第24話 急転

 シルベスタン港での騒動を収拾させたカエトスたちが、王城に帰還してまずやって来たのは典薬寮だった。

 ここはその中の別棟にある王族専用の療養室。美しい木目の天井と壁、そして大理石を敷き詰めた床からなる広い部屋で、四面ある壁のうちの二面がガラス張りになっている。そこからはそよ風にさざ波を立てる広大な池と、巨石と巨木が折り重なる荒々しい雰囲気の庭が一望でき、室内にいながらまるで屋外にいるような開放感がある。

 

 カエトスたちが典薬寮にやって来た目的は、レフィーニアの検査のためだ。

 レフィーニアは国王になるための儀式を明日に控えた大事な体でありながら、多くの死傷者を出した霊獣討伐に同行するという暴挙に出ている。本人は大丈夫と主張してはいたが、周りの人間が王女の体調を心配するのは当然のことだった。


 その王女はといえば、いまは部屋の中央に鎮座する巨大な寝台の横にある椅子に腰かけ、対面に座る白衣姿の初老の男と会話を交わしているところだ。周りには白衣の女が四人、革製の鞄を手に佇んでいる。

 男は王族専属の侍医で、周りの女はその助手だ。鞄の中には薬や包帯、傷の縫合などに用いる医療器具などが入っているのだろう。

 

 侍医は頭痛はしないか、手足に痛みはないかなどと尋ねながら、慎重な手つきで王女の腕や足を指先で叩いている。王女が面倒くさそうに大丈夫と繰り返し答える様子を、傍らに立つナウリアが静かに見守り、カエトスはそれを入口の扉の前から、室内外の気配に注意を傾けながら眺めていた。

 

 室内にいるのは、カエトス以外にはそれだけだ。親衛隊ヴァルスティンの面々も、王女の護衛にあたるべき親衛隊隊長ミエッカもここにはいない。

 ミエッカは現在、霊獣討伐で大破してしまった輸送船の代わりを手配したり、自らネルヴェンを駆って重傷者の搬送を行ったりと、王都とウルトスの間を行ったり来たりしていた。

 

 人命救助は重要な仕事ではあるが、王女の護衛を放り出してまでやることかといえば、違うと言わざるを得ない。そしてミエッカにとっては一兵士の命よりもレフィーニアのほうが大切なはずだ。なのになぜ王女のもとを離れているのか。それは人命救助は建前であり、真の目的は湖に逃亡した狙撃者の手掛かりを得るため。そこから真犯人につながる情報を得ようとしているのだ。

 

 本来ならミエッカの部下であり、狙撃者と実際に相対したカエトスがそれをやるべきなのだが、ネルヴェンを操縦できないことと、手足に少なくない怪我を負っていたことから、カエトスが城に残ってレフィーニアの護衛を担当することになり、こうして限られた人間しか入室できない療養室にいるというわけだ。

 

 カエトスは正直、その指示を受けたときに戸惑ったものだ。昨晩、決闘を行ったばかりのミエッカが最愛の妹の護衛を命じたのだから。どうやら、霊獣討伐における働きとナウリアを救出したことが、カエトスに対する評価に好影響を与えているようだった。

 カエトスの内心では依然として止むことのない葛藤が渦巻いているものの、事態は着実に進んでいて、そしてそれは悪くはない方向に向かっている。

 このまま全てを上手く乗り切れればいいのだが。

 

 カエトスが周囲の気配に神経を尖らせながら考え事をしていると、レフィーニアを診察していた侍医が声を上げた。

 

「殿下の仰る通り、お体にこれといった異常はないようでございますね。霊獣討伐に向かわれたと聞いたときは肝を冷やしましたが、ご無事で本当に安心いたしました。ナウリア殿。診察はこれで終了でございます。明日の儀式はつつがなく執り行えることでしょう。この旨は私から宮内卿と神祇長官にお伝えしておきましょう」

「よろしくお願いいたします」


 しわの目立ち始めた顔に安堵の笑みを浮かべながら立ち上がる侍医に、ナウリアが頭を下げる。


「それでは我々はこれで失礼いたします。何かありましたら、いつでもお呼びつけくださいませ」


 侍医は助手たちと連れ立って入口に向かうと、そこで深々と一礼した。両開きの扉の脇に退いたカエトスにも軽く頭を下げて、静かに退室する。

 扉が閉まるのを見届けたカエトスが室内に目を戻すと、レフィーニアが座り心地のよさそうな椅子の背もたれに体を預けながら大きくため息をついていた。健康なのに侍医に体のあちこちを触られるのが苦痛だったようだ。

  

 ふと王女が体を起こした。カエトスに向かって手招きする。

 何の用だろうかと思いつつ、カエトスは床に敷かれた緑の絨毯を踏みしめながら歩み寄った。

 レフィーニアが立ち上がり、先ほどまで侍医が座っていた椅子を指し示す。


「上着を脱いでここに座って。怪我を治してあげる」

 

 どうやら、ウルトスでカエトスの傷を治した力を使うつもりらしい。カエトスは王女の意図に納得しつつ、椅子の手前で立ち止まった。

 

「殿下、私の怪我はそれほど大きなものではないので、お気遣いは──」

「いいから」


 レフィーニアはカエトスの主君という立場にある。いくら厚意からのものとはいえ、その線引きをはっきりしておかねばとカエトスは謝絶したのだが、レフィーニアにあっさりと遮られた。腕を引かれて、強引に椅子に座らされてしまう。


「ほら、早く脱いで」


 目の前に立ったレフィーニアが制服の襟もとに手を伸ばしてきた。

 さすがに王女の手で服をむしり取られるわけにはいかないため、カエトスは自分で上着を脱いで膝の上に置いた。

 

 霊獣との戦闘時に着用していた鎧や服からはすでに着替えており、いま脱いだのは親衛隊ヴァルスティンの紺色の制服だ。半袖の下着姿になったカエトスを目にしたレフィーニアとナウリアが小さく息を呑む。

 

 制服の袖に隠されていた両腕には包帯が巻かれていた。これは先の霊獣討伐時に負った怪我で、右上腕部の包帯には少し血が滲んでいる。幸い、女神の呪いが刻まれた左上腕には負傷はなく、また半袖で隠されてもいるため、二人の目を引くことはなかった。

 

 レフィーニアは眉をひそめながら、血の滲む右上腕の包帯をするすると解いていった。傷口に当てた布を外すと先刻、典薬寮の医師の手で縫合された生々しい傷跡が姿を現す。霊獣の攻撃によってできた裂傷だ。


「姉さま。はさみ、持ってる? この糸を取らないと治せないから」

「ありますけど……本当に治せるんですか?」


 ナウリアは当惑の表情を浮かべながらも、上着のポケットから小さな財布のようなものを取り出した。二つ折りのそれを開くと針や糸、ボタンなどが綺麗に収まっている。携帯用の裁縫道具らしく、そこには小さなはさみもあった。

 

「うん。見てて」


 差し出されたはさみを受け取った王女が、まるで自分が痛みを感じているかのように顔をしかめながらカエトスの傷口に刃を近づけた。慎重な手つきで縫合糸を切断し、その末端をつまんでゆっくりと引きずり出す。

 カエトスは皮膚の中を異物が動く違和感と痛みを顔に出さないように耐えながらそれを見守った。一度は密着させられた傷口が再びぱっくりと真っ赤な口を開け、じくりと血が流れ出す。それを押しとどめるように、レフィーニアが傷口に右手を当てた。その拍子にもう一度カエトスの体に痛みが走る。だがそれはすぐに消えた。

 レフィーニアが手を退けると、たった今まであった傷が消滅していた。そこに残ったのは血の跡のみ。ウルトスで傷を治してもらったときと全く同じだった。

 王女が左手にまとめて持っていた包帯を脇のテーブルに置く。それは一本ものだったはずなのに、途中で切断されていくつもの短い包帯となっていた。


「これは……?」


 いつの間に用意したのか、ナウリアが清潔な白布を王女に差し出した。畏怖のこもった視線でカエトスの腕とテーブルに置かれた細切れの包帯とを見やる。

 王女は白布を受け取ると、手についた血を拭いながら小さく息をついた。その顔に達成感の滲む微笑が浮かぶ。


「最近になって使えるようになった神さまの力。私もよくわからないんだけど、物の状態を移し替えてるみたい。いまはカエトスの傷をこの包帯に移動させたの。だから切れたの」

(色んな力を持つ神がいるんだな)


 カエトスは改めて完全に傷が消えてしまった腕を見ながら、最も身近な神であるネイシスに感嘆混じりの思念を送った。

 ちなみにネイシスはいまミエッカに同行している。

 表向きは、ネイシスならば透明化した人間を見破れるからとの理由だが、実際にはミエッカ自身の護衛のためだ。イルミストリアには、これからミエッカが危険にさらされるといった記述は出現していない。しかし突然内容が変わったという前例がある。それを考慮してネイシスについて行ってもらったのだ。

  

(人間が知っている神などほんの一握りだし、私自身も全部を把握してないからな。そういった奇妙な力を行使できる神がいてもおかしくはない)

「カエトス、他に痛いところはない?」


 レフィーニアの心配そうな声が、頭の中に響くネイシスの声と重なる。

 

「他はかすり傷のようなものですから大丈夫です。ありがとうございました。これでほぼ体調は万全です」

 

 ナウリアが差し出した白布で血の跡を拭いながら、カエトスはレフィーニアに礼を述べた。

 王女がよかったと無邪気な笑みで答える。ただそれもすぐに消えてしまった。カエトスが上着を羽織る中、代わりに現れた真剣な眼差しを、隣りに立つナウリアに向ける。


「姉さま。わたしはこの力を使って、カエトスとミエッカ姉さまを助けるためにウルトスに行ったの。そしてこれは神託にあったこと。だから誰にも話せなかったの」


 それははっきりと口にしてはいなかったが、ナウリアの力は必要としていないという拒絶がほのかに滲んでいた。

 ナウリアが唇をぐっと引き結ぶ。


「……それはわかりました。殿下が神官であることを、改めて思い知らされましたから。ですが神のお告げだとしても、本当に安全なのでしょうか。私には殿下を危地に追い込んでいるようにしか見えません」

