4・鏡の国

明け方、散々なリハーサルを終え、エリックは鬱々とした気分で自宅のアパートに帰る。しかし、いつもそこに横たわっているはずの場所に、彼女がいない。エリックは大慌てで叫ぶ。


「ミルドレッド!?」

「はぁ〜い、あなたぁ〜」


気が抜けるような返事。窓の外から聞こえる。見おろすと、なんと病弱なミリーが、元気はつらつな様子で洗濯物を干している。自分の目で見ている光景が信じられず、エリックは現場に駆けつける。


「あなた、帰ってたのね。昨晩はリハーサルだったんでしょう?どう?順調?」

「…!?なっ…ミ、ミリー?」

「まあ、驚いた顔をして、うふふ…」


ミリーは、口を開けっぱなしのエリックを見て笑う。しかし、エリックは彼女を叱る。


「寝てなきゃダメじゃないか!またそんな無理をして」

「大丈夫よ。私、最近とっても調子が良いの!あなたがずっと一緒に居てくれるからよ」


ミリーはエリックに抱きつく。


そうか、とエリックは思う。彼女は寂しかったんだな。子供の頃からずっと病気で、親兄弟からも、まるで幽霊のように扱われていた。そんな彼女にとって、孤独はなによりも辛いことなのだ。孤独が彼女の病気を悪化させていた。私がショーで居ない間、彼女はずっと…


「ごめんよ、ミリー」

「なぜ謝るの?」

「気づいてあげられなくて…」

「まあ、ふふ…あなたは世界一の夫よ。二人一緒なら、どんな困難だって乗り越えられるわ」

「そうだ…その通りだね…たとえ催眠術すべてを失っても…」




※※※




「エリックさん!エリックさん!」


アパートの戸を激しく叩く音。

カーテンを閉め切った部屋は薄暗く、オモチャも本も、薄埃をかぶっている。エリックがこの部屋から一歩も外へ出なくなって、何日経つのだろう?サーカスの新公演はどうなったのだろう?

しかし、いつまでも現実世界から身を隠していることなど出来ず、誰かが彼を目覚めさせなければならなかった。その役にたまたま抜擢されたのが、このアパートの大家なのだ。


「エリックさん、居るんでしょう!?あんた、家賃滞納するなっていつも言っているでしょ。今度やったら出て行ってもらうって、言いましたよね?」


その声があまりにもやかましいので、エリックは妻とともに耳を塞いで縮こまっている。

小声で言う。


「ごめんね、ミルドレッド。せっかく元気になってきたのに、これじゃ散歩に連れて行ってあげることもできない」

「良いの!いっしょに居られれば幸せよ」

「とは言ったものの、現実は厳しいからなぁ。ここを追い出されたら、どこへ行けば良いのだろう?大事なショーをすっぽかしてしまって、サーカス団のみんなには顔向けできないし…父上に頭を下げて金を借りるか…」


エリックは、初めてミリーへの想いを父親に告げた時、彼が言い放った言葉を思い出す。


「エリック、その娘のことは知っている。我が家に劣らぬ名家の令嬢だが、不治の病に侵されていて、虚弱とのことだ。子供を産めない女と結婚して、なんになる?」


あの時の侮蔑のこもった父親の目。思い出しただけでもムカムカする。


「やめだ、やめだ!あの人とは縁を切ったんだ。死んでもあの人にだけは頼らないぞ」

「でも、私の実家もねぇ。あの人たちにとって私はもう、死んだことになっているのよ」

「うっ…」


エリックは軽い頭痛に襲われ、頭を抱える。


「あなた、大丈夫?」


心配そうに顔を覗き込む彼女。


「あ、ああ…そうだ!どこにも出かけられないのなら、催眠術でどこかへ行こう!」


エリックは勢いよく立ち上がる。


「どうしてだか、君には使えるのだ…どこが良い?どこかの国の、素敵な宮殿でにでも…いや、別に実在しない場所でも良いんだ。たとえばほら、君が大好きな本の…」

「素敵!良いアイデアね。…あっ、でも窓際には立たない方が…」


風でカーテンがめくれ、エリックの姿が大家から丸見えになる。


「やっぱり、居るじゃねーか!」

「…あ」




※※※




大家に、部屋の外に引っ張り出されたエリック。何日も部屋に閉じこもっていたせいで、日光が眩しい。服も体も汚れていて、少し臭っている。大家は顔をしかめる。


「あんた、まともな商売してないのか?」


家賃の支払い能力がないと見なされれば、即刻追い出されてしまうと思い、エリックは焦る。今まで、本当に困った時は、催眠術でその場を誤魔化してきた。しかし今では、自分と妻以外に催眠術が通用しない。誤魔化さず、正直に受け答えするしかなさそうだ。エリックは、おずおずと言い訳を並べる。


