第12話

 事務所に帰ってくるなり、コヅクエは何処だ、と所長の怒鳴どなごえが飛んできた。小さな机がいったいどうしたのか、そんなものがこの事務所にあった覚えはないが、と動揺するうちに、もしかすると横浜線よこはませんの駅のことではないかと思い当たった。

「ほら、ソリガチさんなら知ってると思った」

 白石しらいしさんはそう言って笑ったが、彼女は何故か私がなんでも知っていると、歩くエンサイクロペディア・ブリタニカとでも思っているようで、分からないことがあるとすぐに私に聞いてくるので、質問されるたびに冷や冷やさせられている。小机こづくえにしたところで、たまたま昔あのあたりによく行く機会があって辛うじて土地鑑とちかんが残っていただけなので、褒められるほどのことではない。それにしても横浜よこはまの地名で怒るとは一体どういうことなのか。

森永もりながくんがうちを辞めると電話で言ってきた」

 所長が憤懣ふんまんやるかたない様子でつぶやいた。ただ、そう言われても特に意外ではなかった。この1か月、森永さんが月曜に出社することはなく、今朝けさも私の隣がいているのを見て、たぶんこのままフェイドアウトしていくのだろう、と寂しく思ったばかりなのだ。それよりも、あの無口な森永さんが電話をかけてきた方が私には意外だった。もちろん話せないわけはないのだが、手紙を送ってくる方がずっと彼にふさわしい、と勝手にイメージを作ってしまっていた。

「どうして辞めるんですか?」

一身上いっしんじょう都合つごうとしか言わん。それでは辞めさせられないと強く言っても謝るばかりで、そのまま電話を切ってしまった」

 どうも森永さんらしからぬ行動、と言わざるを得なかった。そういう風に不義理ふぎりをする人とも思えないので、一体何があったのだろうか。

「突然辞めるのは仕方がない。人には都合というものがあるからな。だが、辞めるにしても辞め方というものがある。何故辞めるのかを面と向かってきちんと説明する、そういうけじめをつけることが何事においても大切なんだ。森永くんはできる男だと思うが、こればかりは許せん。とても我慢ならん」

 今まで見たことのない怒り方である。どうやら森永さんは所長の怒りのツボを押してしまったらしい。スマホで何かを調べていた白石さんが、

「駅からちょっと離れてますね」

 と言った。地図を調べていたようだが、もしかして。

「今から森永さんの家まで行くんですか?」

「ああ。出かけてくるから、戸締まりの方を頼む。横浜まで行ったら夜まで帰ってこれんからな」

「森永さん、留守にしているかもしれませんよ」

「行けばなんとかなるさ。心配いらん」

 この前秋葉原あきはばらの電気屋に一緒に出掛けた時でさえ足元が覚束おぼつかなかった所長が遠出とおでに耐えられるとも思わなかった。無謀むぼうが過ぎるのではないか。

「あの、僕は一応自動車くるまを運転できるんで、よければ横浜まで一緒に行きますよ。その前にレンタカーを借りてこなくちゃいけませんけど」

 所長が声を上げて笑った。

「心配には及ばんよ。足なら自分で用意できる」

 白石さんに何処かに電話するように告げると、所長はもう一度私の方を見てからゆっくりと話し始めた。

「いい機会だから言っておくがな。君は小栗栖おぐるすのことをまだ気にしているようだが、森永くんと違って、君はちゃんと私に頭を下げに来たじゃないか。それだけで十分だ。これ以上まだ何かを言うようなら本当にクビにするぞ。覚えておきなさい」

