八十年代の残骸――LCD Soundsystem / tonite (2017)

みんなおんなじ歌を歌ってる

「今夜、今夜、今夜、今夜、今夜、今夜」

知らなかったよ、作曲家たちが死についてあんなに考えていたとはなあ


しかし真実よ語られよ、おれたちみんなの終わりは同様である

きみは泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣くだろう

しかし言ってやるよ

いい報せだ、きみは今週は大丈夫


もちろんラジオ電波は征服されたよ

ラジオ電波の……残骸はな

それに正直おれたちは

おまえがヒップなやりかたで、

市場心理学を教えてくれるのに感謝してるんだ


すべてのヒットはおなじことを言ってる

これだけだ、「今夜、今夜、今夜、今夜、今夜、今夜」

なあ、人生は有限だろ

しかし、糞ったれ、永遠みたいに感じるなあ

永遠みたいに感じるなあ……


おや、みんなそう感じてるのか?

おれたちみんなワイルド!

おまえ以外はな。


そしておまえは自分が何者なのか知ってる

これはラブソングじゃねえ


おまえは年老いていく

断言するよ、おまえはたったいま、年老いていく

おまえがいかした勝者でないかぎり

成長もあるだろう

そして未来は悪夢であり

おれにできることはなにもない

誰一人として、これについては何もできない。


そしてね、ああ、ああ、おれはおまえに状況をイーブンにするチャンスをもちかけてるんだ

しかしね、ああ、ああ、おまえはどうも否定形の言い回しについてかなりよく知っているな

「もちろん敵は痛罵と嘲笑で私を苦しめるだろう。

 しかし私を追放できるのは私の味方だけだ」


いや。

それは、

違う。


そしておまえは使われるにはキレがありすぎる!

使われることにショックを受けすぎてる!

くじの抽選でもらえるきらきらのリミテッド・エディションの靴を履いた

いじめっ子の子供達に使われることに。


おまえって何だっけ?!


「ああ、おれはリマインダーだよ

メモリースティック的な汚辱に満ちた大言壮語をうまくかわしてきた

CD屋による審問を戦い抜いた頼りないベテラン

武器といえば中年後期特有のたわごとだけさ」


恋人たちはみんなおなじものが大好き。

これだ、「触って、触って、触って、触って、触って、今夜!」

もしかしたら、おれたちは死ぬまえに必要なものが何なのか、気づいたのかもな


世事における運はつねに技術よりも強い

おれたちは飛んでるんだ、目隠しで!


おい、ちょっとまて

おれ、なんだかオカンみたいなこと言ってるな


小さな部屋から外の通りに出たせいで

おまえはインターネットを失い、おれたちは記憶を失った

おれたちはおれたちの秘密へと導いてくれる紙片の道標を持ってはいたんだが

恥ずかしくてしょうがないセルフィーはぜんぶ削除しちまった

つまり撮影時にはベストだと思った自己のヴァージョン

ほかの奴らが繰りかえしているヴァージョンのヴァージョンのやつな

おれたちが大事だと思っていたすべてのものをここで一緒に笑おうぜ

すでに学んだと思っていた事柄でいまだに失敗を繰り返しながらさ

凄いお歴々はおれたちより物事を知ってる

ロングランにかかるコストとかな、しかし奴らは一発屋のやり方を知らん

美しいお歴々はおれたちより物事を知ってる

「大切なリスナー」たちの視聴欲求の利用法や乱用法をな

だからおまえは指さされ、嘲られ、宣言されるだろう

自分が決して乗り越えられないパーティーから逃げてるってな!

おまえは自分が自分の青春を無駄にしてるという考え方を嫌悪してる

このままおれは年寄りになるまで後ろのほうで立ちつくしてるんじゃないかってな。


しかし。

そいつは、

嘘だ。


そいつは、

ぜんぶ、

嘘だ。


しかし。

そいつは、

嘘だ。


そいつは、

ぜんぶ、

嘘だ。


 まずもって、「今夜、今夜、今夜、今夜、今夜、今夜」というコーラスに気迫がない。ぼろぼろになったテレキャスター(ブルース・スプリングスティーン、つまり、アメリカン・ドリーム)を抱えたギタリストが、ヴォコーダーのためのエア・チューブをくわえたままコーラスするのだが、その感じは生命維持装置に繋がれた老人のようだ。ギタリストは見たところ四十代である。


 なんだか人を馬鹿にしたように遅いテンポの1拍子目と3拍子目に打たれるスネア・ドラムは、どうしようもなく無気力なイコライザーによって意味をぼやかされているうえに、スネアの拍子にあわせて点灯する照明のタイミングはものすごくズレている。しかも器機が八十年代製であるために、ひどい残像が残る。


 八十年代のニュース・キャスターが抱えていたような、肩からぶらさげるテープ・レコーダーに、ボーカルが歌声を吹き込む。マイクも八十年代製。ヘッドフォンも八十年代製。「泣く」の動詞のジェスチュアまで八十年代製で、曲げた人差し指を目元に持っていく。