「す、すみません。本当に、こんなはずでは…私は興行の方でそこそこ成功していたのですが、スランプと言いますか、仕事の方がうまくいっておらず…それに、ご存知と思いますが、うちには病気の家内がおりまして、い、今家を追い出されては…」

「は?びょうきのかない?」


大家は目を丸くし、そして笑い出す。エリックは逆に驚く。


「え、なぜそこで笑うんです??」

「いやね、私も長いこと安アパートの大家やってるんで、色んな言い訳聞いてきてるけどね、なるほどね!病気の家内!こいつぁ傑作だ」


大家は笑い続ける。エリックの胸に、例えようもない感情がじわじわ広がる。目の前で笑っている男が、恐ろしく、不気味で、苛立つ。


「え、エリック…私、急に気分が悪くなってきたわ…なんだか、怖いの…」


エリックは、青ざめ、倒れかかる妻を、しっかりと受け止める。


「ほ、ほら、大家さん。あなたが大声を出すから、妻が怯えてしまっている…」

「プーッハハハ…はい?なんだって?あんた、本気かい?それとも、ずいぶんと往生際が悪いんだな。あんたがこの部屋を借りてから、私は一度も、奥さんとやらに会ったことがないぞ」

「家内はいつも眠…」

「今だって、いない!しっかりしろ、エリック。仕事でなにか辛いことでもあったか知らないが、現実逃避するな。君はずっと独り身だ」

「止めろ」

「奥さんなんて最初から」

「それ以上は言」

「存在しないじゃないか!」


大家の最期の言葉をかき消すように、ミリーが叫ぶ。


「キャーーーーーーッ!!消えちゃう…死んじゃうぅぅーーーーーーッ!!!」


その、エリックにしか聞こえない絶叫に呼応するように、エリックは激しい頭痛に襲われる。


「うああーーーー!!!ミルドレッドーーーー!!!」




※※※




「エリック、どこにいった、エリーック!」


遠くで父親の声。10歳のエリックの手には、大嫌いな人殺しの道具。


「今日と言う今日は容赦せん。親を馬鹿にしやがって…」


窓から、父親が遠ざかっていくのを確認し、銃を机の上に置き、ひと息つく。


「それ、要らないのなら私にくれない?」と、少女の声。エリックは部屋のベッドの上に、可愛らしく華奢な体つきの女の子を見つける。


「良いけど、弾は入ってないよ…ご、ごめんよ。君も僕の誕生パーティーのお客様なんだね?」

「具合が悪くて寝ていたの」

「そうか、邪魔したね」

「良いのよ。退屈していたし。ねえ、外であなたのお父さんの声がするけど、なにか悪いことでもしたの?」

「ちょっと、この銃でイタズラをね…」

「それで、この部屋に逃げてきたのね」

「そういうこと。父上と僕は折り合いが悪い。僕の夢をくだらないって、夢想だって言うんだ」


少年にとって、父親の存在は偉大だ。しかし、エリックにとって、ダグラスは尊敬出来る父親ではない。ダグラスはパーティーで、己の戦果、殺した人数、破壊した町の数を、自慢げに語る。パーティー会場の大広間には、皇帝陛下からいただいた数々の勲章が飾られている。先祖代々、血塗られた一族…エリックはそんな自分の血統に、嫌気がさしていた。


