第23話 救出、そしてすれ違う姉妹

 眼下の景色が流れるように後方に過ぎ去っていく。

 左手に剣を持ったまま、右手一本でネルヴェンの持ち手をつかむカエトスの前下方に、連なる黒瓦の屋根が見えてきた。シルベスタン港の倉庫街だ。

 

「姉さまは倉庫街のどこだ!」

「女が客引きしていた宿の東側辺りと言ってます!」

「娼館はどこにでもあるっ、それだけじゃ足りないっ! もう少し詳しく──」


 ネルヴェンを操るミエッカが声を張り上げたそのとき、倉庫街の一角で閃光が炸裂した。

 

「隊長殿!」

「わかっている!」


 いまのは間違いなく雷撃。雷を司る源霊ハルヴァウスの力が行使されたのだ。このようなところで起きる現象としては甚だ不自然。ミエッカもすぐにそう判断し、ネルヴェンを光が発生した方向へ加速させた。

 

 ミエッカの表情はさらに厳しくなっていた。噛み締めた唇に血が滲んでいる。激情に揺れる瞳に、微かに諦念の色があった。

 いまの雷撃がナウリアに向けられたものだとしたら、もう駄目かも知れない。普通なら、あれだけの光を放つ雷撃を受けて生きていられる人間などいない。ましてやナウリアは戦闘向きではない普通の女なのだ。

 だがカエトスは希望を捨てていなかった。あそこには小さな女神がいるのだから。

 

(ネイシス!)


 名を呼ぶとすぐに答えが返ってきた。が、それはカエトスを安心させるものではなかった。

 

(雷撃は何とか逸らしてやった。でもナウリアを見失った。人間どもが邪魔で見えない……!)


 ネイシスの声は焦燥に満ちていた。

 ネイシスは神だ。しかし万能ではない。何もかもを見通すことなどできない。だから見えない人間を助けることもできない。しかも今は力の多くを制限されている。

 

 カエトスはもうじき眼下にやって来る倉庫街に目を凝らした。

 見えた。偶然にも、ネルヴェンの進路と路地の方角が同じだったことが幸いした。

 およそ四十ハルトース(約四十八メートル)下の倉庫街の隙間を縫うように走る路地の合間に、多数の人影が蠢いていた。その中に侍女服を着た人間が横たわっている。特徴的な長い黒髪からして、あれがナウリアに違いない。人影はそれを取り囲んでいた。手に刃物と思しき物体を持っていて、一斉に駆け寄っている。飛び掛かるつもりだ。

 その殺気立った様子に、敵の目的が誘拐ではなくナウリアの殺害だと確信させられた。そしてそれを引き起こした原因が、王女ではなくカエトスにあるということも。

 

「ここで降ります! 隊長殿は殿下と後詰を!」

「馬鹿、この速度で──」


 カエトスはミエッカの言葉を最後まで聞くことなく、ネルヴェンの持ち手を離した。

 前へと飛翔していた勢いのまま斜めに降下する。四十ハルトースという高度が瞬く間に縮まり、凄まじい速度で倉庫の屋根が迫る。その合間を通過し路地に激突する瞬間、カエトスは左手の剣を逆手に持ち替えた。

 指示内容は『我が身に宿りし力を奪取せよ』だ。待機状態だったミュルスがそれに完璧に応え、カエトスの落下速度を完全に殺す。

 

 カエトスが着地した場所は、殺意を身にまとわせた男たちが群れ成す只中。背を向けていた男が、カエトスに気付き振り返った。僅かな間を置いて、躊躇なく右手の短剣を突き出す。

 カエトスは逆手に持った剣で短剣を跳ね飛ばし、振り抜いたところで順手に持ち替えた。素早く柄を回転させて、もう一度逆手に戻す。ミュルスへの次の指示が下される。内容は『汝の力を我が身に宿せ』だ。


 カエトスは地面を蹴った。低空で跳躍し、男たちの頭上を凄まじい速度で飛び越える。空中で石壁を蹴りつけ軌道を修正。速やかに着地して疾走。そして地面に横たわるナウリアを見つけた。彼女を取り囲む男たちの足が地面から離れている。すでに飛び掛かっていた。数は六。

 

(間に合え……!)


