九章 狂喜

 ――御影を傷つけた。御影を傷つけた。御影を傷つけた。御影を傷つけた。


 ベッドの下でうずくまり、動けなくなった桜花の頭の中にはそればかりが回っている。御影が出て行った後、大きな泣き声が聞こえた。汚い感情を御影に叩きつけただけではなく、心も大きく傷つけた。


 あたりまえだ。あいつはぬくもりが欲しかっただけなのに、乱暴して怖がらせて混乱させ、そして抱きつくなと拒絶した。


 クズ。クズ。クズ。クズ。クズ。クズ。クズ。クズ。クズ。


 どんな小さな虫けらでも、食物連鎖で世界に貢献しているのに、自分は何も生み出さず、大切な者を傷つけるだけのどうしようもない、クズや虫けらよりも下等な人間。


 子供のころからずっと言われてきた。

 クズだと。邪魔だと。お前に価値なんかないと。幽霊みたいな顔、気持ち悪いと。近寄るなと。触っちゃったきたなーい。と。


 暴言を浴びせられて、暴力を浴びせられて。反撃したら退学になって。どこにも居場所はなくて、数少ない友達だと思っていた奴のところを転々としたけれど、そいつらはみんな迷惑そうで。


 あんたの顔は、繊細そうで綺麗だね。そういって逆ナンしてきた女がいたけれど、その女もすぐに、あんたってつまらない、なに考えてるかわかんない、いっつもキョドってて気持ち悪いよ。様々な暴言を浴びせかけるようになり、どこかに行ってしまった。

 誰からも必要とされない。誰しもが存在していることを邪魔に思う。


「あ」


 自分は、そんな生き物。


「ああああああああああああああああああああああああああああ――――」


 御影に出会ってから、御影がずっとせき止めてくれていた劣等感が、大波のように押し寄せてきて、それに飲み込まれる。押しつぶされて、息ができない。


 助けて。たすけて。たすけて。タスケテ。タスケテ。


 ――御影……!


 御影の笑顔が見たい。御影のわがままを聞きたい。おーかだいすき、と、恋愛の好きじゃなくてもいいから言って欲しい。


 それに、ずっと救われていたのに。


 なぜ御影のすべてが欲しいと思ってしまったのか。

 側にいてくれるという実感さえあればよかったのに。

 絶対に傷つけてはいけなかったのに。何があっても突き放すなんてことをしてはいけなかったのに。


「謝ら、なきゃ」


 桜花は覚束ない足で立ち上がる。

 土下座してでも謝らなきゃ。罵られたとしても謝らなきゃ。御影の笑顔が戻ってくるなら、どんな無様なことでも、なんだってする。


 部屋の外に出る。桜花の頭の中には人々の罵りが渦巻いている。早く御影を笑顔にしなきゃ、笑顔を見なきゃ、こいつらに食い殺される。 


 御影の部屋の前まで来て、ドアをノックする。返事がない。もう一度ノックする。返事がない。もう一度――

 予感に怖気が走る。慌ててドアを開ける。


「なんだ、これ」


 部屋の中に御影の姿はない。変わりに、窓が、夜の暗闇を見せているはずの窓の向こうが、昼の青空のような光景を見せている。


 怖気が桜花の背中を這い回る。窓の外の光景が何を意味しているのか分からないが、よくないものだと直感する。ゆっくりと、窓がひとりでに開いていく。桜花を誘うように開いていく。


