第15話 対話という名の死闘

「……ふう。このくらいにしておくか。あとは全部食べてもいいぞ」

「うむ。ではもらおう」


 カエトスが声をかけると、金髪の小さな女神ネイシスは、自分の体がすっぽりと収まりそうな深い皿の中に手を突っ込んだ。自分の手よりも大きい豆を鷲づかみにして、優雅で美しい外見からは想像もできない豪快さでかぶりつく。

 

 カエトスは典薬寮の庭園でレフィーニアを発見した後、アネッテ、ヨハンナの二人と合流して親衛隊の宿舎に戻ってきていた。そして翌日まで待機するようにと言われたため、遅めの昼食を摂っていたところだ。もちろん、カエトスの部屋は昨日から変わることなく、机や椅子が乱雑に積み重ねられた物置のままだ。

 ただ掃除道具を借りて、ある程度清掃したおかげで、昨日よりも埃っぽさは改善されて過ごしやすくなっている。

 またそれ以外にも変わった点がある。食事だ。

 カエトスの前には綺麗に拭いた机があり、その上にはお盆と食器が乗っている。

 ついさっきまでカエトスが舌鼓を打ち、そしていまは机の上に胡坐をかいたネイシスが淡々と口に放り込んでいる料理の内容は随分と豪勢だ。

 王都の正面にあるビルター湖で獲れた魚に塩を振って焼いたものに、鶏肉と豆と根菜の煮込み、そして炊いた米にあとは夏みかんと、昨晩の乾パンのみと比べたら雲泥の差だ。

 食事の質が向上したのは、レフィーニアを練武場で助けたり、典薬寮の庭園で見つけ出したりしたことが評価されたからか、それともアネッテの信頼をそれなりに得られたからだろうか。

 食事を持ってきたアネッテが、おかわりが欲しければ遠慮せずに言えと告げたことから、一定程度の友好関係は築けたように思えた。


「しかし神さまに俺の残り物食わせていいのか? 普通は神さまに供えたものを人間がありがたくもらうもんだろう」

「私がいいと言っているんだから、いいに決まってるじゃないか」


 机に頬杖を突きながらすまなそうに言うカエトスに、ネイシスは食事の手を止めずに答えた。

 食事はなかなかに美味だったが、カエトスは腹六分で食事を終えている。いざというときに満腹で動けないようなことがあってはならないからだ。そのためネイシスが食べているのは、カエトスが残したものだった。


「……まあ、それならいいんだけどな。それはそうとネイシス、そろそろ時間じゃないか?」

「ん?」


 ネイシスは煮込んだ鶏肉をいままさに大口を開けて頬張るところだった。口の中に押し込んだ肉を力強く噛み砕いて嚥下する。それを飲み込むときに、獲物を丸呑みにした蛇の胴体のように喉が大きく膨らんだ。さらにすでに手にしていた焼き魚の肉片を口中に放り込み、同じようにごくんと喉を鳴らしながら飲み込む。

 

「……やはりこの肉体はまだまだ不完全だな。色々食ってみたが、カエトスの言う美味いという感覚がよくわからない」


 ネイシスは首を傾げると、外見とは裏腹な野性味あふれる仕草で口元を拭った。その拍子に煌めく金髪と紅玉をあしらった首飾り、そして黄金の腕輪が揺れる。

 自分の体重を遥かに超える量を食べたはずなのに、黒いドレスに覆われた腹部は全く膨らんでいない。ネイシスは愛情を知る一環で人間の食事を模倣していただけで、彼女自身に食事は一切必要ない。ゆえに摂取した食事は体に留まることはなく、すぐに分解されてしまうとのことだ。

 それでも彼女は食事を残すことを良しとせず、器を両手で抱えて中の汁まで全て飲み干した。器を置きながら背中を覆っている自身の金髪の中に腕を突っ込むと、長楕円型の時計を取り出し、その表面で淡い光を放つ数字の列に目を落とす。


「さて、時間はと……。うむ、九エルト半(午後七時ごろ)前だからもう少しだな」

 

