どうか、君が虹の橋を渡れますように

美黒

どうか、君が虹の橋を渡れますように

 虹の橋、という言葉を知っているだろうか。

 動物が死後、あの世に行ったときに幸せに暮らす場所だそうだ。虹の橋に行った動物たちは病も怪我も何もかもが治り、生前のように元気に駆け回ることが出来る。そうして、いつか親しかった特別な友達と出会い、いつまでも幸せに暮らせる。

 そんな場所が、本当にあるとしたら。

 

 彼は、あの子に渡ってほしい、と思う。


 気が付いたら頭の中は真っ白だった。何も思い出せない、何も出来ない。

 自分は一体どこから来て、どうしていたのか。自分は何者なのか。なぜここに居るのか。全く訳が分からず、どうやら記憶喪失だと気づいたときには、既に何もかもが遅かった。

 分かることと言えば、自分が男であること、あまり人に好まれる服装をしていないこと、そして、ある気がかりがあることだった。

 何も思い出せない頭の中で、いつもフラッシュバックするそれは、動物との思い出だった。

 大切な犬と毎日過ごして、遊んで、幸せだったあの頃。どんなに辛いことがあっても、犬が彼を慰めてくれた。だからこそ、彼は生きてこれた。苦労も乗り越えられた。自分にとって、その犬はかけがえのない存在だった。

 だけど、その幸せの最後に、必ず彼は泣いていた。

 犬の亡骸を前に、酷い後悔と、悲しみと、自らへの憎らしさが胸いっぱいに広がって、どうしようもなかった。ああ、どうしてこんなことに。俺なんか、死んでしまえばいい。この子のために、何一つしてやれなかった自らを、ただただ、恨んでいた。

 

 男は毎夜、その記憶が夢に出てきてはうなされる日々を送っている。そうして飛び起きた後、こう祈るのだ。

 ――いつか聞いた虹の橋に、あの犬が渡れますように、と。

 きっとあの犬は、男にとって大切な存在だった。だけど、何も思い出せない彼には、祈ることしか出来ない。分かることは、あの犬が死んでいることだけ。

 何もかもを失ってもなお、その記憶だけがひたすらに流れ続ける男は、耐えきれなくなった。やがて、彼はあの犬を死んでいると分かっていて、探すことになった。

 彼の途方もない日々が、始まる。

 

 あの犬にもう一度会いたい。ただ、会って抱きしめて、ごめんねと伝えたい。だけど、どうしてごめんねを言うのかは分からない。

 だから、記憶を取り戻すためにも、犬を探していた。

 まず男がしたことと言えば、犬の亡骸を片っ端から集める事だった。

 不思議な事に、男のたどり着いた町は、あらゆる動植物が蔓延る、自然に溢れた場所だったのだ。人々も動物も助け合って仲良く暮らし、桃源郷のようにも思われた。かつて自分もこんなふうに笑いあっていたのかもしれない。そう思うと、町の人々はとてつもなく眩しく見えた。

 「ごめんね。ごめんね。安らかに、眠って」

 そんな幸せな町は、当然、命が溢れかえるのなら、死にも溢れかえっていた。毎日町のどこかで動物が息絶えて、誰かが涙を流す日々。そんな彼らの気持ちを少しでも鎮めることが出来るのなら。

 そう思って、男は犬以外の動物だろうと、亡骸を集めると、町の隣にある森の中の泉で墓を作り、弔った。

 「どうか、虹の橋を渡れますように。あの世でも、幸せに暮らせますように」

 そんな願いを込めて、一つ一つ、丁寧に小さな墓標を作り、ひたすらに祈った。

 毎日毎日、夜になると動物の亡骸を集めては月の明かりだけを頼りに泉の傍で動物を埋めた。広大な泉に映り込んだ月は、動物たちの旅立ちに助けてくれるはず。そう信じて疑わなかった。


 だが、それもいつまでも続かなかった。

 なんの断りもなく、動物たちの亡骸を集めて泉の傍でこっそり弔う彼は、町でいつしか怪物と言われ始めた。町を歩くたびに怪物だ、どうしてこんなところに、動物を集めて食べているのでは、暗闇で動物を引きずっているのを見た、ああ恐ろしい恐ろしい、とささやかれ、男は居心地の悪さに森の中に引きこもる。

