八章 いざなわれる

 絶対に変だ。御影は思う。


 元気になってからのモココは絶対に変だ。ご飯は前の倍近くは食べるようになったし、あんまり一緒にはしゃいでくれなくなった。よくじゃれついていたミクちゃん――オーバーオールを着てみつあみお下げのぬいぐるみ――にも全然じゃれなくなった。なんだかモココじゃないみたい。


 桜花もなんだか変だ。と思う。


 頭を撫でてくれなくなった。抱きついても抱きしめ返してくれなくなった。それどころか、なんだかできるだけ早く離れたがってるような気さえする。


「ねぇ。きのせいかな? モココはモココだよね?」


 餌を食べた後、ソファの上で眠ってしまった犬を撫でながら、不安を口にする。もちろん返事はない。返事があっても犬語は分からない。


 テレビでジェシカちゃんが始まる。いつもおなかが痛くなるほどに笑っていたのに、なんだか笑えない。

 桜花が隣に座っていないからだろうか。黄色と黒のチェック柄のワンピースで包まれた自分の体を、自分で抱きしめる。


 テレビは途中だったが電源を切り、ソファから立ち上がる。二階に上がる。桜花の部屋のドアをノックなしで開いた。


「おわっ! 御影!」


 ベッドに座って本を読んでいた桜花が、驚きの声を上げながら顔を上げた。


「おまえなー。ノックってちゃんと教えただろ? 前はちゃんとできてたのになんで――」


 桜花の言葉を無視して御影はベッドに――桜花の隣に腰掛ける。桜花の手を握る。


「御影?」


 桜花の顔が、困った表情になる。やっぱりあたしのこと、嫌になったのかな。御影は思う。それでも、御影はつないだ手の力を、少しだけ強める。


「御影、どうし――」

「モココもおーかもヘンだもん!」


 涙声で叫んだ。


「あたしは! おーかのこと、だいすきで、ぎゅってしてほしいって、おもうけど。でも! おーかが、あたしのことキライになったってゆうんなら、ちゃんとゆってほしいもん!」

「んなっ! んなわけね――」

「じゃあなんで、ぎゅって、してくれないの?」


 桜花の目があちこちへと彷徨っている。御影はそれを、涙が零れる瞳で見ている。やがて、桜花の手がゆっくりと伸びてきて、抱き寄せられた。御影は目を閉じて、桜花の体の暖かさを全身で感じる。


「キスもしたい」


 不安を吹き飛ばして欲しかった。モココも桜花もどこか変だという違和感が、すべて気のせいだと思わせて欲しかった。無性に愛情の証が欲しかった。


 一度、桜花の御影を抱きしめる力が強くなる。そして少し体を離した。桜花の瞳はどこか迷っているように見えたが、やがて、顔が近づいてくる。


 唇が頬に淡く触れる。


 それだけではまだ、心に不安が吹き荒れたままだった。御影は潤んだ瞳で桜花を見つめる。


「おうじさまのキスがいい」


 桜花は御影から目を逸らし「それは……」と言葉を濁す。


「いや……?」


 桜花を見つめる御影の瞳に、不安の色が濃くなっていく。それを見た桜花の顔にも不安が浮かぶ。やがて、桜花の手が、御影の頬に添えられる。

 唇に、あたたかさが触れる。しばらく触れるだけだったあたたかさは、やがて唇をなぞり始める。角度を変えて、何度も触れてくる。


 心地よくて、心が満たされていく。不安がどんどん消えていく。


 御影からも唇を押し当てていく。前歯があたって、小さく音がなった。薄く目を開けて桜花を見ると、桜花も薄く目を開けていた。なんだか恥ずかしくなって、御影は照れ笑いを浮かべる。


 また桜花から触れてくる。今度は何かが唇をこじ開けてきた。熱いものが入ってきて、舌と絡まる。


 ――なにこれ?