「心配しなくても大丈夫。だって神さまの望みは姉さまと同じだもん。放っておいてくれれば、わたしは国王になるわ。安心したでしょ」


 レフィーニアの口調は悲しそうであり、投げやりのようにも聞こえた。ナウリアが口を開きかけるが、それを制するようにレフィーニアは続ける。

 

「いいの、わかってるから。だって姉さまはわたしが王女ってわかってからずっとよそよそしいし、もうわたしのことは妹なんて思ってないんでしょ。血のつながりもないんだし。だから、わたし国王になる。そして姉さまをそんな役職から解放してあげる。そうすれば、もうわたしみたいな面倒くさい人間に関わらなくて済むし、危険な目に遭うこともなくなるし、姉さまもそのほうが嬉しいでしょ」

「嬉しくなんてありません……!」


 不意に飛び出た語気鋭い声に、レフィーニアがびくっと体を震わせた。そして声の主であるナウリア自身も慌てて自分の口を押さえる。

 突然見せた姉の剣幕を、戸惑い混乱した様子で見つめるレフィーニア。姉の真意を窺うように次の言葉を待ち、ナウリアはそれから逃れるように顔を背ける。

 

 二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。

 それを押しのけるようにカエトスは立ち上った。姉妹間のわだかまりを解消するのはここしかないと、そう思った。二対の視線が向けられるなか、ゆっくりと口を開く。

 

「差し出がましいとは思いますが、敢えて言わせていただきます。侍女長殿は、きちんと殿下に本心をお伝えするべきです。いまは皆が協力しなければならないときなのに、仲違いはよろしくありません。しかもそれがお互いを思いやった結果の誤解となれば、あまりにも悲しすぎます」

「それって……どういうこと?」

「話してもよろしいですね?」


 カエトスは、頼りなげな口調で尋ねるレフィーニアを一度見やり、次いでナウリアに聞いた。彼女は目を伏せたまま沈黙を保った。話しても構わないとの意と受け取って話し出す。

 

「侍女長殿は、本当は殿下を王位に就かせたくないのです。そのために、秘密裏に殿下の王位継承権をなくすように努力されていたのですが、陛下の言葉や様々なしがらみから、実現できなかったとのお話を伺いました」


 全く予想していなかったのだろう。レフィーニアは目と口を丸くして一瞬固まってしまった。未だ顔を背けたままの姉に、か細い声で問いかける。

 

「姉さま……ほんと?」


 ナウリアは静かに頷いた。背けたままの姉の顔は辛そうに歪んでいた。

 

「何で……何で黙ってたの?」

「……あなたのために何もできなかったからです。失敗してしまったことを伝えて、あなたを落ち込ませたくなかった。……いいえ、これは違いますね。あなたを守ると大口を叩きながら、何もできない情けない姉だということを告白したくなかったからです」

「じゃあ、何でわたしを国王にしようとしてるの」


 レフィーニアが姉に一歩近づいた。

 ナウリアは妹に正対して、姿勢を正した。そして侍女としてではなく、姉としてはっきりと告げる。

  

「……あなたを助けるためです。あなたの命が狙われるのは当然予想できることでしたから、最初は継承権を放棄できないかを模索していました。でもそれが不可能とわかって次に考えたのは、あなたに自分を守る力をつけさせることでした。その力としてあなたに一番相応しいものが、国王としての権力です。どうやっても遠ざけられないのなら、いっそのこと自分のものにしてもらおうと思って、私はあなたを国王にしようとしたんです。誰もが名実ともに認めるような立派な国王に」

「私の……ため……」

「ごめんなさい、不甲斐ない姉で。あなたが国王になりたくないのは知っていました。でも私には、あなたを守る方法がこれしか思いつきませんでした。あなたが望まない立場に追い込まれたとしても、絶対に生きていて欲しかったから……」


 ナウリアの目尻から一筋の涙が頬を伝って零れた。それを人差し指で拭って、改めてレフィーニアを見つめる。


「レフィ。私はあなたの傍にいたい。でも私にはあなたを陰ながら支えることしかできません。それでも……傍に居させてくれますか?」


 目に涙を溜めたレフィーニアが、吸い寄せられるように姉へと歩み寄る。しかし手が届きそうなところで、その足が止まった。


「でも……わたしの傍にいると、また危ないことに巻き込まれる。港で姉さまが襲われたのはきっと私のせいだから……やっぱり、姉さまとはもう──」

「それについてですが、おそらく港の一件は殿下との直接の関係はないと思います」


 カエトスは、再び姉を拒む気配を滲ませたレフィーニアに、すっと割り込んだ。そして用意していた言葉を理路整然と並べていく。

 

「殿下を害そうとする輩の目的が王位の簒奪にあると仮定した場合、侍女長殿が襲われたり誘拐されることはないはずです。このようなことは口にするのも恐ろしいのですが、仮に……仮に、もし侍女長殿が命を落とされたとしても、殿下の立場が揺らぐことはありません。誘拐されて、身柄と引き換えに継承権を捨てろと脅されたとしても、殿下は進んで放棄するでしょうが、周りの方々が絶対にそれを認めないでしょう。つまり、侍女長殿自身と王位の継承には直接の関係はありません。なのにあの賊は畏れ多くも侍女長殿の命を奪おうとしていました。そこから考えられるのは、賊には別の目的があったということです」

「別の目的って?」

「あくまでも推測ですが、身代金目当ての誘拐というのが最も妥当な動機ではないかと。侍女長殿は、王宮での服装のまま港にいました。見る者が見れば容易に立場を推測できるでしょう。王宮に仕える方は例外なく貴族ですし、家柄の良い娘と見込んでの犯行だったのではないでしょうか。誘拐を組織的に行う盗賊の類もいますし、彼らは生死問わずに対象を誘拐しますから。つまり、侍女長殿が危険な目に遭われたのは、巡り合わせが悪かっただけで、殿下が責任を感じられることはありません」


 カエトスを見つめるレフィーニアの瞳に、最悪の結果を想像しての僅かな恐怖と、理解の色が広がる。しかし王女を説得するには至らなかった。目を伏せて沈んだ声で言う。


「でも……ナウリア姉さまはそうだとしても、ミエッカ姉さまはわたしのせいでしょ」

「それについては……残念ながら仰る通りだと思います。隊長殿は殿下の親衛隊だったために、ウルトスでは狙撃の対象になってしまったのでしょう。ですが隊長殿は、殿下の存在に関係なく危機に飛び込むのではないでしょうか。隊長殿の内には、戦いを求める性のようなものがあります。殿下が王女という立場ではなかったとしても、別の場所で危機に見舞われていたことでしょう」


 ミエッカに対するカエトスの評価を聞いたレフィーニアは目を丸くした。一方のナウリアは濡れる瞳に苦笑を浮かべる。

 

「私もそう思います。あの子はきっとあなたに関係なく危ないことをするでしょうから」


 そう言って、改めて妹に真摯な眼差しを向けた。

 

「レフィ。私もミエッカも、あなたを国王にすると決めたときから、覚悟を決めています。あなただけに辛い思いはさせないと。あなたが原因で危険に巻き込まれたとしても、私たちが後悔することはありません。それに、もうあなたに隠し事もしません。だから一緒に歩いて行きましょう」


 その一言に王女の目から涙が零れ落ちた。残る距離を縮めて、姉に抱き着く。


「姉さま……」

「レフィ……ごめんね」

「ううん、わたしこそ……姉さまのこと何も知らなくて……ごめんなさい……」


 抱き合って互いの愛情を確認し合う姉妹から、カエトスは静かに離れた。

 

(ネイシス、今の話、隊長に伝えてくれるか?)

(もう伝えた。泣きそうになっているぞ)

(さすがだな)

(お前の考えが伝わってきたから、その通りにしただけだ。そして思惑通り上手くいったな。これで姉妹間の軋轢解消と、試練の進展を一緒に進められたというわけだ。そっちの二人だけじゃなく、ミエッカもお前に対してさらに心を許すだろう)

 

 ネイシスの感嘆混じりの言葉が、カエトスの胸を優しく抉る。

 

(む……すまない。お前の葛藤を刺激するつもりはなかった)

(いいよ、事実だ)


 カエトスは姉妹の関係を改善しようと考えていた。それは間違いないが、それと同時に問題を解決することで彼女たちとの親交を深められればとも思っていたのだ。つまりこの状況を自分のために利用したというわけだ。

 

(それよりも、本の内容は変わってないか?)


 カエトスは罪悪感に沈みかける心を奮い立たせながら、ネイシスに尋ねた。今の会話で王女たちとに関係を進展させられたなら、記述に変化が表れるはずだ。


(いや……まだ変化はないな。本が定めた条件は満たしていないようだ)

(……上手く乗り切れたと思ったんだけどな)


 真実も虚偽も口にせずに会話を進めて、姉妹と親交を深めよ。イルミストリアはそのように指示を出していた。その条件に合致させられるように会話を展開できたと思ったのだが、まだ完了していないというわけだ。

 しかしなぜイルミストリアはそのような指示を出すのか。本当のことも嘘も言えない何かについて尋ねられるということなのだろうか。

 

 カエトスが来たる試練に思いを巡らせていると、ふと蛙の鳴き声のような音が聞こえた。

 目を向けると、ナウリアから体を離したレフィーニアが顔を赤く染めていた。どうやら空腹のために腹が鳴ってしまったようだ。


「そういえば昼食がまだでしたね。何か作って来ましょう」


 ナウリアは柔和な笑みを浮かべると、ここは任せますとカエトスに告げて踵を返した。

 退室するナウリアを見届けたカエトスが目を戻すと、レフィーニアと視線が合う。

 

「姉さまの本心が聞けてよかった。わたしのことをちゃんと見ててくれてたし、やっぱり姉さまもわたしが国王の器じゃないってわかってた。これで心置きなくカエトスを国王にできる。姉さまはきっと反対しないもの」


 目尻を拭いながら椅子に座る王女は、はにかんだ笑みを浮かべていた。ずっと彼女を苦しめていた悩みの一つが解決した晴れ晴れしさもそこにある。

 一方カエトスは、とても楽観できる気分ではなかった。何しろカエトスは彼女が信頼する姉たちを口説いているのだ。顔に出そうになる葛藤を精神力で抑えつけながら、王女の傍らに控える。

