールも、祭りで買ってきたおでんもと焼き鳥もある。北村が動かないのなら、ここでとことん飲んで食べる覚悟だ。と、吉崎は悪戯めかした表情で笑う。


「別に俺につき合わなくてもいいんだぞ?」


「そう言うくらいなら、夏祭りに行くぞ?」


 笑った。笑える元気がある。


「部活の連中と行けよ」


「あいにく、サッカー部で彼女がいないのは俺だけなんだよ」


「……嘘、下手すぎ」


 吉崎には遠距離恋愛中の彼女がいる。高校1年の秋に両親の転勤で北海道に引っ越ししてしまったのだ。本当なら自分の事で精一杯のはずなのに、吉崎は北村の事に気をまわす。ありがたいと思うし、正直、迷惑だと思う。ただでさえ吉崎は筆不精なんだから、一枚でも多く、彼女へ手紙を書いてあげろ、と思う。それでも最近はまめに電話をしていて、電話代がかさみ、親にぶん殴られたらしいが。


 その彼女が吉崎に言った別れ際の言葉が


「北村君と仲良くね」


 だった。二人でそろいも揃ってお節介だと思う。もしあの子が志乃と別れた瞬間にいたら、吉崎とは別の行動をしていたかもしれない。あの子はお互いの痛みを感じとれる子だ。


「優里がな」


「は?」


「泣いちゃえ、だってさ。この前電話で言ってた」


「そう」


 そう言うと思った。


「何だよ?」


「吉崎の事も何か言ってたろ?」


「……痛いトコ、つくな」


「言ってたんだな?」


「……ん……」


「……言ってたんだな?」


「言ったというより喧嘩になった。バカ、って百回以上言われたぞ、俺」


 その言葉を聞いて、北村は思わず笑った。笑いは、爆笑の渦になる。


「な、なんだよ。どーせ、俺が悪かったんだよ、俺はバカだよっ」


 むくれる。北村は笑いをどうにか止めて首を振った。


「そうじゃない。吉崎には感謝してるよ」


「は?」


「自分の耳で、朝倉の気持ちを聞けたからね」


 と言う北村の表情が穏やかなのを見て、吉崎は北村を見返す。その顔は妙にすっきりした顔をしていた。


 が、微妙な空気感。今なら、踏み越えていけない領域がある事を知っている。それが例え親友だとしても。だから吉崎は話題を変えた。


「優里がお盆にこっちに帰ってくるってさ」


「良かったじゃないか」


「あ、うん」


 どっちが励ましていいのか、励まされているのか分からない。憮然とした顔で、吉崎は窓から盛大に打ち上げられる花火を見ていた。


 赤に青に黄色に紫に。

 消えて光って消えて光って。光って消えて。


 光が消えた瞬間、北村は今まで書き貯めていたスケッチブックのラフ画を破り捨てた。


 紙が雨のように舞う。


 北村は笑っていた。そして泣き出しそうだった。


「泣いちゃえ」


 と吉崎が優しく言った。そして乱暴にビール缶を持たせる。


 花火が星のように、輝き続ける。


 





 

「委員長?」


 と声をかけられて、陽大は振り返った。クラスメートの辻弥生が、紫陽花の浴衣を着て、友達三人とかき氷を食べながら歩いていた。


「辻?」


 一方の陽大は、晃と亜香理をつれて歩いている。どうみても子守りでしかない。そんな事を言うものなら、晃も亜香理もふくれてしまうだろうが。


「委員長の弟君と妹さん?」

「そーです」


 と年上の女性にはとにかく愛想良く晃は答える。それを見て、亜香理は晃の足を踏み付けた。その小さな毎度の喧嘩はおいといて、苦笑しつつ弥生を改めて見る。志乃の浴衣姿も層だが、普段見慣れている女性が違う服装になっただけで、こうも違う人に思える。


「いやだ、委員長、そうマジマジと見ないでよ」


「あ、ごめん。でも、可愛いよ」


「え……」


「三人ともね」


 クスリと笑みを零して言う。他の二人も嬉しそうに会話に入ってきた。何気ない会話。何気ないやりとり。何気ない再会。何気ない言葉。特に意味をこめた訳ではない言葉──些細なこと。些細な笑顔──


「晃」


「え?」


「きっとあのお姉ちゃんは、大兄さんの『可愛い』を自分だけに言ってほしかったんだよ」


 小声で言う。晃は唇に指を当てて、それ以上の言葉を制した。


 血は争えないかもしれない。と晃は笑った。女性の気持ちに鈍いのが夏目家の男性系統の遺伝だとしたら、晃にもその劣性遺伝子が含まれている事になる。


 自分はどうなんだろう、と思うが、人を好きになったことなんか無いから分からない。


 晃には果ての果ての着ての遠い問題だった。


 


 




 花火の最後の一発が終わってなお、志乃の頬の熱は冷めなかった。


 ぞろぞろと立ち上がる人達を尻目に、志乃は立ちたくなかった。もっと陽一郎の傍で、一緒にいるという事実を感じたかった。


「行こうか」


 とは陽一郎は言わなかった。真剣な目で志乃を見て


「志乃はいなくなるなよ」


 と言った。


 あの花火のように。消えてなくなるなよ、と陽一郎は脅えた目で言った。それが何より一番、怖い。


「消えないよ」


 志乃は陽一郎の手をしっかりと握りしめる。陽一郎も志乃の手をしっかりと握りしめる。消えないから。囁いた。消えないよ、絶対に消えないよ。陽ちゃんの傍から離れたりしないから。ずっと傍で、お節介やくから。消えないよ、消えないから。だから陽ちゃんも消えないで。


 陽一郎は志乃の顔を呆然と見つめた。真摯な目が陽一郎を見返す。


 がむしゃらに働く陽一郎を見て不安だったのは、誰より志乃だった。陽一郎が倒れてしまったら-------それこそ、夏目の両親のようにいなくなってしまったら、今の志乃はどうすればいいのか分からない。それほど陽一郎の存在は、今の志乃にはなくてはならない存在だった。


「大丈夫」


 二人声を揃えて言って、そして笑った。


「絶対に消えないから」


 指きり。幼い時によくした約束。でも、今は約束じゃない。


 ゆびきり。繋いだ指が切れる事はない。離れる事はない。これは二人にとっての誓約だった。



 星が流れても、

 花火が消えても、

 絶対に破られない約束。

 消えないから──。


























※作者・注

飲酒は20歳を過ぎてから!

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