 そう言って老人は仕掛けたいたずらをまんまと成功させた少年のように笑った。思いがけずにいきなり優しくされると喜びよりも戸惑いの方が大きくなってしまうもので、私も素直に礼を言うことができず、黙ってうなずくことしかできなかった。大丈夫です、と白石さんがスマホから顔を上げてから言うと、所長は席を立ち、広々と空いた机の右半分に乗っていたボルサリーノの黒いレザーの帽子をかぶって扉へと向かった。ジャケットもやはり黒のレザーでその下にくすんだ白のカシミアのセーターを着ている。私は赤根あかねにマフィアだと思われてしまったが、それを言うなら今日の所長のいでたちは首領ドンにしか見えない。社員も社員ならトップもトップ、ということだろうか。白石さんもレモン色のもこもことふくらんだショルダーバッグを肩に斜め掛けして立ち上がる。

「それじゃ行きましょうか」

「なんだ君も来るのか?」

「当たり前じゃないですか。一人でおトイレも行けない人がどうするんですか」

「年寄り扱いするんじゃない」

「だって本当に年寄りなんだから。あ、ソリガチくん。私の机の上に鍵があるから、それで戸締まりをお願い。鍵は郵便受けに入れておいてくれればいいからね」

 年末にテレビでやっている漫才の大会に出たらわりといい線行くんじゃないか、と思えるやりとりをしながら2人は出て行った。この事務所で一人になることは滅多めったにないから、静かすぎてだいぶ違和感がある。さて、今日こそ机の整理をしよう、と椅子いすに座って引き出しに手をかけたところで護島ごとうさんが帰ってきた。私より先に昼休みを取りに外に出かけたはずなのにずいぶんと遅いと思っていたが、白い紙袋を抱えているので食事の後に何処かで買い物をしていたようだ。護島さんは何故か扉の前で目を見張って立ち尽くしていた。

「今まで誰が来てたんですか?」

「え?」

 質問の意味も分からなかったが、そもそも彼女が怒らずに私に話しかけてくるのが珍しいことなので、驚いて何も言えないでいると続けて質問が来た。

「私が戻ってくる時に、ちょうどこのビルの前から黒いリムジンが走っていったんですけど、あれには誰か凄い人が乗っていたんじゃないですか?」

 このビルの前は狭い通りなので、リムジンもよく入って来れたものだと思ったが、それはともかくとして、誰が乗っていたのか見当はついていた。

「たぶんそれには所長が乗っていたんだよ」

「え?」

 今度は護島さんが驚く番だったが、私の方でも所長の言っていた「足」の意味が分かって内心でひそかにふるえていた。うちの所長は正体不明にも程がありすぎる。白石さんが考えているようなテディベアどころか、村を全滅させたヒグマだと考えた方がずっと的確だ。ともあれ、まだよく分かっていない護島さんに向かって一通りの事情を説明することにする。聞き終わった後で、

「ああ、そういうことですか」

 と言いかけた護島さんの顔が突然厳しいものになって、ずかずかと歩き出すと自分の席へと戻っていった。座るときに勢いをつけすぎて椅子のキャスターが床とこすれて音を立てる。どうも私と自然に長めの会話をかわしてしまったのに気付いて慌てているように見えた。敵国の捕虜ほりょとうっかり打ち解けて話をしてしまったのを上官に見咎められた看守かんしゅがとりそうな態度だ、となんとなく思う。この場合、看守と上官は彼女の一人二役ということになるわけだが。

 やっぱり嫌われているのか、と思ったが、それでも最近では護島さんの態度は軟化しているように感じていて、怒られるにしてもそこまできつくはなくなったし、だいぶ普通に話せるようになってきていた。何故かまだ挨拶はしてくれないので、階段で聞こえたのはやはり幻聴げんちょうだったのかもしれない。いつの間にか彼女の中で私に対する理解が進んで、それが態度をやわらかいものにしている、そのように感じられた。それで私が嬉しいかというと、実はそうでもなくて、むしろ不愉快に近い思いをしていた。勝手に私を嫌っておいて、勝手に私を分かったつもりになって、全部君の勝手なのか、と言いたくなるのだ。升目ますめを全部埋められたクロスワードパズルも今の私みたいに不満たらたらになるのかもしれなかった。だからといって、文句を言うのもおかしな話で、結局私にできることは何もないようだった。一方的に怒られていた時の方がまだ楽だったかもしれない、そんな風にまで考えてしまう。