 レフィーニアが顔を俯かせて、自分を抱き締めるように腕を回した。その肩は小刻みに震えている。

 

「いまになって思い出してきちゃった。わたし、ウルトスで狙撃されたんだよね。あの姿を消していた男に」

「……はい。未然に防げずに申し訳ありません。ネイシスの占いには危険な兆候があったのですが、私の観察力不足で見抜けませんでした」


 カエトスの脳裏にもあのときの恐怖がよぎる。一歩間違えば、レフィーニアは銃弾の直撃を受けて死んでいた。そしてそれはナウリアもミエッカも同じだ。カエトスの手が届くのが遅ければ、どうなっていたことか。想像するだけで心臓が凍り付きそうな気分になる。

 謝罪するカエトスに、レフィーニアは首を横に振った。

 

「見えなかったんだから仕方ないわ。それよりも、そんな敵の攻撃を防いだほうがすごいし、それに私だけじゃなくて、姉さまも守ってくれた。姉さまに何かあったら、わたし、何もかも投げ出してたと思う。本当に……ありがとう」

「いえ。殿下のご家族を守るのは当然のことです。殿下こそ、危険を顧みずに行動なされました。その勇気がよい結果につながったんです」


 再び涙ぐむレフィーニアにカエトスは静かに頭を下げた。

 これはお世辞ではなく紛れもない本心だ。レフィーニアがウルトスに同行していなければ、カエトスの負傷は治らなかったのだ。彼女なくして霊獣討伐も暗殺者の撃退もならなかっただろう。

 

「……助けてくれた人がカエトスでよかった。わたし、頑張っていいお嫁さんになる。だから……浮気は駄目だからね」


 不意に放たれたレフィーニアの一言に、カエトスは思わず動揺を表に出しそうになった。辛うじて、体のあらゆる反応を抑え込む。

 レフィーニアがカエトスの行動を知っていて釘を刺したというわけではない。なぜなら王女は涙に濡れた顔にいたずらっぽい笑みを浮かべているからだ。

 つまりは詰問ではなく冗談半分で口にしただけ。このまま動揺を見せずに速やかに同意する。そうすれば何事もなく切り抜けられる。カエトスがそう考えたところで脳裏に閃光が走った。

 イルミストリアが指していたのは、このことではないかと。

 レフィーニアは父である国王の行いの影響で、不貞行為に対して強い嫌悪感を抱いている。だからこそそれに関しては決して虚言を述べるなと指示している。

 可能性は非常に高いように思えた。

 しかしいったいどのように答えればいいのか。

 同意してしまえばそれは浮気をしないという宣言であり、完全な虚言になってしまう。だからといって約束できないなどと馬鹿正直に答えるのは問題外。そのどちらにも該当しない返答を捻り出さなければならない。

 

 カエトスは必死に頭を回転させた。沈黙が許される時間は短い。急いで結論を出さねば不信感を与えてしまう。そして考え抜いた果てに答えを出した。

 

「安心して下さい」


 短くそれだけ言って笑いかける。

 カエトスが導き出した結論は、多くを語らないことだった。人は不安を抱いたり隠し事があると饒舌になるもの。無用の言葉を重ねてはきっと怪しまれる。

 そしてカエトスの試みは成功した。

 

「……うん」


 レフィーニアは穏やかに微笑んで小さく頷いた。その笑みはカエトスの目を奪うほどに眩しく、そして胸に突き刺さった。

 

「お待たせしました」


 扉が開く音とともに声がかかる。目を向けると、お盆を持ったナウリアが入室するところだった。

 カエトスは王女の注意が逸れた隙に小さく息をついた。

 ナウリアが戻って来て、本当に助かった。これ以上王女と会話を続けていたら、抑えきれない動揺が漏れ出ていたかもしれなかった。

 

 ナウリアは静々と歩み寄ると、おにぎりの乗った皿とお茶の注がれたガラス製のコップを二つ、洗練された仕草でテーブルに置く。

 

「何で二つずつしかないの?」

「私はあとでいただきますから」


 妹の問いに答えたナウリアから、先刻よりは小さなカエルのような鳴き声がした。どうやら彼女も空腹だったらしい。レフィーニアが笑いながら手に取った皿を姉に差し出す。

 

「一緒に食べよ」

「殿下のお食事をいただくわけには……いえ。今日は特別ということにしましょう」


 ナウリアは頬を赤らめたままお盆をテーブルの上に置くと、椅子に座った。レフィーニアが差し出している皿からおにぎりを一つ手に取る。

 

「カエトス殿もどうぞ」

「ありがとうございます。無礼とは思いますが、立ったままで失礼します」


 そう言ってテーブルの皿を持ち上げた。おにぎりをつかんで口に運ぶ。

 

「……美味い」


 思わず声が出た。炊いた米を握っただけの単純な料理で、味付けは塩のみ。しかしその加減が絶妙だった。米の味を引き立てつつそれを邪魔しない。おにぎり自体も固すぎず緩すぎず、しっかりとまとまっていながら口に含むとほろりと崩れる。まるで優しさが詰まっているようなおにぎりだった。


「お口に合ったようで、何よりです」


 ナウリアが満足そうに頷く。

 和やかな空気の中、三人が無言でおにぎりに舌鼓を打つ。

 カエトスが二つめのおにぎりに手を伸ばしたところで、いつの間にか一つおにぎりを平らげたナウリアが切り出した。

 

「そのままでいいので、聞いてください。今後の予定について話しておきます。殿下は今夜から神殿に入り、明朝からの一連の儀式の準備を行う予定になっています。警備はヴァルスティンが担当するので、カエトス殿も神殿に向かうことになるでしょう。そしてここからが本題なのですが、カエトス殿には神域での護衛も務めていただこうと考えています」


 カエトスは飲み込みかけたおにぎりを危うく喉に詰まらせそうになった。


「もしかして神域と儀式は関わりがあるんですか?」

「ええ。神殿の奥には地下に通じる穴があって、その先は我が国の守護神シルトがおわす神域になっているのだそうです。王位の継承者は儀式の最後に神域に入り、無事に戻ってくることで正当な王として認められるのです。その際、神官の補佐のために親族のみが同行できることになっていて、私とミエッカがその役目を担う予定でした。ですが、神域は過酷な場所と聞きますし、見ての通り私には荒事に対処する力がありません。そこで私の代わりにカエトス殿に行ってもらいたいのです」

「カエトス。それ、わたしからもお願い」


 食べかけのおにぎりを左手に、お茶の入ったコップを右手に持ったレフィーニアがナウリアの要請を後押しするように言った。

 

「殿下。もしかして神託にあったのですか?」

「……うん。神域にはカエトスと一緒に行かないといけないみたい」


 姉の問いに、レフィーニアは少し躊躇いつつ答えた。そしてカエトスの様子を窺うように見やる。

 

「カエトス。また危険かもしれないけど……来てくれる?」

 

 カエトスの脳裏には、ネイシスの住む神域に行ったときのことが蘇っていた。あのときはそこに住む神獣との戦いで死にかけたのだ。神域というからには、神殿の地下も油断のできない場所のはず。ナウリアの懸念からもそれが窺える。

 レフィーニアをそのような場所に赴かせるのは避けたい。それほどに神域は危険極まりないのだ。しかしカエトスに国事行為を変更させることなど不可能であり、その道を歩むしかない。そしてもとより他の道を選ぶことなどできない。なぜなら──。

 

(ネイシス、もしかしてこれが本にあった王女の要請ってやつか?)

(少し待て。……うむ、もうすぐ七エルト三十六ルフス(午後三時十二分頃)だから、時間的にそうだろう)


 カエトスは内心頷いた。やはりイルミストリアが指示していたことだった。となれば返答は一つしかない。手に皿を持ったままという、いささか締まりのない姿ではあったが姿勢を正して頭を下げる。


「私は殿下の親衛隊です。殿下をお守りするためなら、如何なる場所であっても、何者が相手であろうともお供いたします。ですが……侍女長殿はいま、神域には親族しか入れないと仰いました。赤の他人である私に護衛が務まるのでしょうか」

「それは私とミエッカについても同じです。私たちは殿下の家族だと自負していますが、血縁的には他人です。だから神域に立ち入れない可能性があるんです」


 少し表情を硬くしたナウリアに告げられて、カエトスは思い出した。レフィーニアとナウリアには血のつながりがないことを。誰よりもお互いを思いやる姿を目の当たりにしているため、その事実をついつい忘れてしまう。


「その場合は、殿下おひとりで神域に向かうことになります。ですがそれは絶対に容認できません。そこで神域に行ったことのあるカエトス殿ならば、そういった制約が課せられないのではないかと期待したのです。殿下の神託にカエトス殿の名があるということは、神がそれを要求しているということにもなります。だから、あなたは立ち入ることができると思うのですが……実際のところはどうなのでしょう。大丈夫なのですか?」

「確かに別の神域に入ったことはありますが、それだけで他の神域に自由に入れるとは──」

(たぶん今は誰でも入れるぞ)


 否定的な意見を述べようとしたところで、ネイシスの声が頭に響いた。突然言葉を切ったカエトスに、姉妹がそろって小首を傾げる。

 カエトスは、二人にネイシスからの連絡ですと告げて、女神に話しかけた。


(どういうことだ?)

(そこの神域には、神がいないからだ)

(……本当か?)

