フィクショナリティとノンフィクショナリティ――The Avalanches / Since I Left You (2000)

ふたりの炭鉱夫が狭い坑道のなかに腰を下ろしている。

彼らのそばには、ガスが出たときのためのカナリヤの鳥籠がある。

炭鉱夫はふたりとも落ち込んでいる様子である。

その様子から、彼らがここに閉じ込められてしまったことがわかる。


どこかからくぐもった音楽が聞こえ始める。

ふたりは音のするほうを探り、そこに奇妙な跳ね戸を見つける。

彼らはそこから出ていく。すると、ふたりの美しい女性がそこにいる。

なんとこの坑道は、どこかの建物のダンス・ホールに繋がっているのだ。


ダンス・ホールは古風である。

ふたりの女性はダンスをはじめるが、それは随意なもので、とくに型はない。あるいはすべての型を内包している。

ダンス・ホールには老齢の男性と女性がいて、机に座り、ペンを持ったままふたりの女性のダンスを眺めている。

音楽のトーンが全開になる。モノクロだったふたりの炭鉱夫に色がつく。


炭鉱夫のうちのひとりは、なにか抑えがたい力に導かれるようにして、ふたりの女性のダンサーのあいだに入る。

そして、踊り始める。

とてもそんな踊りができるとは思えないような、太った男だったために、とても意外である。

そして驚かされるのは、彼のダンスが、とんでもなくすばらしいことだ。


そこから、ビデオは炭鉱夫とふたりの女性のダンスにフォーカスされる。

このダンスの美しさは、筆舌に尽くしがたい。

注意しておきたいのは、もうひとりの炭鉱夫のほうも、微笑みながらそのダンスを見守っていることだ。

彼はタンバリンを手に持ち、リズムを取り、踊りだそうとするのだが、どうしても前に踏み出すことができない。


すてきな女性に手を引かれてもだめなのだ――そして曲が終わりかけたところで、踊っていたほうの炭鉱夫が、踊らなかった炭鉱夫のほうを見る。

すると、踊らなかった炭鉱夫のほうの色が、またモノクロに戻っていく。

フェードアウト。

ここで音楽が終わる。


ここからまったく別のカット。カナリヤの入った鳥籠と、タンバリン、そしてふたりの炭鉱夫が写った写真が映される。

老人がいて、彼はこんなことを言う。

「私がどうにかして抜け出したのは、それから三日後のことだった。それから二度と、アーサーには会えなかった。ただ、彼がどこへ行ったにしろ――彼はとんでもなく楽しんでいたよ」


 人間は、なにか凄絶な体験をすると、その体験の記憶を、事実とくらべてほとんど異様だと思われるような形に歪めてしまうことがある。このビデオで語られているのは、一般的な考え方に翻訳するとこうだ。ふたりの炭鉱夫が、落盤かなにかのために、狭い坑道に閉じ込められてしまった。ふたりはどうにか脱出しようとしたのだが、それは叶わず、ほとんど死にかけた。そこで、ふたりのうちひとりは夢を見た。アーサーという年長の炭鉱夫が、まるで天使のように美しいふたりの女性とともに、すばらしいダンスを踊っているところである。


 これを臨死体験として片付けてしまうほど退屈なことはない。このビデオを見るこつは、そうではなくて、ふたりの炭鉱夫が体験した出来事をありのまま受け入れることだ。ただ、もちろん、イギリス西部訛りのきつい炭鉱夫の発言がなにもかも事実だと受け入れるわけにはいかない。そうではなくて、彼らが体験したであろう事実を邪推するのではなく、彼らが見たであろう夢をありのまま受け入れるのだ。そうすれば、このビデオが語ろうとしていることがはっきりとわかってくる。


 そうだとしか思えないではないか? カナリヤがそこにいるのは、まちがいなくリアリティを確保するためだ。というのは、カナリヤはとても繊細な鳥なので、西洋の炭鉱夫たちは坑道を拡げるときにかならず一羽を持ち込んだという。もしも危険なガスが出たとき、まっさきに倒れるのが人間ではなく鳥で済むから、というわけだ。まるでほんとうの出来事と思えないこのビデオにカナリヤが登場するのは、現実と虚構のあいだをうまくかいくぐるための優れた方便としか思えない。方便、そう、方便なのだ。


