第17話 望美とハーデス、初めてのキス(但し間接)

 ハーデスと山本はいつもの様に机と椅子をセッティングしていて、それに気付かなかった。自分の弁当と望美の作ったハーデスの弁当を持って一人歩いてきた美紀を見たハーデスは呑気にも尋ねた。

「あれ、日高さん、島本さんはどうしたの?」

「保健室に行ったわ。ちょっと頭が痛いんだって」


 美紀の答えを聞いたハーデスは、その頭痛の原因が自分にあるとは夢にも思わず、「風邪でもひいたのかな?」ぐらいにしか考えなかった。まあ、普通はそうなのだろうが。

「でも、ボクのお弁当は作ってくれたんだ。何か悪いなぁ」

 ハーデスの何の気なしの言葉だったが、美紀にとって、それは聞き捨てならない言葉だった。もちろん美紀も昨日ハーデスと優子が二人でプールに行った事を耳にしていたのだ。

「朝、学校に来た時は元気だったんだけどね。あの話を聞いてから元気なくなっちゃって」

 美紀はこの事をハーデスに言うべきか言わないでいるべきか悩んでいた。しかし、ハーデスの一言につい、口走ってしまったのだった。


「ボクのせいで……?」

 ハーデスの背中に冷たいものが走った。彼は美紀から弁当箱を受け取ると教室を飛び出した。


「島本さん!」

 ハーデスが向かったのはもちろん保健室。ドアを開けるなり彼女の名前を呼んだ。驚いた保険医の先生が口に人差し指を当て、静かにする様に注意する。

「すみません。あの……島本さん、来てますか?」

 謝りながらハーデスが尋ねると、望美は奥のベッドで横になっていると言う。彼はベッドに向かおうとするが、保険医の先生に制止されてしまう。


「こらっ、女の子が寝てるんだから悪戯しちゃダメよ」

 顔を見れば悪戯しにきたのかそうで無いのかぐらいわかるだろうと思いながらハーデスはなんとか留まった。

「ちょっと声かけてあげるから待ってなさい」

 言葉を残して保険医の先生は望美が横になっているであろうベッドが置いてあるパーテーションの向こうに姿を消した。


 保険医の先生の声が聞こえた。

「島本さん、大丈夫? 彼氏が心配して来てくれたわよ」

 おそらく気を利かして言っているつもりなのだろうが、今の望美にとっては酷な言葉である。パーテーションの向こうで誰かがベッドから起き上がる気配がした。


「古戸……君?」

 望美の声だ。だが、心なしか弱々しい声。一層心配になったハーデスが声を上げる。

「うん、ボクだよ。古戸。島本さん、大丈夫?」

「ごめんなさい、心配かけちゃって」

 望美の声がして、保険医の先生がパーテーションの向こうから顔を出し、手招きした。ハーデスは吸い込まれる様に望美の下に向かった。

「大丈夫そうだから、付いてあげても良いわよ。でも、添い寝なんかしちゃダメよ」

 言い残して保険医の先生は元の席に戻り、パーテーションの奥にはハーデスと望美、二人になった。


「あの……日高さんから聞いて……」

 保険医の先生が用意してくれたパイプ椅子に腰かけながらハーデスは何か言おうとしたが、うまく言葉に出来なかった。望美は悲しそうな顔で答えた。

「いいの。自分が悪いんだもの。私に勇気が無かったから。古戸君が優子ちゃんを選んでも誰も文句を言う権利は無いんだから」

 望美の口からはっきりと優子という名前が出た。やはり望美はハーデスが優子を選んだと思っているのだ。


「えっと……ボクが川上さんを選んだって言うのは?」

 ハーデスは不思議そうな声で言った。望美は昨日、ハーデスと優子が二人でプールデートしていた事がクラスの女子で噂になっていることをハーデスに伝えた。

「デートって……ボクは川上さんにプールの券が二枚あるからって誘われただけで……」

 世間一般ではそれをデートと言うのだが、冥界では違うのだろうか? ハーデスには優子とデートしたという認識が無いらしい。水着姿で密着までしていたというのに。