(うむ。神がいる神域は外からでも気配でわかるものなんだが、そこは随分と気配が弱いから間違いない。そして神がいない神域というのは、出入りを制御する管理者が不在でもあるから、割と自由に行き来できるんだ。このことをナウリアたちが知らないのは、以前の儀式を神がいるときにやったからだろう。神官が国王になるのは百年ぶりだとかいう話だし、その間に神はどこかに出かけてしまって、そして神域に入ろうとした人間もいなかったというわけだ)

(事情はわかった。でもこれをどうやって伝えりゃいいんだ? 神域に神がいないから出入り自由とは言えないだろう)


 守護神シルトの存在はレフィーニアたちの心の拠り所のはず。それがいないと知ったら、いらぬ動揺を生み出しはしないだろうか。そう懸念するカエトスに、ネイシスが冷静に指摘する。

 

(別にそのまま伝えても構わないんじゃないか? いないからといって、死んだわけじゃない。現に王女は神の力を行使しているし、神託も聞いている)

(……それもそうだな)


 レフィーニアはシルトとのつながりのある神官だ。カエトスが思う以上に神の存在を強く感じているはずで、そもそも神域に神が不在であることは既知のことかもしれない。

 カエトスはそう納得すると、ネイシスの言葉を姉妹に伝えた。

 神域に入場可能と告げたところで姉妹が顔を綻ばせ、そしてその理由が神の不在にあると知ると、そろって神妙な面持ちとなった。ただそこにはカエトスが懸念したような悲観的な様子はなかった。

 

「……あまり動揺されていないようですが、もしかして何らかの兆候をつかんでおられましたか?」


 カエトスの問いに、ナウリアが淡々と話し出す。

 

「ええ。かつては神官が王になっている期間のほうが長かったのに、神官不在の期間が百年も続きましたから、誰でも少しおかしいと思っています。それがいまの話を聞いて、腑に落ちたというわけです。それに、そもそも私は神にこの事態を打開してもらおうとは思っていませんでしたので、それも動揺しなかった理由ですね」


 姉に続いて王女が口を開いた。


「わたしは、うまく言えないんだけど、神さまが近くにいるようで遠い感じがしてたから、そうじゃないかなって思ってた。神域にいたら、一言文句を言ってやりたかったのに」

「そのときは私も同行させてもらいます。百年の間、人間に力を授けずにいたのならそのまま静かに隠居していて欲しかったと、姉として伝えなければなりませんから」


 真顔で言うナウリアとレフィーニアが顔を見合わせた。どちらからともなく相好を崩して笑い合う。

 ナウリアはすぐに表情を引き締めて、カエトスへ目を向けた。

 

「それではカエトス殿には、神域での殿下の護衛に同行していただきます。あなたが儀式に参加することについて、当然異論が出るとは思いますが、私のほうで神祇長官らに話をつけておきますので──」

「姉さま、駄目。それは言わないで」


 手際よく段取りを話すナウリアをレフィーニアが遮った。姉はすぐに事情を察して顎に人差し指を当てた。

 

「……そういえば、カエトス殿のことは神託にあったと言っていましたね。それでは仕方ありません。直前でねじ込むことにしましょう。殿下にも協力していただきますね」


 王女は力強く頷いて、傍らに立つカエトスを見上げた。


「というわけだから、カエトスお願い。もう少しだと思うから」

「はい。何が起きようとも殿下をお守りして御覧に入れましょう」


 カエトスは即答するとともに、レフィーニアに向かって一礼した。

 これを乗り切ったところでカエトスの試練が終わるとは限らないが、レフィーニアが国王に即位すれば、彼女を狙う者たちの力を削ぐことができる。つまり三姉妹が危険にさらさられる様を黙認せずに済むということ。自分に課せられた試練云々よりも、そのことがカエトスに気合いを漲らせる。

 

「……ありがとう、カエトス」


 嬉しそうに顔を綻ばせるレフィーニア。その純粋な眼差しが眩しくて、そして痛かった。それから逃れるように、カエトスは目礼を装って目を伏せた。 

 

「安心したら気が抜けちゃった。姉さま、ちょっと横になっていい?」

「ええ。神殿に向かうまではまだ時間はあるから、あとで起こしてあげます」


 レフィーニアは大きく欠伸をしながら椅子から立ち上ると、ふらふらと寝台に歩み寄って倒れ込んだ。うつ伏せのまま動きを止めたと思ったら、すぐに寝息を立て始めた。その背中にナウリアがそっと毛布をかける。

 

 イルミストリアの中には、ナウリアとの親交を深めろとの指示もあった。どうやって王女の護衛から離れるかが問題だったが、レフィーニアが眠っている今は好機。活用しない手はない。

 話題についてももう決めてある。ナウリアは倉庫街で命を狙われた。それは荒事と無縁の彼女にとって強い恐怖を覚えたことだろう。傷ついた心を少しでも癒してやりたいとカエトスは思っていた。イルミストリアの指示ではなく、自分自身の意思として。


「カエトス殿」


 カエトスがレフィーニアに対する後ろめたさをぐっと飲み込みながら話しかける機を窺っていると、先にナウリアが名を呼んだ。カエトスを一瞥して歩き出す。向かうのは典薬寮別棟の庭園を一望できる大きな窓だ。

 

 カエトスはそれに続き、窓際で立ち止まったナウリアの脇に立った。ナウリアが寝台で眠る王女に一度視線を走らせてから小声で話し出す。

 

「ウルトスでは殿下とミエッカを窮地から救っていただき、ありがとうございました。それと……私の不注意で危険を呼び込んでしまったのに、あなたの手を煩わせてしまって申し訳ありません」


 そう言うとナウリアは丁寧な仕草でお辞儀した。

 思わぬ言葉にカエトスは慌ててそれを制止する。


「侍女長殿、お止めください。ウルトスでは、殿下や隊長殿がいたからこそ役目を果たせただけです。それに港の件についてはあくまでも私の推測であって、あなたの服装が原因かどうかはわからないんです」

「いえ、カエトス殿の推測が最も妥当だと思います。私の生死が殿下の立場に影響を与えないのは事実です。やはり私の服装が原因なのでしょう」

「例えそうだったとしても、謝ることはありません。侍女長殿を助けたのは私ではなくネイシスですから」


 カエトスは頭を下げようとするナウリアの細い肩に手を伸ばすと、それを押しとどめた。

 ナウリアが襲われたのはカエトスが原因でほぼ間違いない。それなのに謝罪されてしまっては、カエトスのほうが罪悪感に押し潰されそうだった。

 

「もちろん何度も助けられたネイシス殿には感謝しています。ですがネイシス殿が力を使うとあなたの寿命が縮むんでしょう? そして自分のことは考えずに力を使えと伝えてもいたとか。でしたら、やはりあなたに一言伝えるのが礼儀というものです」


 予想外の一言に、カエトスは自分を見上げるナウリアの顔をまじまじと見つめてしまった。

 

「……それはネイシスから?」

「ええ。聞かなかったことにしてくれと言われたのですが……」

(すまん。話の流れでそうなってしまった)


 カエトスが尋ねると、ナウリアは申し訳なさそうに小さく頷いた。それと同時にネイシスの思念が頭に流れ込んでくる。

 カエトスとしてはこのことは知られたくはなかった。自分の弱みを見せつけて同情を誘っているように感じるからだ。それを知っているネイシスが口にしたということは、何か事情があったのだろう。カエトスがそのように女神を慰撫する思念を送っていると、ナウリアが恐る恐る尋ねてきた。


「あの……詳細は聞いていませんが、どれだけ寿命が縮んだのかわかるものなんですか?」

「私自身に自覚症状があるわけではないので、今は何とも言えません。ネイシスに調べてもらえばわかるんですが」

「そうですか……」


 ナウリアは深刻な表情で俯いた。僅かに押し黙った後、再び顔を上げる。その眼差しは強い決意に漲っていた。


「カエトス殿──」

「責任を感じているのでしたら、その必要はありません」


 カエトスはナウリアに最後まで言わせなかった。彼女の眼前に手をかざして言葉を遮る。


「実は、侍女長殿を守るようにと占いに出たんです。おそらくそれは殿下をお守りすることにもつながっていたのでしょう。だから私が一方的に命を失って、侍女長殿だけが恩恵に与ったとか、そういうわけではないんです」

「ですが、あなたが失ったのは命なんですよ? 例え目的を果たせたとしても、死んでしまっては意味がないじゃないですか」

「いえ。命というと仰々しく聞こえますが、実はそう大したことではないんです」


 意味がわからないと言いたげに首を傾げるナウリアに、カエトスは意識して明るい口調と表情で答えた。


「ネイシスがどう言ったかは聞いていませんが、あれが力を使って失われる寿命は数日程度なんですよ。何年も一気に縮むわけじゃないので、あまり深刻に受け止めなくてもいいんです」


 これは事実だ。しかしカエトスにとっては重みが違う。呪いが発動するまでの期限が二十日ほどしかない状態での一日は、一般人にとっての数年と同等の価値がある。

 ただそれをナウリアに告げるつもりはない。

 ナウリアが罪悪感を抱いてしまうと、カエトスに向ける感情に同情や憐憫といったものが混じってしまう。それは女神イリヴァールの言う純粋な愛情ではないから、呪いを解くことができなくなるだろう。

 そして何よりもカエトスがナウリアを利用しているという負い目もある。それなのにナウリアに精神的な負担をかけては、カエトスの方が良心の呵責に耐えられそうもない。


「そう……なんですか?」


 カエトスの告白が意外だったのだろう。ナウリアが目を丸くする。

 カエトスは本心を悟られないように笑みを保ったまま頷いた。


「数日という寿命は、暴飲暴食とか風邪をひいたとか、日常の何気ない行動や不摂生な生活でも失われるでしょう。つまり少し怪我をしてしまった程度のことなんです。だからあまり気にしないでください」


 ナウリアはカエトスの言葉をかみしめるようにじっと耳を傾けていた。そして至極真面目な口調で切り出す。

 

「……わかりました。あなたの言うように気にしないことにします。ですが、やはりお返しはしなければなりません。そこで一つお聞きします。ネイシス殿は、私があなたを好きになるとあなたが助かると仰っていました。それはどのくらい好きになればよいのですか?」


 思わぬ問いに、カエトスは返答に詰まってしまった。

 いったいどのような思いでナウリアが口にしたのか、その表情からは読めない。特に好意は抱いていないが、義務として好きになろうとしているのだろうか。だとすると真の愛情を得なければならないカエトスにとって、かなりまずい状況だ。しかしそのようなことをありのままに告げられるはずもない。

 また、呪いを解くのにどれくらいの愛情が必要なのかをカエトスは正確に把握していない。そのため、戸惑いつつ返したカエトスの答えはかなり適当なものになってしまった。

 

「そ、そうですね。嫁になっても構わないと思うくらいではないかと」

「ではあなたにお返しができそうですね」

 