 ビデオをご覧になった方々ならばよく理解できると思うのだが、このビデオで描かれていることが重視しているのは、その現実的な確実性(ノンフィクショナリティ)ではなく、虚構性(フィクショナリティ)である。そうでなければ、あんな太っちょの炭鉱夫が、目の覚めるようなすばらしいダンスを踊ることについての論理的整合性が保てない。


 だからこのビデオはぎりぎりの整合性、それもわれわれが一般に持っているのとは異なる整合性を持っていることになる。このなかに、誰かひとりでも、坑道に閉じ込められたことによって死にかけた人がいれば手を挙げてほしい。その事象の確実性について、ほとんどすべての人はなにも言うことが出来ないはずである。そう、それは一般的な事件ではないのだ。坑道に閉じ込められるというのは、多くの人が体験したことのない出来事なのだ。


 にもかかわらずこのビデオが胸を打つのは、坑道に閉じ込められたふたりの炭鉱夫の哀切が胸を打つからではなく、そのあとに起こった、あまりにも美しい、そして非現実的なダンスが、とんでもなく優れているからなのだ。考えてもみてほしい、あなたが電車を待っているとき、駅のホームでひとりの人間が踊り出したとする。あなたはその人間をしばらく見て、ああ、まあこの程度か、と考えるとする。ふつうはそれで終わりだ。ただ、このビデオで行われている奇跡は、駅のホームで踊っている人間の踊りがあまりにもすばらしいから釘付けになってしまうというような、非現実性が現実性を刺し貫くような離れ業なのだ。


 もちろん、その非現実性の強度は、役者を注意深く選ぶことによって実現できるものだ。しかしいったい誰が、あるいはどんな非現実性が、その現実の殻を破ることができるほどの強度を備えているだろう?


 その答えはすでにある。音楽だ。


 このビデオの音楽は、サンプリングによって繰りかえされる1930年代の音源をもとに、「あなたが私のもとを去ってから、この世界がブルーになった」となんども繰りかえす、サンプリング音楽のヒップホップである。その音楽は一世紀昔のものらしく無垢で、その歌詞とメロディーにどんな偽りもないように聞こえる。ただ問題は、メロディーが、単調ではなく長調で演奏されることだ。暗い歌詞に明るいメロディー――これは、たとえはNina Simonが「Feelin' Good」のなかで、「この世界はすばらしい、鳥たちが歌っている、とんぼが飛んでいる、鳥たちは高く飛んでいる」という希望にあふれた歌詞を、単調で歌ったことの反転のようなものだ。


 もしも音楽の世界で連綿と続けられてきたこの意味の転倒――明るいメロディーで暗い歌詞を歌う、あるいは暗いメロディーで明るい歌詞を歌う――がビデオによって解釈されているとするならば、The AvalanchesのSince I Left Youは、みごとにその転倒をフィクショナリティとノンフィクショナリティのあいだでやってのけていると評言せざるを得ない。「現実」の坑道で生き埋めになって死にかけているひとりの炭鉱夫が「虚構」のダンスフロアでとんでもなくすばらしいダンスを踊ったという物語は、事実とはかけ離れているかもしれないが、しかし彼の肉体的な苦しみを表現するものとしては真実でありうる。


 ダンスフロアですばらしい動きを見せた彼の相方が、老人となって架空のダンサーの踊りについて語るとき、そこにはフィクションをフィクションで終わらせまいとする作者の意図が見て取れるようにも思う。しかし筆者は、この試みは、個人的には失敗であるように思う――なぜなら、すでに「アーサー」は、どんな補足も必要ないほどに優れたダンスをやってのけてしまい、それは事実や真実といった枠組みを超えて、ふたりの美しい女性とともに、永遠に賞賛されてしかるべきものにまで高められてしまったからだ。

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