 イルミストリアに記された次に為すべき試練の内容は『大陸暦二七〇七年五月十四日、九エルト三十八ルフスの刻、王城アレスノイツ兵部省内練武場において、カシトユライネン・ミエッカと接触し、友好関係を築け』となっている。

 最大の難関であるミエッカとの関係を進展させなければならない時間まであと十ルフス(約二十分)ほどに迫っていた。

 カエトスがこの時間になるまでに行動を起こさず、のんびりと食事を摂っていたのには理由がある。それは食事の時間になると、ミエッカが宿舎に戻ってくるという話をヨハンナから聞き出していたからだ。

 つまりここで待っているだけで向こうからやって来る。あとはこの物置から外出するのに相応しい理由を、いまも扉の前で監視しているヨハンナに告げて、そして宿舎のどこかにいるはずのミエッカを探し出す。

 カエトスはこのような予定を立てていた。

 

 しかし首尾よくミエッカを見つけ出したところで、いったいどのような言葉をかければいいのか。その肝心な部分をカエトスは食事中も考えていたのだが、結局妙案が浮かぶことはなかった。何をしたら関係を改善できるのか、まるで思いつかないのだ。

 できることなら作戦を十分に練ってから挑みたかったが、もう時間がない。


「じゃあ、行くか」


 カエトスはテーブル上のお盆を手に取った。これを入口の向こうにいるヨハンナに返却し、外出許可を得る。彼女なら説得は容易だろう。難色を示しても神鉄の欠片を提供するなど、金目のものをちらつかせれば懐柔できる。

 ネイシスが姿を消しながら肩にふわりと飛び乗る中、カエトスは扉に歩み寄りそれを叩こうとした。すると取っ手の辺りでがちゃがちゃと物音が生じ、ほどなく扉が開く。そこには意外な顔があった。カエトスがこれから探しだそうとしていた人物、ミエッカだ。

 

「食事は済んだな? なら、少し顔を貸せ」


 ミエッカは険しい眼差しで短く告げると、さっさと背中を向けて黒髪をなびかせながら歩き出した。


「お前に用事があるそうだ。ついて行け」

「はい、これは私がもらっておきますね」


 ミエッカの隣にいたアネッテが視線で促し、横から手を伸ばしたヨハンナがお盆をさっと取り上げる。


(ふむ。今日の後半の試練は楽なものばかりだな。あの娘を探し回る手間が省けたし、あとは仲良くなるだけだ)


 ネイシスが、もう試練は乗り越えたと言わんばかりの楽観的な口調で言う。

 しかしカエトスはとてもそんな気にはなれなかった。ミエッカと何を話すべきか、まるでまとまっていないのだ。

 カエトスは不安を抱えつつ、ミエッカの後を追った。

 

 

                  ◇

 

 

 ミエッカが向かったのは屋内練武場だった。

 すでに日が暮れているため、明かり取り用の天窓から光は入ってこない。だが練武場の中央に立つカエトスの頭上からは、光がふんだんに降り注いでいた。

 

(これはイルーシオか?)

(うむ。天井の梁にイルーシオが宿る霊鉄があったぞ)


 いつものように透明化してカエトスの右肩に座るネイシスが言う。彼女は昨日の決闘の際、天井からカエトスたちを見下ろしていた。そのときに見つけたのだろう。

 

(さすが国王の居城だな。そんな高価なやつを贅沢に使ってる)


 練武場は、貴族の屋敷がすっぽり収まりそうなほどに広い。その隅々まで光を行き渡らせるのに必要な霊鉄ともなれば、神鉄を調達するほどではないにしろ、相当な額になる。

 それはつまりこの城にはそれだけの金があるということで、カエトスが王女レフィーニアと結婚し国王としての権限を委任されると、その莫大な額を動かす権限も転がり込んでくるのだ。

 果たしてそのような重責を自分に全うできるのだろうか。

 カエトスが将来に横たわる漠然とした不安に思いを馳せていると、練武場の四方にあるうちの一つの鉄扉が開いた。

 やって来たのはカエトスを置いてどこかに行っていたミエッカだ。しなやかな動作でカエトスに近づくその手には剣を五振り抱えている。


「少し稽古に付き合え」


 ミエッカはカエトスから十ハルトース(約十二メートル)ほど離れたところに立ち止まると、土がむき出しの地面に四振りの剣を放り投げて、残る一振りを肩に担いだ。

 