 ナウリアはそう言うと目を伏せた。その仕草に、カエトスは懸念が杞憂だったことを悟った。

 視線を逸らしたナウリアの頬はほんのりと赤く染まり、そして彼女の瞳の輝きと言葉にははっきりとわかる温もりがあった。つまりナウリアは、以前交わした約束を履行するためではなく、自分の意思でカエトスに嫁いでもいいと考えている。

 苦労が報われたとの喜びが湧くと同時に、罪悪感に胸が締め付けられる。もう完全に引き返せないところにまで来たのだという事実を突きつけられたのだから。

 小さく息をついたナウリアが顔を上げた。頬に赤みを残したまま真っ直ぐにカエトスの目を見つめる。

 

「カエトス殿。ことを進めるにあたって一つお願いが」

「……何でしょう?」

「先日は伝えませんでしたが……浮気は駄目ですからね。あなたはそういった軽薄な人物に見えませんから大丈夫でしょうけど」


 カエトスは呻き声を上げそうになって、それをぎりぎりのところで呑み込んだ。

 まさか、王女に続きナウリアにも釘を刺されるとは。

 実際に万力で締め付けられているかのように胸が苦しい。本当にこのまま進んで大丈夫なのだろうか。知らぬ間に奈落へと至る道を進んでいるような気がしてならなかった。

 とめどなく湧いてくる懸念をカエトスはすぐさま押し込めた。

 ここもイルミストリアの指示にあったように『真実を告げず、偽りを口にすることなく』答えなければならない場所のはずだった。

 しかしどう返答すればいいのか。

 先刻のレフィーニアと同じ手は有効ではない。カエトスを見つめるナウリアの目は、確かな言葉を要求しているからだ。

 カエトスは熱を出しそうなほどに目まぐるしく頭を回転させ、そして閃いた。

 

「侍女長殿、それについてお伝えしなければならないことがあります。実は……私はすでに深い関係を結んでいる者がいるのです」

「……え?」


 重々しく切り出したカエトスの言葉に、ナウリアの顔が強張った。その瞳が不安に揺れる。

 

「彼女には私の考えていることが筒抜けで、私の恩人でもあって、どこにいても話ができるほどに近い存在で、切っても切れない関係なんです」


 ナウリアが小首を傾げた。眉根を寄せていても少しも気品が損なわれない美しい顔立ちに理解の色が広がる。

 

「それはもしかして……ネイシス殿ですか?」

「はい。あれは女の姿をしているので、見ようによっては浮気をしているように見えなくもないかと思いまして、一応確認しておかねばと……」

「びっくりさせないでください。あなたとネイシス殿との関係は人間の男女とは違うでしょう?」


 ナウリアはほっと息をつきつつ、少し神妙な面持ちになる。


「あの……ちなみにですが、妖精と人との間に子供はできるのですか?」

「それは……どうなんでしょう。本人に聞いてみます」


 カエトスは一言断って、ネイシスの名を頭の中で呼んでみた。答えはすぐに帰ってきた。


(そういった例を私は聞いたことはないな。妖精は言わずもがな、私たち神も人間のように肉体を持った生き物じゃない。子を育てる腹がないから、生まれることもない。私の今の体が完成すればカエトスの子を産めるかもしれないが、それは厳密には私の子ではないだろうしな)


 カエトスはネイシスに相槌を返しながら、ナウリアに告げた。

 

「ネイシスの話では、子はできないとのことです」

「でしたら私は気にしません。力のある者があちこちに子種をばらまくのは争いの種にしかなりません。それが回避できれば結構ですので、ネイシス殿によろしくお願いしますとお伝えください」


 ナウリアはカエトスに向かって小さく頭を下げると、表情を改めた。

 

「ですが、今は殿下のことです。明日の儀式の護衛、頼みますよ」

「はい。全霊を尽くして臨みます」


 カエトスは決然と頷いた。心中に如何なる葛藤を抱えていようとも、その一点だけは成し遂げるとの決意は微塵も揺るがない。

 ナウリアが微笑を浮かべるなか、再びネイシスからの思念が届いた。


(カエトス、そろそろそっちに戻るから、宿舎に移動しておけ。ミエッカ絡みの試練の時間だぞ)

(……まずい、抜け出す理由を考えてなかった)


 カエトスは焦燥とともに唸った。

 イルミストリアに記されていた場所は典薬寮ではなく、親衛隊ヴァルスティンの宿舎であり、そこでミエッカと個別に接触しなければならない。しかしカエトスは王女護衛のためにこの療養室にいる。王女を放置していくことなどできない。


(そこを何とか抜け出せ。ミエッカは到着したらすぐそっちに向かうはずだ。時間通りに宿舎に来ないと、ナウリアたちと合流してしまうぞ)

(急かさないでくれ、いま考える……!)


 ネイシスの言うように、ミエッカはすぐにこの典薬寮にやって来る。そこでカエトスと王女の護衛を交代し、その後翌日の儀式までミエッカがつきっきりになる予定だ。つまりミエッカと二人で会話する機会は、彼女が王城に戻ってきた直後しかないのだ。

 何かを倒せとか誰かを守れなどとは違って地味で危険の少ない指示だが、非常にやりにくい試練だった。

 怪しまれずに信頼を失うことなく自然に抜け出すにはどうすればいい。


「ところでカエトス殿。件の占いには、明日に関係することは何か出ていますか?」


 カエトスが葛藤と焦りを抑えつけながら頭を捻っていると、ナウリアが尋ねてきた。

 カエトスはまだ明らかではないと答えようとして思いついた。占いの指示にあったとすれば怪しまれないと。早速それを伝える。

 

「そのことでお話が。いまネイシスから連絡がありまして、今からヴァルスティンの宿舎に行かなければならないようです。殿下のもとを離れなければならないのは心苦しいのですが、おそらくこれも殿下の未来に関わることになるはずです。少し席を外してもよろしいでしょうか」

「わかりました。すぐに向かってください。護衛の方も四十人ほどいます。今はカエトス殿がいなくても大丈夫でしょう」

「ありがとうございます。それでは行って参ります」

 

 即座に了承したナウリアの向ける眼差しに疑いの色はまるでなかった。

 嘘は言っていない。しかし詭弁であることもまた事実。

 カエトスはナウリアに一礼すると、彼女の視線から逃げるように足早に療養室を後にした。

 

 

                  ◇          



 典薬寮別棟を出たカエトスは、王城内を小走りに駆けた。怪訝な眼差しを受ける役人たちとすれ違いながら兵部省の敷地に入る。何度か通った道でもあるため、迷うことなくヴァルスティン宿舎前の広場に到着した。

 軽く息を整えながらビルター湖の方に目を向けると、空の一点に小さな黒い影が見えた。高度を下げながら真っ直ぐこちらに向かってきている。

 

(ネイシス、俺が見えるか?)

(見える。お前が見ているのが私とミエッカの乗るネルヴェンだ)


 小さな女神の返答を聞いて、カエトスは息をついた。どうやらイルミストリアが指定する時間には間に合ったようだ。


(……もしかして、隊長はここに直接着地するつもりか?)


 カエトスは目を細めながらネイシスに尋ねた。

 ネルヴェンは滑空というより飛翔しているように見えたのだ。かなりの速度が出ていてそれが緩んでいない。


(高度と進路からして、そこを目指しているようにしか見えないな)


 ミエッカは屋外練武場などの広い場所に着地して、そこから親衛隊の宿舎を経由して典薬寮に向かうとカエトスは予測していたのだが、どうやら違うらしい。

 

 宿舎前の広場は数十人規模の乱戦が行えそうなほどに広いが、ネルヴェンの着地に選ぶ土地としては狭いと言わざるを得ない。なぜなら、広場の北側には宿舎が建っているからだ。ミエッカがやって来る方角は南側。このまま広場に進入し停止できなければ宿舎に激突してしまう。


 ミエッカはミュルスの扱いに長けている。ネルヴェンの操縦経験も豊富のはずだから、特に問題はないのかもしれないが、カエトスは何となく嫌な予感がした。

 そしてそれはすぐに現実のものになる。

 カエトスの目に二対の小さな光が飛び込んできた。

 カエトスの現在地は宿舎を右手に見る広場の端だ。向かい側には武具などを収納する倉庫がある。光はその陰にあった。そして光の主が物陰から飛び出した。

 それは昨日カエトスが助けた子犬だった。イルミストリアの記述が確かならば名前はラスク。ミエッカに預けた後どうなったのか聞いていなかったが、まだ宿舎にいたらしい。

 茶色い毛玉のようなラスクは、短い脚を忙しなく回転させながら、広場を横切ってカエトスに向かって駆け寄ってくる。

 

「馬鹿、出てくるな……!」


 カエトスは左を見た。すでに着地体勢に入っているネルヴェンがもう間近に迫っていた。それを操るミエッカの表情までもはっきりと見える。そしてラスクの進路は、着地するネルヴェンの軌道と完全に交差していた。

 

 カエトスは石畳を蹴った。全力でラスクに向かって駆け寄る。左から突入してくるネルヴェンに触れそうなところで、子犬をすくい上げた。崩れた姿勢のまま地面に体を投げ出し、受け身を取りつつ地面をごろごろと転がった。勢いがなくなったところで仰向けになって止まる。

 

「……ふう」

 

 頭を持ち上げて腕の中を見下ろす。子犬は短い尻尾を激しく振りながら、カエトスの胸に前足をかけて顔を覗き込んできた。何が起きたのかきっと理解していない。

 カエトスは仰向けのまま子犬を両手で抱き上げると、その顔を睨み付けた。


「お前な、いきなり跳び出したら危ないだろう。もう少しでぶつかってたんだぞ」

「カエトスか? 何でお前がここにいる。それに今のあれは何だ?」


 寝転がったままのカエトスの頭上から怪訝そうな声が降ってきた。腰に手を当てたミエッカが、眉をひそめながら見下ろしていた。

 カエトスは犬を抱えたまま立ち上がった。服についた砂埃を払いながら答えようとしたところで、先にネイシスの声が響く。


「この広場で何かが起きると占いに出たから、私がカエトスを呼んだんだ」

「それなら私に直接伝えてくれればよかったのに──いたっ」

「馬鹿者。お前が関係してくるとは思わなかったんだ。お前こそ、こんなところに降りるつもりだったのなら、私に一言言え」


 空中に視線をさまよわせるミエッカの頭部ががくんと揺れた。どうやら姿を消したままのネイシスがミエッカの頭を小突いたらしい。

 もちろんネイシスの説明は事実ではない。彼女が気を利かせて適当な理由をでっち上げてくれたのだ。

 ネイシスに内心感謝しつつ、カエトスは口を開いた。

 