「ふうん…あなた、夢があるのね」


ミリーは、エリックの深い苦悩などには興味がないらしかった。少し軽んじられた気がして、エリックは眉をひそめる。


「ああ、あるよ。でも、到底無理だ。父上が許さない」

「許さないって、夢を叶えるのに、許可なんか必要ないじゃない」

「簡単に言うけど…」

「夢を持てるなんて、幸せじゃない」


エリックは、ミリーの顔をじっと見つめる。


「君にだって、夢くらいあるだろう?」

「ないわ。だって、私、死んじゃうんだもの」




※※※




「それなら私がミリーに夢を見させてあげる、私の催眠術イリュージョンで…」と、エリックは呟く。


「こんどはなんだって?」と大家は問うが、エリックには聞こえてはいない。すでに、過去も現在も区別がつかなくなっている。




親たちの目を盗み、なんども彼女のもとを訪れた。彼女の実家の邸宅に忍び込み、花やプレゼントを渡しに行った日々。自らの能力で興行をする夢を語り、彼女にそれを体験させた。


「すごい、エリック!私がちゃんと歩いてる!全然体が痛くない、ちっとも疲れないの」


雲の上や、虹の橋。世界の果てまで、二人で冒険した。


「エリック、ありがとう。あなたと出会えて良かった。私、幸せよ…」


今でも彼女の美しい笑顔と涙が思い浮かぶ。




「…なのに、たったそれだけの望みなのに、どうして…」


大家は笑うのを止め、目の前の男を見つめている。本物の狂気を宿した、その瞳を。


「どうして寄ってたかって邪魔をする?


呪われろ。


呪われろ呪われろ呪われろ!


我が魔王の権威をもって命ず。

憎き妖精王と、その統治する人民に、死の呪いを!飢饉を、疫病を!!

そしてこの世界を地獄に変えよ!!

地獄へ堕ちろ!!!」


「は…わ…あっ、あっ…」


エリックの瞳の奥に住む魔王が、邪悪な魔力を解放する。足元の地面が割れ、そこから地獄の業火が、血に飢えた魔物どもの手が…


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーー!!!!」


大家は、魔物の大群に足を掴まれ、地獄の底へと引きずり込まれる。




※※※




「ところで、ライヒワイン。確かに倅はそう言ったのだな?自分には妻がいる、と」

「はい。砂漠で死にかけた時、遺言で」

「そうか…ならばもう手遅れかも知れんな」

「どう言うことです?」

「…それがこの眼力ちからの、最も恐ろしいところなのだ。

次は私が出向くとしよう」


ダグラスは馬車を用意させ、出かける準備をする。道中、ダグラスはライヒワインに語る。


「正直、俺はずっと倅を恐れていた。倅は、現実を歪曲させるほどの力を持っている。俺は時々、自分の記憶が信じられなくなる…そもそもやつは、どうやって俺の元から出て行った?この俺が許すだろうか?俺が勘当して家を追い出したと言う記憶は、果たして本物か?

おそらく、エリックはこの俺にも催眠をかけている。そうやって、自分の周囲に暗示をかけ続けた結果、もはや自分自身にすら、何が現実で、何が幻想か、区別がつかなくなってゆく…

それが、我が家系の呪いだ。この力を完全に覚醒させた者はみな、現実などどうでも良くなってしまうのだ。

俺はつくづくほっとしている。この程度の才能で良かった、とな」


ダグラスの眼力は、繰り返し何度も暗示をかけた相手でないと効き目が薄いし、同じ眼力を持つ親族には効かない。しかし、エリックは父親をも騙すことができる。


そして、自分自身さえも。




※※※




彼女の葬式に、彼女の親族はいなかった。生まれた時から余命を告げられていた彼女の親兄弟は、彼女を「初めから存在しない者」として扱った。ある意味で、それは彼ら自身を守るために、仕方のない事だったのかも知れない。


棺の淵にしがみついて大泣きする若い男を前に、金で雇われた泣き女や泣き男たちは、たじろぐしかなかった。


「嘘だ、嘘だぁぁぁぁぁ!なぜ、私を置き去りにするのだ、ミリー!!この世界では…人が殺しあったり、簡単に死んだりする…そんな現実ところで!


どうやって!?どうやって!?