「じゃあ、優子ちゃんを選んだわけじゃ……?」

 聞こえるか聞こえないかの声で聞く望美にハーデスは答えた。

「正直、まだどうしたら良いのか自分でもわからないんだ。みんなには申し訳ないんだけど……」

 ハーデスの偽らざる気持ちだった。それにしても優柔不断な男である。よくまあこれで冥界の王が務まるものだ。いや、冥界の王として今まで様々な決断を余儀なくされていたからこそその立場を離れた現在、優柔不断とも取れる程の熟考を望んでいるのだろう。


「それで、よかったらだけど……」

 ハーデスはポケットから紙片を二枚取り出した。

「プールのチケットが二枚あるんだけど、一緒に行かない?」

 彼が取り出したのは二枚のプールのチケットだった。もちろん神の不思議な力で出した物だ。これで望美の笑顔は取り戻せるだろう。しかし、それでは優子の立場が無いではないか? 結局ハーデスは望美を選んだという事なのだろうか?


「うん。じゃあ、次のお休みに!」

 望美に笑顔が戻った。その笑顔を見てハーデスは安心した様に持っていた弁当箱を望美に示した。

「じゃあ、その前に今日はココで一緒にお弁当、食べようか。って言っても島本さんが作ってくれたんだけどね」


 一つの弁当を二人で食べようと提案するハーデス。しかし、箸が一膳しか無い事に気付いた。

「あの……古戸君さえ良かったら……一緒の箸でも大丈夫だよ」

 望美が顔を赤くしながら言った。本当は『あーん』して欲しかったのだが、そこまで言う勇気は無かった様だ。また、ハーデスもそんな事に気が回る筈も無い。


「じゃあ、島本さんからどうぞ」

 ハーデスが望美に箸を差し出した。それを受け取った彼女は少し考えると、ハンバーグを箸で切り、摘まみ上げるとハーデスの口元に持っていった。

「はい、あーんして」

 望美が勇気を振り絞って思い切った行動に出た。緊張しているのだろう、手が少し震えている。ハーデスは突然の展開に金縛りにあった様に動けないでいる。


「古戸君、嫌なの?」

 悲しそうな望美の声にハーデスはハンバーグを口に入れた。彼女はにっこり微笑むと、卵焼きを自分の口に入れ、次は何が良いか尋ねた。ハーデスがお握りをリクエストすると、一つ摘んで彼の口元に持っていく。ここで問題が発生した。お握りは一口で食べるには大き過ぎたのだ。ハーデスは俵型のお握りを出来る限り口の奥まで入れた。しかし、三分の二程しか口に収まりきらず、止むなく歯を立てて噛み切った。箸に残った三分の一になったお握り。望美はそれを思い切ってを口に入れた。


 もはや『ほっぺにご飯粒が……』どころの話では無い。ハーデスが「あっ」と反応すると、望美が真っ赤になり、恥ずかしそうに言った。

「これって……間接キス……だよ……ね……?」 

 何度も言うが、ハーデスにはペルセポネという妻がいる。妻帯者にとって間接キスなど他愛の無い行為の筈なのだが、望美のいじらしい姿と相まって、間接キスという言葉は凄まじい破壊力を持つ魅惑的な言葉へと昇華した。恐るべし、純情可憐な女子校生。ハーデスは、望美をその場で抱き締めたい衝動に駆られ、それを抑えるのに大変だった。


 そうこうしているうちに弁当箱は空になり、昼休みも残り時間が少なくなった。

「じゃあ、そろそろボクは教室に戻るね。お大事に」

 椅子から立ち上がったハーデスの袖を望美は摘んだ。

「待って、私も教室戻る」


 ベッドから立ち上がった望美はハーデスと並んで歩き出した。

「あら島本さん、もう良いの? やっぱり彼氏の顔が一番の薬なのねぇ」

 ハーデスの袖を摘んだままの望美に保険医の先生が羨ましそうに言った。

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