 カエトスは剣を右手に持ち替え、腕ごと後ろに下げた。勢いを殺さずに左足を踏み込むと同時に全力で薙ぎ払う。斬ることを一切考えない振り回すだけの一撃は、今まさにナウリアに刃を突き立てようとしていた男たち全員を捉えた。刀身と柄を握る拳、そして前腕部で激しく殴打する。

 

 カエトスはそのまま剣を振り抜いた。みしみしと全身の骨と筋肉が軋む。腕や剣に、硬いものが砕ける音、そして弾力のある何かが潰れる感触を残して、六人の男たちは猛烈な勢いで吹き飛んだ。

 カエトスはそれには目もくれずに膝を落とした。横たわるナウリアの上半身を抱え上げる。

 

「侍女長殿!」

「カエトス……殿?」


 ナウリアは思いのほかはっきりとした言葉を返した。若干目の焦点が定まっていないが、意識ははっきりとしている。体にさっと視線を走らせるが目立った怪我もない。

 カエトスは大きく息を吐いた。

 間に合った。本当に危ないところだった。あと一瞬でも遅れていたらナウリアは殺されていた。しかしまだ安心するには早い。路地内にまだ十人以上の敵がいた。彼らの視線がカエトスに突き刺さる。

 

「つかまってください。跳びます」


 カエトスはナウリアの膝裏と背中に腕を回すと垂直に跳躍した。二人分の体重だったがミュルスによる行動補助の効果はまだ残っていたため、難なく倉庫の屋根に降り立つ。

 一気に視界が開け、青い空と陽光を反射するビルター湖の湖面、そして王城アレスノイツの威容が目に飛び込んでくる。いくつも連なる三角形の屋根上には、カエトスとナウリア以外の人影はなかった。しかし油断はできない。

 カエトスはナウリアを屋根に下ろすと、剣を左手に持ち替えた。鍔の回転機構を操作し、五つの穴を解放状態にする。素早く刀身を宙に走らせ、逆手に翻した。目には見えないが確かに存在する力の波が周囲へと広がっていく。

 対象とする源霊は五つ全てであり、指示内容は『カエトス以外の命令を無視せよ』だ。その効果はすぐに現れた。

 左隣りの倉庫の屋根の上、およそ十ハルトース(約十二メートル)先に、ついさっきまではいなかった人影が出現していた。

 

 細身の男だ。たった今カエトスが殴り飛ばした男たちと同じように、労働者が好んで着用する地味な服を身に付けている。ただその頭には黒い布を巻いており、確認できるのは目だけだ。その姿から真っ先に連想したのは、ウルトスでレフィーニアやミエッカを狙撃した男だ。

 

「さっきの雷はお前の仕業か……?」


 カエトスはゆらりと覆面の男に体を向けた。

 覆面の男が気圧されるように一歩後ずさり、その目が僅かに泳ぐ。透明化を強制的に解除されたことと、カエトスが放つ殺気にあてられ動揺している。


 周辺一帯の源霊術は封じた。今なら男を捕縛することも容易。

 カエトスの感情は即座に男を捕まえて厳しく問い詰めろと主張していた。一歩間違えばナウリアは死んでいたのだ。そんな危機に追い込んだ一味を容赦する気は微塵もない。

 しかし一方で冷静な自分が指摘する。迂闊にナウリアの傍を離れるなと。カエトスの源霊術無効化の影響を免れている者がいるかもしれない。

 

 カエトスを止める内なる声はもう一つあった。

 今日、本が示した内容は『ナウリアたち三姉妹を守れ』であって『犯人の正体を突き止めろ』ではない。ここで覆面を捕まえ、そして真犯人を突き止めてしまった場合、本が思い描いている筋書きに致命的な影響を与えはしまいか。ウルトスにおいては狙撃者を捕まえようとしていたが、あれは結果として逃がして正解だったかもしれない。ならばここも敢えて見逃すべきではないだろうか。


(逃がしても大丈夫だぞ、カエトス)


 カエトスが迷っていると頭の中に声が響いた。それとともに慣れ親しんだ感触が肩に触れる。ネイシスの小さな両足だ。

 

(大丈夫ってどういうことだ?)

(この女の顔を私は知っているから、いつでも捕まえられるということだ)

(……女なのか?)