 御影が部屋にいないのは、ここを通って行ったからだろうか。いや、こんな奇妙な現象に、御影一人が飛び込んでいくわけがない。誰かが連れ去って行ったのだ。


 誰か。決まっている。奴らしかいない。


 桜花は開いた窓の前に立つ。窓から零れる青い光を浴びる。光に体が溶け込むように飲み込まれていく。

 光に目を覆われ何も見えなくなる。しばらくして光が晴れ、視界が戻ってくる。

 空色がただ広がっている、何もない空間。その場所に桜花は立っていた。


 そして桜花の十数メートル先に、青年が立っている。頬のこけた、針金のような男だ。


「てめぇ……」


 桜花を瀬藤の組織に引き入れた男だった。瀬藤の息子でもある男。瀬藤が生き返りを望んでいる娘の、兄である男。


「待っていましたよ、桜花さん」


 青年が、微笑むでもなく睨むでもなく、感情の読めない表情のまま目を細める。

 それに対して桜花は瞳に殺意をたぎらせ、睨みつけた。


「てめぇが御影をさらったのか! この妙な空間はなんだ! 御影をどこに連れて行った!」

「ご乱心ですね。まぁ無理もないですが」

「ざけんな、早く答えろてめぇ!」


 青年は目を細めた無表情のまま、親指で自分の後ろの空間を指した。


「ここは御影さんの空間移動の能力を、無理矢理引き出して作った異空間です。あの研究所にたどり着くように空間をつなげてあります。御影さんを連れ戻したいのなら、奥へと進めばたどり着きます」


 桜花は顔をしかめた。御影の能力を無理矢理引き出した? 異空間?

 いまいち飲み込めないこともあるが、今はどうでもいい。進めば御影を助けに行ける。それだけでいい。


「ああ。僕の魂を抜き出して殺そうとしても無駄ですよ。僕も同じ力が使えるんです。その力を捻じ曲げて、分散させる方法も知っている」


 言葉を無視して桜花は力を青年に向ける。だが柔術で華麗に投げ飛ばされたような、奇妙に曲げられた手ごたえだけを残して霧散する。


「ほら。言ったとおりでしょう? ああ、それから、そこから動かない方がいいです。ここの空間のすべてに、魂を捕らえる罠を仕掛けてありますから」


 言われて地面を見てみる。空色の床に、うっすらと意味の分からない模様が敷き詰められている。見たことのある模様だった。魂に関する本に載っていた、魂を捕獲するための力の塊を示す模様だ。普通の人間には見えないのだろうが、霊力を持つ自分だからうっすらとでも見えるのだろう。

 ここに足を踏み入れれば確実に死ぬ。御影を助けに行けなくなる。


「正直、うまく行くとは思っていませんでした。今回のことは、ほとんどが僕の単独での行動でしたから。御影さんに会い、あの犬――モココに御影さんの空間移動能力を無理矢理引き出すための術を施した。その反動で一度は死んでしまったようですが、体はあなたが生かしてくれた。だからこの空間を作れた。御影さんはモココとのことで僕を信用してくれていたようで、自然に僕についてきてくれた。そして今あなたがここに足を踏み入れてくれている。うまく行き過ぎて、少し怖くなるくらいです」


 桜花は苦い表情で舌打ちする。また御影をさらいに来るのならば、以前のように外から襲撃してくるものだとばかり考えていた。だが自分の能力で殺され、御影の能力でどこか分からないところへと飛ばされるなどということが起これば、他の対策を考えないわけがない。もっと様々なことに警戒するべきだったのだ。


「あなたはここで殺します。もうすぐ妹が生き返るのに、邪魔されるなんてとんでもない。それに生き返っても、御影さんの復讐だ、とか言って殺されるのはあってはならないことですからね」


 眩暈がして、桜花は膝をつく。全身に力が入らない。


「とか何とか言ってるうちに、桜花さん、罠にかかっちゃってるんですけどね」


 息が上がる。何かに押さえつけられているかのように頭が重くなる。手を地面につく。顔を地面に近づけて初めて気づく。回りに展開されている模様以上にうっすらと、足元に模様が描かれていることに。


「そこに立ち続けていると、徐々に気力を奪われていくんです。魂を抜くんじゃなくてね。体をさいなむことができる。そして徐々に死に向かっていく。この術も、モココにかけた無理矢理に人の能力を引き出す術も、元々は僕の術じゃなくて、教えてくれたおじいさんがいるんです。不思議ですよね。何で教えてくれたんだろ」


 不思議なおじいさん、と聞いて、桜花はあの本屋の店主を思い出した。あのペンションを提供してくれた人物を思い出した。なぜそんな人間たちのことを思い出すのか。だが今はその違和感の意味を探っている場合ではない。