「なぜこんな狭いところに降りようとしたんですか? ここから飛び立つのはいいとしても、着地する場所に定められているようには見えませんが」


 ネルヴェンで離陸するときは、ミエッカがウルトスで見せたようにミュルスの力を使って垂直に跳べばいいのだから、ネルヴェンの翼を展開できる程度の広さがあれば十分だ。

 一方着地時は、ミュルスの力で減速できるものの、実行する時機を誤ると間に合わないこともある。そのためある程度広い方が安全だが、広場がそれを満たしているように見えなかった。

 ミエッカは一度カエトスを見やると、少し顔を赤くして目を逸らした。


「……お前は今日ネルヴェンから飛び降りて見せただろう? 普通はもっと減速してからやるのに、あのときはほぼ全速でしかもお前は無事に着地してしまった。だから私も試してみたくなっただけだ」


 カエトスは、本当は別の理由があってそれをごまかそうとしているのではないかと思った。それほどに緊張感を欠く理由だったからだ。しかし頬を赤らめて気まずそうに目を合わせようとしないミエッカの様子からして、どうやら本当にそれだけの理由だったようだ。


「何も今やらなくてもよいのではないでしょうか」

「し、仕方ないだろう。お前にできたことが私にできないわけがないと思ったんだから。それに私はお前みたいにネルヴェンから手を離してなんかいない。十分安全だと思ったんだ。そ、そんなことよりも、お前に伝言を預かってきてる。討伐隊を指揮したバリオ殿からだ」

 

 さすがに自身の行動が軽率だったと自覚しているのだろう。ミエッカは唐突に話題を変えた。


「私にですか?」

「ああ。どうやらあの霊獣は先遣隊の報告よりも強力な個体だったらしくて、あのままだったら全滅していたかもしれなかった。でもお前のおかげで最小限の被害で終わらせられた。指揮官としてではなく、個人的に礼を言いたかったそうだ」

「いえ。礼を受け取るのは隊長殿が相応しいでしょう。私は足止めに精一杯でしたし、霊獣を倒したのは隊長殿です」


 カエトスは首を横に振った。

 見込みが甘かったのはカエトスも同じだ。あの霊獣は、カエトスが遭遇した中でも最大級の強さであり、ミエッカなくして乗り切れなかった。

 謙遜でも何でもなく純粋に述べた本心に対し、ミエッカも同じように首を振った。


「たしかに私の力は、それはそれは強い。私も自負しているし周りも認めている。でも当てられなければ何の意味もない。悔しいが……お膳立てをしたカエトスの力が要だったと、私も思う。正直あそこまでやれるものだとは全然思ってなかった。レフィを狙った賊も見つけて撃退したし」


 ミエッカは真剣な表情で口を引き結んだ。視線を落とし怒りが滲む言葉を絞り出す。

 

「まさか、レフィを狙う敵が紛れ込んでいたとは思わなかった。お前の言う通り、レフィはウルトスのほうが安全だと思っていたのに……。敵は、私たちが思っている以上に情報網を巡らせているようだな。ウルトスでは結局何も手掛かりは見つからなかったし」

「……申し訳ありません。手加減はしなかったのですが、刺客の腕が想像以上で逃亡を阻止できませんでした。それに私の見通しが甘かったせいで殿下を危険にさらしてしまいました」


 そう答えながらもカエトスの内にあるのは、敵につながる手掛かりがなかった安堵と、そしてそれに安堵する自分自身への嫌悪だった。

 つい表情に出てしまったそれを別の意味で捉えたミエッカが、少し慌てたように言葉を継ぐ。

 

「べ、別にお前を責めるつもりはない。船上でのお前の説明に私は納得したし、レフィの要請は無視できなかったんだから、あれしか選択はなかった。それにお前は私に宣言したように、霊獣を相手にしながら刺客も退けた。これ以上の成果をあの混乱の中で出せる奴なんて、きっといない」


 彼女の言動の端々からは、カエトスへと向ける感情が随分と改善されていることが窺えた。しかしそれは今のカエトスにとっては喜ぶべきことであると同時に、さらなる葛藤へと追いやる種でもあった。


「そう言っていただけると、心が軽くなります」


 カエトスは頭を下げながら息を吐き、そして吸った。いつまでも思い悩んでいる暇はカエトスにはない。ミエッカとの親交をさらに深めなければならないのだ。今が好機と見て、用意していた言葉を口にする。


「隊長殿の印象に残りましたか?」


 意識して表情を緩め、少し冗談めかして尋ねてみる。

 それに対するミエッカの変化は劇的だった。

 

「い、いきなりそういうことを言うなっ」


 一瞬で頬を染めたミエッカが、声を詰まらせながらカエトスの肩を平手で殴りつける。か弱い女ならば可愛らしい照れ隠しの仕草だが、ミエッカは鍛え抜いた一流の戦士。その一撃には骨にひびが入りかねない威力が秘められていた。

 足を踏ん張って体勢を維持するカエトスには目もくれずに、ミエッカは腕を組んでそっぽを向いた。

 

「ま、まあ今のところは私の中での夫候補としては一番にはいる。でもそれは単純に他に比較する男がいないだけであって、別にお前だけしか見ていないとかそんなことはないんだから、勘違いするなよ」


 ミエッカの顔は赤く染まり、戦士然とした凛々しさや猛々しさが完全に鳴りを潜めてしまっていた。今朝方、カエトスが中郭へと向かう階段で目にした姿と同じだ。その微笑ましい様子に、そのときの感動も蘇ってきて、カエトスは知らずに笑みを浮かべさせられる。

 その鼻先にミエッカが人差し指を突きつけた。


「ひ、一つ忠告しておくぞ。順位を下げたくなかったら、常に手柄を立てること。あとは他の女に目を向けないこと」


 今度はカエトスが声を詰まらせる番だった。

 

「それはつまり──」

「浮気をするなってこと。私はそういう不誠実な男が大っ嫌いなんだ。特によその女にぽんぽん種を付けて回る節操のない男がな。あの男のせいでレフィの人生はおかしくなったんだから……」


 ミエッカが嫌悪感を滲ませる。彼女が指す人物は間違いなく、レフィーニアの父であるシルベリア国王だ。主君でもある人物をあの男呼ばわりしていることからも、国王に対する悪感情が容易に見て取れる。

 

「わかったか?」


 そう言ってミエッカはじっとカエトスの目を覗き込んだ。

 まさか姉妹三人からそれぞれ浮気厳禁を言い渡されるとは思いもよらなかった。どうやらイルミストリアはこれを予見していたらしい。彼女たちが最も重要と考えることに対し、嘘をつくな、と指示していたというわけだ。

 それなら真意をきちんと記せと気の利かない本に愚痴をこぼしつつ、カエトスは急いでここを乗り切る手段を模索した。

 

 ミエッカのはっきりとした性格からして、王女のように曖昧にはごまかせないだろう。

 ナウリアのときのように、ネイシスをだしにして切り抜ける方法も確実性に乏しいような気がする。ミエッカは異性関係に対して、かなり潔癖な反応をするように思えるからだ。姿が小さく人でもないネイシスに対しても、女だからという理由でその存在を許容しないかもしれない。

 

 この場を切り抜けるいい方法はないものか。

 内心冷や汗をかきつつ必死に答えを模索するカエトスの腕の中で、もぞもぞと何かが動いた。いま助けた子犬のラスクだ。カエトスの肩に手をかけて顔を舐め始める。

 カエトスは閃いた。ラスクを抱えてミエッカの鼻先に突き出す。

 

「隊長殿。一つ確認があります。この犬はどうやら雌で、私に懐いているようなんですが、浮気の対象にはこれも含まれますか?」

「もちろん全部駄目」


 ミエッカが鋭い口調で即答した。カエトスの鼓動が緊張に一度跳ねる。だがミエッカはすぐに表情を緩めた。


「……というのは冗談だ。犬にまで目くじらを立てるわけがないだろう。私はそんなに心は狭くはない」


 そう言いつつも、ミエッカの視線はじっとラスクに注がれている。

 ミエッカは異性関係に潔癖とのカエトスの予測は、おそらく当たっている。しかもそれは人間の女だけを対象にしたものではない。ラスクへと向ける目からは、そう思わざるを得ない奇妙な迫力が滲み出ていた。

 

「お前は軽薄じゃなさそうだし、大丈夫か」


 ミエッカはそう言うと、ふっと眼光を緩めた。ようやく本当の意味での笑みを浮かべる。


「あとは私が引き継ぐから今日はもう休んでいいぞ。今後の予定は追って連絡するから、そこのネルヴェンを倉庫にしまったら、自室で待機してろ」

「では私も休ませてもらおうか。構わないな?」

「ああ、問題ない。あとはお前の力を借りなくても姉さまたちとは連絡も取れるし、何から何まで頼り切りなんてのも情けないから」


 何もない空中から生じたネイシスの声のする方に目をやりながら、ミエッカは小さく頭を下げた。

 

「姉さまを助けてくれてありがとう。あと連絡役も助かった。また何かあったら手伝ってくれ」

「うむ。気が向いたら手を貸してやってもいいぞ」


 ミエッカは、初対面のときからは考えられないほどに柔らかな微笑を浮かべると、踵を返して広場を後にした。

 それを見送りつつ、カエトスは大きくため息をついた。緊張が解けて力が抜けるままにしゃがみ込み、抱えた子犬を地面に下ろす。

 

「さっきは怒って悪かったな。お前のおかげで色々助かった」


 頭を撫でながら声をかけると、ラスクは尻尾を千切れんばかりに振りたくる。その背中に透明化していたネイシスが姿を現しながら降り立った。

 