 ネイシスの目は人間よりも遥かに性能がいい。覆面の内側が見えていたとしても不思議ではない。ゆえにカエトスが驚いたのは、男だと思っていた覆面が女だということだった。どうやら体の線を隠す細工をしているらしい。

 

(うむ。こいつは王子の侍女だ。名は確かハルンといったか)


 もともと疑いは抱いていたが、それが確信になった瞬間だった。やはりクラウスが裏で糸を引いているのだ。

 ネイシスと話をするカエトスに隙を見出したのか、覆面の女ハルンが動いた。踵を返すと脱兎のごとく駆け出し、屋根から飛び降りる。

 カエトスは反射的に追いかけようとして踏みとどまった。ネイシスが正体を見破った以上、無理に追う必要はないし、周辺の安全を確認するまでナウリアを一人にはしておけない。


「姉さま!」


 カエトスが油断なく周囲に視線を走らせていると、上空から声が降ってきた。ミエッカの操縦するネルヴェンが屋根に向かって降下してくるところだった。目的地上空を通過してしまったために、旋回して戻ってきたのだろう。

 屋根の高さに合わせ侵入してきたネルヴェンは、足を突き出したミエッカが屋根瓦を粉砕しながら強引に停止させた。本来ならミュルスの力を使って減速するのだろうが、今はカエトスがこの周辺の源霊術を封じている。そのための緊急手段だ。

 

 ミエッカがもどかしそうに腰に巻いた安全帯を外すと、まとめて縛られていたレフィーニアがミエッカの背中から飛び降りた。ナウリアのもとへと駆け寄って、膝立ちの姉にそのまま抱き着く。

 

「姉さま、怪我はしてない? 痛いところは?」

「大丈夫だけど……何であなたたちがここに……? もしかして霊獣討伐をやめて引き返してきたの?」


 体のあちこち触れながら尋ねる妹を優しく抱き返しながら、ナウリアは聞き返した。その視線は屋根にネルヴェンを放り投げて駆け寄るミエッカに向けられている。


「行ってきたし、もう倒した。今は事後処理をしているはず。私たちは姉さんが危ないって聞いて先に飛んで帰って来たの」

「……倒した? 霊獣を?」

「凄かったの。ミエッカ姉さまとカエトスが協力して、こうずばっと一刀両断しちゃったんだから」


 ナウリアは興奮気味に話すレフィーニアの肩をつかむと、やんわりと引き剥がした。その動作とは裏腹に厳しい目つきできっと見据える。

 

「殿下。凄かったの、じゃありません。あなたは何でこんな危険なことを……! よりによって霊獣討伐に紛れ込むなんて! 無事だったからいいようなものの、何かあったらどうするんですかっ!」


 真剣な表情で叱責するナウリアに、レフィーニアの顔から笑みが消える。次いで表れたのは悲しそうな辛そうな表情だった。

 

「……神託があったんだから仕方ないでしょ。姉さまには関係ないです」


 暗い声で言いながら、肩をつかむ姉の手を振り払うように立ち上がる。

 さらに言い募ろうとしていたナウリアは、姉と目を合わせようとしない妹の冷たい拒絶に言葉を失った。何か言おうと手を伸ばすも、結局は手を下ろして小さく唇を噛む。

 一瞬前に見せた親し気な空気は、完全にどこかへ吹き飛んでしまっていた。重苦しい雰囲気は、とてもカエトスが口を挟めるものではない。


「カエトス、源霊術の封印を解け。私は下の様子を見てくる」

「了解」


 カエトスが二人を見守っているとミエッカが声をかけてきた。その表情は姉妹と同じように厳しく、切なそうだった。

 カエトスは剣の柄を左手の中で回転させ、順手に持ち替えた。大気に満ちていた緊張のようなものがふっと緩む。行動を制限されていた源霊が解放された証だ。

 カエトスにも察知できるその変化は、源霊使いであるミエッカならよりはっきりとわかる。カエトスが合図するまでもなく、屋根から無造作に飛び降りた。

 

「侍女長殿、私も様子を見てきます。ネイシス、こっちは頼む」

「任せろ」


 カエトスはミエッカを追って屋根から飛び降りた。着地の直前で剣を逆手に持ち替え、ミュルスに落下運動を殺すように指示を出す。

 

 難なく着地したカエトスのだいぶ先のほうにミエッカはいた。無用な警戒をさせないよう意図的に足音を立てながら近づく。

 ちらりと振り返ったミエッカが目を戻した。カエトスが横に並ぶのを待って口を開く。

 