 イルミストリアに練武場という記述があったときから、決闘を挑まれるのではと警戒していたカエトスは、稽古という言葉に少し安心した。これなら会話をする余裕もあるだろうと。しかしその一方で不安が拭いきれない。ミエッカが持ってきた訓練用の模擬剣は、彼女の手にある一振りと地面の上に散らばっている四振りのみで、カエトスに渡す気配がないのだ。

 

「それは構いませんが……武器は何を使えばいいんでしょうか」

「貴様はそれを使え。本気でやってもらわないと困るからな」


 カエトスの問いに、ミエッカが顎をしゃくった。視線はカエトスの左腰に向けられている。

 胸中に徐々に嫌な予感が膨らんでいく。よく見ればミエッカの放つ気配は、ただの稽古にしては少々──いや、かなり猛々しい気がする。

 

「いま、稽古と仰ったと思いますが……」

「そう。稽古だが本気でやってもらう。私も本気でやる」


 カエトスの脳裏に、赤熱した刃が荒れ狂う様が鮮明に蘇った。喉がごくりと鳴る。

 先日の決闘において、ただの模擬剣でミエッカの熱剣と渡り合って生き延びたのは僥倖という他ない。もう一度同じことをやれと言われて生き残る自信はなかった。

 カエトスの表情の僅かな変化を見て取ったのか、ミエッカが親指で脇に放り投げた剣を指した。

 

「安心しろ。熱剣は使わないし、リヤーラも使わない。これはただの予備だ。だがミュルスは使う。だから気を抜くと死ぬぞ。さあ、抜け」


 ミエッカの低い声が、静まり返る練武場内に吸い込まれるようにして消える。

 カエトスは左手で剣を抜いた。

 

(カエトス、やるのか? この女と仲良くならないといけないんだろう?)

(話し合いが通じると思うか?)

(……うむ、これは無理だな)


 ネイシスはすぐさまさじを投げた。カエトスの肩から彼女の小さな足の感覚が消える。戦いが避けられないと見て、上空にでも退避したのだろう。

 ミエッカは掛け値なしの本気だった。彼女の心情を表すように瞳はらんらんと輝き、殺意も見え隠れしている。説得は意味をなさないどころか、彼女の闘志の炎に油を注ぐことになりかねない。かと言って、尻尾を巻いて逃げようものなら、これまでのミエッカの言動から考えて、カエトスは臆病者の烙印を押されてしまうだろう。親交を深めるどころの話ではなくなる。

 受けて立つしかなかった。

 

「行くぞ。……ミュルスよ! 汝が力、我が体に宿せっ!」


 ミエッカが覇気に漲る声で源霊に呼びかけた。

 それと同時にカエトスも回転式の鍔に親指を当て、ミュルスへ呼びかける穴が選択されていることを確認する。

 ミエッカがミュルスの力を自身に宿らせるのは、身体能力を向上させるためだ。それと渡り合うには同じようにミュルスの力を借りるしかない。

 しかしカエトスが剣舞を開始しようとした矢先、鋭い金属音が練武場に響き渡った。カエトスの剣がミエッカの模擬剣によって激しく打ち据えられたのだ。

 彼女は地を這うような跳躍でカエトスとの間合いを一瞬で詰め、横薙ぎの一撃を放っていた。その狙いはカエトスではなく、初めからカエトスの剣だった。

 

 振り抜かれた刃はすぐさま切り返された。剣が弾かれたことで無防備になったカエトスの体に向けて薙ぎ払い、突き、斬り上げる。休まず繰り出される怒涛の斬撃に、悠長に剣舞を行う余裕は皆無だった。

 

 嵐のようなミエッカの剣撃を、受け流し、受け止め、回避する。堪らず一歩退くカエトス。

 ミエッカはその隙を見逃さずに鋭く踏み込み、雷光のような凄まじい突きを繰り出した。それはもはや模擬剣だとか真剣だとか関係なく、直撃すれば確実に体を貫かれて絶命する一撃。

