十章 ばけもの

 背中しか見えなかったその人影が、ゆっくりとこちらに体を向けた。大きな体が御影の全身を包んでいる。御影を拘束しているのは、普通の人間ではない四本の腕。


「誰が人間なんて下等生物の言いなりになるかっての。俺様は好きなときに出てきて好きなときに帰りたいんだよ」


 物語に出てくる王子のような、秀麗な顔立ちをしている男だった。男の腕が四本腕ではなく御影の表情が恐怖に引きつっていなければ、美しい男女のラブシーンに見えたかもしれない。


 だが御影の腕を拘束するように体に回された三本の腕と、口を押さえるもう一本の腕は異様で、足が何本もある虫のようにおぞましい。桜花は体が震えて動けなくなる。


「桜花君、怯えてるねぇ。そう、お察しの通り……いや、察してないかもしれないけど、俺様はそのおっさんが呼び出そうとしてた、神だか魔神だか精霊だか悪魔だかこっくりさんだかなワケなんだよ」


 そう言って、男は瀬藤の死体に目を向ける。


「名前はゴルドル。神だか何だかの定義なんて人間が勝手に決めることだから、俺様が何に当てはまるのかなんてのは知らないけどね。しかし人間どもはよく信じたよねぇ。俺様が本来の体で本来の魂を生き返らせることができるって。あれ、俺様が流した嘘なのに」


 ゴルドルと名乗った男は、御影の体を強く抱きしめ、さらに体を密着させる。慈しむように御影に頬ずりをした。


「人間同士の憎悪ってすごい! 楽しかったぁ。しかも計画通りに事が運んで、欲しかったものが手に入りそうだから、万々歳だよね」


 そして御影の耳を長い舌で舐めあげた。


「喰え! こいつを喰え!」


 怖気が最初の怖気を上回り、桜花は反射的に獣に命令する。獣は素早く動いてゴルドルの頭にかじりついたが「ウエッ」と呻き、すぐに体が霧散した。


「きかねぇなぁ。俺様は人間じゃないから」


 言葉を無視して力をゴルドルの体に向ける。しかしどこにも魂の気配を感じない。


「きかねぇって言ってんでしょ? 人間じゃないんだから」

「ああああああああああああああ――!」


 叫んで殴りかかろうと拳を握るが、ゴルドルは御影を盾にする。たたらを踏んだ桜花の顔を、左の片方の腕が思い切り殴ってくる。桜花の体は爆風でも喰らったかのように吹き飛び、壁に叩きつけられ床に落ちる。


「てめぇ……。御影を、放せ……。てめぇなんかに……御影を、やるわけねぇ……」


 呻きながらも桜花は声を絞り出す。それを見ながらゴルドルはきゃらきゃらと笑う。


「なーんか勘違いしてるけどさ。俺様が欲しいのはこの娘じゃないんだわ。まぁでも? 別にこの娘を喰っても損はないし、可愛いし美味そうだし、せっかくだから喰うことにしようか」


 ゴルドルの右手のひとつが、御影の豊満な胸をまさぐり始めた。


「ふざっけんっ……!」


 それをなんとしても阻止したいが、全身が痛みで縫いとめられ、動くことができない。

 御影の眉間にしわがより、押さえられた口からは苦悶の声が漏れる。呻きながら口を押さえている手に抵抗し、首を振る。何度も抵抗し、そして指に噛み付いた。ゴルドルの手が御影の口から離れる。


「い! ってぇーなぁ、おい」

「おーか!」


 御影が桜花の目を見て叫んだ。


「あたしなんで、おーかじゃないっておもったんだろ。ホンモノのおーかだよね?」


 桜花も御影の目を見つめる。御影の運命を確信したのに、体が動かずに、彼女を見つめることしかできない。


「あたし! おーかが、だいす」


 言葉が途切れた。ゴルドルの右手のひとつに光の球が握られている。御影の魂が引き抜かれたのだ。

 ゴルドルが、御影を拘束していた手を離した。なんの支える力もなく、御影の体は崩れ落ちた。


「……み……か…………」


 桜花は何とか這い進み、御影の体までたどり着く。


「御影……。御影!」


 叫んで体を揺り動かす。ピクリとも動かない。魂が抜かれたのだ。それは死を意味することだということはよく知っている。だが心がそれを理解しようとしない。


「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!」


 御影の体にしがみつく。急速に体温が奪われていくのを感じる。それでも御影が死んだなんてことは理解したくなかった。


「変なの」


 ゴルドルが嘲笑混じりに呟く。


「彼女の心は俺様が持ってるこっちにあるのに。体の方を彼女だと認識してしがみついて泣いてる。やっぱりあれかな? 桜花君が御影ちゃんに惚れたのは、心じゃなくてそのナイスボディの方なのかな。発情ってやつ?」