 同僚との付き合い方に悩むのをやめて、机の整理を始めようと引き出しに手をかけたその時、

「小栗栖って誰なんですか?」

 と横から声が飛んできた。横目で窺うと、護島さんは私の方を見ずにさっき持っていた紙袋の中身を机の上に並べていた。事務所で使う文房具の買い出しに行っていたらしい。

「私の話、聞こえませんでした?」

 声が冷たくなる。怖い。その一方で、やっぱり護島さんはこういう人なんだよ、と何処かで納得している自分が悲しい。それにしても、どうしてここで小栗栖の話が出てくるのか。

「もしかしてなんだけど、さっき、僕と所長が話しているのを聞いていた?」

「そんなわけないじゃないですか」

 一刀両断いっとうりょうだんされる。短時間で続けて小栗栖の名前が出るなんて偶然の一致とは考えられない、と思ったからそう質問したのだが、世の中には偶然の一致というものはれっきとして有り得ることなのだ、と納得するしかなさそうだった。

「どうしてそんなことを聞くのかな?」

「所長とよく話しているじゃないですか。“小栗栖の時は迷惑をかけてしまって”と何度も何度も謝っているから、一体何なのかと」

「それは悪かったけど、護島さんが興味を持つようなことじゃないよ」

 護島さんが手にした両面テープから目を離して私をにらんできた。今日も瞳ははしばみ色だ。

「別にあなたに興味があるわけじゃないです。なんとなく見ていたクイズ番組でも“正解はCMの後!”と言われたら、CMが終わるまで待って答えを確認しないとイライラするのと同じです」

 私の場合、CMの間にザッピングしているうちに答えを見逃がすことがよくあるのだが、それを言うとますます軽蔑されそうなのでやめておく。

「いや、でも、君が入るだいぶ前の話だしね。それに実はさっき所長とも約束したんだよ。もう小栗栖のことで謝るのはやめるって。だから、君にももう迷惑はかけないから」

 それに私としても自分から打ち明けたい話でもなかった。返事を聞くと彼女は視線をまた机の上に戻して、

「ならいいです」

 と呟いた。何故か少し寂しそうに見えたので、なんとなく悪いことをした気になったが、私に落ち度があるわけではない。気合いを入れ直して、ようやく机の整理に取り掛かれる、と引き出しに手を掛けたところで、あることに気が付いてしまった。

 今、この事務所には私と護島さんしかいない。これは初めての状況だった。いつもは所長と白石さん、それに森永さんも一応は緩衝材かんしょうざいになってくれていたのだが、こうなると彼女と直にコミュニケーションをとることになってしまう。そして、気付きは連鎖れんさするようで、さらにもう一つのことに気が付いてしまった。さっき、彼女の態度がいきなり変わって席に戻ったのと、これもいきなり小栗栖の話を振ってきたのは、私より先にこの状況に気付いたからではないか、ということだ。護島さんも気まずいのだ。ただ、彼女も融通ゆうづうかない、と思うのは、それなら早引けしてしまえばいいのに、机に向かって買ったばかりの文房具を整理しているところを見ると、どうも定時まで帰るつもりはなさそうだった。おそらく学校をずる休みしたこともない、真面目な女生徒だったのだろう。かと言って、「もう帰りなさい」とも言えないし、私の方が先に帰るのもダメ人間のようでいただけない。護島さんの気を紛らわすために私に何かできること、と5分くらい色々考えた結果、やっぱりそれしかないのか、と私はあきらめとも決意ともつかない気持ちになっていた。

