第27話 母の近況&女性と少年の美について

 Gは苦手だ。Gは嫌いだ。否。Gは恐い! 恐怖の対象だあああ!!


 奴らは何で夜行性なんでしょうね。お陰で夜寝る前にリビングで見てしまってまともに寝付けなくて死ぬほどしんどさ疲労感があります。


 多分、僕は虫恐怖症なんだと思う。虫を苦手とか嫌いという感情を超えて『恐い』と感じてしまうほどなんです。この感覚、なかなかGとエンカウントした際、迷わず苦悩せず戦いを挑める、或いはその辺を這っていても気にしない、という人には理解しがたい感覚かもしれないですね。とにかく恐い……自分の住処を自在に変えられて、尚且つそこで充分生きて適応できる能力さえあれば僕は遙か北方の氷の大地に行きたいぐらいです。日本国内なら北海道とかなのかもしれないですが、ここ20年ほどの異常気象。北海道ですら虫は結構いるのかも。


 まあ、北方に引っ越すと言っても現実問題としてクリア不可能ではあるんですがね。カナダとかアイスランドとか北極圏近くとかに行っても、それはそれで熊とかの猛獣に襲われそうだし。


 しかし、去年ぐらいまでは夏場は何故か気力、精神力が漲って活発に過ごせることが多かったので夏はそんなに嫌いじゃあなかったんですが…………母の大病の問題や酷暑による熱中症の危険、湿気で食べ物がすぐに腐る、電気代が激しく高い、戦争の歴史やお彼岸で気が滅入る、台風は頻繁に襲ってくる…………もはや夏は一年の中で大嫌いな季節となってしまいました。精々、夏の美点なんて『日盛りに干した洗濯物が瞬で乾く』とか『暑すぎてアイスや氷菓が異常に美味く感じる』程度じゃあないですかね。だが現実は非情なことに日本は今後春と秋の存在感が薄れ……一年中『夏ッ!!!!』か『冬ッ!!!!』という極端な気候帯になりそうですね。何処かの局のニュースショーでも『四季』が無くなって『二季』になってしまうとか絶望的なことも聞きましたね。



 夏の生命の危険に加えて虫恐怖症には地獄のような虫大量発生の時期なんてもんを考えれば、いっそ『もう一年中冬だけでいいよ!!』なんて言いたくなっちゃいます。少なくとも虫出ないし。雪国にお住いの人の苦労に対して失礼なことを言っているのは解っています。しかし夏場にここ数年散々な思いをした僕としては愚痴でも言わにゃやっとられんわけです。どうか悪しからず。




 話題を変えよう。


 母は相変わらず不安が高じると落ち着かなくなり、被害妄想も疑心暗鬼も激しくなってしまい、傍にいる僕を苛立たせてしまうのですが、心療内科から薬を変えて処方されたおかげか夜に眠れる確率が上がってきていて、気力体力がほんの少しは改善されたかな……と言う感じ。落ち着いて過ごせている時間もそこそこあるし。しかし母はずっと若い頃から潰瘍性大腸炎も長いこと患っているので、そちらも定期的に通院と検査をしないと油断が出来ない。明日は大腸の内視鏡検査で、母もやたら騒々しくて不快極まりない総合病院に行くのも精神的にパニックになると言うので、僕も休みを取って付き添います。大量の下剤を飲んで絶食せねばならん上に大腸内視鏡検査。母はもう随分前から憂鬱です。




 ……これも不快な話題だな。話題をさらに変えまして、今ハマっている作品など。(あと、エッセイだからつい気を抜いて文体が丁寧語になったり一人称的になったりするけど、作者が適当に書き散らしているだけなので気にしないでね)





 ――『魔女大戦~32人の異才の魔女は殺し合う~』。賭ケグルイなどで有名な河本ほむら先生原作、塩塚誠先生作画のバトルアクション、ダークファンタジー漫画だ。




 Fateシリーズ然りドリフターズ然り、歴史に名を残した偉人、有名人などがひとつの場所で時空を超えて一堂に会し、異能力で闘う…………そんな作品がここ十数年でかなり増えてきた気がする。実際、ある程度歴史上の人物について詳しいと安定して楽しめるジャンルだと思う。