「この犬はお前が好きなのか?」

「多分な。俺が助けたことを理解してるんだろう。正確にはネイシスも関わってるけどな」

「ほう。獣の分際でちゃんと恩を覚えているのか。なかなか感心な奴。褒めてやろう」

「ほんとにな。あとで美味そうなエサを見繕って持ってきてやろう」


 ネイシスに頭を撫でられたラスクが気持ちよさそうに体を揺する。この子犬とここで遭遇できたのは幸運だった。ラスクのおかげで余計な言い訳をせずに済んだようなものなのだから。

 

「ところでネイシス。試練のほうはどうなった?」

「少し待て」


 ネイシスは犬の背中に腰掛けると、自分の背中を覆う金髪に右手を突っ込んだ。自身の体ほどもある濃紺の本を取り出して、美しい脚線を描く膝の上に置いて開く。

 

「喜べ。わけのわからない試練は乗り越えたようだぞ。次の記述が出ている」


 カエトスはもう一度大きく安堵の息を吐いた。

 

「こういうのは、これっきりにして欲しいな。話題とか相手の反応とか考えるのが辛すぎる」

「安心しろ。次の内容は、明日の王女たちの護衛に関することのようだ。ここではあれだから部屋に戻ってからお前の目で確かめろ」

「そうだな」


 カエトスは立ち上がった。

 試行錯誤と命がけの連続だったが、今日も乗り越えた。だがまだ終わっていない。ミエッカに言われたように明日に備えて十分な休息を取らなければ。

 カエトスは自分に言い聞かせると、ネルヴェンの片づけを始めた。

 


                 ◇         



 ミエッカの指示通りネルヴェンを倉庫に片づけたカエトスは、宿舎にあてがわれた自室に戻った。扉を後ろ手に閉めて、抱えていたラスクを床に下ろす。

 宿舎の中は閑散としていて、部屋に来るまでにヴァルスティンの隊員たちとすれ違うことはなかった。レフィーニアが滞在する典薬寮の警備や、明日執り行われる儀式の準備に駆り出されているためだ。

 

 嬉々として室内を駆け回りるラスクを、ネイシスが飛んで追いかける。それを眺めつつ、カエトスは腰の剣を鞘ごと外して机の上に置いた。制服の上着を脱いで椅子の背もたれにかけながら、下着の左袖をまくり上げる。剥き出しになった上腕部では、女神イリヴァールによってかけられた呪いの証である紫の薔薇が淡い光を放っていた。

 

「ネイシス、ちょっと見てくれ。残り時間はどれくらいある?」


 椅子に腰を下ろしたカエトスが声をかけると、自分の体よりも大きい子犬を抱え上げたネイシスが空中を滑るように飛んで戻ってきた。


「埃が舞うから、お前はそこにいろ」


 カエトスの膝にラスクを放り投げて、そのまま紫の薔薇に手が届くところに移動する。金色の瞳がすっと細まり、眉間にしわが寄った。

 

「……これは十日は切っているな。あと九日か八日といったところだろう。今日は昨日よりもさらに力を使ったから一層進んでいる。もう少し力を節約できればよかったんだが」


 ネイシスが悔しそうに言う。

 薔薇が放つ紫光は明らかに濃くなっていて、生物の鼓動のように光が緩やかに明滅していた。

 正直なところ、カエトスが思っていたよりも猶予が少なくなっていた。しかしそんなことはおくびにも出さずに殊更明るい口調で答える。

 

「仕方ないさ。ネイシスがいなけりゃそもそも侍女長は守れなかったんだし、そうなったら俺はもう試練を達成できなくて、災厄とやらに襲われてるはずだ。これ以上の成果なんかない」

「そうは言うがな、やはり気に入らない。人間の言葉で言う腹の虫が治まらないというやつだ。もしお前が死んでしまったら、あそこで逃がした人間は一人残らず探し出して、肉も魂も粉々に切り刻んで殺してやる」


 ネイシスの金の瞳に、凄惨な殺意の光が揺らめく。

 カエトスが死ぬということは、ネイシスが思う存分力を振るえるようになるということだ。そんな彼女に命を狙われたら、どう足掻いても生き残れない。

 知らずにカエトスと生死を共にすることになってしまった名も知らぬ関係者一同に僅かな憐憫の情を抱きつつ、カエトスは口を開いた。

 

「これについては現状を把握できただけでよしとしよう。今できることはないしな。問題は試練のほうだ。本を貸してくれ」


 カエトスが言い終わるより早く、ネイシスが金髪で背中に固定していた濃紺の本をぬっと差し出した。受け取った本を開くと、宙に浮いたままのネイシスが本を覗き込み、長い金髪が紙面に垂れ下がる。カエトスはそれを人差し指でよけながら最新の試練が記述された箇所を探した。これまでに下された試練は決して多くはないため、数枚紙面をめくるだけで目的の場所はすぐに見つかる。その内容はこうだ。

 

『大陸暦二七〇七年五月十六日、五エルト三十ルフス(午前十一時)の刻、王城アレスノイツ内ユリストア神殿神域にアルティスティン・レフィーニア、カシトユライネン・ナウリア、カシトユライネン・ミエッカの三名とともに進入し、無事帰還せよ』


 カエトスは読み進めてすぐに気付いた。

 

「これを見る限り、侍女長は俺の代わりに残るんじゃなくて、一緒に神域に行くみたいだな」

「うむ。それは明日伝えればよかろう。どうせ儀式の場にナウリアも同席するだろうし、お前が同行するのも直前で周りに明かすと言っていたし、何とでもなる」


 レフィーニアは王女であり神官だ。彼女がそのように指示を出せば、臣下はいい顔をしないだろうが、最終的には認められるだろう。ナウリアも本による占いだと伝えれば、承諾してくれるはずだ。

 

「俺もそう思う。問題は神域に行くってところなわけだが……なあ、この神域もお前んちみたいに神獣がうろついてるのか? だとしたら、三人を守り切れる自信はないぞ」


 神獣とはカエトスが今日戦った霊獣の仲間のようなもので、普通の獣が変化したものを言う。相違点は、霊獣が源霊の影響を受けてそれに近い存在へと変化したのに対し、神獣は神の力にさらされ続けたことで神に近しい存在と化した点だ。すなわち神獣とは神々の力を行使できる獣であり、ほぼ間違いなく強大な戦闘能力を持つ。

 カエトスはネイシスの住む神域に行ったとき、ネイシスと同じ〝停滞〟の力を行使する神獣に遭遇したことがあるから、その恐ろしさを身をもって知っている。この神獣が神殿の地下にある神域にいるとしたら、危険どころの話ではない。

 

「入って見なければ何とも言えないが、神が留守の神域は質がどんどん下がっていくものだ。勝手に入り込んだ獣がいたとしても、それが神獣になることはないと思うぞ」

「それならいいんだけど……また変わったりしないだろうな、これ」


 ネイシスの見通しは予想以上に明るいものだった。神獣さえいなければ、ネイシスも同行する以上、何とか乗り切れることだろう。しかしそう思いつつも、カエトスの脳裏から懸念は晴れない。

 カエトスが渋面で本を指差すと、ネイシスも難しい顔で腕を組んだ。


「それは常に頭の片隅に置いておくべきだろうな。対策としては本を監視し続けるしかあるまい。これは私が見ていてやるから、お前は今のうちに明日に備えておけ」

「悪いな、頼む」


 カエトスはそう言うと、机に置いた鞘から剣を抜いた。足元に置いていた背嚢の中に手を突っ込み、細長い丸棒を取り出す。

 鉄色の棒の太さは人差し指ほどで、長さはおよそ十レイトース(約十二センチメートル)。切っ先を上に向けた刀身にじっと目を凝らし、鍔元から先端に向かって刀身を叩いていくと、徐々に高くなる澄んだ金属音が室内に響く。

 

 カエトスの剣舞は、刀身を打撃するときの音を用いて源霊に呼びかける。刀身が歪んだり亀裂が入るなどして音が変化すると、源霊に正確な命令を出すことができなくなるため、激しい戦闘を経た後などはこうして音を確認しなければならないのだ。

 

「……やっぱり出来がいいな。昨日の稽古の後もそうだったけど、あれだけ乱暴に扱ったのに歪みが全然ない」


 カエトスは感嘆の声を漏らした。刀身から発生した音は、切っ先に向かって滑らかに高い音へと変化していた。一切の異常はない。


「うむ。マイニは若いながらいい鍛冶師だった。神鉄の加工も四か月ほどで習得したし、もう会えないと思うと残念だ」


 ネイシスが抑揚の少ない声ながら、心なしか沈んだ口調で言う。その言葉にカエトスの記憶が呼び起こされる。

 マイニとはティアルクの酒場で、鉄槌を手にカエトスに詰め寄った小柄な女鍛冶師だ。彼女の姿とともに、自分で獲物を狩ってさばく肉屋のジェシカや、気風のいい行商人シグネの顔も浮かぶ。

 彼女たちとは数か月程度の付き合いだったが、様々な出来事をともに経験したし、それぞれが持つ魅力に惹かれてもいた。

 しかしカエトスの脳裏にはティアルクの女たちとともに、レフィーニアやナウリア、ミエッカの姿もよぎっていた。

 

 室内に響いていた金属音が止まる。

 カエトスは点検を終えた剣を鞘にしまい、金属棒を背嚢に突っ込んだ。椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げながら呟く。


「……俺はどうしようもないくず野郎だな」


 ネイシスにはカエトスの内心が伝わる。それゆえ返ってきた言葉は問いではなく確認だった。

 

「ナウリアたちを口説いていることか」

「それだけじゃない。王女たちを何が何でも助けたいと思ってるのに、シグネたちにもまだ同じように思ってるんだ。もうどうにもならないくらいに関係が壊れてるのに、未練たっぷりにな。しかも俺は、相手が二股をかけたとしても、それを許せる自信がない。こんな奴は本当に最悪だぞ。自分がやられて嫌なことを相手にしてるんだからな」


 ネイシスに言ったところで、何も解決しないことはわかっている。そしてこのまま進むしかないことも。しかし内に溜め込んだ葛藤を吐き出さずにはいられなかった。

 