「これが姉さまを襲った不届き者どもか。……これでは話を聞けないな」


 ミエッカが見下ろしているのは路地に転がる人間たちだ。カエトスがまとめて殴り飛ばした賊だ。三十ハルトース(約三十六メートル)ほど吹き飛んだ挙句、路地の突き当りの壁に激突したようだ。手足がおかしな方向に曲がっていて、折り重なったままぴくりとも動かない。

 

「申し訳ありません。上手く加減ができればよかったんですが」

「謝ることはない。あそこはあれ以外にやりようはなかったし、それに見ろ。こいつらが死んだのは、カエトスのせいだけじゃない」


 ミエッカはそう言うと、横たわる男たちに数歩近づいた。カエトスからは死角になっていた男を指差す。その頸部に赤黒い穴があいていた。鋭利な刃物を突き刺した痕だ。血が勢いよく噴出した痕跡もある。まだ生きているときに刺されたために、拍動によって血液が噴き出したのだろう。

 

「口封じですか」

「多分な」


 体を屈めて死体を検分するミエッカの口調や態度は、いつもと変わらない。

 親衛隊という役職柄、荒事の経験は豊富で、人間の死に直面するのも一度や二度ではないのだろう。そして自分の手にかけたことも。

 やはりミエッカは戦士。稽古のときに見せた笑みは、戦いを是とする彼女の本質が顔を覗かせたものだったのだ。しかし王女に危機が迫っているこの状況を歓迎しているなどということはない。彼女の顔には隠し切れない苦々しさがある。

 ミエッカは姉妹が平穏に暮らせることを一番に願っている。その思いは、ほんの短い時間しか接していないカエトスにさえもひしひしと伝わってきていた。だからこそ、姉妹の周辺でこのような血生臭い出来事が起きることを忌んでいるのだ。


 男たちの衣服や所持品を調べようと手を伸ばしたミエッカがぴたりとそれを止めた。立ち上がってぐるりと視線を巡らせる。

 路地にいくつもの足音が反響していた。先刻の雷撃を目にした野次馬たちが、怖いもの見たさでやって来たようだ。


「調べるのは後だな。とりあえずここを収拾するから、カエトスはこいつらの所持品が盗まれたりしないように見張っててくれ。私は港の管理者と警備隊に話をつけてくる」


 ミエッカはそう言い残すと足早に歩き出した。野次馬たちにこれ以上近づくなと告げながら路地の先に消える。

 カエトスは遠巻きに見守る野次馬たちに注意を向けながら、すでにこと切れた男たちを見下ろした。複雑な心境だった。

 ナウリアを殺そうとしたことへの怒りが多くを占めていたが、このような形で人生の幕を閉じることになった境遇への憐憫も少なからずある。そしてそれと同程度の安堵も。


 彼らが生きていた場合、クラウスが王女暗殺に関わった証拠が出てきたかもしれず、それがクラウス失脚の足掛かりになる可能性もあり得たのだ。

 啓示する書物イルミストリアは、クラウスの陰謀を目的達成のために利用している。ここでそれが明らかになってしまっては今後の予定が狂ってしまうのだ。ゆえにカエトスは安堵した。重要な情報がミエッカたちに伝わらなくてよかったと。

 カエトスはため息をついた。

 人が死んで良かったなどと考える自分自身に嫌気が差す。だが心中にはそれよりもずっと強い嫌悪感が渦巻いていた。

 

(やはり、あのハルンという侍女のことは伏せておくか)


 カエトスの迷いを読み取ったネイシスが思念を送ってきた。嫌悪感の源はまさにこのことだった。

 事件を解決させたくなければ、賊の中にクラウスの侍女ハルンがいたことは黙っておいた方ほうがいい。だが姉妹の安全を第一に考えるならば、すぐにでもこの事実を告げるべきなのだ。


(……ここは黙っておこう。本は王子を失脚させろっていう指示を出してないし、お前の言葉だけじゃ、王子を捕まえるのは無理だしな)

 

 カエトスは当然ネイシスを信じているし、レフィーニアたちもネイシスの言葉ならば、重要な情報として受け止めてくれるだろう。ただそれ以外の人間に信用させる手段がない。妖精が言ったからなどと発言したところで、正気を疑われるだけだ。

 カエトスはそう考えてネイシスに答えたものの、これは完全に自分への言い訳だった。


(うむ、いま取り得る選択肢の中ではそれが最善だな)