 『終末のワルキューレ』の公式ライバル、と銘打つだけあって、作品の形式や特色がよく似ている。終ワルでは天界ヴァルハラという神々が住まう場所の闘技場内で神VS人類で総当たり戦で競い合い、人類存亡をかけて戦う……というものだが、魔女大戦ではフランスの英雄・ジャンヌダルクを筆頭に、悪魔たちの住まう魔界、サバト闘技場にて32人もの異能力に目覚めた『魔女』たちが己の悲願を叶える為にトーナメント形式でひたすら戦い抜く……というものだ。





 『公式ライバル』とは言うものの、作品形式を対比させている上に同じ漫画誌・コミックゼノンで連載しているのだから、実質ライバルと言うより助け合いでは? とも言いたくなるが、それも野暮な話か。実際、終ワルはマッチョなイケメン男同士の戦いに徹しているが、魔女大戦も肉体精神共に最も全盛期の状態で若く美しい美女同士の戦いだ。




 女性の恐ろしさ、強さ、美しさを描いている様子を見て、ここで読む度に僕なりに性別について思うことがある。





 既に以前のエッセイでも書いた気がするが、この地球上には元々生命体は女性(雌)しかいなかった。





 男性(雄)とは生命が突然変異などの環境の急激な変化に適応する為の生命の遺伝的策略。云わば『保険』のようなものに過ぎない、というのが生物学的な説だ。





 ジェンダーについてああだこうだ、と叫ばれ未だ人類社会で議論が熟していないのが現状ではあるが、僕は女性こそが生物として、人間としての完全体だと思っている。





 現実社会ではまだまだ男性優位、男尊女卑な傾向が全体的に強いが、真に人類社会を回しているのは太古の昔から女性である。農耕牧畜を行ない、子を産み育て、苦境に耐える精神性も強く、他者とコミュニケーションを取る。男性が勝っているところなど精々、腕力や体力程度なのではないかと思えて来る。




 それを象徴するかのように、生命が男性を決定づけるY染色体は女性を決定づけるX染色体に比べ、非常に小さく脆く、今にも砕け散って無くなってしまいそうなのだ。





 こういった生命科学については論じ始めると長くなるうえ、まだ結論は出てない部分もあるので控えるが…………要するに女性こそ人類として完全な存在と思うのだ。





 女性は美しく、強く、賢い。男性は醜く、弱く、愚かで儚い。





 やや極論だが、僕自身はそういった認識だ。女性に対しては自分も含め我々男性は平伏して必要なものを貢ぎ、頼るほかない。





 ――だが、だからこそ、儚いからこそ、また違う視点で男性も美しいと感じることがあるのだ。





 近年、ジェンダーフリーが叫ばれる一方で、主にサブカルチャーなどの分野では女装男子であるとか、中高生ぐらいの人間として肉体精神共に未熟ながらも『少年美』『少年愛』とでも言うべき独特の美しさと儚さがある。




 女性は20代前後の花の盛りの時分を過ぎたら、如何にその『花の盛り』を長く持続するかに腐心し、実際持続出来る人は出来る。しかも精神性を成熟させながら。




 男性の艶やかで瑞々しい、少年美を伴った妖艶な肉体精神の美しさ、『花の盛り』は、ほんの一瞬のきらめきだ。歳を取るとどう足掻いてもそんな瑞々しさは消え失せ、男性としてはダンディズムとかジェントルマンとかまた違う魅力として見られることになる。




 まるで消えゆく儚いY染色体そのものの一瞬の時分の花。少年美は一瞬の輝きだ。




 僕自身はペドフィリアではないと思っているが、まごうことなきショタコンで、そういった少年独特の美しさ、儚さ、妖艶さも女性を拝むのとはまた違う感覚で尊ぶべき。そう思うのだ。




 少年よ。美しくあれ。それが一瞬のきらめきだ。




 女性よ、美しくあれ。それが人間としての完成された強さと賢さと心だ――――

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