第3話 ENCOUNTER


 沙織は、歩道に四つん這いになって荒い呼吸をする。

 あごを伝った汗がアスファルトの上にしたたり落ちたのは、名古屋特有の蒸し暑さのせいではない。

 パソコンの入ったバッグを手繰り寄せて中身を確認する。バッグには、衝撃吸収素材が施されており、見た感じパソコンは無事のようだ。

 ショルダーバッグからウエットティッシュを取り出して、スーツの汚れをすばやく拭き取った。身なりを良く見せることも怠らなかった。


 後ろを振り返ると、そこには、工事用資材――配管とワイヤーが路地から突き出るように置かれている。注意喚起はされておらず、いわゆる放置状態。資材の隙間に右足を挟んでひねったらしい。


 立ち上がろうとした瞬間、足首に激痛が走る。踏ん張りが利かず、再び膝をついた。中学生のとき、体育祭のリレーで右足首を骨折したことがあったが、そのときの痛みと似た感覚だった。


 時刻は三時三十七分。目的地は目と鼻の先であるが、すでに制限時間タイム・リミットは三分を切っている。

 左足一本で立ち上った沙織は、ケンケンをしながら必死に前ヘ進む。


「ちっと待て!」


 不意に沙織の後ろから声が聞こえた。

 振り返った沙織の目に、ポロシャツとジーパンの上にヨレヨレのくたびれた白衣をまとった、大柄な男の姿が映る。ぼさぼさの髪に無精髭ぶしょうひげ。丸い大きな目がギョロリと覗く。年は、おそらく沙織と同じぐらい。


「右足見せてみろ。骨が折れとるかもしれん。派手に転んどったし」


 男は、名古屋弁でまくし立てる。まるで一部始終を見ていたような言い方だった。


「大丈夫です! 私、急いでるんです! 三分以内に行かなければならないところがあるんです!」


 沙織は、強い口調で言い放つと、その場を離れようとする。

 しかし、そうはさせじと男の右手が沙織の左手を捕える。


「これでも外科医だで、おみゃーみたいなヤツを見過ごすわけにはいかん。そこの『名駅整形クリニック』に務めとる。ちょこっと、いっしょに来てくれーせんか? 嫌だっつっても、無理にでも連れてくわ」


 男は、真剣な眼差しで沙織の目をギロリと睨む。すると、男の手を振り払おうとしていた沙織の手が止まる。

 理由は二つ。一つは、何を言っても男が聞かないような気がしたから。もう一つは、なぜか男の言うことを聞くべきだと思ったから。


「わかりました。でも、今からメイシン精機の八階でプレゼンをしなければならないの。終わったら必ず――」


「――しゃあない。じゃあ、行こみゃあか!」


 沙織がしゃべり終わらないうちに、男は沙織の身体を両手で抱き上げると一目散に駆け出した。

 昔の映画で、好きな女のことを諦め切れない男が、白昼堂々、結婚式場から花嫁を強奪するシーンがあったが、まさにそれを見ているようだった。


「お、下ろしてください! 歩けますから!」


 見ず知らずの男にいきなりのお姫さまだっこ。恥ずかしさのあまり、沙織は顔を赤らめて大きな声を上げる。


「おみゃあ、歩けんのだろ? 間に合いたかったら大人しくしてろって!」


 男は、沙織の言うことを無視して、白衣をなびかせながら歩道を全力で走っていく。そして、「名駅メイシン精機ビルディング」と書かれた建物に駆け込み、受付の女性にプレゼンに来たことを告げると、周囲の視線が集まる中、エレベーターに乗り込んで八階へと向かった。


「ちっと、ここで待っとれ」


 エレベーターを降りたところで、男は沙織を壁沿いのソファーに座らせ、「プレゼン会場」と書かれた表示の方へ向かった。

 沙織は、夢でも見ているような気分だった。ただ、右足に激痛が走っていることを考えれば、夢ではなかった。


「おーい!」


 男の声が聞えた。首に名札を下げた、スーツ姿の男といっしょに、車椅子を押しながらこちらへ向かって来る。


「さすがは天下のメイシン精機だわ。バリアフリー対策もバッチリされとる」


 白衣の男が笑顔で親指を立てる。続いて、隣にいる、スーツ姿の男が会釈をする。


「南雲沙織様ですね? はじめまして。メイシン精機の下柳しもやなぎと申します。遠いところをお越しいただきありがとうございます。いろいろと大変でしたね。プレゼンは車椅子に座ったままで結構ですから」