 嘲笑の言葉に怒りを感じ、否定しようと顔を上げる。が、ゴルドルの姿を見て固まる。


 腕は普通の人間と同じ二本になっており、長身な体が小柄になっている。そして顔が中年の顔に変わっている。

 見たことのある顔だった。ペンションを提供してくれたあの釣り人だ。柔和に微笑み、しゃがみこんで桜花の視線に合わせる。


「あの時。桜花君は心のどこかで、このまま御影ちゃんと心中しちゃおうとか思ってたでしょ? そんな事されたら、俺様が困っちゃうわけだったんだよ」


 また顔が変わる。皺が深くなり見たことのある初老の男になる。本屋の店主だ。


「桜花君には、殺しの悦びを知って欲しかった。霊力を持つ人間が、その気持ちを持つこと。それが俺様が人間の体を乗っ取れる条件だったから。本を買った後、変な声が頭に響いてただろ? あれも俺様」


 にこりと笑うと、王子のように秀麗な顔に戻っていた。

 そして、持っていた光の球に舌を這わせる。美味そうに舐めまわした。


「やっぱり綺麗な心の女の子の魂は甘くて美味いね。もしもこの条件で呼び出されたら、本当に願いとか叶えてやってもいいかもぉ。なんつって」


 桜花は死に物狂いで叫んで手を伸ばす。ゴルドルの手をかすめ、光の球を奪い取る。動くこともできず抵抗する術もないが、御影の魂だけは守らなければと、胸に抱きかかえて体を亀のように丸くする。


「あーら、取られた。いいけどさ。俺様が本当に欲しいのは、桜花君の体だし。だってさー。こっちの世界にいるのって、時間制限とかあって強制的に異界に帰らなきゃならないし。生まれ故郷の異界だけど、こっちと比べたらこっちにいる方が面白いし。だから人間の体を乗っ取って、時間制限を無視して自由にこっちで遊べるようにしたかったんだよ。体が欲しかった。だから霊力があって、死の喜びに目覚める見込みのありそうな桜花君に目をつけた」


 ゴルドルは左手を突き出す。五本の指が淡く光る。そこから光が糸のように伸び、桜花の体に絡まってくる。


「さっき桜花君が馬鹿笑いしてた時につなげといた。真っ黒に塗られた魂。俺様とそっくりだ」


 光の糸が伸びる五指が、高温で熱された蝋のようにどろりと溶ける。そして伸びていき、桜花の肩を掴む。もう片方の手が、うずくまる桜花の顎を掴む。抵抗したが信じられないような力で、無理矢理に顔を上げさせられる。その顎を掴んだ手も、徐々にどろどろと溶けていく。


「よかったね。誰にも必要とされなかった桜花君。俺様は今、君をすっごい必要としてる」


 溶けた手が、桜花の口にねじ込まれる。ゴルドルの体はすべて粘液になり、桜花の口に流れ込んでくる。

 手で口を押さえても、その手がないもののように素通りし、粘液は口に進入してきた。口にも喉にもありえないほどに粘液が詰め込まれる。「うえ、っえ……!」強烈な吐き気に襲われるが、それに逆らって粘液が大量に流れ込んでくる。


 気が遠くなりかけた思考の中で、幼い頃に死んだ母の顔が浮かび上がった。

 何かを褒めてくれるとき、いつも頭がぐしゃぐしゃになるほどに撫でてくれた母。その母の笑顔がよぎり――次の瞬間には今、何を思い出していたのかが分からなくなる。


 両親が亡くなった後、保護者になった叔母と叔父。桜花のことが邪魔だといつも愚痴をもらしていた。いつも怖い顔をしていたその姿がよぎり――また何を思い出していたのか分からなくなる。


 嘲笑を浮かべた小学生の頃のクラスメート。蔑みの目をした中学の頃のクラスメート。淡く恋心を抱いたことのある、愛らしい顔をした初恋の少女。暴力を振るってきた高校の頃の上級生。逆ナンされ、少しの間だけ付き合った女。

 それらが浮かんでは消えていく。何が消えていったのか、思い出そうとしても思い出せない。


 記憶が消されていっているのか。記憶を消され、体も、脳も、心も、すべて乗っ取られるのか。


 御影の顔が浮かび上がった。戦慄が走る。御影との思い出も消されるというのか。


 絶え間ない吐き気に耐えながら這い進む。這い進むと、すでにすべて粘液になったゴルドルの体も床を這い、びちゃびちゃとついてくる。桜花は必死に這い進み、目的の物を掴む。そしてそれを腹に突き刺した。


 瀬藤が儀式に使うはずだった、御影を殺すはずだった、儀式用のナイフ。それで何度も腹を刺す。

 ゴルドルの声が頭に響く。


【何してんだお前】


 ――御影を忘れるくらいなら、死ぬ。


 声には出せなかったが、ゴルドルは桜花の心を読んだように声を頭に響かせてくる。


【ああー、死なれちゃ困るな。しょーがねぇ。とりあえず退いてやるよ】


 粘液が逆流し、徐々に口から出て行く。だが桜花は自分を刺す手を止めなかった。


【おい、なにをしてる?】


 ――俺から出たら、御影の魂を喰うつもりだろうが。このまま俺の体と一緒に死ね!