 カエトスは咄嗟に体をよじってぎりぎりかわした。体をひねる動作を利用して大きく後退する。

 必殺の一撃を回避したことで、ミエッカの追撃が遅れた。さらに二歩三歩と飛び退き、十分な間合い確保する。

 

 カエトスは大きく息を吸い込んで吐いた。息をつく暇すらない猛攻だった。体温が急激に上昇して全身から汗が噴き出す。

 いまの攻防でカエトスは悟った。ミエッカはカエトスの剣舞の正体を知っている。ゆえに最初の一撃でカエトスの剣を狙ってきたのだと。

 状況は非常に悪い。何とか剣舞を行う隙を見出すべく、カエトスはミエッカに話しかけた。

 

「アネッテ殿から、私の技について聞いたようですね」

「勘違いするなよ。確かにアネッテから聞きはした。だがそれ以前にもう見当がついていた」

 

 ミエッカはミュルスによる身体能力の補助具合を確かめるように、つま先を地面に何度か突き立てたり、剣の柄を手の中で回しながら答えた。その間も、カエトスから一瞬たりとも目を離さない。剣舞を行う素振りを見せたらいつでも襲いかかる気だ。

 

「貴様の技はエンジエンテと呼ばれるものだな? 二百年ほど前に失伝して、今はもう使い手のいない幻の技」


 カエトスはその瞬間、ミエッカの隙を窺うのも忘れて驚いた。まさかエンジエンテの名を他人の口から聞くとは思ってもいなかった。アネッテやナウリアには剣舞の仕組みを教えたが、名称は伝えていない。つまりミエッカは本当に剣舞を知っていたということになる。


「その特徴は音を使って源霊に指示を出すこと。これにより、源霊と交信する資質がない者でも源霊術を使えるようになる。そして弱点もそこにある。音を出せなければ源霊には呼びかけられない。つまりこうすれば──」


 説明の途中でミエッカが踏み込んだ。先刻よりもさらに鋭い。いままではミュルスの力を馴染ませるための準備運動であり、ついに本気になったのだ。

 

「貴様は何もできずに敗れるっ!」


 凄まじい斬撃がカエトスに迫る。その狙いはカエトスの体ではなく剣。剣舞を封じて源霊に呼びかけさせないつもりだ。

 

「私はお前を認めていないっ! ここで手足をへし折ってやるから、しばらく寝込め!」


 とうとうミエッカは本音を吐露した。稽古というのはただの口実。カエトスをここで物理的に排除するつもりなのだ。

 ミエッカの行動速度は恐ろしい領域に達していた。カエトスが同じ動作を行う間に彼女は五回は動ける。そのような状態で繰り出される斬撃は速いだけではなく、威力も凄まじいものになる。速度が倍になれば威力は四倍になるからだ。

 

 カエトスはミエッカの一撃に弾き飛ばされないように剣の柄をしっかりと握り締め、峰に右手を添えた。

 横薙ぎの刃が直撃。とてつもない衝撃に手だけでなく全身の骨が軋む。カエトスは何とか耐えた。しかし無論、攻撃はそれだけでは終わらない。残像が残るほどの速度で刃が翻る。響き渡る剣戟は、一つ一つが別の音なのにそれが一つに聞こえる。それほどにミエッカの攻撃は激しかった。

 

 辛うじて防御には成功している。しかしそれは最小の動作で身を守ることに専念しているからであって、少しでも集中力が途切れたらそこで終わりだ。

 ミエッカの目論見通り、カエトスは剣舞を完全に封じ込まれていた。このままでは体力をじりじりと削られていくばかりで、遠からず力尽きるだろう。

 だがカエトスにはまだ反撃の手段があった。実行すれば、この劣勢の中にあってもおそらく勝てる。

 カエトスはそう思いつつも同時に懸念を抱いていた。果たしてそれでミエッカとの間に親交を深められるのかと。ミエッカはカエトスを嫌っている。勝利することで返って感情が悪化する危険性があった。しかし負けるのは論外だった。そんなことをすれば、カエトスはそのとき五体満足ではいられない。下手をしたら死んでいるかもしれない。ならば、どうすればここを切り抜けられるのか。