「ふむ。たしかに人間の道徳的には、お前は最悪だ。私でもそう見える」


 天を仰ぐカエトスの視界にネイシスの姿が映る。彼女は金髪と黒いドレスの裾を揺らめかせながら、難しい顔で腕を組んでいた。それが一転して微笑へと変わる。

 

「しかしお前は有象無象の人間とは違うと私は思う。女たちを大切にしたいというお前の思いに偽りはないんだ。一人の女だけを見つめる嘘つきよりも、大勢の女を口説く正直者のほうがましだと思うぞ。もっとも私がこう考えるのは、私が愛情というやつを理解していないからなんだろうが。それに悪い面ばかりじゃない。お前がそういう性分だからこそ、あの狂った女神の呪いを解こうと行動できる。複数の女を口説くことを心の底から忌避するような性分だったら、お前の命運は最初から絶たれていた」

「……そうだな」

 

 上を向いたままのカエトスの額に小さな手を置くネイシスに、カエトスは笑いかけた。

 ネイシスの言葉は、彼女自身が言うように、愛情というものを知らないからこそ出てきたものなのだろう。

 誰かを愛するという行為は綺麗ごとだけでは済まない。女神イリヴァールのような狂的な独占欲や、嫉妬や憎悪の源になり得るものだからだ。彼女はその源泉たる愛情が欠けているからこそ、それに伴って生まれる感情も生じない。ゆえに楽観的な見方ができるし、カエトスの評価も高いままなのだ。

 つまりネイシスの言葉は、一般的な感覚とはかけ離れたところから出たものであり、額面通りに受け止められないものと言える。しかしそうとわかっていてもカエトスは嬉しかった。

 彼女がカエトスを励ますために考え抜いてかけてくれた言葉だと知っているから。

 

「お前は本当にいい神さまだな」

「元気になったか?」

「ああ。お前が俺を肯定してくれるってだけで何よりも心強いよ」

「お前には大役があるんだ。お前の精神状態に気を配るのは当然のことだ」


 カエトスの返答にネイシスは満足そうに頷いた。再び宙に浮いて机の上に降り立つ。それを追ってカエトスも体を起こした。


「それにしてもだ、こいつはどこを落としどころにしてるんだろうな。何しろ三姉妹全員が他の女に目を向けるなと言っているんだ。このまま進んだところで安定した状態に落ち着くとは思えない。この本が何であの姉妹を選んだのか、私にはさっぱりわからん」


 そう言いながらネイシスが引き締まった足で机上のイルミストリアを蹴り上げた。落下する本を両手で受け止め無造作な手つきで開く。

 人間であれば、神が作ったとされる本を足蹴にするのを躊躇いそうなものだが、同じ神であるネイシスに遠慮はまるでない。

 

「気持ちはわかるけど、もう少し丁寧に扱ったほうが──どうした?」


 カエトスはネイシスにかけようとした苦言を途中で呑み込んだ。紙面に目を落とすネイシスの表情が真剣なものへと変わっていた。背中を覆う金髪の中から本に付属していた時計を取り出し、絶え間なく変化する数字と紙面とを見比べる。


「さっき見た文章が別のものに変わっている。しかも時間は今だ」


 緊迫したネイシスの言葉にカエトスはすぐに反応した。膝上で体を丸めていたラスクを床に下ろして立ち上がると、椅子の背もたれにかけていた上着に素早く袖を通す。


「どう変わったんだ?」

「私と本を守りつつ、誰にも見つからないようにここから出て、王女に接触しろ。そこでカエトスの出身地について詳しく話せとある」


 その一言をきっかけとして、カエトスの頭には今後起こり得る事態が次々と浮かんだ。

 なぜなら、レフィーニアに自分の素性を話した際、混乱を避けるために敢えて出身地の詳細を伏せていたからだ。後々話そうとは思っていたが、それをカエトス以外の者から聞かされたとしたら、好ましい事態にはならないだろう。

 

 上着のボタンを留め終えたカエトスに、イルミストリアと時計を背中の髪の中にしまったネイシスが剣を差し出す。カエトスは受け取った鞘を腰の革帯に留めつつ窓の外に目を向けた。

 

 時刻は八エルト(午後四時頃)を回ってしばらく経った辺り。まだ外は明るい。このまま出歩いてはすぐに誰かの目に止まってしまう。ミエッカに自室に待機しろと言われているいま、見つかるのはまずい。安全に王女の元に向かうには、透明化するしかない。

 

 カエトスはそう決断すると、光を司る源霊イルーシオに対して透明化を命ずる動作を記憶から引っ張り出した。

 しかしそれを実行する猶予はなかった。

 剣に手をかけたそのとき、突然入口の扉が開いたのだ。

 全開になるより早く、その隙間から細長い物体が飛び込んでくる。艶のない黒色のそれはカエトスへと真っ直ぐに向かってきた。

 カエトスは咄嗟に体をひねって回避した。しかしそれは空中で急激に進路を変えた。直角に折れ曲がりカエトスを追撃する。さらに飛び退こうとしてカエトスは動きを止めさせられた。

 今いる部屋は物置であり、使わない寝台や机などが詰め込まれている。それが行動を阻害していた。後ろに跳べばそれらに激突してしまう。どこに逃げるかと迷ったその一瞬に、カエトスは細長い物体に巻き付かれてしまった。両腕ごと胴体をぎりぎりと締め上げられる。

 その凄まじい圧迫感に歯を食いしばって抵抗しつつ、カエトスは自分を拘束するものへ目を向けた。それは鋼線と繊維をより合わせて作った縄だった。力任せに振り解こうとするもびくともしない。生き物のような柔軟さを見せつけた黒縄は鋼鉄のように硬くなっていた。

 

「くそ……っ! 体が……動かない……!」


 ネイシスの苦鳴が耳を打つ。ネイシスもカエトスと同じように縄に拘束されていた。金属の棒に巻き付かれてしまったかのように、硬化した縄によって空中に持ち上げられている。

 

 開け放たれた入口から四人の男が入って来た。

 彼らの制服は、カエトスのものと同じ形状をしているが色が黒い。服と同色の帽子をかぶり、腰には剣、胸には二重円を取り囲む枝葉をあしらった記章がある。確かこれは王城警備隊の所属を示すものだったはずだ。その任務は王城内における治安維持であり、取り締まる対象は親衛隊を含めた王城の関係者全てだ。彼らの放つ堅苦しい威圧感は、与えられた強力な権限を如実に物語っていた。 

 

 彼らの目は一様にネイシスへと向けられている。手のひらほどの大きさしかない人など見たことがないのだろう。みな一様に動揺を隠しきれずにいた。

 ただカエトスの注意はそこに向けられていなかった。四人の男たちの後ろにもう一人いたのだ。

 暗赤色の制服に、岩のような雰囲気を纏った長身の男。イーグレベット隊長ヴァルヘイムだ。その手にはカエトスとネイシスを拘束する黒縄が握られていた。


「これはいったい何事ですか」

「イルエリヤ・カエトス。お前には身分詐称の嫌疑がかけられている。我々に同行してもらおう」


 努めて冷静に尋ねたカエトスに対し、ヴァルヘイムが冷酷な口調で告げる。

 カエトスはたった今抱いた予測が間違いではなかったことを確信させられた。ヴァルヘイムはカエトスの出身地についての情報を入手しているのだ。

 

「思い当たる節があるようだな」


 表情に出ないようにしたつもりだったが、心中の動揺が滲んでしまったらしい。

 ヴァルヘイムは左腕を持ち上げ黒縄を握り直した。足を肩幅に開き、右手をだらりと下げている。その動作と眼光から、小さくない警戒が感じ取れる。

 それがカエトスの記憶を刺激する。立ち上る気配というか雰囲気に覚えがあった。ヴァルヘイムとは昨日の朝に顔を合わせているが、もっと最近の出来事だ。

 そしてカエトスはすぐにそれに思い当たった。ウルトスで遭遇した刺客だ。

 覆面をしていたため目の部分しか見えなかったが、ヴァルヘイムの無駄のない体捌きが、カエトスの下した結論を強力に後押しする。

 狙撃の腕やカエトスの剣撃を防御した技量からかなりの手練だとは思っていたが、まさかクラウス直属の部下である親衛隊長が直々に王女暗殺に加担していたとは。


 レフィーニアやミエッカを殺しかけた張本人を前にして、カエトスの内に怒りの炎が灯る。しかしそれがわかったところで、この状況を切り抜ける材料とはなり得ない。警備隊の面々に対し、ヴァルヘイムが王女暗殺を試みた男だと言ったところで一笑に付されるだけだ。


(ネイシス、何とかできないか……!)


 カエトスはネイシスに思念で呼びかけた。

 ネイシスだけでも逃れられれば、レフィーニアやミエッカにこのことを伝えられる。そうすれば試練を達成できないとしても、それを続行する機会は得られるはず。代償としてカエトスにかけられた呪いは進行するだろうが、それはこの際容認するしかない。

 しかしネイシスの返答はカエトスの期待を打ち砕くものだった。

 

(それは……できないかもしれん。この縄が私の力を封印している……!)

(嘘だろ……? 何なんだ、これは……!)

(たぶん神器だ。お前の剣と同じ神鉄製だが、神が直接作って自らの力を込めた道具。だから私の力が使えなくなっている。人間が作った道具ではこんなことは起きない。くそ……!)


 最も頼りにしていたネイシスの力が使えないという予想外の事態に、カエトスは一瞬思考が止まってしまった。自失したのも束の間、すぐに次善の手立てを模索する。それを遮るように体を拘束する黒縄が引っ張られた。

 

「貴様を連行する。おとなしくついて来い。……いいか、油断するなよ。この男は何をしでかすかわからんからな」


 ヴァルヘイムはカエトスと同行している男たちに警告すると、ネイシスを縛る縄を手繰り寄せてその細い胴体を鷲づかみにした。カエトスを引きずるようにして部屋を出る。


 カエトスは為すがままに連行されながら、現状を打破する方法を必死に考えた。

 何が何でも試練を成し遂げて呪いを解き、そして王女たちも助ける。そのためにはこんなところで終わるわけにはいかないのだ。

  

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