小栗栖敏太おぐるすびんたは知ってるよね?」

 護島さんが不思議そうにこちらを見た。かなり前の質問に今頃返事が来るとは思っていなかったのだろう。

「ほら、“物知り博士”と呼ばれていた評論家だよ。いつも白衣を着て、学者の帽子をかぶっていた」

「学者の帽子?」

「アメリカの学生が卒業式で空にほうり投げるやつ」

 ああ、と護島さんが頷いた。伝わったようでほっとする。

「深夜番組にもたまに出ていて、結構インパクトのある格好だから、見てたら印象に残っていると思うんだけど」

「分かりません。私、12時を過ぎてからはテレビを見ないんです」

 これは阿久津あくつにも言えることだが、テレビや雑誌にコンスタントに出ている評論家でも世間での認知度にんちどは案外低いものなので、護島さんが知らなくても無理はなかった。小栗栖はライターとして数多くのコラムを書いていたが、おじさん向けの週刊誌や18禁のエロ雑誌での連載が大半で、彼女がそれらを読んでいるとも思えなかった。

「10年くらい前にはゴールデンタイムの番組にゲストでよく出ていたこともあるんだよ。“痛快つうかいウラハラ世界館せかいかん”とか“HAHAHAハハハ! ハイスクール!!”とか」

「ありましたね。中学の頃に見た覚えがあります」

 私は大学生だった。彼女との年齢差を再認識させられつつも話を進める。

「事の発端は3年前にあるテレビ局で小栗栖を司会にしたバラエティ色の強いニュースショーをプライムタイムでやろうという話が持ち上がったことだったんだけど」

 以下に護島さんに説明した内容を要約しておく。何故そんな企画が出てきたのかというと、一人のプロデューサーが小栗栖を気に入ってぜひとも起用したいと前のめりになったことが原因だった。小栗栖はとにかく口の上手い男で、自分を大きく見せるのに長けていて、そのプロデューサーも酒の席でまんまと乗せられてしまったらしい。時事問題を小栗栖持ち前の毒舌で斬る番組にしよう、と提案したのだが、文筆業者ぶんぴつぎょうしゃとしては中堅に属しているものの、テレビではほぼ実績のない小栗栖をいきなり司会に起用するギャンブル同然の企画に躊躇ちゅうちょするスタッフが多数を占めていた。しかし、猪突猛進ちょとつもうしん型のプロデューサーは決意を曲げることなく、番組は実現に向かって動き出した。その準備作業の中で、企画の叩き台としてプロデューサーから小栗栖の著書を渡された一人の放送作家が読み進めているうちにどうしても違和感を拭えなくなり、「この人に関わるとヤバいんじゃないの?」と危険を感じるようになったという。ただし、違和感はあるものの、具体的にどこがおかしいのかを上手く説明することができず、それではプロデューサーが耳を貸すはずもなかった。困った作家が愚痴ぐちをこぼした相手が旧知の仲だった正岡まさおかである。テレビ業界に知り合いの多い彼はそれで小栗栖に興味を抱き、徹底的に調べてみたら面白そうだ、とまた別の業界関係者に、誰か調べてくれる人間はいないかたずねてみたのだという。

「それで、その関係者が僕のことを正岡に教えたわけだ。当時僕は小栗栖を起用しようとしていたのとは別のチャンネルのクイズ番組で臨時のバックアップをやっていた」

「バックアップって何です?」

「簡単に言うと、クイズの問題と答えに誤りがないかを確認する仕事。最近は間違いがあると視聴者からすぐに抗議が来るし、コンプライアンスが重視されるようになってバラエティ番組でも誤った情報を流すのは良くないと考えるようになってきたから、問題を考える人とは別にチェックする人も必要になっているんだよ」

「いろんな仕事をやっているんですね」

 そう言われてもあまり褒められている気がしない。いい年齢なのにふらふらしている自分への屈託くったくが彼女から反射されてきたようだ。

「僕の本業は調査員だったから、小栗栖を調べるのにうってつけ、と正岡には思われたみたいで、僕もバックアップよりは調査の方がやりやすかったから引き受けることにした」

「その時はうちの会社にいたんですか?」

「いや。まだフリーだった」

 護島さんが聞きたいことは分かっていたので、補足しておく。

「その正岡という依頼人が所長の数十年来すうじゅうねんらいの友人という話でね。初めて正岡と会った時に“同業者だから何かの役に立つかもしれない”と連絡先を教えてもらって、それでユニバーサル貿易の存在を初めて知った」