 ネイシスのいつもと変わらない冷静な一言に心がいくらか軽くなる。自分の行動を理解し支持してくれる者の存在は、いまのカエトスにとって何よりも心強かった。

 

(何はともあれ、無事に霊獣を殺してきたんだ。試練は二つとも達成できたようだぞ。次の記述が現れている)

(……そうなのか? 俺が霊獣を殺す余裕は全くなかったんだが)

(王女たちがその場にいる状態で、霊獣が討伐されればよかったということなんだろう)

(それならそうと記しておけよな……)


 カエトスは思わず愚痴をこぼした。イルミストリアの指示には具体的な言葉が欠けている。それが不便極まりなかった。

 

(それで、次は何をすることになってる?)

(大きく分けると二つある。読むからよく聞け)


 そう前置いてネイシスが口にしたのは次のような内容だった。

 一つは、

『大陸暦二七〇七年五月十五日、七エルト三十六ルフスの刻(午後三時十分頃)、王城アレスノイツ典薬寮別棟において、アルティスティン・レフィーニアの要請を受諾せよ』。

 もう一つは、

『大陸暦二七〇七年五月十五日、七エルト四十六ルフスの刻(午後三時半頃)までに、王城アレスノイツ典薬寮別棟において、カシトユライネン・ナウリア、アルティスティン・レフィーニアの二名と、及び同年同月同日七エルト四十六ルフスの刻、王城アレスノイツ兵部省敷地内、親衛隊ヴァルスティン宿舎において、カシトユライネン・ミエッカと、それぞれ真実を告げず偽りを口にすることなく、親交をより深化させよ』だ。


 カエトスは二つの文章を頭に刻み付けるとともに、内容をじっと分析してみた。


(一つめは、王女に何を言われるかってところを除けば、簡単に済みそうだな)

(うむ。二つめは、事実を適当にはぐらかしつつ仲良くなれということだろう。お前は口が上手いから、これもさほど問題はなさそうだ)


 ネイシスがすでに成し遂げたかのような口振りで言う。

 その場で最適な返答を導き出すのは、非常に難易度が高い。下手をすれば、命がけの戦いのほうが容易に思えるほどに。

 しかしナウリアたち三姉妹と面識のなかった当初に比べたら、彼女たちとの関係はずいぶんと好転している。少なくとも普通に会話できる程度の環境は整っているし、カエトス自身、姉妹たちと話したいこともある。決して容易と言える試練ではなさそうだが、機転と努力次第で切り抜けられる余地は十分にあるように思えた。

 ただし、それは最も重要な前提が崩れなければの話だ。いまのカエトスには重大な懸念があった。

 

(なあ。これはいきなり変わったりしないよな?)

(それは何とも言えん。ただ、変化する可能性は低くはないと私は見ている)


 懸念とはイルミストリアに記された内容が変わることだった。これのおかげで、カエトスは予定外の重荷を課せられる羽目になったのだ。

 ネイシスの無慈悲な返答にカエトスは思わず渋面になった。

 

(何で内容が変わったんだ? これまでに一度もなかったじゃないか)

(確実なことは言えないが、推測はできる。おそらく、神が関わっているからだ。私がこの本を開いたとき、何も文章が現れなかったのを覚えているだろう? それは我々神が、人間とは異なる運命のもとにあるからだ。つまりこの本が示せるのは人間の運命のみで、神々のそれには干渉することができない)

(……そうか。王女が神託をもとに動いた場合、それは神の運命に乗っかっているようなもので、王女自身の運命に基づいた行動じゃない。だからこの本は王女の行動を予見できなかったってわけだな)

(うむ。突然内容が変わったのはイルミストリアが、そのときになってようやく変化してしまった事態を把握したのではないかと私は見ている)


 カエトスはネイシスの言葉を頭の中で繰り返した。ふと新たな疑問が湧く。

 

(じゃあ、あれはどうなるんだ? 出港前に王子の部下が船に乗り込んできたやつ。王女の神託は、俺があいつらに連れ戻されないようにするために下されたらしいんだけど、本来なら、この本にその記述がなきゃおかしいだろう? 王女が来なければ俺は船から下ろされてたんだからな。でもそれらしい記述はなかった。つまり本は王子の行動も読めなかったってことになる。でも王子は神官じゃないらしいし、それはどう見る?)

