7月23日「無理」

【四日目】





 相変わらず、陽一郎は惰眠をむさぼっていた。今日の仕事は夜の劇場での舞台設営と撤去のみだ。プロが指揮する計画が徹底されたバイトだけに、気は楽である。陽一郎は指示された通りに動けばいい。劇場の舞台スタッフは精練された技術と感性には陽一郎は目を見張るもばかりだ。そんな仕事の合間に、プロの人々の素顔の写真を撮るのが陽一郎の細やかな楽しみでもある。プロの真剣な眼差しから創造されていく舞台は、確かにその日、観客を陶酔させていた。


 そういう意味でも、今夜のバイトは楽しみでもある。その気力を充電する意味でも、布団の中で微睡む。布団の中でだらだらしているのが、陽一郎の至福の時間だ。その時間をことごとく破ってくれるのが、妹弟達である。今日も予定通りに布団をはいでくれる。陽一郎は必死に抵抗したが、美樹と晃と亜香里の三人にかかっては、長男もかたなしである。陽一郎はやれやれと起き上がった。


「労働者を休ませる心意気は無いのかよ、お前らは」


 とため息をつく。


「ないよー」


 と亜香里が可笑しそうに笑う。陽一郎が渋い顔をすると、晃も一緒に笑った。晃と亜香里は年が近いせいか、仲がいい。ぴったりと気が合う。妹想いの兄、兄想いの妹なのはいいが、それがコンプレックスとなり依存しない事を祈るのは考え過ぎか。遊ぶのも一緒、買い物も一緒、勉強まで一緒の二人に最近、そんな危惧を抱く。次男の陽大はそんな陽一郎に、コメントもせず苦笑の表情で答えるのみだ。


「陽アニ」


 と美樹は陽一郎より渋い表情で


「寝過ぎ」


 と冷たく言い放つ。美樹の視線は、一階で今は掃除機を動かしている志乃に送られているのが分かる。ストレートな美樹の言い分に、陽一郎は苦笑した。そういえば、と思う。美樹は昔から志乃によくなついていた。だから志乃と美樹がよく小声で相談し合っているのを最近は耳にする。それが何の話題なのかは当の陽一郎には皆目見当もつかない。──それが自分の話題であることを全く知らないでいる。


 美樹はじっと陽一郎を見た。そして下から聞こえる掃除機の音に何か言いたげである。


「分かったよ」


 と苦笑した。どっちにしろ、起きたら志乃を誘うつもりだったのだ。自分の机の上に乗っている水族館のチケットを見て、少し照れ笑いを浮かべる。たまには夏休みらしい一日もいいか、と陽一郎は心の中で呟いていた。








「行くなら行くって言ってくれればいいのに」


 陽一郎の背中にぴったりとくつきながらも、少し拗ねた声をする。自転車をこいでいる陽一郎はそんな志乃の表情を見る事はできないが、志乃の顔はそう言う言葉とは反対に、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。


「なんか今日はやっぱり用事があったのか?」


 と的外れな事を聞く。用事があったら、夏目家にお邪魔するわけがない。女心が分かってない、と志乃は頬を膨らませた。しかしそれを陽一郎に分からせるのは、至難の技である。


 分かってくれないかな、と志乃はため息をついた。言ってみれば、デート。少しはお洒落していきたいと思ってもいいだろう。少しでも可愛い服を着て、陽一郎に見て欲しい。今の自分の服で一緒に出かけるには少し不満だった。髪だってセットしたいし、可愛い指輪もつけたい。でも-------と呟く。こうして陽一郎の背中にしがみつくことができるというのは、予想外の幸運だった。背中に頬をよせる。陽一郎の暖かさが、頬を伝わり体に溶けていくような、そんな温もりをかみしめる。


「志乃?」


 陽一郎が声をかけた。


「え?」


「あまり無理はするなよ」


「無理?」


「うん」


 陽一郎は言葉を切った。


「毎日、俺の家に来て料理するの大変だろ?」


 志乃は頬を背中から離した。陽一郎の腰にしがみついていた手に、力がこもる。


「私がいるのは迷惑?」


 知らないうちに、泣きそうな顔になっていた。不安が志乃を苛ます。陽一郎は自分の事を好きではないのだという不安。ただの幼なじみとしてしか見られていないんだ、という不安。それが胸中に渦巻く。


「迷惑じゃない。志乃が迷惑な訳ないだろ?」


 陽一郎は自転車を走らせたまま言う。顔が見えないから、なおさら不安になる。


「迷惑じゃなければ、何?」


 その言葉に陽一郎は黙った。 それが志乃のますます不安にさせる。陽一郎は自転車を止めた。陽一郎は振り向き、志乃の表情に少し驚いた表情を見せる。


「志乃?」


「迷惑なの、陽ちゃん? 私は迷惑?」


 肩が震える。我慢しようとしていたのに、その感情が決壊しそうだった。恐れていた言葉を聞きたくなかった。陽一郎が言ってくれた言葉の一つ一つに過剰に期待していた自分を呪った。情けなくて、でも涙が止まりそうになくて、どうにもならなくて、悔しくて唇を噛みしめた。