 自らがやったことの何処に間違いがあるのか、男には全く分からなかった。どうして彼らは自分を恐れる。どうして怪物と言う。全く分からない。だけど、自分が悪いんだろう。きっとそうだ。あの記憶の中の犬と同じように、俺はまた、何かしてはいけないことをしてしまったんだ。

 そう思うと、とてもじっとしていられなかった。

 泉の傍で寝泊りをしている彼は、これ以上町の人々に迷惑をかけるのも躊躇い、それでも何かをしてあげたくて、泉で弔った彼らにただただ、祈りを捧げた。

 「虹の橋に渡れますように。いつか、幸せを手に取れますように」

 届いてほしい。ただ、あの犬のように苦しみに囚われてほしくないから。

 そんなことを思って、祈る日々を続けていたとある日だった。

 「ねえ、この子も弔ってあげて」

 そんなことを言って猫の亡骸を持ってきたのは、男よりもずっと若い少女だった。愛らしい容姿に長い髪がたなびく。きらきらと光るその頬は男には近寄りがたく、深夜だというのに一人でこんなところに来て大丈夫なのかと不安になった。

 「……ここに来ていいの?俺は、怪物なんて言われる、酷い男なんだよ」

 「ふうん?私にはとてもそう思えないな。だって、貴方はただ、動物たちに安らかに眠ってほしかっただけでしょう。それの何処が酷いのかな。教えて?」

 「……君は、面白い子だね」

 男は笑うと、少女に近づき、猫を預かった。とても幸せそうに眠っているこの子も、もう息はない。

 男は丁寧に猫を地面に置くと、久々に穴を掘った。深く深く、何ものにも脅かされないように掘り、やがてゆったりとした動作で猫を埋める。そうして少女から猫の名前を聞くと、墓標を作り、立てた。簡素だけどこの子の眠る場所としてふさわしいように。

 そして最後に、男はお決まりの文句を言うのだ。

 「どうか、虹の橋を渡れますように」

 しばらく祈ったのち、目を開けると、少女は泉に足をつけてゆらゆらと揺れる水面を見つめていた。月夜に照らされた姿は泉に映り、影が少女の表情を覆い隠す。その姿があまりに美しくて、男はしばらく見入ってしまった。

 「虹の橋を知っているのね」

 「……君も、知っているのかい?」

 「もちろん。私も動物が好きなの。あの子たちが渡れますようにって、いつも祈っているわ」

 「そうか。……僕と、同じだ」

 男は少女の隣に並ぶにはあまりにもみすぼらしく、情けない人間だった。引きずった足も、ぼさぼさの髪も、薄汚い服も、彼女の傍には似つかわしくない。だからこそ、男は少女に咎めた。

 「ここにはもう来ない方がいいよ」

 「どうして?」

 「僕は、怪物だなんて言われている人間だ。君も、近づいたら変なウワサを流されてしまうかもしれないよ」

 「それでもいいよ、別に」

 少女は立ち上がると、くるくると踊るように泉の周りを歩いた。楽しそうに、時には口笛を吹きながら。

 その姿はあまりにも無邪気で、天使のように愛らしくて。

 思わず男は呟いてしまうのだ。

 「君は、天使みたいだね」

 「そうかな?そうかもしれないし、そうじゃないかも。……ねえ、またここに来てもいい?」

 「どうして。さっきも言ったように、ここに来るとあまりよくないよ」

 「貴方がいい人だって、分かるもの。変なウワサが流されたって、構わないわ。私は、私のしたいようにするだけ。……貴方が虹の橋へ送るその姿、もっと見てみたくなっちゃった」

 少女はにんまりと、悪戯っ子の顔でそう告げると、その日は帰っていった。到底、男の言葉なんて聞く様子ではなかった。


 それからというものの、少女は毎日のように男の元にやって来ては、動物の亡骸を持ってきた。しばらく休めていた動物を弔う、ということを再開することになるとは思わず、男は戸惑ったものの、それでも最後まで丁寧に墓を作ることに徹した。

 「貴方はどうして動物を弔い続けるの?」

 「そうだなあ。僕には記憶がないんだ。だけど唯一、覚えていることがあってね」

 男は唯一覚えていることを話した。

 とある犬と幸せに暮らしていたこと。だけど犬が死んで、深い後悔をしていること。何か、してはいけないことをしてしまったんだと。記憶を取り戻したい。あの犬にもう一度会って謝りたい。どうしてこんな後悔に苛まれているのか、知りたい。