「ありがとうございます。では、お言葉に甘えてそうさせていただきます。あっ、申し遅れました。南雲と申します」


 下柳に対して丁寧に礼を言うと、沙織は名刺を差し出す。


「じゃあな! がんばりゃあよ!」


 白衣の男がエレベーターの中で手を振っている。

 沙織が声を掛けようとした瞬間、エレベーターの扉が閉まった。

 男は、風のように現れ風のように去って行った。「不思議なひと」。心の中でそんな言葉が漏れた。

 いずれにせよ、沙織がプレゼンに間に合うことができ担当者に快く迎えてもらえたのは、彼がいてくれたからに他ならない。


「あの方、名駅整形クリニックのお医者様だとおっしゃっていましたが、この近くなんですか?」


「ええ、隣のビルの一階です。後で連れて来るよう言われました。プレゼンが終わったらご案内しますよ」


 下柳は、にこやかな笑顔を見せる。

 白衣の男は、沙織のために車椅子を用意してくれただけでなく、自分の病院まで送り届けることまで依頼していた。見た目はがさつな感じだったが、決してそんなことはなかった。沙織は、そんな風に思った自分をいましめ、心の中で男に深く感謝した。


「そろそろ準備に取り掛かってもらえますか?」


「はい。よろしくお願いします」


 沙織は、下柳の言葉に促されるようにプレゼンルームへと向かった。


★★


「――それで? プレゼンは上手くいったんか?」


 診療室の床に胡坐あぐらをかいて、ベッドに腰掛ける沙織の右足にテーピングを施しながら、白衣の男が問い掛ける。

 

「おかげ様で上手くいきました。選ばれるかどうかはわかりませんが、力は出し切りました。皆さんのリアクションがとても良かったんです。そういうのって何となくわかりますから」


 プレゼンが思いのほか上手くいったことで、沙織は少し饒舌じょうぜつになっていた。


「人間は、どえりゃあ不思議な生き物だわ」


「えっ? 何がですか?」


 男がポツリと言った一言に、沙織が興味津々と言った様子で尋ねる。


「言葉にせんでも伝わることがあるでな……ちっとずれとるかもしれんけど、小さい子の治療をするときなんかよく思うわ。痛い場所とか、どんな風に痛いとか、ちゃんとわかってやらんと可哀想だし、いい治療ができん。言葉以外の部分でもっと相手のことを知りたいって思うことあるわ……ま、まぁ、なんだ! ガキは、どえりゃあ厄介だでな」


 熱く語る自分を恥ずかしいと思ったのか、男は目を逸らして顔をポリポリと掻く。


「私もそういうのってあると思います。例えば、今日だって……いえ、いろいろありますよね」


 沙織は言葉を呑み込んだ。「私のピンチに現れてくれたあなたも、実は私が言葉ではない何かで呼び寄せたのかもしれませんね」。プレゼンのプレッシャーから解放されて気持ちが楽になったせいか、そんな言葉を口にしそうになった。

 思ったことを口にする前に、心の中で確認するのが沙織の癖。自分が冷静なタイプで良かったとつくづく思った。


「よっしゃ! テーピング完了。これでゆっくりなら歩ける。ただ、応急処置だでな。ひびが入っとるんだで、東京へ戻ったら、ちゃっと医者へ行かなあかんぞ。レントゲン写真と診断書は渡しとくでな」


 沙織は恐る恐る両足を床に下ろし何歩か歩いてみた。しかし、痛みはほとんど感じられない。


「これなら大丈夫です。ありがとうございます。本当に助かりました。帰ってからやることがあるので」


 うれしそうな顔をする沙織に、男は右手で口髭ひげを撫でながら眉間に皺を寄せる。


「今日ぐらいゆっくりしろって。それとも、会社がそうさせてくれんのか? 新幹線に閉じ込められたあげく足首の亀裂骨折。これで残業せぇって、どえりゃあブラック企業だわ」


「そうじゃないんです。会社はそんなことは言いません。いつも『早く帰れ』って言われます。でも、最後までやらないと気が済まないんです。私……」


 沙織は目を逸らして小さく笑う。男は肩をすぼめて「困ったもんだ」といった仕草をする。


「おみゃーさん、そりゃあ、仕事中毒ワーカホリックの初期症状だわ。骨折よりずっとあかんぞ。『仕事が恋人』はできるだけ早く卒業せんと」


「仕事以外に恋人がいないんです。こればっかりは自分ではどうにもならなくて」


「偉そうなこと言っとるけど、俺も他人ひとのこと全然言えんわ」


 二人は顔を見合わせると、声を上げて笑った。

 いろいろあった一日だったが、男の無邪気な笑顔を見ていたら疲れがスーッと抜けていくような気がした。



 つづく 

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