最終話 CONNECTION


 五百メートル足らずの距離をタクシーで移動したのは初めてだった。運転手に嫌な顔をされたっておかしくない。

 しかし、運転手は名古屋駅の駐車場にタクシーを止めて、沙織の荷物をわざわざ新幹線の乗り場まで運んでくれた。

 タクシーに乗車する前、彼が運転手と何かを話していたが、怪我をしている沙織を気遣っていろいろと指示をしてくれたのだろう。


「――ほんならな。俺は仕事に戻るで。身体に気い付けぇよ」


 タクシーの中の沙織に軽く手を振ると、彼は名残惜しむような素振りは全く見せず、そそくさと建物の中へ入って行った。


 沙織は新幹線の座席に深く座って、伸ばした右足をフットレストの上に乗せる。そして、ペットボトルのお茶を口に含んだ。

 脳裏に無邪気な笑顔が浮かぶ。取り立ててハンサムというわけではなく、口のきき方もぶっきらぼう。ただ、胸のあたりに温かい何かが残っている。


 パソコンからJRのホームページにアクセスすると、新着欄に「お詫び:東海道・山陽新幹線の運転見合わせについて」といったニュースがアップされていた。

 少し前に車内放送でもが流れていたが、それよりも細かな説明がなされている。


『……だから、雨がそんなに降っていなくても止まったんだ』


 書かれていたのは、運転見合わせの基準。行きの車内アナウンスで「二十四時間の連続降雨量と一時間の降雨量がを超えた」と言っていたが、正直なところ、沙織はよく理解できていなかった。


『連続雨量が百五十ミリを超えて時間雨量が四十ミリを超えている状態が続いていたら、新幹線は動かない。そういうことなんだ』


 沙織は大きな目でHPの画面をジッと見つめながら、何度も首を縦に振った。


『百五十ミリ――十五センチ。結構な量ね』


 沙織はフットレストに乗せていた右足を静かに床に下ろして、雨水の深さをイメージしてみた。十五センチと言えば、ちょうどテーピングがされているあたりだった。


「そっか……」


 丁寧に巻かれたテープを人差し指でなぞると、名古屋での出来事が蘇ってきた。

 大の大人が歩道にヘッドスライディングしたのも恥ずかしかったが、その後の方が何倍も恥ずかしかった。

 いくら歩けないとはいえ、公衆の面前でアラサーの女がお姫さまだっこ。はっきり言ってあり得ない。


「あっ」


 思わず声が漏れた。大きな目をさらに大きくして沙織は口を半開きにする。


「メアド訊くの忘れた……名前も……」


 全身の力が抜けたようにシートに身体を沈めて窓の外に目を向けた。

 真っ赤な夕焼けが空を染めている。数時間前に大雨が降っていたのが嘘のようだった。


「まぁ、いっか。いつものことだし」


 沙織はどこか投げやりな言い方をして静かに目を閉じる。

 慌ただしかった、沙織の一日が終わりを告げようとしていた。


★★


 二週間が経った頃、メイシン精機からプレゼンの結果が送られてきた。

 残念ながら、結果はNG。冒頭の「申し訳ありませんが」という枕詞から駄目だったことはすぐにわかった。

 普通であれば、重苦しい雰囲気に陥るところではあるが、そうはならなかった。

 なぜなら、封筒にが同封されていたから。


 時期を同じくして、白河のデスクにメイシン精機の担当者からお礼を兼ねた電話が掛かってきた。


「――御社のプレゼンは受注者と同レベルの評価でした。ついては、別のテーマで改めてプレゼンをお願いしたいと考えています。実施時期は二ヶ月後を予定しています。詳細は追って連絡させてもらいます」


 の朗報に社内は再び盛り上がりを見せる。

 プレゼンターは、功労者である沙織にお鉢が回って来る可能性が高かった。


 沙織はと言えば、右足の怪我の具合は思ったほど重くはなく二週間でギブスを外すことができた。

 主治医の言葉を借りれば「応急処置が適切だったから治りも早かった」とのこと。

 沙織は彼に心から感謝していた。「直接会ってお礼を言いたい」。そんな風に思ったこともあった。ただ、あれから二週間が経ってしまったこともあり、気恥ずかしさから電話を掛けることがはばかられた。