「正直、御影さんに会うまでは、迷っていたんですよ。いくら妹が大事だからって、生き返らせるために人を犠牲にしてもいいのかって。今までは、まったく知らない他人だったから非情になれていたんだって思って。でもそれじゃいけない気がして、御影さんに会ってみたんです。自分は妹のためにこの娘を殺せるかって。会ってみて、本当に可愛くて、本当にいい娘だなって思った。だけど、妹を生き返らせなきゃっていうのは止まらなかった。妹を生き返らせたいというのが、何よりも強い気持ちだと実感したんです」


 青年はどこかすがすがしい表情で、唇にうっすらと笑みを浮かべている。どこか、開放感に浸っているような、どこか歪んでいるような笑みを浮かべている。桜花は力の抜ける体をかろうじて引き起こし、青年の顔を睨み続ける。


 ――そうだ、そのままべらべら喋っていろ。得意げに、えらそうに、不幸自慢でも何でもしていろ。


 ――地面の下から、ゆっくりと進め。気づかれないようにそっと動け。


「真に人を生き返らせる、神だか魔神だかのそんな存在、お前本気で信じてんのかよ」

「あははは。変な事を訊きますね。妹は何をしても全然生き返ってくれないんですから、少しでも可能性があるなら、試すに決まってるじゃないですか」


 ――何でもいい。話を引き伸ばせ。悟られないように。


「もしも妹が生き返って、自分のために人間がたくさん犠牲になったって知ったらどう感じると思ってる」

「教えませんよ。一生涯秘密にしていきます。ずっと病気で眠っていたってことにすればいいんです」


 ――もう少し。もう少しだけ……。


「……くっ!」


 桜花の体からさらに力が抜けていく。かろうじて上げていた頭も上げられなくなる。このまま寝そべって眠ってしまいたくなる。

 青年が、柔和な笑みを浮かべる。


「もうそろそろ限界のようですね。おやすみなさ――」


 ――行け。


「い……」


 青年の背後に、青年よりも大きな体の、狼のような獣が二本足で立っている。その獣が口を開き、青年の頭を咥える。獣が咀嚼する。青年の体が崩れ落ちる。獣が喉をならして飲み下す。床に倒れた青年の体には頭がついている。獣が不満げに、口の周りを舌で舐める。


 青年の魂を獣が喰ったのだ。術者が死んだからか、床に広がる模様がすべて消えていく。


 桜花は拳を握る。抜けていた力が戻っていることを確認して立ち上がる。

 獣が桜花の方を見ながら、舌を出して尻尾を振っている。初めてまともに使ったのに、よくちゃんと仕事をしてくれたと思う。


 魂に関することが載っている例の本に書かれていた、動物を生贄にして、その動物を使役する方法。それに従って、野良犬を生贄にし、使役獣にした。

 昔の自分ならば動物を殺すことにも抵抗を覚えただろうが、すでにそんな感情はなくなっていた。御影を守れる確率を上げることを最優先に考えた。


 もっと強い動物が手に入ればよかったが、そう簡単に強い動物が見つかるわけもなく、何匹かの野良犬の魂を集め、一番強そうな大型犬を使役獣にした。しかし想像以上に成長してくれ、今、想像以上の成果をあげてくれた。