「それで小栗栖の調査を手伝って欲しい、と所長に頼みに行ったんですか?」

 首を横に振る。

「その必要はないと判断した。僕は一人の方がやりやすいんだ」

「でしょうね」

 彼女が納得したかのような表情を浮かべたので少し苛立いらだつ。だから何を勝手に私のことを理解してくれているのか。

「とにかく。僕は小栗栖を調べることにしたんだけど、プロフィールを調べただけですぐにおかしなことがたくさん出てきた。東京出身ということになっていたけど本当は利尻島りしりとうの出身で、高校時代に弁論の全国大会で優勝したというのはウソで、大学の夏休みを利用してヒッチハイクで世界一周したというのもウソだった。というより、そもそも大学には行っていない。それに、ある有名女優と交際していたというのもウソで、歌舞伎町かぶきちょうでからんできた愚連隊ぐれんたいを一人で叩きのめしたというのもウソだった」

「愚連隊って今でもいるんですか?」

 何故そこに食いつくのか。彼女と長く話すのは初めてだが、どうも調子が狂う。きっと相性が良くないのだろう。

「それだけでも問題だったんだけど、さらに困ったことに小栗栖の本をチェックしてみると、本に書かれた豆知識の中にウソが多く含まれていたのが分かったんだ。たとえば、“ジャンケンは織田信長おだのぶながが発明した”とか“テクマクマヤコンは古代ギリシャの言葉で犬のふんを意味する”とか」

「それ、本に書かれていたんですか?」

 目を丸くしている彼女に向かって頷いてみせる。

「残念ながら本当に書かれてた。そういう豆知識が小栗栖が司会の番組で紹介されていたら一体どうなっていたんだろうね。あと他にもパワハラ、借金、裁判沙汰、そういったトラブルを複数かかえていたのが分かって、それを報告書にまとめて正岡に渡して僕の仕事は終わった、はずだった」

 いきなり机の上に紙コップに入ったホットコーヒーが置かれた。

「どうぞ」

 護島さんは自分のコーヒーも入れてから席に戻った。今までなかったことが立て続けに起こる日だ。

「今までのお話だと所長に迷惑をかけていたようには思えないんですけど」

「実はもう迷惑をかけていたんだよ。ただ僕が気付いていなかっただけで」

 ここからは私にとって話しづらい事柄になる。コーヒーで口の中をいたところで舌が上手く動くわけではない。

「どういうつもりなのかよく分からないけど、正岡はテレビ局まで行って僕が作った報告書を小栗栖に心酔しんすいしているプロデューサーにいきなり読ませたんだ」

 護島さんもさすがに絶句しているようだった。本当にあの爺さんは何を考えているのか。

「親切のつもりだったのか、馬鹿にするつもりだったのか、それは知りたくもないけど、とにかく報告書を読んだプロデューサーは激怒してすぐに企画を無かったことにしてしまった。あと1週間遅ければ、本格的に動き始めていたらしいからギリギリで間に合った、とも言えるみたいだけどね。それはそれとして、正岡はもうひとつ困ったことをしてくれていて、小栗栖の調査をしたのが僕だというのもプロデューサーに言ってしまっていた」

「すみません」

 彼女が右手を顔のあたりまで挙げていた。手のひらと同じ高さにある顔がいつの間にか見慣れた怒った表情になっている。

「その正岡という人の依頼をこの前引き受けていませんでしたか?」

 この、私に詳しいな。そう思ったのが伝わったのだろうか、途端に狼狽ろうばいして、

「だから、それはあなたが所長と話しているのがたまたま聞こえただけです。所長と私の席が近いから聞こえちゃうんです。それ以外に理由なんてありません。というか、それより、どうしてそんな秘密を守れない人の依頼をまた受けるのか、そっちの方が問題じゃないですか」