(王子は神官としての特徴はないが、王女の親族だ。目に見えない部分に、神とのつながりがあるのかもしれない)

(じゃあ王女か王子が関わる以上、これからも本の内容が変わる可能性はあるってことか)


 状況はカエトスが思っていた以上に深刻だった。呻くようにネイシスに尋ねる。


(なあ、これから王子が俺を直接狙って来ることはあると思うか?)

(いや、ないな。昨日まではその方針だったようだが、今日は矛先がナウリアとミエッカに向いていた。そこから考えられるのは、お前が導き出した推論と同じだ。すなわち、奴らはあの姉妹を殺すことで間接的にお前を殺そうとしている)


 一般的に人は、怪我や病、飢えや乾きなどが原因となって死ぬ。しかし今のカエトスはそれ以外の要因でも死ぬことがある。そのうちの一つが女神イリヴァールの呪い。そしてもう一つは、イルミストリアのもたらす災厄だ。

 イルミストリアをカエトスに譲ったゼルエンの話によれば、イルミストリアが指示する試練を達成できなければ所有者は災厄に見舞われるという。それはカエトスの命を容易に奪うものになるはずだ。つまりカエトスを殺すのに、直接手を下す必要はない。試練を達成させなければ、カエトスは自然と死ぬのだ。

 

 そしてここにミエッカとナウリアの生死が絡んでくる。

 なぜならイルミストリアが定めた最終的な目的は、彼女たちから真の愛情をもらうことであり、それを達成するには姉妹が生きていなければならないからだ。

 もし姉妹のどちらかでも命を落としてしまったなら、本の課した試練を達成できなくなり、カエトスに災厄が降りかかることになるだろう。そしてカエトスは死ぬ。

 

 クラウスがミエッカやナウリアを殺害する動機に乏しいことも、この推測を強固なものとしていた。

 クラウスの侍女ハルンが関わっていたことで、一連の事件の主謀者はクラウスと断定できる。そのクラウスの最終目標はシルベリア国王になることのはずだが、それにはミエッカとナウリアの生死は無関係とまではいかなくても、大勢には影響はない。姉妹が健在であろうがなかろうが、レフィーニアがいる限り王位に就くことはできないからだ。なのにミエッカとナウリアを殺そうとした。しかもご丁寧に、ほぼ同時刻の別々の場所に刺客を派遣して。

 その理由は、間接的にカエトスを始末するため。それ以外には考えにくかった。

 そしてこの推測は、カエトスを一層責め苛む。

 これが事実だとしたなら、ミエッカやナウリアの命が狙われたのは、カエトスが原因であり、しかもそれは今後も続くかもしれないのだ。


(……まずいぞ。いきなり隊長とか侍女長を守れとか言われたら対処できない)


 どんどんと暗い方向へ進んでしまう思考を、ネイシスの冷静極まりない声が引き戻す。


(カエトス。本は私が監視しておいてやるから、お前は新たに現れた試練をこなすことに集中しろ)

(……悪いな。神さまにそんなことさせて。本当に助かる)

(気にするな。これくらいのこと、頼まれなくてもやってやる。お前は、この姉妹のいざこざも片づけなきゃならないんだ。ハーレムを作る上で、その構成員同士の関係がぎすぎすしているというのはよろしくないだろう?)


 ネイシスの言葉に、カエトスはまだ問題があることを思い出させられた。

 ハーレム云々はともかく、カエトスはレフィーニアたちには仲良くして欲しいと思っていた。

 いさかいの原因は、彼女たちと交わした会話からもうわかっている。レフィーニアは国王になりたくない。しかしナウリアたちはレフィーニアを国王にしようとしている。その辺りに行き違いがあるのだ。

 

 徐々に近づく足音が耳に届く。ミエッカが戻ってきたようだ。

 振り返ろうとしたカエトスの目と、物言わぬ躯となった男たちの虚ろな目が合った。その姿に、姉妹が危機にさらされたときの恐怖が再び喚起される。

 この後もカエトスの想像できないような試練が襲って来ることだろう。対応を誤れば、レフィーニアたち三姉妹が彼らのような最期を迎えかねない。それは絶対に容認できないことだった。

 何があっても彼女たちだけは必ず守り通す。

 カエトスは決意を新たに、野次馬をかき分けてやって来るミエッカへと振り返った。

 

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