 「結局、僕はあの記憶にある犬がどうしているのか知りたいんだ。安らかに眠っているのか、どこかで聞いた虹の橋とやらをちゃんと渡れているのか。だから、動物を弔って、償えないと分かっていても償おうとしている。それであの犬にもいつか会えたらって思うんだ。……こんな僕を笑うかい?」

 「どうして?ちっともおかしなところなんてないじゃない。貴方の大切な記憶と犬、見つかるといいわ。……そうだ、私もあなたの記憶を取り戻すお手伝いをしたいな」

 少女はそう言うと、立ち上がる。泉に映る彼女の姿は、いつ見てもキラキラと輝いていて、こんな自分とは居てはいけない存在と思えてしまう。だのに、彼女は彼の心にするりと、それこそ猫のように入ってくる。

 彼女は一体何者なんだろう。

 いつしか、そんな疑問が頭を渦巻いていた。


 少女はとにかく不思議な人間だった。

 町の人々から慕われ、動物からも慕われ、毎日がとても楽しそうなのだ。そんな彼女に手を引かれて久々に森を抜けると、町の全てが輝いて見える。太陽の光、木々のざわめき、動物の鳴き声。命に溢れたこの町が、とても尊いもののように思えて仕方がない。

 何よりも、彼女と居るのが楽しくて仕方なかった。

 「ちょっと、その人、動物の死体を集める人じゃないか!怪物だってウワサだよ、一緒に居ていいのかい」

 「大丈夫よ。とっても優しい人だもの。ほら、貴方も何か言って」

 「……勝手に皆さんの家族を取ってしまい、本当にすみません。僕は、動物たちに安らかに眠れる場所を与えたかったんです」

 「ふうん。なるほどね」

 「とても誠実で素敵な人よ。信じてあげて」

 「まあ、貴方が言うのなら……」

 少女の一声はまさに鶴の一声だった。彼女が弁解するだけで男は怪物から信頼に値する人間として扱われ始め、一週間もすれば町中を歩いているだけで挨拶が四方八方から飛んできた。隣で少女が歩いているのも理由の一つとはいえ、なかなか不思議な体験に男も戸惑うばかりだ。

「あんた、別れてしまった犬と再会したくて動物たちを弔っているんだって?」

 「ええ、そうです。犬とのちゃんとした記憶を取り戻したくて。……動物を弔っていれば、少しでも思い出せるかもと思ったんです。犬と何処で別れたのか、どうして未だに後悔が僕を覆いつくしているのか」

 「あんたの犬も、記憶も。見つかるといいねえ」

 町の人々の優しい声に男の心はじんわりと温かくなる。この町は生命に溢れ、優しさに溢れ、助け合って生きている。そんな場所で、自分は場違いだと知っているのに、どうしてもここから抜け出せなかった。

 それは、この場所に記憶の手がかりがあるからなのか、少女のおかげなのか、それとも町のおかげなのか。分からないけれど、それでも居心地がいいのは確かだった。

 

 とはいうものの、彼の記憶が戻る気配は一向になく、少女と出会ってから二週間が経っても何の手がかりもなしだった。その間、泉の周りの墓標は増える一方で、男はそろそろ、本来の目的を忘れてしまいそうな勢いだ。

 「貴方はいつも足を引きずっているのね。……どうして?」

 いつものように、夜遅くの泉で、二人が水面に足をつけてぶらぶらとさせていた時だった。新月のせいで明かりがなく、闇が濃い中で少女の表情は見えない。気配と音だけを頼りに、男は少女を探った。

 「分からない。けれど、もうこの足が治ることはないと思う。……そんな気がする」

 「そうなの。……傷も、大きいのね」

 男の右足には、普段服で隠れているせいで分からないけれど、ふくらはぎの所に大きな傷がある。この傷も、何処でつけたものか分からない。

 「この傷でさえ、分からない。……どうして、俺は何も覚えていないんだろう。大切だったはずの犬も、自分の痛みでさえも。僕はどうしていいのか分からないよ」

 「そう。……ねえ、もし、よ。……私があなたの事を知っていると言ったら、どうする?」

 「え?」

 ちゃぷん、と水の跳ねる音がする。透き通った泉は、月光がない中でも、ゆらゆらと主張して、二人の足に絡みつく。だけど、少女はそれを鬱陶しそうに払いのけて泉から抜け出した。立ち上がった彼女の姿が、闇に紛れていつもと違う印象を受ける。天使のように見えていた彼女は、今、死神のように黒い。