 カメラが引く。バンドが乗っているのは、巨大な回転する円盤、すなわちレコード、八十年代の遺物である。


 やる気のない「ゲイ」が映る。「ゲイ」のポーズまで八十年代式だ。肩口に手を乗せて、流し目をしている。なんて「気持ちの悪いゲイ」なんだろう。そう思わせるような「ゲイ」だ。彼女(「気持ちの悪いやつ」)の前にはシンセサイザーが置かれていて、彼女(「気持ちの悪いやつ」)は、そこからたまに音を出す。


 オール・バックにした白人がカウベルを持って立ち上がる。スマートで、四十代だが、かっこいい。「映画俳優」みたいだ。彼は一小節だけ、みんなが大好きなカウベルを、なんのてらいもないリズムで叩く。つまり人を馬鹿にしたように遅いテンポのスネア・ドラムの1拍子目で叩く。きっと聴衆は盛り上がることだろう。昨今ではYoutubeのコメント欄で誰もが言う、"Need more cowbell"(カウベルをもっとよこせ)と。だからこのカウベルは、「売れる」。


 ボーカルは歌う、「それに正直おれたちはおまえがヒップなやりかたで、市場心理学を教えてくれるのに感謝してるんだ」。もういちどボーカルが歌う、ギタリストのコーラスが入る。「今夜、今夜、今夜、今夜、今夜、今夜」。


 そしてこの退廃したレコード盤の上で回転させられている無気力なバンド・メイトたちが、一斉にシンセサイザーの鍵盤を押す。すべてが光る。音は低い。とても低い。ヘッドフォンが飛ぶくらい低い。すべての照明が点く。なにも見えない。なにも見えないくらい眩しい。残像のせいだ。八十年代製の器機による残像のせいだ。


 ボーカルが歌う。「おや、みんなそう感じてるのか? おれたちみんなワイルド!」


 私の考えでは、彼らはもう音楽を作りたくないのだ。五年前に解散を宣言したLCD Soundsystemの唐突な新譜を聴いたとき、私は心からそう思った。ニューヨークのボクシング・アリーナを貸し切って、信じられないほどすばらしいラスト・ライブを行って、彼らは解散した。そして再結成されたのちにネットに流れた彼らの新譜のビデオは、後悔にまみれていた。私の発言の意味がわからない者は、インターネットに聞きにいけばいい。ここまで痛々しい音源を、私は聞いたことがない。


 どんな理由があったのかは知らない。金が足りなかったのかもしれないし、自分たちのキャリアに何かをつけ加えたかったのかもしれない。いずれにせよ、彼らがこの再結成を心から望んでいなかったことは、音源を聞けば明らかだ。それは痛々しく焼き増しされたIPの新作のようで、たしかにIPの遺伝子が感じられるものの、しかし昔ほどの良さはない。私としては、資本主義がこうさせたのだと思うしか、落とし前のつけようがない。


 それでも擁護できるのは、彼らの音楽が、彼らの状況そのものに非常に自覚的であるからだ。彼らがこのビデオで自ら乗ることを選択した巨大なレコード盤は、そのまま八十年代の表象である。そして現代において、八十年代は使い古され、すり切れて、ひどい音しかしない。ひどい音。それは、どういうわけかもういちど音楽をやらざるをえなくなった彼らの音そのものだ。「ブレードランナー」の新作を見よ。


 残像だらけの、4:3の、八十年代の再生産のような歌詞のなかでボーカルが歌う。「おれたちはおれたちの秘密へと導いてくれる紙片の道標を持ってはいたんだが、恥ずかしくてしょうがないセルフィーはぜんぶ削除しちまった」


 これはどう考えても、八十年代のポラロイド・カメラと現代のスマートフォンの関係を示唆しているとしか思えない。そう思えるのは、回転する巨大なレコード盤の上に立っている者たちが、どこからどうみてもすり切れた、しかし各々のポケットのなかに持ちたくもないスマートフォンを持っている四十代であるからだ。


 彼らは太く、鋭く、ほかの誰よりも優れた音を出す。経験があるからだ。彼らは八十年代からずっと音楽を聞いてきたから、もちろんいい音だ。しかしその音のなかには、ほんとうに出したいと思って音を出すときの充足感、生きているという実感がない。その音は、たしかにすばらしい。すばらしいのだが、音が生きていない。それはあたかも、ゆっくりと回転するレコードの音が、もはや私たちになにも訴えかけないかのようである。レコードよりもダウンロードされた、針と埃と静電気のノイズのない音源のほうが、よりよく聞こえる現象を表しているかのようである。

 

 もしかすると、彼らは八十年代を享受した者であることと、現代に生きる者であることを、この楽曲のなかで接続しようとしたのかもしれない。その試みは、ある程度まで成功している。在野のバンド、「売れる」バンド、そこらじゅうにいる若者のバンドよりは、もちろん何十倍もいい。しかしこのビデオが伝えようとしているものは、そこまでに留まっている。


 はっきり言おう。これは彼ら自身が出そうと思っていた音でもなければ、出すことができるとは予想だにしなかったような音でもない。彼らに可能だった音は、八十年代の音でも現代の音でも、売れる音でも売れない音でもなく、ただ、良い音であった。しかし彼らは自らすり切れたレコード盤の上に乗ることによって、その可能性をいったん絶ってしまったのだ。そしてこのビデオは、その凄絶な真実までをも描いたものだとは、私には思えない。

 

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ミュージック・ビデオについて書く。 藤田祥平 @rollstone

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