 仕事に対しては何事にも前向きで「いけいけ」であるものの、男に関しては考え過ぎて後ろ向きになってしまう。

 これまでも上手くいきそうなことがなかったわけではない。しかし、いつも「まぁ、いっか」で済ませてしまった。


『――縁が無かったってこと』


 JR京葉線の電車に揺られながら、沙織はぼんやりと窓の外を眺めた。

 車内に舞浜駅への到着を知らせるアナウンスが流れる。沙織の目に東京ディズニーリゾートTDRの施設が映った。

 最初に京葉線に乗ったのは七年前。そのときは小さな子供のように目を輝かせた。しかし、今は何とも思わない。権藤の会社が舞浜駅の近くにあって、少なくとも月に二回はこの景色を眺めているから。

 プライベートでTDRへ行くことがないのは、いっしょに行く相手がいないこともあるが、もしかしたらになっているのかもしれない。


★★★


 沙織はいつものように門のところで守衛に挨拶をして、事務室のある建物へと向かった。

 事務室の方から誰かが駆けて来る――社長の権藤だった。

 いつもなら社長室の扉を開けた瞬間、挨拶もそこそこに「作麼生そもさん説破せっぱ」のような問答を仕掛けてくるが、その日は違った。

 沙織の到着を心待ちにして、ひたすら監視していたような登場の仕方だった。


「こんにちは。この度はいろいろとご心配をお掛けしました。訪問の予定を延ばしていただき申し訳ありませんでした」


 深々と頭を下げる沙織に、権藤は心配そうな顔で首を横に振る。


「謝る必要なんかないよ。飛んだ災難だったな。もう大丈夫なのかい?」


「おかげ様で、先日ギブスがとれました。医者からは『ゆっくりなら歩いてもいい』と言われています。ですから、こうしてはせ参じました」


「症状が軽かったのは不幸中の幸いだったな。本当に良かった」


 権藤はホッとしたように「うんうん」と首を縦に振る。


「それはそうと、何かあったんですか? そんなに慌てて飛んできて」


「そう! そうだよ! 大事なことを忘れてた!」


 権藤は右手のこぶしで左手のてのひらをポンと叩く。

 ギョロっとした目が沙織の顔を見つめている。


「沙織ちゃんに一つお願いがあってな」


「お願い……ですか?」


 沙織は小首を傾げて人差し指を口元に当てる。

 権藤の顔にどこか緊張した様子が見て取れる。


「唐突な話なんだが……いっしょにディズニーランドへ行ってくれないか?」


「はぁあ~!?」


 思わず大きな声が出た。権藤の話が本当に唐突だったから。

 沙織は口をポカンと開けて、驚きをあらわにする。


「わ、私と権藤社長と二人でですか?」


「いや、そうじゃない! 悪い! 言葉足らずだった!」


 権藤は慌てた様子で右手をすばやく左右に振る。


「いっしょに行ってもらいたいのは……俺の息子とだ」


「はぁあ~!?」


 再び沙織の口から大きな声が発せられる。ますます訳が分からない。

 権藤に息子が二人いることは聞いていたが、立ち入った話をしたことはなく、実際に会ったこともない。


「私、権藤社長の息子さんとは面識がないんですが、なぜ、そんな話になるんですか?」


「本当に申し訳ない! 俺もビジネスとプライベートを混同するのはどうかと思ったんだが……」


 沙織の突っ込みに権藤は太い眉毛をハの字にして、申し訳なさそうな顔をする。


「頼まれちまってな。どうしてもって……あっ、ディズニーランドって言うのは俺が勝手に言っているだけで、からそう言われたわけじゃない。沙織ちゃんの好きな場所でいい」


「頼まれたって、息子さんにですか?」


「ああ。先日息子と電話で話したとき、二週間前の話になってな。話を聞いているうちに、息子が治療した、っていうのが沙織ちゃんだってわかったんだ。どうしても、もう一度会いたいらしい」


「えっ……?」


 沙織は言葉を失った。

 細かいことはよくわからなかったが、ある男の顔が浮かんだ。

 権藤のギョロっとした、二つの目が沙織に熱い視線を送っている。

 二週間前、沙織はそれとよく似た瞳に、温かく心地良い何かを感じた。


「彼が東京に来るんですか?」


「ああ。沙織ちゃんに会いに来る」


 胸の高鳴りを押さえながら努めて冷静に尋ねる沙織に、権藤は笑顔で答える。


「あ、あの……」


 自分でも戸惑っているのがわかった。歯切れが悪く、仕事のときのが完全に影を潜めている。


「条件……一つ条件があります」


「おお。何でも言ってくれ。すべて沙織ちゃんの都合に合わせる」


 権藤は二つ返事で了承する。

 沙織は小さく深呼吸をする。そして、はにかんだような表情かおで一言一言を噛みしめるように言った。


「雨が降らない日に来るよう言ってください。新幹線が止まったら運転のには時間がかかりますから。それに……できないと困る人だから」



 おしまい

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