 喉の方がすぐ死ねる。そう思い、ナイフを喉に向ける。

 そこで意識が途切れた。



    * * * *



 桜花は目を覚ました。なぜか腹に痛みはなかった。全身を動けなくしていた激痛もなくなっていた。粘液になったゴルドルの体もどこにもなかった。


 あるのは、男の死体三つと、ベッドに寝かされている少女の死体と、そして御影の死体だけ。


 刺したはずの腹を見る。そこに、顔があった。見たこともない醜悪な老人の顔。なぜこんな顔が自分の体に付いているのか。これは誰の顔なのか。考えられるのはひとつの可能性だけだった。


 ――ゴルドル……か?


 奴の顔は変幻自在だった。だからこれは、本来の奴の顔なのだろうか。

 ならば自分は奴に乗っ取られたのだろうか。それにしては意識がはっきりしている。自分が自分だと認識できる。それはどういうことなのだろか。


 そう考えていると、腹に浮かぶ老人の目がぎょろりと見開かれた。乾燥しきった唇がしわがれた声で、言葉を発した。


「俺だって死にたくはない。だからその前にあんたの意識を途切れさせた。意識のない奴の脳は乗っ取れないからとりあえず体から出ようと思ったんだけど、あんたの俺を引きとめようって意識が強かったのかねぇ。出るに出られなくて。じゃあ乗っ取れなくても中に入って、あんたと共存しちゃおうかってことで今の状況。ま、楽しみにしてた状況じゃないけど、悪くないと思うぜ? あんたの中から下種なあんたを観察するのは」


 一通り喋り、にやりと唇を歪めたと思ったら、すぐに目を閉じた。死んだように動かないが、眠ったのだろうか。


「は、はは……は……」


 桜花は力なく笑った。

 床に魂が転がっているのを見つける。立ち上がって体がなんともないことを確認しながら歩き、それを拾う。


 御影の死体の前に座る。肉体か、魂か、どちらに話しかければいいのか分からなかったが、魂を御影の顔の横に置き、その二つを見ながら話しかけた。


「俺さ。化け物になっちまったみたいだ」


 桜花の顔に、泣き笑いが浮かぶ。


「こんな姿、お前が見たらまた『怖い』って言うのかな?」


 それでもいい。生きている御影にまた会いたいと思った。

 そして桜花は書き始める。一心不乱に、肉体に魂を入れるための呪文や模様を。


 書き終えて、魂に言葉を吹き込む。御影の体に戻ってくれ、と。

 手を離す。だが、モココの体にした時のように、魂は肉体にひきつけられることはなく、ころりと床に落ちた。もう一度拾い、もう一度言葉を吹き込む。だが結果は同じで、また床に転がる。


 また拾い、今度は直接御影の口に押し込んだ。が、その魂と肉体は関係がないとでも言うように、頬をすり抜けて魂がこぼれ落ちる。


 おかしいじゃないか。御影の魂と肉体は元々別人のものなのに。別人の魂で肉体を生き返らせることができるのなら、御影は生き返るはずだろう?

 そう考え、何度も体に魂を入れようと試みる。だが肉体は魂を受け入れない。


 本当は知っている。別人の魂を肉体に入れることは、生き返らせるのではなく、人工的な転生であるということを。同じ体で何度も転生はできないということを。


 知っている。だが涙は出ない。御影の笑顔ばかりが思い浮かぶ。涙が出ない。まだ御影は生きられる。そう思っている。


 ふと、瀬藤の死体の横に、魂を入れるための小瓶があるのに気づく。娘の魂が入っているのだろう。

 手に御影の魂を大事に持ちながら、その小瓶を拾いに行く。

 ゴルドルの言葉を思い出す。


『悪くないと思うぜ? あんたの中から下種なあんたを観察するのは』


 奴にはこれから自分のすることが分かったのだろうか。

 そして、ずっと瀬藤を狂人だと蔑んでいた自分を思い出す。

 どうでもいい。下種でも狂人でも何でもいい。


 御影に会いたい。



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