独りで生きてゆけと言うのだぁぁぁぁぁ!!!!」




ミリーを失い、しばらくは酒浸りの毎日だった。自身の夢さえ、生きる希望にはならなかった。ミリーに会いたい。ミリーがいたからこそ、ミリーを喜ばせるためにこそ、今まで生きてこられたのに…


その時、酔いで朦朧とした意識の底で、声が聞こえた。


「独りじゃないわ」


エリックはテーブルに突っ伏した顔をあげる。


「え?」


声のする方向を見ると、そこには大きな「鏡」が。

声は話し続ける。


「あなた、言っていたじゃない。いつか、私が大好きな物語の世界に連れて行ってくれるって。今度は私があなたを連れ出してあげる。さあ…こっちに来て…」


エリックは声に導かれるまま、フラフラと鏡の前に立つ。


「鏡に向かって、目を凝らして…」


エリックは鏡に映った自分の目を見つめる。



催眠眼サイケデリック・アイ



すると、彼女の腕が伸び、彼の手を掴み、鏡の中のへと引きずり込んだ。


「こ、ここは…?」


鏡の中の世界に入り込んだエリック。

そして、そこには…


「ようこそエリック、鏡の国へ!」

「ミリー!」


エリックは泣きながら彼女抱きしめた。


「ああ、良かった、良かった…君が死ぬなんて、そんな残酷なこと…本当なわけがないもの。そうだ、ゆめこそが私の現実だ」




※※※




ダグラスの馬車が到着した時、すでにエリックのアパートはもぬけの殻。警察と探偵がおおかたの後始末を終えたところで、ダグラスは面会をしに刑務所まで赴く。


「あなたが身内の方ですか?すみませんが、面会の前に捜査にご協力願えませんか?」


ちょうど、探偵の男が来ていたので、ダグラスは話に応じる。探偵と、その助手と、ダグラスの三人は、近くの飯屋で話をする。


「我々は彼のアパートを家宅捜査しました。男の一人暮らしなのに、部屋の中は女の小物でいっぱいでした。病人用のベットが一つ置かれておましたが、使った痕跡がありません。そして、一番奇妙だったのが…鏡です。部屋の中は、異様な数の鏡でいっぱいだったんです」

「…なるほど」


鏡を使って自分に催眠をかけたのか。なんと愚かな…と、ダグラスは思った。


「息子さんはナルシスで、女装趣味でもあったんですか?」

「…いや、まあ、そう言うことにでもしておいてくれ。ところで、倅のやっていたサーカスとやらは?」

「ああ、それも調べました。彼は催眠ショーで生計を立てていたようですね。成功していたようですが、彼の仕事仲間の証言によると、舞台をすっぽかして突然いなくなったそうです。しかも、誰も彼の家や出身について、詳しいことを知らないと言うんです」

「日頃から、周囲の人間に催眠をかけていたのか…」


ダグラスは、息子ならやりかねない、と言った様子。探偵と助手は顔を見合わせる。助手が言う。


「つまり…この事件の真相はこう言うことですか?息子さんは天才催眠術師であり、大家である男に催眠術をかけ、狂い死にさせた…と?そんなこと、世間が信じるでしょうか?」


探偵が助手に言う。


「信じるも信じないも、恐らくその線で間違いない。なにせ、奇妙な死体だった。外傷もなく、毒も検出されず、ただ、この世のものとは思えないものでも見たかのような、恐怖と苦悶の表情…」


死体の顔を思い出すだけで身震いする二人。探偵は続けて言う。


「し、しかし、どうなるでしょうねえ?催眠術で人を狂い死にさせた場合、それは罪になるのか?なにせ、前例がありませんから」




刑務所の檻の中、エリックは空中に向かって何かを動かしている。そしてその口から、女の声と男の声が交互に聞こえてくる。


「そうよ、鏡の国ではね、全てのものが左右反対になるの」


エリックの左手には、見えないチェスの駒が。


「私がミリーを鏡の国の女王にしてやるよ!そら、チェックメイトだ」




格子越しに、ダグラスは自分の息子の成れの果てを見る。警察は言う。


「息子さんは見ての通り、気が狂っています。声をかけても通じません。どうします?保釈金を払えば、身柄をお引き渡しすることもできますが…」

「…いや、関係ない。たとえ牢屋から出しても、あいつはもう戻っては来ない。



倅は死んだよ」






END

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イリュージョニスト @sakai4510

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