 カエトスが必死に打開策を模索していると、鋼鉄すら容易く貫徹する猛烈な刺突が防御を潜り抜けてきた。

 

「……っ!」


 咄嗟に体をよじったが、完全に避けきれずに制服の胸元が剣先にむしり取られた。

 ミエッカは体を伸ばすようにして剣を突き出していた。これ以上ない好機。剣を戻すまでの僅かな間にミエッカを拘束すれば──。

 カエトスのその期待は即座に打ち砕かれた。剣を戻す速度も尋常ではない。つけ入る隙は皆無。カエトスがぴくりと動いた瞬間には剣は引き戻され、横薙ぎの斬撃となって襲いかかってきた。

 それを剣で防御しながらカエトスは心中で叫んだ。


(終わってから考えるっ!)


 余計なことを考えていては、そこを突かれて強烈な一撃をもらってしまう。下手をすればそのまま死ぬ。いまはミエッカを力ずくで止める。それしかない。

 カエトスは全霊を傾けて、ミエッカの一挙手一投足に目を凝らす。

 ミエッカの斬撃の密度はさらに増していく。小手先の技ではなく、剣をへし折らんばかりの怒涛の攻撃を繰り出す。カエトスの防御を正面から打ち破る気だ。

 練武場に響き渡る激しい金属音。受けた斬撃の数ははとっくに三桁に達していた。衝撃の連続に剣を持つ左手と、峰に添える右手がしびれてきた。汗が飛び散り、腕も肩も足も、全身の筋肉が悲鳴を上げる。


 カエトスの微妙な変化を見て取ったのか、ミエッカが踏み込みとともに剣を跳ね上げた。

 凄まじい圧力に抗しきれず、カエトスの剣が天に向かって弾かれる。剣を手放すことはなかったが、完全に防御が崩された。

 ミエッカの口元に獰猛な笑みが浮かぶ。それは明らかに戦いを生業とする戦士のもの。振り上げた剣をそのまま稲妻のように振り下ろす。

 狙いはカエトスの頭部。直撃すれば確実に死ぬ。

 カエトスは刃が届く寸前、何も持っていない右手を薙ぎ払うように全力で振るった。

 ミエッカの目に疑念の色が灯った次の瞬間、暴風が彼女に襲いかかった。そのままミエッカは二十ハルトース(約二十四メートル)以上も吹き飛ばされ。地面に接触。ごろごろと十回以上も転がって止まる。

 

(容赦ないな、カエトス)


 ネイシスの淡々とした感想がカエトスの頭の中に響く。

 一方のカエトスはやり過ぎたと焦って駆け出そうとした。するとうつ伏せになっていたミエッカはすぐに体を起こした。地面に体が接触するときに顎を引いて体を回転させていたが、上手く受け身がとれたようだ。だが完全に衝撃を逃がすことはできなかったらしく、立ち上がろうとしてがくんと膝をつく。

 

「……貴様、何をした!」

「ミュルスの力を借りました」


 カエトスはミエッカが無事なことに安堵の息を漏らしつつ、炎のような眼光で睨み付けるミエッカに答えた。その間に、剣を右手に持ち替え、左手をぶらぶらと振ってしびれを取る。

 

「そんなことはわかっているっ。だが貴様が剣舞をする余裕などなかったはずだっ!」

「確かに剣舞は完全に封じ込まれて無理でした。ですが音は出せたので、それを利用したんです」


 カエトスの言葉にミエッカが目を見開いた。そして信じ難いと言わんばかりの声音で問う。


「音……? まさか、剣を打ち合わせたときの……!?」

「そうです。この剣は鍔の穴だけじゃなく、刀身を打楽器のようにも使えるんですよ」

「打楽器……だと?」


 ミエッカはわなわなと肩を震わせながら、さらに尋ねた。

 

「その音は……適当に剣を打ち合わせるだけでは、望む音は出ない。違うか?」

「その通りです」


 カエトスの短い一言に、ミエッカは模擬剣の柄をへし折らんばかりに強く握り締めた。

 ミエッカはカエトスが目を瞠るほどの実力を持った剣士。それゆえに気付いたのだ。カエトスの技の本質に。

 剣戟の音を源霊への呼びかけに使うには、相手の剣の威力や軌道を瞬時に見極めなければならない。その上で自分の剣を適切な強さと角度で合わせなければ、望む音を発生させられないからだ。そしてこれはカエトスがミエッカの剣を見切っていることを意味していた。


「……もう一度だ!」


 歯ぎしりが聞こえてきそうな表情で叫ぶとともに、ミエッカが踏み込んできた。吹き飛ばされた距離を地を這うような跳躍で、たったの二歩で縮めてくる。

 

(やっぱり失敗だったか……!?)