 「どういうこと、かな。僕の、何を知っているの?」

 「すべて。と言ったら、語弊があるかも。でも、貴方の求めていることはあらかた知っているわ」

 どうして記憶がないのか。どうして足を引きずっているのか。この大きな傷は何なのか。どうして、男は犬に対して深い後悔を負っているのか。

 それらを知っているというのか。目の前の、少女が。この町を左右すると言っても過言ではない、この小さな少女が。

 「君は、一体何者なんだ」

 幾度その疑問が頭を過った分からない。初めて会った時、怪物と恐れられ、そして怪物と言われても可笑しくない姿の男は思った。町の人々から慕われ、尊敬され、時に畏怖さえも感じさせているこの若き少女を見た時にも思った。

 そうして今も、男は思う。

 この少女は一体何者なのか。驚きと、興味と、そしてそれをすべて覆い隠してしまう恐怖に吞まれないよう、必死に抵抗しながら男は目の前の影を見つめた。

 影は、にんまりと笑うと、さあね、と小さく答える。

 「何も覚えていない貴方が悪いんじゃないの」

 「僕たちは、もっと前に会ったことがあるの?」

 「そう。貴方が覚えていないだけ」

 「……じゃあ、君は僕の知りたいことを教えてくれる?」

 「教えてもいいけど。覚悟、することね」

 少女はしゃがんだかと思うと、泉に浸かった男の右足を見つめ、大きな傷をなぞった。近くで見る少女の顔は、どこまでも無機質で、何を考えているか分からない。男は何をされるのかとビクビクしていたが、それを感じ取った少女は朗らかに笑って払しょくさせた。

 「覚悟、ってなに?」

 「すべて、かな。だって」

 ――貴方は優しい人だから

 少女はそれだけを残すと、森に広がる闇に吸い込まれていった。

 

 意外な所で自分を取り戻す兆しが見えたかもしれない。まさか、記憶を失くす前の自分を知っている人がいるなんて。

 男は翌日、朝陽が眩しく照らす緑の中を、ゆっくりと歩いていた。森を抜ければ町が広がり、皆が快活に笑って生活を始めているのだろう。この町は朝が早いから、もうほとんどの家が洗濯物を干しているのだろうな、と予想した男は、ひたすらに町を目指した。

 森の中では鹿やウサギ、サルに犬など、とにかく多種多様な動物たちが顔を覗かせ、男の様子を伺っている。初めてこの町に来た時よりは随分と警戒心も解かれているとは思うが、それでも遠巻きに見られているのは変わらない。

 「それもそうか」

 動物の死体を集めて回り、弔う人間なんて、受け入れろと言う方が難しいものだ。何より、言葉が伝わらない動物なら尚更。

 「おはよう」

 森を抜けると、待ち伏せしていたのか少女が笑顔で挨拶をしてきた。真っ白なワンピースをたなびかせて手を振る彼女は、昨夜見た姿とはどうしても重ならず、男は戸惑う。本当に不思議な子だ、と男はため息をついて、挨拶を返した。得体のしれない恐怖が抜けていないわけではないが、むやみに怖がってばかりでは前に進めない。何より、彼女が自分を知っているのなら、そんな感情は捨ててしまった方が楽なのだ。

 「覚悟、出来た?」

 「自分を知るという覚悟?」

 「もちろん」

 「出来てるわけでないよ。でも、覚悟は後からついてくるものだから」

 「大人みたいなこと、言うのね」

 「君よりはずっと大人だから」

 少女はそっか、と相槌を打つと、男を顧みずに歩き出す。慌ててついて行くと、少女は口笛を吹いていた。どこかで聞いたことのあるメロディーに思わず笑みが漏れる。どんな歌だったか、それすらも忘れてしまったけど、とても懐かしいものだということは分かった。

