7月24日「水槽の中のサメ」

【五日目】





「陽アニ」


 といつものように美樹と晃と亜香里が陽一郎を起こしに行くと、すでに陽一郎が起きていて三人は目を丸くした。陽一郎はすでに着替えを済ませて、カメラをいじっている。思わず美樹は外が雨が降ってこないか、窓を覗き込んでしまった。日差しが強くないが、風が気持ちいい。美樹は、うーんと背伸びする。


「おはよう」


 と陽一郎は特に変わった様子もなく、言う。


「珍しい」

「珍しい」


 と晃と亜香里が笑いながら言う。その意見、もっともだ、と美樹も思った。


「今日は何かあるの?」


「ん……あると言えばあるんだけど」


 口ごもる。何だか照れているようだ。柄にもない、と美樹は思った。 そして、すぐ思い当たる。一歩前進、というところかもしれない。美樹はニッと笑い、陽一郎に見た。その頬が少し赤くなっている。 


「今日は志乃ちゃんとデートかぁ」


 とわざと言う。晃と亜香里は興味津々に、陽一郎を見た。


「え? 志乃ちゃんとテートなの?」

「デート? チューするの? 陽兄のエッチー」


 と言いながら、楽しげに笑う亜香里に対して、陽一郎は反論も出来ずあたふたしている。たかがデートでそこまで緊張する事もないだろうに、とも思うのだが、それはそれで陽一郎らしい。


 次男の陽大がドアをノックして入ってきた。



「 兄さん」


 とにぎやかな他の妹弟達を見て、目を丸くした。


「志乃ちゃんだよ?」


 苦笑しながら言った。

 ひょっこりと陽大の後ろから、志乃が顔を出す。少し頬を赤くしながら、陽一郎を見る。


「陽ちゃん、おはよう。起きてたんだ?」


「あ、うん。おはよう」


 何だかぎこちない。美樹と陽大の二人は顔を見合わせて、漏れそうな笑みを堪えた。


 志乃はしっかりとお洒落してきている。美樹は志乃ににっこりと笑って、そっと囁いた。


「頑張ってね、志乃ちゃん」


「え?」


 きょとんとして、すぐ赤くなる志乃に美樹はクスクス笑った。今の二人はとても、からかいがいがあるというものだが、兄の陽大が釘を刺すように睨んでいる。美樹は肩をすくめて、従った。二人をこれ以上邪魔しちゃいけない。折角、二人の距離が縮んだのだ。志乃が家に来るようになって、陽一郎の表情が前の明るさを取り戻した気がする。無理のない笑顔。それと同じように、志乃が陽一郎に漏らす笑顔。その全てを大事にしたいと美樹は思う。


「ん、じゃ、行ってくるな」


 と陽一郎は立ち上った。ちょこん、とその後ろを志乃がついていく。


「うん、いってらっしゃい」


 と陽大が笑って言った。美樹と顔を見合わせて、もう一度笑う。二人の距離が、子供の時と同じように近い。晃と亜香里が、そんな陽一郎と志乃を見て、自分達も一緒に行きたい、と声を上げた。美樹はダメの一言で片づけたが、末弟・末妹は不満げである。陽大はクスッと微笑み、二人の目をのぞきこんだ。


「今は兄さんと志乃ちゃんの二人きりにしてあげないと、ね?」


 と強く言うわけでもないのに、二人はコクンとうなずいた。発言力の強さで言えば、夏目家で一番なのは陽大である。冷静かつ的確な発言は、兄の陽一郎も舌を巻くものがある。だからと言って自分の意見を強くだすようなことは無い。あくまで長兄の決定に従うのが陽大だ。それは美樹も同じだが、陽一郎には口で勝てても、陽大には勝てない。勝負にすらならないのだから、諦めもつくというものだ。


 まだ不満そうな亜香里に、陽大はニッコリと笑んだ。


「今度、みんなで旅行にでも行こうね」


 その一言で、亜香里の表情にぱっと、笑顔が咲く。美樹は陽大の背中を突っついた。


「いいの? そんな約束しちゃって」

「ん?」


 とはぐらかすように笑う。


「これを言い出したのは兄さんだからね」


「は?」


 どういう事? と言う前に、陽大は部屋を出ていこうとする。


「ちょっと、大アニ!」


「悪いね、真相は近いうちに。俺、夏季講習あるからから学校に行かないといけなんだよ」


「大アニ!」


「受験生は辛いのさ。美樹もそのうち、分かるよ」


 とクスクス笑って、階段を降りていく。


 美樹はため息をついて、地団駄を踏むしかない。美樹がまるで犬の遠吠のように『悔しい!』を連発しているのが玄関まで聞こえた。晃が何か言って、殴られた音までしっかりと聞こえる。