 それからしばらく、小栗栖の調査の説明を中断してお説教の時間になった。彼女が怒るのももっともで、正岡の依頼を再度引き受けるのは自分でもどうかと思っていたので、反論のしようがなく、いっそリノリウムの上で正座せいざでもしようか、と思ったくらいだが、嫌味だと思われて余計に怒られそうなので実行には移さなかった。

「それでどうなったんです?」

 10分後、私を怒ったことなどなかったかのような口ぶりで護島さんは話の続きを聞こうとしていた。

「小栗栖には取り巻きがいてね。その連中が番組の制作が中止になったのを恨んで僕に報復しようとしてきた」

「秘密を守れないような人の依頼を引き受けるからそういうことになるんですよ」

 やはりまだ怒っていた。

「正岡もさすがに僕の連絡先までは教えていなかったから、取り巻きたちは自力で探し当てようとして、その結果、僕がユニバーサル貿易の人間だと誤解したんだ」

「どうしてです?」

 ここからは本当に自分の恥をさらすことになるので言いたくはないのだが、ここで終わりにするわけにもいかない。

「僕が悪いんだ。調査の途中で小栗栖と親しい業界人からどうしても話を聞く必要があったんだけど、その人が“フリーの人間の話は受け付けない”と言ってきた」

「いまどきいるんですか、そんな人」

「結構いるよ。権威主義けんいしゅぎというからば大樹たいじゅかげというか、そういうものはなくならないみたいだ。と言っても、はいそうですか、と引き下がるわけにもいかないから、そういう時はどこかの組織に所属しているふりをすることにしていた。もちろん全くの嘘を言うのはまずいから、多少はえんのあるところに所属していることにする。話を聞いた後で事情を説明すれば、今度は助けてやるからまた何かあったら手伝ってくれよ、という感じで大抵は理解してくれる」

「ギブ・アンド・テイクというわけですね」

 そう言った彼女の表情から話が始まってから常に見られた迷いとも困惑ともつかないものが消えていた。おそらく事情を察したのだろう。

「だからその時も軽い気持ちで“ユニバーサル貿易の人間だ”と名乗ってしまった。僕自身は縁はないけど、依頼人とは関係のあるところだから助けてくれるだろうと。そう思ったんだ」

 そこまで言うとしばらく口を開かずにいた。護島さんも先を急がせはしなかった。

「僕は居合わせなかったから後で所長と白石さんから聞いた話だけど、小栗栖の取り巻きのうちの一人がこの事務所にいきなり飛び込んできたらしい。そいつは“ソリガチというおたくの調査員のせいで大損をしたからその埋め合わせをしてから慰謝料も払え、さもないと訴える”と法律を持ち出したりしてあれこれ言ってきたらしい」

 あーあ、と護島さんが溜息を漏らしたのは所長を脅すという無謀な行為に出た取り巻きの愚かさを嘆いたものだろう。

「その様子だともう見当がついているみたいだけど、所長は全然慌てずに“ソリガチなどという者はこちらにはいない、何か勘違いをされているようですな”と取り巻きを軽くいなしてから、“さっき仰っていた法律の条文は私が記憶しているものと違うようだが”と取り巻きが音を上げるまでいちいち不勉強をあげつらったらしい。想像したくもない光景だよ」

「本当。おじさまを怒らせるなんて、馬鹿ですね」

 おじさま。おじさまって誰だ。話の流れからすると所長だとしか思えないが、今まで私の見たところでは、護島さんと所長はごく普通の上司と部下としか映らなかったのに、おじさまとは一体。護島さんは自分の口がすべったのに気付いていないようなので、突っ込んで訊くのも躊躇ためらわれた。この問題は後で検討することにしよう。