 「貴方に案内したい場所があるの。……でも、その前に見てほしいものがあるわ」

 「それが、僕に関係あるもの?」

 「そう。きっと、貴方は思い出してしまうわ」

 まるで記憶を取り戻してしまうことがいけないとでも言うように、彼女は口笛を再開した。男はそれだけで悟った。

 きっと、今日で全てが分かるんだ、と。


 「君はずっと前から僕を知っていたというけど、どうして今になって僕に全てを教える気になったの?」

 「そろそろ、時間が迫って来たから。……自力で取り戻せるのならそれに越したことはないけど、このままではいつまで経っても変わらないって悟った」

 そう言いながら少女がここよ、とたどり着いた場所は、泉があった森の反対側、だだっ広い町の南側だった。赤、黄、青、橙。色とりどりの花が咲き乱れて、歩くのすらままならないその場所は、まさしく花畑というもので、こんな場所があったなんて思いもしなかった。蝶がふわふわと目の前を横切っていく中、男は恐る恐る花畑の中に足を踏み入れる。花を折らないように細心の注意を払いながら、むせかえるような香りに包まれて探索をする。少女は何も言わずについてきて、この場所に何があるのかは未だ分からないままだった。

 「この川、見たことあるかも」

 やがて二人がたどり着いたのは、花畑を抜けた先にある川だった。男はなんだか妙に胸騒ぎがして少女の顔を見つめる。彼女は頷くと、川に手をつけて水をすくった。さらさらと流れるその水は死者の隣にいる泉とはまた違った質感をしていた。

 「貴方にとって忘れられない場所よ。最後に、犬と出会った場所」

 「……僕の、犬?」

 男は真っ直ぐに川を見つめた。唯一覚えている記憶を手繰りよせて、犬を思い出す。あの子は、一体どうしているのか。もちろん死んだ。……一体どこで?

 「ここに、あの子は居た……?」

 一本の紐が引っ張られる。ぐちゃぐちゃに固まった塊は糸くずの巣窟で、複雑に絡み合って、中身が見えない。けれど、一本ずつ、少しずつ紐解いていけば。

 やがて男は何もかも、思い出すだろう。

 少女は頷くと、男に近づいてあるものを渡した。

 錆びだらけの鉄の板は小さく、真ん中に何かが彫ってある。その文字に刻まれているのは、ウー、という文字。

 遠くで何かの鳴き声がする。ウゥゥゥ、と唸るような、愛くるしいその声は、男の頭の中で響いてやまない。男はこれを知っている。この鳴き声だって覚えがある。だって、これを聞いてあの子に名前を付けたのだ。他の子よりずっと気丈で、唸り声のような鳴き方をするこの子につけてあげた。ウー、と。

 いつだって警戒心が強くて、だけど密かに男の事を慕ってくれていたあの子は、冷たい態度を取りつつも、それでも男の傍を離れなかった。彼の様子を伺っては近寄ったり、時には顔を舐めたり、気まぐれに愛情表現をしてくれた。

 「あ、ああ……。ウー、」

 どうして思い出せなかったのだろう。あんなに大事にしていたのに。あんなに、大好きだったのに。

 一本の紐がするすると抜けると、不思議な事に糸くずは綺麗に解かれていく。多彩な色で絡み合った糸くずが崩れ落ちた時、現れたのはあの子だ。男の子で、耳が小さくて、鼻も小さくて、目だけがらんらんと輝く、可愛らしい犬。性格はやけに警戒心の強い、気丈な子。

 「思い出した」

 「そう。ウー、っていう名前だったのね。……ようやく、思い出せた?」

 「ああ。……あの子の事以外、覚えていなかった僕が、どうして虹の橋を知っていたのか、それすらも思い出したよ」

 男はネームプレートを大事に握りしめると、引きずった足を撫でて苦々しく呟いた。

 「虹の橋は、君から教わったんだ」

 

 男は遠くの町で、貧しい生活を送っていた。その町自体、あまり景気の良い所ではなく、誰もが憔悴しきった様子で働く様な、そんな場所だった。

 けれど、男はそんな中でも一つの癒しがあった。もちろん、ウーだ。ウーは男と過ごし始めて十年以上も経つ、信頼のおけるパートナーだった。過酷な仕事の帰りでも、ウーが待っていると思うと男は頑張れた。決して他の家の犬ほどべったりしてくるものではないけれど、それでも近寄って素知らぬ顔で寝ていたりするウーを見ると癒されたものだ。あの子の作る距離感が大好きだった。

 だけど、ウーは病に罹った。見るからに憔悴していくウーに男は戸惑い、獣医に診せようとした。だけど、その頃、彼の住む町の貧困化はますます酷くなる一方で、男は食べていくので精いっぱいだった。仕事を選ばず、なんでもこなしているせいで、毎日疲れて帰り、ウーとの時間は減るばかり。ウーが苦しみながら寝ているその様子を見ては獣医を探そうとしたが、それでも懐から出て行くものは何一つない。食パンすら買えない自分には、何も出来なかった。