 霊体なので床の概念は関係なく、床の下を移動して獲物の後ろに回りこみ、うまい具合に仕留めた。

 使役獣になったとは言え、元は犬なのだから指示した事ができたら褒めてやるのがいいのだろうかと、桜花は獣に近づく。

 すると獣はもう一度、口の周りを舌で舐め、声を発した。


「オレ、モットクイタイ」


 桜花は軽く目を見開いて、獣を見つめる。


「お前、喋れたのか」

「モットクイタイ」


 コクコクと頷くように、獣は大きな体を何度も揺する。それを見て、桜花は微かな笑みを唇に浮かべる。そして空間の奥を指差した。


「あっちに進めば、いくらでも喰っていい人間がいる。思う存分喰えばいい。ただし、間違っても御影だけは喰うなよ?」


 獣はまた頷くように体を何度も揺する。


「じゃあ、行くか」


 桜花が空間の奥へと歩き出す。それについて、普通の人間には不可視の獣も歩き出す。


 空間が、空色から白へと変わり、白に包まれて何も見えなくなる。そして視界が開けると、コンクリートがむき出しの殺風景な廊下に出る。

 人の気配がしたと思ったら獣が素早く動き、廊下の角を曲がる。数秒の後、角から見張りらしき男が、死体となって転がり出てくる。


「は? は? あ?」


 角の向こうにもう一人、見張りがいるのか混乱した声が聞こえる。が、声はすぐに聞こえなくなり、人の倒れる音が響く。


「マダマダ、モノタリナイ」


 獣は言って廊下の奥に進む。進んでいくうち何人かの見張りに遭遇したが、不可視の獣に気づく者は誰もおらず、何の抵抗もできずに死んでいく。誰かが異常に気がついたのか非常ベルが鳴らされる。


 例の、魂を引き抜く力を封じるガスが、辺りを包んでいくが、獣はものともしない。

 ガスの中でも獣は人の魂を喰い、進んでいく。武装した護衛たちが混乱していた。このガスの中にいれば魂が抜かれるはずはないと思っているのだろう。ならば何が原因なのかと考え、わけが分からなくなったのか、怯えた悲鳴を上げながら、何もいない空間に銃を乱射している。

 銃弾は獣の体をすり抜けていく。嬉しそうに人間の魂を貪っていく。


「はははっ」


 桜花は小さく笑い声を上げる。

 瀬藤の施設を壊滅させるなど現実的ではないと考えていたが、簡単ではないか。


 そうだ全部殺せばいい。そうすれば御影の敵はいなくなる。ずっと一緒にいられる。怯えて暮らすこともない。それがこんなに簡単なことだったとは。


 今まで自分が誰にも必要とされない人間だったのは、この能力を持つことの代償だったのではとさえ思えてくる。心が高揚してくる。御影を傷つけるために存在しているカスなどすべて死ねばいい。俺にはその能力がある。


 いくつか階段を上ると、壁に奇妙な回転扉があるのを見つける。それをくぐると、絨毯が敷かれ、シャンデリアがぶら下がり、長いテーブルのある、食堂らしき部屋に出た。大きな振り子時計が扉の役割をしていたようだ。


 相変わらず武装した護衛が攻撃をして来たが、すでにガスを放つ手榴弾は弾切れのようだった。腹が膨れてきたらしい獣に変わり、桜花自身が護衛たちに手を下した。


 魂を引き抜きかけた状態ですん止めし、苦しみを与えて御影の居場所を吐かせる。吐いたら魂を引き抜く。そうやって御影の居場所を探す。

 桜花の顔は彼自身でも気づかぬうちに、満面の笑みに塗られていた。魂を引き抜くたびに気持ちが昂ぶっていく。


 護衛たちが言っていた扉を勢いよく開く。寝室にしては恐ろしく広く、白いレースの天蓋つきのベッドがある部屋だった。

 ベッドには見たことのない少女が寝かされている。まだ十歳前後の幼い少女だ。あれが瀬藤の娘なのだろう。


 そのベッドの前には男が三人、ひざまづいている。両端の二人はこちらを振り向き、驚愕の表情を浮かべている。もう一人、真ん中の一人は、扉が乱暴に開かれた音さえも聞こえないのか、一心不乱に祈りを捧げている。瀬藤寛之だ。


 ベッドと男たちの間の床の上に、花が敷き詰められており、中心に、着替えさせられたのか赤いドレスを着た御影が寝かされている。捧げ物のように。


 その側には赤い宝石のついた、神秘的な雰囲気を纏う銀色に光るナイフが置かれている。

 祈りが終われば、あれで御影を殺すつもりなのか。

 こちらを向いた二人の男が怯えた表情で後ずさる。瀬藤だけがこちらを向かない。


「見逃してくれないか?」


 瀬藤が、身じろぎもしないでこちらに話しかけてきた。

「女など、他にいくらでもいるだろう。私ならいくらでも女を提供してやれる。もっと美しくて愛らしい、君の納得する心を持った女をつくってもいい。しかし、私にとってその女は他の誰とも変えることのできない、娘にとって必要な存在なんだ。娘を生き返らせるために、また娘に会うために、また娘と言葉を交わすために、どうしても必要な存在なんだ」