「えーと、それで。取り巻きはほうほうの体で退散したんだけど、所長は無断で会社の人間だと名乗ったソリガチなる若造に対して怒り狂っていた。“何処のどいつだか知らんが、街でったらたたっってやる”、正岡に電話でそう言っていたらしい」

「正岡さんが依頼人だって所長は知っていたんですか?」

 おじさまから所長に戻っている。本当に一体誰なんだ、おじさま。

「知らなかったそうだよ。正岡も所長に小栗栖の調査を依頼したとは言ってなかったそうだしね。所長が怒っているから正岡もその場では何も言えなかったんだけど、電話が切れた後で慌てて僕に連絡してきた。“ソリガチくん、君、殺されるよ”って」

 護島さんが顔を背けて窓の方を向いた。おそらく笑いをこらえているのだろうが、私にとっては今でもとても笑えない思い出である。というか、このも笑うのだな。

「そこでやっと僕にも正岡が秘密をばらしたことが分かった。“あんたのせいでそうなったんだよ”って言ってやろうかと思ったけど、僕のせいで所長に迷惑をかけてしまったのは事実だからね。すぐにこの事務所までやってきて頭を下げた。今でも覚えているけど、もう夕方になっていた」

「所長はなんて?」

「5分くらい黙っていたかな。感覚としては1時間、それ以上だったけど。その後で“ユニバーサル貿易の社員だと名乗ったのは本当か?”と訊いてきたから、“はい”と答えたら、“だったら今日から本当にうちの社員になりなさい。ここで働いて責任を取るのが君のやるべきことだ”と言われて、それからここで働くようになった」

 こうして話していても冷や汗が出てくる。嫌な思い出だ。吐き出して楽になるようなものではなく、吐き出した後で自分の胸の中にこもっていた代物しろものをしげしげと見つめるのをいられる悪循環あくじゅんかんにはまりこんだ気分になる。

「ちょっと気になったんですけど、小栗栖はそれからどうしたんです?」

 最低の気分からがれるためならどんなことでもしよう、どんな質問にも答えよう。

「番組が中止になった後も不運が続いてね。連載を持っていた雑誌が軒並のきなみ廃刊になったり、コンビを組んでいたイラストレーターが突然亡くなって単行本がキャンセルされたりして、ライターとしての活動が立ち行かなくなってしまった。その後は、ご当地とうちアイドルのプロデュースやちょっとエッチな川柳せんりゅうを詠むイベントを開いていたけど、今では紙芝居かみしばい屋に転職してワゴンカーで全国行脚ぜんこくあんぎゃをしていると聞くよ」

 かみしばい、と彼女が聞き慣れない言葉を小声で繰り返した後で訊いてきた。

「小栗栖がライターを辞めたのはあなたの調査が影響しているわけではないんですか?」

 予想はできていたが、実際に訊かれるとやはり気分は良くなかった。

「正岡にも同じことを言われたけど、たぶん違うと思う。調査の後でそうなったから、たまたま因果関係があるかのように見えてしまうだけの話で、僕が調査しなくてもいずれはそうなっていただろうね。トラブルをたくさん抱えていたうえに著作権の扱いもルーズで原稿の締め切りも守れずに編集者からも陰口を叩かれていた人だったから、時間の問題だったんだよ」

 それに出版業界は折からの不況で苦しい時期が続いていて、ライターを辞めたのは何も小栗栖一人ではない。だから、私が気にすることでは全くなかった。

 もう話すことはなくなってしまい、護島さんも訊くことはなくなってしまったようだった。いつの間にか日が暮れて、窓の外は暗くなり始めている。彼女の気を紛らわせて時間を潰す目論見もくろみは上手くいったみたいだが、それにしては精神的なダメージが大きすぎるような気がする。