 カエトスは素早く左手の剣を構え、一撃で人体を破壊し尽くす猛烈な斬撃を刃で受け流した。

 一度でもミエッカを退ければ説得できるかと期待したが、彼女が戦闘をやめる気配は皆無だった。

 カエトスの目論見はもろくも崩れ去ってしまった。しかしカエトスにはこれ以外の打開策がなかった。

 手加減を全くしないのであれば、この戦闘を終わらせることはできる。なぜならカエトスは、数回剣を打ち合わせるだけでミュルスに指示を出すこができるからだ。しかしその場合、ミエッカが生きている保証がない。

 

 源霊への呼びかけは人間同士の会話と同じく、音の集まりである言葉を用いて行う。

 これをカエトスの剣舞で実行するには、命令文に必要な言葉を一音ずつ発生させることになる。しかしこれでは緊急時にとても間に合わない。一つの文章に使われる音の数は、数十から数百にもなるからだ。そこで編み出されたのが、一つの音ではなく単語を一動作で発生させる〝型〟だ。

 

 例えば、剣の鍔を用いて源霊に命じる手法では、『ミュルス』や『動体減衰場』などの名詞、あるいは『実行せよ』などの動詞に対応する動作があり、それをなぞることで、少ない動作で文章を組み立てられるように工夫されている。つまり命令文を構成する名詞や動詞の数が九つであれば、九種類の動作で源霊に指示を出せるというわけだ。


 この型は、いまカエトスが実践して見せた刀身を打楽器として用いる手法にも存在し、一つの剣戟の音で一つの単語を発生させられるようになっている。

 しかしこの技法にはある問題があった。それは型によって発生させられる言葉は種類が少なく、細かい指示を出せないことだ。

 

 特に刀身を打撃する手法における型は『刀身の特定の部位を定められた強さで打撃すること』であるため、刀身の長さに限りがある以上、無制限に型を増やせない。

 その少ない型の中で、源霊の力を加減するための型は二つのみ。その内容は『全力』と『全力の半分』だ。

 

 これを用いてミュルスに指示を出した場合、何が起きるのか。

 力加減を『全力の半分』と指示したとしても、ミエッカを退けるどころか、この練武場そのものを破壊しかねない力が放出されてしまうだろう。それほどに神鉄が源霊に及ぼす影響力は強い。


 ゆえにカエトスは、万が一の失敗もないように細心の注意を払いながら、ミエッカの放つ必殺の剣撃を何十回と受け止め、一つずつ音を発生させた。そしてそれを用いて言葉を作り、精密な力加減を行わせる命令文を構築。さらには、力をミエッカに直接作用させるのではなく、空気に作用させ間接的に攻撃したのだ。

 しかし結果は、ミエッカの戦闘意欲を削ぐには至らず、むしろより向上させることになってしまった。


 カエトスはミエッカの放つ剣の嵐を受け止め、回避しながら必死に打開策を模索した。

 方法はいくつかある。

 一つはミュルスの力を攻撃に用いず、自身の加速に振り向けることだ。これならミエッカに対して攻撃せずに済むといえば済む。

 しかしこれにもやはり繊細な加減が必要だった。自分の体が耐えられ、かつ制御可能は範囲で加速させなければならないからだ。

 

 ミュルスの力を空気に伝播させる場合は力が拡散するため、多少の誤差を許容する余裕があるのに対し、身体能力の補助は直接体に力を作用させるため、微妙な違いが大きな変化として表面化する。少しでも加減を間違ってしまえばカエトスを待っているのは無様な自爆か、ミエッカを加害してしまうかのどちらかだ。

