8月5日「再確認」


十七日目





 花火が消えるのは早い。


 祭りが終わるのは早い。


 そしていつもの日常が戻る。志乃は先を歩く陽一郎の後ろ姿を見つめた。夏祭りのためにバイトを休んでいたが、今日から再開だ。心なしか──目一杯、志乃の心の中に寂しさが滲む。たぶん、今の自分の顔はどことなく拗ねた子供のような顔をしているはずだ。どうして陽一郎の前では、こうも子供に逆戻りしてしまうのだろう。自分でも分かっているつもりなのだが、どうしても押さえられない自分がいる。ちらちらと気にする陽一郎の困った顔を見るのが、また少し切ない。


 と陽一郎は振り返って、優しく微笑した。


「今日の仕事はすぐ終わるから、家で待ってて。いい加減、夏休みの宿題もやっとかないとさ」


「陽ちゃんはやってないの?」


「正直、あんまり進んでない」


「実は私もそうなんだ」


 とペロッと舌を出した。二人は顔を見合わせ、苦笑する。陽一郎はバイト三昧だし、志乃は夏目家で家事洗濯料理に末っ子の晃と亜香理の相手に、宿題は進まない。今日もこの後、二人の自由研究の相談が待ちかまえている。志乃自身、夏期講習にも出ないといけない。


 時間が足りないなぁ、とため息をつく。


「こらこら」


 と陽一郎は笑った。


「人が仕事に行く前から、派手にため息つくな」


「別にそういう訳じゃないけどさぁ」


 でもそれは本心だ。夏休みが陽一郎と一緒にいる時間だけだったらいいと思う。せっかくの夏休みなのに、二人でいる時間が極端に少ない気がする。昨日、一昨日と離れずに一緒にいたから、なおさらだ。


「だから今日は早く帰れるって、言ったろ」


「今日は何の仕事なの?」


「………」


 ぼそっと陽一郎は何かを言った。声が小さく聞き取れない。


「え?」


「着ぐるみショーだよ。劇場の人から人手がたりなくて急遽頼まれたんだよ」


 ふてくされたような表情に、志乃は思わず笑みをこぼした。


「何の着ぐるみ?」


「……猫のバーニャン」


 猫のバーニャンと言えば、最近子ども達の間で大人気の民放教育番組のアニメキャラだ。可愛らしい外見とは裏腹の毒舌トークで、お兄さんお姉さんを煙に巻く。果たして教育番組として相応しいのか疑問な展開だが、晃も亜香理もバーニャンの時間になるとテレビにかじりつく。亜香理にいたっては、部屋中がバーニャングッズで埋め尽くされている。


 しかし志乃は一緒に観ていて、どう言っていいのか言葉につまった。


 昨日のテーマは『どうして子どもはできるの?』だ。


 コウノトリが赤ちゃんを運んできてくれるのよ、という旧世代な説明が今の子供に通用するはずもなく、バーニャンは理路整然と、精子と卵子の受精のメカニズムについて、熱く語っていた。とても生々しく。


 志乃はそれを見ないふり、聞こえないふりをするに徹するのに大変だったが、トドメを刺してくれたのは、末っ子の亜香理の一言だ。


「志乃ちゃんとお兄ちゃんがこういう事すれば、子どもできちゃうんだぁ。じゃ、早くして結婚しちゃえばいいのに」


 絶句。晃もまた口をあんぐりと開けて、呆然としている。悪気が無いぶんタチが悪い。この話は絶対、陽一郎には教えられないと二人に厳重な口封じをしたのは、三人だけの秘密である。


 ただあの猫の着ぐるみショーに陽一郎が出るというのは、少し見たいような見たくないような複雑な気分だが。


 もっとも陽一郎は、そんな事よりも、これからの想像を絶する暑さとの戦いに、嫌気がさしているのだ。着ぐるみを着て、簡易ステージであるが照明が備え付けられた場所で、ダンスに演技に握手会。終わる頃には脱水症状寸前なくらい水分がぬけでてしまうのは目に見える。