 

 そんな時だった。遠くの町でとある仕事をすれば、報酬がかなり貰えるという話が出たのは。もちろん町のみんなはそれに食いついたが、その遠くの町が“とある”理由から敬遠されているのを知ると、彼ら彼女らは一気に仕事から手を引いた。男もその町の話は知っていたが、それよりも目の前で苦しむウーを見ると、居ても経っても居られなかった。

 皆が止める中、ウーの治療費を捻出するために、彼はウーを置いてその町に出向いた。

 「ごめんな。でも、待っていてくれ。この仕事が終わったら、お前を医者に診せてやる。絶対にだ」

 それが、この、あらゆる動植物に溢れた町だった。

 

 「俺は、この町に仕事に来たんだ。……それで、しばらく過ごしているうちに、ウーが命からがらこの町にやって来た。……それは」

 「貴方を追ってきた。そうでしょう」

 男は唇をぎゅっと噛み締めた。知っている。もちろん、そうとしか考えられない。ウーは男を追いかけてこの町にやって来た。さあ仕事が終わった、ようやく帰れると息巻いていた男の目の前に現れたのは、余命幾ばくも無いウーの小さな姿だった。

 「金は出来た。もう、帰って診せるだけだった。……でも、間に合わなかった」

 ウーはなぜか男の前に姿を現すと、安心したようにこの川のほとりで息を引き取った。もちろん病死だった。

 人間の足でも三日かかるこの町まで、ウーは病と闘いながら、男の匂いを追ってやって来てくれた。それが何よりも嬉しくて、悔しかった。

 間に合わなかった。男はいつもウーに助けてもらいながら、何もしてやれなかったのだ。

 もっと金があれば。いいや、仕事の要領がよければ。果てにはウーを大切にしてやれるのが自分ではなかったら。

 あの子はこんなことにはならなかっただろうに。

 幾ら後悔したってウーはもう帰ってこない。ただただ、後悔だけが募るだけだった。涙がとめどなく溢れて止まらない。気づけば地面には立派な水たまりが出来ていた。

 そんな時だ。

 この少女が目の前に現れて、ウーの亡骸を手に取ったのは。

 ――この子も、虹の橋を渡れるようにしてあげるわ

 ――それは?

 ――動物たちの天国。幸せに暮らせる死後の世界よ。そこではどんな動物も、大切な人と再会して、怪我も病気も治って、いつまでも幸せに暮らせるんだから

 少女はそう言ってウーをとある場所へ連れて行った。その場所こそ、この町が敬遠されるただ一つの理由だ。

 「どうか、ウーの所へ連れて行ってくれ。……もう一度、会いたい。……ダメかな?」

 すべてを思い出した男は、だけどたった一つ、忘れたままで少女に懇願した。少女は瞼を閉じて何かに想いふけると、頷いた。

 「それで貴方が満足するのなら」


 そこは泉に並べられた墓標なんて比べられないほどの墓があった。川から歩いて数分のその場所は、同じ町の中とは思えないほどに厳かで、生命の息遣いが聞こえない。

 それもそうだろう。

 なんたって、何百、何千と言った動物たちの墓が建てられているのだから。

 男はその土地に足を踏み入れた途端、息を呑んだ。そして、隣にいる少女を見つめた。

 彼女こそ、この土地を管理する人間。ウーを埋めた張本人。

 「君は、動物たちの墓守なんだね」

 「そうよ。……この町が敬遠されてしまう原因を作っているとも言えるわね。……でも、虹の橋を渡れるっていうウワサで、いろんな場所から動物たちの亡骸がやって来るわ」

 道理で町の人々はこんな小さな少女を慕うわけだった。この町を活性化させ、尚且つ疎まれる厳かな場所を形作る役職を担う彼女は、恐れられ、敬われるのだろう。生前の記憶を取り戻した男は、今ならわかる。虹の橋という一風変わった町の名前を他の人々が近寄りたがらないのは、死に溢れているからだ。亡くなってしまった動物を送るには最適な場所であるが、何であろうと大切な何かを抱える人にとっては、死に溢れたこの場所に近づくのは末恐ろしいものであるに違いない。