「長い話になっちゃったけど、どうだった? 何か言いたいこととかある?」

 しばらく考えてから、

「特にありません」

 彼女は平坦へいたんな調子で答えた。人に延々えんえんと説明させておいてその感想はちょっと、とさすがに何か言い返さなければいけない、と思っていると、

「ソリガチさん」

 護島さんの口から出た名前が自分のものだと気付くのに少し時間がかかった。もしかして初めて呼ばれたのかもしれない。私を見つめているはずの彼女の顔を何故かまともに見ることができない。見てしまえば何かが決定的に変わってしまう、そういう予感に身体がとらわれていた。

「あの、私」

 スマホから流れる<ボンド・ストリート>が彼女の言葉を遮る。白石さんからだ。ごめん、とあやまってから電話に出る。

「ごめんねえ。今やっと終わったところだから」

 事務所で私たちに何があったのかを知るはずもない白石さんは出先で起こった出来事を逐一ちくいち説明してくれた。横浜までリムジンで出掛けた―やはりそうだったのか―所長と白石さんは、少し迷ったものの森永さんの自宅を探り当てることができた。アポなしの訪問に森永さんは驚いていたが、観念してユニバーサル貿易を辞めようとした理由を説明し始めた。彼は長年仕事をしながら病気の母親の介護かいごを続けていたのだが、いよいよ病状びょうじょうが思わしくなくなって片時かたときも離れられなくなってしまったので事務所を辞めることにしたのだという。話を聞き終わるなり所長は「どうして何も言わないんだ」と一喝いっかつし、君もお母さんも私が面倒を見る、と宣言したのだそうだ。それを聞いた森永さんはただ涙を流すばかりだった、と白石さんも電話の向こうで涙声なみだごえで言った。

「私たちもいけなかったのよ。もっと早く気付いてあげなくちゃ」

 私には返す言葉がなかった。ずっと隣に座っていても彼のことを何も知ってはいなかったし、知ろうともしていなかったのだ。

「でももう安心よ。森永さんはお母さんが落ち着くまで休めることになったし、所長さんがいい施設を探してくれるそうだから」

「それは何よりです」

 最後にもう一度事務所の戸締まりを頼んでから、白石さんは電話を切った。私に何か言いかけた姿勢のままで固まっていた護島さんに電話の内容を説明する。話を聞いていくうちに、彼女の中に秘められている優しさや思いやりが外へとしてきて、暖かな空気となって私の方へも伝わってきた。そういった良い感情が私へと向けられたことが全くないのは誠に残念ではあったが。

「それで?」

「はい?」

 護島さんが何かのクイズを突然出されたかのような表情でこちらを見た。

「何か僕に言いたいことがあるんじゃないの?」

 あ、えーと、とこれ以上分かりやすい逡巡しゅんじゅんはこの世に存在しない、と言いたくなるほど迷った後で、

「何でもありません。やっぱりいいです」

「いいですって」

「もう時間になったから帰ります」

 不自然なほどに急いで机の上に散らばった文房具を片付けてから、いつも持ち歩いている紺色こんいろのデニムのトートバッグを手に提げて出口へと向かう。事態の急変についていけない私が泡を喰っていると、扉の前で一瞬立ち止まって、

「お話ありがとうございました」

 と振り返らずに言うと護島さんはそのまま出て行った。乱暴に閉められたドアが大きな音を立て、いつもなら白石さんに「所長さんがびっくりして心臓が止まったらどうするの」と怒られるところだ。なんなんだよ、と思わず口をいて出ていた。今日の彼女は本当にどうかしている。

 そんな彼女と長い時間2人きりでいた緊張から解放されたのと、昔の嫌な記憶を思い出したことによる気怠けだるさがぜになって、私の頭と身体は制御不能せいぎょふのうの一歩手前まで来てしまっていた。帰ったらすぐに寝てしまった方がいい。事務用の椅子の背に身を預け、ブラインドの向こうで光り輝く夕陽を見ながら<悲しき街角>の間奏かんそうを力なく口笛で吹くと、静かな室内にそれは思いのほか高く響き渡った。

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