「陽ちゃん」


「ん?」


「ちゃんとやる前と後、水分をとってね」


「うん、分かってる」


 コクンと素直に肯く。志乃はにっこりと笑って、陽一郎の手をきゅっ、と握りしめた。陽一郎は少し照れつつ、握り返す。別に一生会えない訳じゃないのにね? と志乃は心の中で呟く。つい昨日出会ったばかりでもないのに、その日会った一秒一秒を大切に感じてしまう。


「あれ、志乃ぉ?」


 と聞き慣れた声が飛んでくる。志乃は思わず、陽一郎と繋いでいた手を離してしまった。クラスで仲良くしている女の子三人が、手を振って駆け寄ってきた。真面目な早樹、男顔負けの運動神経を持つ梓、いつも穏やかな微笑を浮かべている希美、一人一人は普通の女の子だが、この三人が集まると途端に賑やかな名物トリオ結成となる。その場が華やかになると言えば聞こえはいいが、その騒々しさは校内一を校長にまで認められているほどだ。


「あ、夏目君だ!」


 と希美が珍しく、異性に声をかける。志乃は目をパチクリさせた。一瞬で取り囲まれた陽一郎は何がなんだか分からない。


「え? あ、あの?」


「覚えてませんか? 恵央高校演劇部の山城です」


 ペコリとお辞儀をする。陽一郎は思いついたように、手をポンと叩いた。


「あ、去年の合同公演してた時の」


 と納得する。訳が分からないのは志乃だ。志乃の知らない間に希美と陽一郎が旧知の中という事を知り、少しおもしろくない。そんな志乃の表情に、早樹と梓は驚く。志乃という子は、いつもニコニコ笑顔で感情を前面に出さないと言うイメージがあった。北村と付き合っていた時でさえ、だ。志乃が誰か違う人の事を好きなのを察知していたが、まさかそのお相手に会えるとは三人は思っていなかっただけに、なおさらだ。


 この夏休みの間に、志乃と北村が別れたという噂が小さなニュースとなって広まっていた。が早樹達からしてみたら、やっぱり、と思う。お互い無理をしている事が分かるカップルだったからだ。志乃は誰かを想い、でもそれを振り払おうとしており、北村はそれを知っていて、必死に志乃を自分に振り向かせようとしていた。必然の結果だが、二人には最良の選択だったと言える。時間が延びれば延びるほど、二人の傷つく度合いは増える。傷なんか少なければ少ない方がいいに決まっている。


「どういうこと?」


 口調はきょとんと、視線は陽一郎にほんの少し嫉妬をこめつつ、志乃は言う。


「志乃、覚えてないの?」


「え?」


 呆れて希美が苦笑する。


「去年のうちの高校の演劇部と、夏目君の永釈高校の演劇部で合同公演したじゃない?」


「あ、ああ……そういえば」


 そんなことを言っていた記憶がある。志乃も一緒に連れてもらっていったのたが、あの時、自然と陽一郎を探して上の空だったのを覚えている。──馬鹿みたい、と思う。あの時から──その前から陽一郎の事をずっと好きだったのに、そんな気持ちに気づけなかっただなんて。


「あのポスターの写真を撮ったのが夏目君じゃない」


 覚えてる。男の子と女の子が満点の星空の下で天体望遠鏡を覗き込む、ワンシーン。そこからお話が始まりそうなほど、生き生きとした写真。パンフレットを見ても、役者やスタッフの写真がどれを見ても生き生きとしている。陽一郎の手腕を感じさせる写真の数々。でも結局、志乃はあの日、芝居よりも写真よりも、ただ陽一郎の姿を探していた。会えると思ったのに。姿さえ見かけることなく、その日は終わってしまった。


「その節はどーも」


 と頭を掻きながら陽一郎は言う。どうも人にちやほやされるのが性に合わない──と言うよりも、志乃の視線が痛い。陽一郎自身も戸惑ってしまう。志乃が人前でこうも素直に感情をしめすということに。はっきり言って居心地が悪い。呼吸を止められたような緊迫感すら感じる。


