7月22日「距離」

【三日目】






 志乃は自分の部屋でぼーっと、昔の写真を見ていた。


 今日は陽一郎は夜のバイトらしい。午前中しか一緒にいられず、志乃は少し不満気味である。相変わらず、二人の関係は変わっていない。それでもその空気は好きだ。陽一郎と一緒にいるとすごく嬉しい。陽一郎と別れるとすごく悲しい。昔はこんな事は感じなかった。いつから、自分がこんなに弱々しい女の子になってしまったのか、すごく疑問に思う。


 幼稚園の頃の写真は、陽一郎の背中にぴったりとくっついて歩く泣き虫だった。


 小学校の頃は、陽一郎との関係を冷やかされて、一時期女友達とだけ遊んでいた記憶がある。それでもいつのまにか、陽一郎と一緒にいる時間が多かった。


 中学校の頃は、ますま陽一郎と一緒にいる時間が少なかった。お互いの進路についても話さなかった。部活も違い、学校で偶然会って、軽く会話して、また友達の輪に戻るというそんな関係だった。


 そのまま二人の関係は終わるはずだった。

 高校が別々になって、陽一郎と全然会えなくなると――無性に陽一郎に会いたくなった。


 少しでも陽一郎の姿を見ると嬉しくなる。声を交わすと、その日一日は幸せな気分になる。逆に会えたのに話すことも出来ないと、その日はずっと沈んでしまう。


 北村と付きあったのは、そんな弱い自分を否定できるはずだ、という思いもあった。


 (ワタシハ、ヨウチャンノコト、スキジャナイモン)


 否定は確信に変わった。


 (ワタシハ、ヨウチャンノコトガ、スキナノ?)


 写真の陽一郎と志乃が笑っている。


 ごめんね、北村君。志乃はぼそっ、と呟いた。後悔が心を締めつける。自分の弱さが北村を傷つけた。もっと素直になれたら、誰も傷つけなかったのに。北村と話していた時間は楽しかったが、それはやっぱり友達としてだと思う。陽一郎はむしろ志乃にとって居なくてはならない人。


 だから卑怯だと思う。そう言うことが卑怯。そう思う事が卑怯。それも分かっている。自分を卑怯だからと言って北村は許してくれない。それでも陽一朗の事が好き。多分、あのまま隠していても、いずれ嘘はばれた。ごめんね、北村君。陽ちゃん、何度も何度も呟く。自分の弱さが嫌いだ。こんな自分が嫌いだ。あの時、抱きしめてくれた陽一郎の温もりを思いだす。自分のことを卑下する言葉を止めてくれた温もり。陽一郎と志乃にとっては幼いころからのスキンシップ。夏目家長女の美樹もそう言う。志乃もそういう気がする。


 だからもっと強くなりたい。


 写真の陽一郎の表情を撫でる。陽一郎の目を自分に向かせたい。いつのまに、こんなに陽一郎の事が好きになってしまったんだろう。夏休みになってから、まだ三日。やっと陽一郎と普通に笑いあえる関係に修復できただけに過ぎないのに、一人の時間になると心をかき乱される。


 どうして、こんなに遠いの?

 陽一郎の傍にいきたい。


 素直にそう思う。

 幼い頃はこんな気持ちを抱くようになるなんて、想像もしなかった。


 いつまでも友達。中学までそう信じていた。

 恋愛対象外。ずっとそう思っていた。


 陽一郎が志乃から離れて、鋭利なナイフで胸を貫通されたようだった。


 (ヨウチャンガ、ワタシカラハナレテイク?)


 すごく痛かった。


 でも、陽一郎のがまた志乃に笑ってくれて、すごく嬉しかった。


 じっと写真を見つめる。お互い強く手を握りあって笑っている幼稚園時代。


 少し距離の開いた小学校の頃の写真。


 二人で一緒に写っている写真の少ない中学校時代。


 そして今――。


 一昨日陽一郎が映してくれた、志乃一人の写真。志乃しか写っていない。でも、陽一郎が写してくれた世界で一枚の写真。志乃はカメラの向こう側の陽一郎にむかって、本当に嬉しそうに笑っている。少し照れながら。


 志乃は写真をぎゅっ、と抱きしめた。


 自分の写真を抱きしめるのは変かもしれない。でも、この写真の向こう側には陽一郎がいる。この写真のように、陽一郎の目に自分だけを写したい。


 そんな事を考えている自分に驚く。


 もっと陽一郎の目に自分を写したい。


 いつから、こんな風になったんだろう。


 いつからなんて分からない。


 二人は今も昔のままの二人だけど、昔のままの二人じゃない。


 もっと近くに行きたい。


 想えば想うほど、距離が遠く感じる。本当はとても近いのに。自分が今まで感じていたより、もっと近いのに。勇気を出せば、きっともっと陽一郎の傍に行けるのに。


 もっと傍に行って触れてみたい――そこまで考えて、顔が火照るのを感じた。


 (な、なに考えているのよ、私の馬鹿馬鹿!)


 そう思えば思うほど、頬が熱くなる。


 でも、と思った。もっと傍にいきたい。もっと傍へ。もっと近く。陽一郎の目に自分しか写らないほど近くへ。それは我が侭というのも分かっている。それでも陽一郎の近くへ行きたい。自分の気持ちに気付いて、初めて分かった。どれだけ、陽一郎の事が大切だったのかを。


 夜が長いよ、と志乃は思った。


 早く朝になればいい。早く陽一郎の顔が見たい。早く陽一郎の声が聞きたい。


 まるで病気みたい。


 志乃はため息をついた。勉強はまるで進まない。陽ちゃんのせいだ、と今度は八つ当たりする。


「志乃」


 下の階からの母の声が、そんな志乃の思考を中断させた。


「はーい」


「陽ちゃんから電話よ」


「え?」


 と耳を疑う。


「本当? 今、行くから! 切らないでよ!」

 と言うやいなや、全速力で階段を駆け降りていた。


 母が唖然として受話器をもっている。志乃は奪い取るように受話器を取った。


「もしもし、陽ちゃん?」


「志乃?」


 と一番、聞きたかった声が耳元に響いた。志乃の表情に自然に笑顔が咲く。


 ふーん、と母のにやついている視線と目があう。向こうに行っててよ、という志乃の一瞥に「はいはい」と苦笑する。そうか、そうか。志乃もついに陽ちゃんと、と呟いているのが聞こえた。志乃がもう一睨みすると、母は可笑しそうな表情を浮かべて、キッチンへと消えていった。

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