 やれやれ、と靴を履きながら陽大は笑った。


「今年の夏は騒がしいね」


 と楽しげに、ドアを開けた。












 結局、昨日と同じように自転車で二人は向かった。昨日よりも近く強く、志乃は陽一郎の背中にしがみついた。陽一郎の運転に怖がったふりをする。本当は怖くなんか無い。昔からそう。陽一郎が志乃を危険な目に合わせるような運転は絶対にしない。


 二人は冗談を言い合いながら、いつものように笑う。


 陽一郎の笑顔が昨日より自然なのが嬉しかった。無理した笑いじゃない、子供のように心から笑っている顔。そんな陽一郎の表情を見ていると嬉しくなる。そんな、とても単純なことなのに。


 陽一郎のたまっていた翳りを全てとまでは言えないが、子供のように吐きださせることが出来て、少し恥ずかしいけど満足していた。昨日のこともあって、照れているというのが分かる。それを証拠に陽一郎は振り向こうとはしない。でも振り向かなくても、志乃の事を見ていてくれるのがよく分かる。


 その言葉の一つ一つが、絶え間なく志乃を優しく包んでくれる。何気ない言葉だけど、志乃はそんな会話をずっとできなかったから、なおさら陽一郎の一つ一つの言葉が嬉しくなるのだ。こんな自分は変だろうか?


 水族館についてからも、二人は絶え間なく話しをしていた。魚をみながら、写真を何枚か撮る。陽一郎は言葉を止めない。些細なこと、どうでもいいこと、家族のこと、学校のこと、昔のこと、そんな事を回りながら、とりとめもなく話していた。


「サメ?」


 と陽一郎は水槽の中にいる一匹のサメをガラス越しに見つめた。


「うん、サメって書いてある」


 と解説のプレートを読みながら、志乃もうなずく。


「サメの刺し身って美味いらしいぞ」


「……陽ちゃん、グーで殴っていい?」


「前言撤回します」


 と笑い、志乃も笑った。


「でも、一匹で水槽の中にいて寂しそうだな」


 とまた写真を撮る。陽一郎から出された言葉をじっと心の中で繰り返しながら、サメを見る。陽一郎の言葉のせいか、とても寂しそうに見える。その目がなぜか、昨日の陽一郎の表情と重なった。


 水槽の中で一人。


 誰も助けてくれない。


 もしかすると、陽一郎の父と母が死んだとき、水槽の中で悲鳴を上げていたのは陽一郎なのかもしれない。通夜の時の陽一郎の表情。必死に堪えて耐えている表情。長男だから? 男の子だから? 年上だから? 親戚はいないようなものだから? 志乃は知っている。陽一郎はそんなに強い人じゃない。


 陽一郎の背中を見る。


 志乃はその後ろを、昔のようにちょこちょことついて歩く。


「ねぇ? 陽ちゃん?」

「どうした?」


 足を止めて、水槽に見入ってる志乃に陽一郎は不思議そうな顔をした。


「向こうはマンボーがいるらしいぞ」


 子供のように言う。


 でも志乃は水槽に食い入るように見つめていた。


 陽一郎も覗く。


 その巨大のサメの腹部に、ちょこんと小さなコバンザメがくっついていた。サメの大きな泳ぎに、コバンザメは離れまいと必死でくっつく。


 くっつく──というよりは、寄り添っているように、志乃には見えた。


「サメは一匹じゃないよ?」


 と志乃が言った。


「うん」


 と陽一郎もうなずく。また、カメラを撮りだし、写真を撮る。見られていることに気づいて一瞬、コバンザメがビックリとしたようであった。それにサメが気付き、陽一郎のいる場所から、離れていく。


「一匹じゃないな」


「うん」


 陽一郎と志乃は時間が止まったかのように、水槽の中を見つめていた。ゆれる海草を照らすブルーのライトが暗い室内で淡く輝く。いつのまにか、志乃は陽一郎の手をしっかりと握っていた。


「陽ちゃんも一人じゃない」


「え?」


「一人じゃないよ」


「うん」


 時間が止まったように、志乃も陽一郎に寄り添った。


 仄暗い光に隠れるように、二人はぎこちなく手を握りあった。


 言葉は途切れたが、手と手の温もりで二人はずっと会話をしていた。


 時間が止まったように、陽一郎も志乃に寄り添う。


 それでだけで、二人の会話は成立した。嬉しさも苦しさも悲しさも辛さも全て、水に溶かすように。


 全て、仄暗い水の底に溶かしてしまうように。


 でも、と志乃は陽一郎の目をまっすぐに覗き込んで、声にならない声で囁いていた。


(ヒトリジャナイヨ?)


 陽一郎はコクンとうなずく。


 二人は時間を忘れて、水槽の中を見続けていた。

 

 

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