「志乃、俺、もうバイトに行くから」


「え?」


 と言って、コクンと肯いた。仕方無い。ここでワガママ言ってもみっともないだけだ。志乃はもう一度コクンと肯いた。陽一郎はそんな志乃の目に吸い込まれそうになる。


「行ってらっしゃい」


 と言う志乃に陽一郎も小さく微笑んだ。


「すぐ終わるから」


 くるっと背を向けて歩き出す。振り向かずに、手をひらひらさせながら。すぐに、その後ろ姿は人ゴミの中へと消えていった。志乃はいつまでも、その後ろ姿を追っていた。馬鹿みたい、と心の中で呟く。もう一度呟く。自分の気持ちに素直になった途端、貪欲に陽一郎を独占していたいという気持ちが、日に日に強くなる。どうして、こんなに好きなんだろう? 好きという感覚が、時間を一緒にすごせばすごすほど、強くなっていく。


 夏の初めに再会した時と気持ちは確かに違う。志乃は陽一郎から今、片時も離れたくない。陽一郎が笑ってくれただけで、ただそれだけで、志乃は満たされる。それとは逆に、今この瞬間のように陽一郎が志乃じゃない女の子に笑いかけてる姿を見ると、焼かれてしまうような悔しさがこみ上げてくる。


「志乃、かわったね」


 と梓がしみじみと言った。いい意味で志乃は変わったと思う。北村と付き合っていた頃の、気持ちを押し殺す志乃じゃない。素直に、臆することなく素直に、自分の気持ちと向かい合う志乃がいる。


「でも変わりすぎだよ。私にヤキモチ妬くことないじゃないの?」


 と希美は苦笑している。志乃もベロっと舌を出した。それは照れ笑い。まさか、彼女達に自分のそんな姿を見られるとは思っていなかったから。──開き直り、とも言えるかもしれないが。


「でも、志乃の想い続けていた人が夏目君だったなんてね」


 と希美は羨ましそうに言った。希美は陽一郎の写真に写されてから、その写真の虜となっている。演劇と写真という異なる分野の二人だが、アーティスティックな部分でリンクするものがあるらしい。それは分かるが、少し複雑な気分になるのが拭えないのは事実だ。


「でも、志乃なら仕方ない、って気がする」


 と明るく言う。志乃はそんな、希美の濁りのない、純真な笑顔に見とれた。


 目の前に、陽一郎の事を好きな女の子がいた。自分のすぐ近くに。それは希美の顔を見れば分かる。


 もしも、前までの自分なら友達に、その恋を譲っていたかもしれない。


 でも、今は絶対に譲れない。譲らない。もう自分の気持ちにウソをつかないと決めたから。自分の気持ちに気づかないままでいる卑怯な女の子でいるつもりは無いから。知ってしまったから。自分の本当の気持ちを。誰かを傷つけても、陽一郎を他の人に渡すつもりはないから。


 そこまで思って、志乃は困惑した。自分がそこまで独占欲の強い人間だと思わなかった。


 でも、と思う。


 幼稚園の時から、陽一郎が他の子と話しているのが気に食わず、常に彼の背中をついて歩いた。傍目には仲の良い二人にしかうつらなかっただろうけど。


 大きくなってもその感情は、心の奥底に隠しただけで、消えなかった。演じていることも忘れて、志乃は陽一郎が自分に話しかけてくれる事を待っていた。待っているだけじゃ、何も始まらないのに。


 なくしかけて、ようやく気づけた自分が愚かだ、と思う。


 気持ちの再確認をして、志乃は小さく微笑んだ。


「志乃?」


 と早樹が不思議そうな顔をする。志乃は横に首を振った。


「何でもない」


 と笑う。

 再確認。私は陽ちゃんの事がこんなに好き。


 好きという言葉じゃ足りないくらい好き。でも、たとえば映画の恋人達のように「愛してる」なんて、恥ずかしくて、軽々しく言えない。でも、好き。好きよりもっと好き。好きという言葉じゃ曖昧すぎて足りないくらいに好き。


 でも──


「ごめんね、けど、陽ちゃんは誰にも渡さないよ」


 真顔で希美に向けて言った。


 三人は顔を見合わせて、そして一瞬、目を点にさせて、小さく微笑む。梓は志乃の髪を、子供をあやすようにくしゃくしゃと撫でた。


「誰もとらないから心配するなっ」


 と笑いながら言う。


 志乃も笑った。押し殺した笑顔じゃない。志乃の──志乃だから笑える笑顔で。陽一郎がいてくれるから。それを3人も感じとったからより笑顔だった。


 再確認。

 絶対、陽一郎を離さない──。


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