 驚いて離れようと思ったが、頭が固定されていて動けない。熱いそれは口の中を激しくかき回していく。


「……ん……ん……!」


 固定された頭はそのままに、体を押され、ベッドの上に寝かされていく。

 そして桜花の手が御影の胸のふくらみに触れ、柔らかく押しつぶしていく。


「んーんー! んーんんーー!」


 何をされているのか、次は何をされるのかが分からなくて怖くて、できる限りの悲鳴を上げた。

 気がつくと胸からも唇からも桜花は離れていた。御影の上にいたはずの桜花は、ベッドの下でうずくまっている。


「おー……か?」


 うなだれて丸くなった背中に恐る恐る声をかける。桜花の肩が震える。


「俺……ごめん。俺……変なんだよ……」


 桜花は手で顔を覆っていて、声は涙声になっている。


「お前を傷つけたくないのに、傷つけることばっかり考えてるんだ」


 御影は起き上がって、ベッドの下に、桜花の隣に座って、桜花の顔を覗き込もうとする。


「ごめん。どうゆうイミ?」


 桜花は覗き込む御影の視線から逃げるように、顔を背ける。洟をすするような音が聞こえた。


「触られたら、今やったのよりもっと酷いこと、したくてたまらなくなる……」


 桜花の涙声は震え始めて、それをすることがとても怖いことだと思っていることはよく分かった。けれど御影には、その怖いことがなにかよく分からない。


「こわかったのは、ビックリしたからだよ。そうじゃなきゃ、あたしがおーかをこわいなんて――」

「それ以上言わないでくれ!」


 叫び声に、御影は体をこわばらせる。


「そうだよ、御影が怖くないって思うのは、俺が何したいか分かってないからだよ。俺は! お前とヤりてぇんだよ! めちゃくちゃヤりてぇんだよ! ヤりてぇって意味わかるか? わからなかったらこれ以上、俺に抱きついたりとかしないでくれ!」


 どういう意味だろう。やりたいって何をだろう。何かをやりたいから抱きついちゃダメってどういうことだろう。

 桜花の言うことは全部分からなかったが、これ以上訊いたらさらに怒らせる気がして、さらに泣かせる気がして、御影は静かに立ち上がる。


「ごめんね」


 何を謝らなければいけないのかは分からなかったが、謝らなければいけない気がして、一言だけ残して部屋を出る。


 廊下を歩いていると、涙が出てきた。嗚咽をあげる。

 涙は止められず、いくらでも流れた。

 おそらくは、桜花の部屋にも聞こえるだろう大声で泣いた。



    * * * *



 御影は自分の部屋のベッドで膝を抱えていた。涙は止まったが、眠ることはできない。

 ベッドの下では、白い犬が寝そべっている。モココの体をした、よく知らない犬……。


 なんでこうなっちゃったんだろう。


 考えてみる。モココは元気になってからおかしくなった。

 桜花は――桜花はいつからなのだろう。何がきっかけで、いつから変わってしまったのだろう。わからない。

 モココは元気になったとき、何が起こったのだろう。わからない。


「ぜんぶ、わかんない……」


 立てた膝に、顔をうずめる。何も考えたくなくなって、頭を空っぽにする。目を閉じて、視界を暗闇だけにして、そこに心をひたらせる。

 ふと、目を開く。少しだけうとうとしていただろうか。

 埋めていた膝から顔を上げる。


「…………へ?」


 たくさんぬいぐるみが置かれた部屋の中。その中心に青年が立っていた。青年は白い犬を抱き上げて、頭を撫でている。御影が目を覚ましたのを見て、柔和に微笑む。

 頬がこけていて、どこか頼りない笑顔。砂浜で出会った青年が、部屋の中に立っていた。


「なんで、ここにいるの?」


 青年はそれに応えず、白い犬に視線を落とす。


「この子、前の子とは違うね」

「……わかるの?」

「うん」


 青年は頷く。視線をカーテンの閉まった窓の方に向ける。開ければ、夜の闇が見えるはずの窓に。


「あの子の魂が、あの向こうで君を呼んでるんだ」

「あの、むこう?」


 モココの魂が? こんな真夜中の、二階にある窓の向こうから? どういうことかと疑問に思いながら、御影は窓に近づき、カーテンを開ける。

 すると窓の向こうには、夜の闇ではなく、昼間の晴れた空のような青が広がっていた。


「あの子は、一度死んだ。だから君の王子様が、君を悲しませないように、この白い犬に再び生命を与えたんだ。でも、その生命はあの子の魂じゃなかった。彼にはできなかったんだ。元の心を持ったまま、あの子を生き返らせることが」

「よく……わかんないけど……」


 空色をした窓の外を眺めながら、御影は言う。


「ホントのモココが、この向こうにいるの?」

「そう」


 白い犬を抱いた青年は、御影の隣に立つ。御影の横顔を見つめる。


「会いたい?」

「会いたい……」


 声に寂しさをにじませて、言葉を搾り出す。

 桜花と一緒に笑ってじゃれて、モココと一緒にはしゃいでいた頃は、本当に何もいらないと思っていた。でも今はそれができない。

 またみんなではしゃぎたい。

 桜花には抱きしめてもらえなくて、モココも抱きしめられないなんて、寂しすぎる。


「じゃあ」


 青年が、御影の手を取る。


「行こうか」


 青年が言うと、窓はひとりでに開いていった。

 青い光が窓から零れてくる。二人を包み込んでいく。

 そして、窓がゆっくりと閉まった。

 部屋から、二人の姿は消えていた。



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