 陽一郎は自転車をとめて振り返る。と、そんな志乃の頭をポンポンと叩いた。


「バカモノ」


 と、くすっと笑む。志乃はきょとんとした表情で顔を上げる。


「バカモノ」


 ともう一度、言う。


「志乃が来てくれて迷惑なことなんてあるわけないだろ」


「じゃ、どうしてそんな事を言うの」


 じっと陽一郎の目を覗き込む。陽一郎は困ったような表情で、でも、視線を反らす事なく、志乃を優しく見つめた。その目に志乃は吸い込まれそうになるのを感じた。不安が安心に変わっていくのを感じる。涙は流れなかった。ただ陽一郎の言葉を待つ。


「志乃は同情でウチに来てるのかい?」


「え?」


「親父とお袋が死んだから、同情してるのかい?」


 陽一郎はまっすぐ志乃を見つめた。志乃は首を横に振る。


「違う、違うよ」


「志乃、別に無理しなくいいんだ。俺らは何とかやっていってるし、志乃がそこまで心配しなくても──」


「違うの!」


 志乃は思わず怒鳴った。


「違うの」


 そうじゃない。同情なんかじゃない。私はただ、私はただ──


「陽ちゃんの力になりたいの。それじゃダメなの?」


「志乃?」


「私は陽ちゃんの力になりたい。傍で支えてあげたい。だから弱さを見せてもいいの。ゆっくり休んでいいの。私はね、陽ちゃんが倒れないようにお手伝いしたいだけなの。だって陽ちゃん無理しすぎだもん」


 また泣きそうになる。


 どうして、と思った。どうしてこんなに、陽一郎の前だと、泣き虫な女の子になってしまうのだろう。昔はこんな性格じゃなかった。甘えん坊ではあったけど、ここまで陽一郎にすがりつく事はなかった。それはかえって、陽一郎を困らせる事になっているというのに。


「俺はね、志乃」


 と陽一郎は言った。


「同情ならいらない。志乃がもし無理をしているなら、やめてほしい」


「無理なんてしてない」


「それなら」


 と息を吸い込んだ。


「すごく、嬉しい。無理じゃないなら、すごく嬉しい」


 と陽一郎は笑顔を見せた。


 志乃はこんな陽一郎の笑顔をもっと見たいから──そう思っている自分に気付いたから、傍にいたいのに、と口まで出かかった言葉を閉ざした。陽一郎が、志乃の涙を拭ってくれる。志乃は無意識に抱きついた。陽一郎は優しく抱きとめる。












 無理はしないでほしい。

 無理はしないでほしい。

 無理じゃない。

 無理じゃない。

 無理はしないで。

 無理はしないで。

 無理はしないで。

 無理じゃない。

 無理じゃない。

 無理じゃない。

 無理──?






 言葉と言葉が入れ乱れて、志乃は弱さを隠してきた陽一郎の素顔を見た気がした。


 気丈なフリで、笑おうとする陽一郎。でも、志乃の目にはぼろぼろに傷ついた泣き顔に見えた。陽一郎が笑えばも笑うほど、無理しているように見える。今までどうして気付いてあげれなかったんだろう。長兄としての責任から気丈さを保っていた陽一郎だが、その弱さを誰にも見せられなかった。見せたら妹弟達は動揺する。幼い彼らを引っ張る大人は陽一郎しかいない。しかし陽一郎も大人じゃない。


 志乃は陽一郎の目を見つめて、ゆっくりと言った。


「無理してるの、陽ちゃんだよ」


 陽一郎がえ? という顔をした。陽一郎の表情から、笑顔が消えた。


「無理しないでよ、陽ちゃん」


 志乃は自分の涙を拭った。まっすぐまっすぐ陽一郎を見つめる。


 言葉はもういらなかった。


 陽一郎の瞳から流れる雫。


 冷静さを保っていた表情が少しずつ崩れた。


 志乃は陽一郎を優しく、もう一度抱きしめる。


 そのまま二人は木陰で抱きしめあった。恋人の抱擁というよりは、傷を舐めあう仔犬のような、そんな弱々しさで。昔の少年と少女の時のように。優しく優しく慰めあうように。


 でも同情なんかじゃない。


 無理しないで、と志乃は囁いていた。

 そのまま二人は動かない。水族館へは今日は行けそうにないかも、と志乃は思った。でも、動きたくなかった。ここまで弱っていた陽一郎の悲しみを全て吐きださせたかった。無理しないで、今度は胸に顔を埋めながら呟く。陽一郎の涙が止まらない。声もなく泣く陽一郎を志乃は優しく抱きしめた。




 夏の風が、そんな二人ら隠すように、林の葉をゆらしていた。

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