 「貴方は、ウーが死んでから私が虹の橋を渡らせるまでのこと、覚えている?」

 「……君にウーを預けてついて行った。……けど、そう言えばそこからは思い出せないな。……これも、記憶がまだ戻っていないからだろうか」

 「そうね、そうだといいのにね。でも、違うの。貴方はまだ、全て思い出していないの。貴方がどうしてウーを探すのか、それは後悔だけじゃないんだから」

 少女は大量の墓標の中を突き進んでいく。広大な墓地は、全て動物の墓だ。今更だが、男の作る墓とは別格の出来具合に目を見張ることしか出来ない。これをすべて彼女一人がやっているのだから、恐れおののいてしまう。

 「貴方はね。肝心なことを思い出していない。……いいえ。気づいていない」

 やがて少女が見つけた墓標は大きな墓と小さな墓が対になったものだった。少女は男からネームプレートを預かると、小さな墓に置いて手を合わせる。もちろんそれは、ウーの墓だった。

 「ウーっ……」

 男もやっとウーに会えると近寄る。だけど、どうしてか隣の大きな墓が気になってしまい、見つめた。

 少女は俯いたまま、何も言わない。それが誰の墓であるのか、何も言わなかった。

 墓に刻まれたその名前が、男のものであっても。少女は俯いたままだった。

 「僕の、名前っ……どう、して」

 「川よ」

 「……川?」

 「ウーが死んで、心を壊した貴方は私に飛びかかったの。でも、足を滑らせて川に落ちた。その時、大雨が降った後で川の流れは激しかったの。あなたは足を引っかけて、その傷を負って、それで……」

 溺れて死んだのよ。

 ただ、その言葉だけがいつまでも響いていた。

 「助けられなかった。本当にごめんなさい。……町の人々を呼んだ頃には、手遅れだった。初めて人の墓標を建てたわ。……ウーのと隣り合わせにして、どうか安らかにって。……でも、貴方はこうして現れた」

 今でも彼女は覚えている。助けようとして男に手を伸ばした記憶。だけど、届かなかった。男も手を伸ばして、必死につかまろうとしていた。けど、その距離は15センチもあった。二人の手が繋がれることなんて、なかった。

 「何もかも知っていたのは、そう言う事だったんだね。僕は……本当に怪物だったんだ」

 今なら分かる。町の人々が恐れていた理由。いつまでも遠巻きに眺める動物たち。足を引きずるたびに痛む大きな傷。記憶を失くした理由。

 僕は、死んでいたんだ。

 

 全てが明らかになると、男はどうにも可笑しくてたまらなかった。そうか、道理で。なんだか死んでしまった事よりも、この町で過ごして感じた違和感に答えが見つかって、すっきりした。何より、自分はこれからウーと同じ場所に行くのだろうと思うと、それはそれでいいかもしれないと感じてしまった。

 「僕は、虹の橋を渡れるかな」

 「渡れるわ、きっと。動物と、パートナーが寄り添っていつまでも一緒に居られる、そんな場所でもあるんだから」

 「そうか。そうなんだ。……それなら、いいんだ。僕が死んでいたって、構わないよ。これでウーに謝れる。ごめんね、ありがとう。大好きだよ、って」

 「……ウーはきっと、あなたの事を恨んでいないわ。……大切なパートナーとして、ここまでやって来て、貴方の顔を最後に見たかったのよ」

 「うん、きっとそうに違いない。……ウーは、何だかんだ、僕の事をずっと見ていてくれたから。ウーも、僕も、この町で終わることが出来てよかったかもしれない。なんたって、虹の橋に送ってくれる可愛い墓守さんがいたんだから」

 「そう言ってくれると、私の心も救われるわ」

 「それなら良かった。……ありがとう。何だか、とってもすがすがしい気分だ」

 男はしゃがんでウーの墓に手を合わせる。少女もそれに倣って、手を合わせた。やがて男が消えても、夕日が射しこんでも、いつまでも手を合わせ続けた。

 ようやく目を開けて、寄り添いあう墓標を見た時、遠くで男と小さな犬が歩く姿が見えた。

 一人と一匹は、幸せそうにきらきらと輝く虹の橋に足をかけていた。

 傷ついた男の足も、弱々しかった犬の身体も。

 もう、綺麗に治っていた。


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どうか、君が虹の橋を渡れますように 美黒 @mikuro0128

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