青春と珊瑚礁――Tesla Boy / Spirit of the Night (2010)

(80年代ふうの音源と現代のライブのリップシンクが延々と流れる。ビデオはそれだけ。)


 某社の編集者と話しているときに話題になったのが、ある音楽における真実性の在処についてだった。それは聞き手の育ちや環境による、という点では、われわれは大筋の合意を得た。問題は、そういった外的要素を超えた音楽の真実性がどこにあるのかという話である。


 本稿で話題にしているのは、ロシア人によって再解釈された北米の80年代シンス・ポップとでも言うべき、Tesla BoyのSpirit of the Nightである。いまでも楽しく思い出すのだが、私はある女の子といかしたスポーツ・カーに乗り、山陰で愛を育むために阪神高速11号池田線を中国自動車道にむけて北上しているとき、この曲をBluetoothでカー・オーディオに接続して聞いた。私はスピード違反をしながら、街の灯りがどんどん後ろに後退していくところを見、その景色はこの楽曲と絡み合ってたいへんすばらしい効果をもたらした。


 なぜこんな個人的な話をしているかというと、音楽の真実性が外的要素によって補強されるという事実を述べるためだ。私が本稿の話題にしているTesla Boyの楽曲も、おそらく聞く人にとっては、文化的に無残な境遇に追いやられているロシア人の若者が、飯を食うために80年代を二次創作したものだ、というふうにしか聞こえないかもしれない。


 ある楽曲がもつコンテキストが、たまたま聞き手にとっての希有な状況に結びついているから、すばらしく感じられるということは充分にある。この事実を飲み込んだうえで、私はぜひとも、この楽曲に用いられている歌詞をここに引用してみたい。


  彼女はレイヴン・ドレスを身につけた

  メトロポリタン・ガール

  なにもかもがおかしくなっちまっても、彼女はいかしてるんだ


  彼女はストリートで一晩中踊っている

  彼女は街の灯りと溶けあっていくようだ

  彼女は人々を欺いてきたかもしれない、誘ってきたかもしれない

  彼女は夜の魂なんだ


  彼女は夜の魂

  おれを跪かせる

  おれを跪かせる

  おれはプラスチックの王冠を被るのさ

  

  彼女はメトロポリタン・ガール

  もしかしたらおれが知っている女の子なのかもしれない

  現実の、あるいは役をこなしているだけの女の子なのかもしれない


  彼女はカイトのように飛ぶ幻影であり

  彼女は歩きながら夕陽の明かりをそばに置き

  彼女はいつもおれの心を捉えて離さない

  彼女は夜の魂なんだ


  彼女は夜の魂

  おれを跪かせる

  おれを跪かせる

  おれはプラスチックの王冠を被るのさ


  彼女は夜の魂

  彼女は夜の魂 

  彼女は夜の魂……。

  

 議論のなかで話題になったのが、たとえばThe VaporsとKristen Dunstによる、それぞれのTurning Japaneseだった。もしかすると、いずれの楽曲も本物ではないことと同等には、Tesla BoyのSpirit of the Nightも偽物かもしれない。レイヴン・ドレス! メトロポリタン・ガール! そんな語彙は、ここ40年来聞いていなかった。


 私はどうやら、この議論に言語的な解釈をつけられそうにない。というのは、私にはTurning Japaneseを偽物だと見破ることはできるが、Spirit of the Nightを偽物だと言うに足る根拠の持ち合わせがないからだ。これはビデオというよりも音楽そのものにかかわる重要な議論で、そのままにしておくことはどうしてもできない。問題の核心は、私たちがある音楽を聞くときの評価軸のようなものが、個人的体験とどこまで関わっているのかという点だ。それはもはや、80年代をリアルタイムで体験したから80年代ふうの音源についてうまく評価できる、といったレベルの問題ではない。


 この問題について語るための道具として、ジャンルの概念は完全に役不足だ。私はべつに80年代に生きた訳ではないし、80年代の音楽に対してそこまでのCrushがあるわけでもない。そもそも、あるアドレスをクリックしてそこに行くまで、まるでその音楽がどんなものなのかわからないような時代に、選り好みをすることなど不可能だ。


 すべての人間が感動できる音楽が存在しないことに注目すれば、事態はもうすこしわかりやすくなるだろう。モーツァルトでもワーグナーでもチャイコフスキーでもいいが、こういった正典とされる音楽に感心できない人間は、じつにたくさんいるはずだ。この問題は、あるひとつの特定の楽曲にも適応することができる。モーツァルトの楽曲を聞いたときに、彼自身の青春を(事実的な意味で)連想する人間はどこにもいない。彼の時代に生きた人間はみな死んだからだ。


 こうなると、話は人類学に関わるものになってくる。話をSpirit of the Nightに戻すが、完全に80年代のシンス・ポップであり、それ以上でもそれ以下でもない。にもかかわらずこの楽曲とビデオがすばらしい和合を見せているのは、そこに映し出されている人々と街に、スラヴの特徴がよく現れているからではなかろうか。つまり、楽曲の特徴としては北米的であるにもかかわらず、映像にスラヴ的な肉体が映し出されることのよって、逆説的に彼らの青春を浮き彫りにしているのではなかろうか。


 人類を種として見ることがここでは重要になる。珊瑚虫の本質とはなにか? 珊瑚礁を形成することである。そしてある地域の珊瑚虫は、ほかの地域とすこし異なる珊瑚礁を形成するだろう。これと同様に、人類の本質とは、社会や芸術などを形成することである。ある地域の人間は、ほかの地域とすこし異なる社会や芸術を形成するだろう。そしてまた、芸術は情報である。あらゆる情報が即時にやりとりされるようになった現代において、音楽の構造が音楽家たちの属する社会によって絶対に規定されると考えるのは、的外れだ。


 この状況は、もともと音楽が持っていた本質を浮き彫りにするものだ。つまり、芸術やジャンルを規定するものであった社会規範や文化が、地域的特異性を持ち得ないほどに互いの情報伝達の距離を縮めたとき、そこにあらわれる普遍性こそが本質であるという議論である。現代がこういう状況になったので、話は美学の領域に突入していく。もしも地域に根付いた文化性が無効ならば、とりもなおさず、われわれは、ある楽曲の優れた要素――メロディーでも構成でもいいのだが――に、しっかりと注目するべきなのだ。そうすることで、楽曲が伝えようとしているメッセージを読み取ることができる。


 断言しよう、Spirit of the Nightという楽曲が伝えようとしているメッセージは、青春である。そのことは、メロディーを聴けばわかるはずだ。そのうえで付言したいのは、このビデオがメロディーに乗せている意味についてである。それは、すべての人間に青春があり、それは人間の本質であって、そこから現れる形はただのひとつの形式でしかない――という告白なのだ。珊瑚虫が珊瑚礁を作るように、われわれは青春を味わう。この真実は、じつはいままでも地域的文化によって規定されるような代物ではなかった。しかし現代の芸術は、この真実を逆説的に表現に応用できるところまで、深化しているのである。


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