 動くと儀式が台無しになるのか、頑なに動こうとせず、熱を帯びた口調で瀬藤は語った。それを桜花は冷めた目で見る。

 そして


「喰え」


 と短く獣に命令する。

 三人ともなすすべなく喰われ、倒れていく。


「は、ははははははっ」


 桜花は静かに笑った。

 死んだ。元凶が死んだ。これで何も怯えずに御影と暮らせる。ざまぁみやがれ。


「あはははははははははあははははっはあはははははは!」


 死体に向けて嘲笑を爆発させる。腹が痛くなるまで笑った。

 やってやったと晴れやかな笑みで、眠っている御影に近づく。桜花は敷き詰められている花を踏みつけて、御影の側にたどり着く。

 しゃがみこみ、御影を抱き起こす。


「御影! おい、御影!」


 声をかけながら体を揺すると、御影はゆっくりと目を開いた。


「よかった、御影!」


 嬉しさに任せて御影を胸に抱きしめる。御影は現状をよく理解していないのか、抱きしめ返すことも忘れて呆然としている。


「おーか?」


 御影がポツリと呟く。御影を胸から離して桜花は自分の顔を御影に見せる。


「そうだ。迎えに来たんだよ」


 御影は桜花の顔を見て、疑わしげに眉を寄せる。


「ホントウに、おーか?」

「あたりまえだろ」


 喜びで弾んだ声で言うと、御影の顔が嫌悪感一色になる。


「ウソだもん! おーかはそんなこわいカオ、しないもん!」


 叫んで、御影は桜花の腕を弾いて後ずさりする。


「……え?」


 怖い顔? そんなはずはない。初めてじゃないかと思えるくらいの晴れやかさが、胸に広がっているのに。笑顔になるのが止められないくらいなのに、怖い顔をしている?


 後ずさりしていく御影の後ろに、姿見があるのに気づく。そこに映った自分の顔。

 狂喜が張り付いている。笑顔が狂っている。笑顔から血の臭いがする。死に酔っているような、笑み。


「え? あ?」


 戸惑うが、鏡に映る笑みは変わらない。これが本当に自分の顔なのか分からなくなる。心の中ではまだ瀬藤を殺した高揚感がくすぶっている。

 御影は部屋の隅で丸くなり、震えている。


「おーか……。ホントのおーか、どこ? たすけて……」


 そう呟いている。

 桜花は自分の顔をまさぐる。どうにかしてこの笑みが消せないか。狂喜が消えないか。試行錯誤する。しかし焦れば焦るほど笑みはどんどん歪んでいく。


「違うって。ホントに俺なんだって。助けに来たんだ、信じてくれ」


 焦りに突き動かされて御影に訴えかける。が、御影は大きく首を振り拒絶する。「やだ、やだ!」と呟きながら、腰が抜けているのか這って扉に向かおうとする。桜花が追いかけようとするが、余計に悲鳴を上げられる。


 扉にたどり着いた御影は上半身を起こしてドアノブに手をかける。その時、黒い影が御影を包み込んだ。

 桜花の顔から消せなかった笑みが消え、驚愕に塗り変わる。

 何もない空間から現れたように見えた。そいつが御影を後ろから羽交い絞めにしている。こちらからは背中しか見えない。


「いやあ! おーか、おーか、おーか、おーか!」


 御影は精一杯に暴れたが、男はびくともしない。御影は桜花に助けを求めているが、こちらに呼びかけている風には聞こえない。おそらくは、御影にとっての“本当の桜花”を呼んでいる。


 助けなければ、助けなければ。頭の中はその言葉が回っている。しかし自分は本当に桜花なのか、自分でも分からなくなってくる。ただただ御影に拒絶されているだけの、クズ人間なのではないかと思うと足がすくんでしまう。


 そんな思考をかき消すような、盛大なため息が聞こえた。御影を羽交い絞めにしている影から聞こえる。発された声は、大人びているがどこか無邪気だった。


「俺様を生贄なんかで呼び出せるとか、とんだ浅はかな考えだよね。バカなのかな人間って」



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