 しかも悪いことにカエトスは刀身を打撃する手法で、自分の身体能力を強化したことがほとんどない。

 源霊に対して詳細な指示を出しにくいことと、打撃音が発生してしまうことから使用場所を限定されるのがその理由だ。

 

 もう一つの方法は動体減衰場を使ってミエッカの剣撃を受け止めるか、もしくはミエッカ自身を減衰場に取り込んで停止させることだ。

 減衰場の中ではミュルスが絶えず運動エネルギーを奪うため、一度取り込まれると移動できなくなる。一見、戦闘を止める有効な手段のように思えるが、ここでも手加減は必要だった。

 なぜなら加減を誤ると手足だけではなく、体の内部の運動エネルギーすらも奪ってしまうからだ。つまり体内を循環する血流や、心臓を始めとした臓器の活動が止まってしまうのだ。

 カエトスが転落するリューリを動体減衰場で受け止めたときは、精妙に加減し、なおかつごく短時間で済ませたためにリューリの体内活動までは止まることはなかった。

 しかし今のカエトスはミュルスに繊細な指示を出せる状況にない。仮に加減に失敗した動体減衰場にミエッカを取り込んでしまったら、その場でミエッカは心停止により死んでしまうかもしれないのだ。

 

 やはり取り得る手段は一つ。

 もう一度、全霊を集中してミエッカの剣を受け止め、ミュルスに的確な指示を出し、ミエッカが軽傷で済むように反撃し、説得する隙を生み出す。

 全力戦闘中に喋る暇などないため、これしか方法はない。

 

 カエトスは決断すると、早速行動に移った。

 カエトスの眼前では、刃の旋風が吹き荒れていた。

 淀みない足さばきに、ミエッカの体がしなやかに翻る。止まることなく縦横無尽に繰り出される斬撃は、一呼吸する間に十を超えるまでに加速していた。しかもその一つ一つに溢れんばかりの殺意が漲る。

 

 カエトスは命を奪わんと迫る剣の嵐を見極め、刀身を全力かつ細心の注意をもって移動させる。それはただ受け止めたり、受け流すだけでは全く意味を成さない。刃の厚みよりも薄い単位で受ける位置を調節し、剣の威力に応じて強固に受け止めたり、力を逃がすように僅かに刀身を後退させて、望む音を発生させるのだ。

 しかしミエッカの攻撃の圧力は凄まじかった。早々に反撃して攻撃を中断させないと、ミュルスへ指示を出す前にカエトスの防御が崩される。


 止むことなく響き続ける激しい剣戟の音に、徐々に耳の調子がおかしくなっていく。焦燥は消えることなくカエトスの心を侵食し、死への恐怖は体の動きを阻害する。受け止め続けた衝撃により、再び両手の感覚が麻痺しだす。

 

 荒れ狂う剣撃の圧力に耐え続けたカエトスは、ミエッカの右薙ぎの一撃を受け流した瞬間、針の穴よりも小さな隙をついて右手を突き出した。

 ミエッカはその動きに完璧に反応した。次の攻撃に移ろうとしていた動作をぴたりと止め、一瞬で手の延長線上から退避する。その回避動作は右手を突き出したカエトスの右側面に回り込むものでもあった。しかし反撃を警戒するあまり、移動距離が長い。そしてそれはカエトスの見込み通りだった。

 

 右腕を突き出す動作はミエッカを騙すための牽制。本命は左手にある。

 カエトスは剣を持った左手を全力で真横に薙ぎ払った。

 カエトスの右側面から刺突を繰り出そうと踏み込んでいたミエッカは、瞬間的に発生した暴風にまたしても吹き飛ばされた。

 

(……しまった!)


 ミエッカの体は先刻よりも高く宙に放り出されていた。このままでは地面に急角度で接触してしまう。

 カエトスはミエッカを助けるようにネイシスに頼もうとしたが、ミエッカは空中で体をひねると地面に触れるぎりぎりのところで両手足を使って着地した。しかし勢いを殺せずに地面を十ハルトースほど滑る。

 

 ミュルスが生み出した力を、薙ぎ払う動作で分散させながら大気に伝えたのが功を奏した。仮に左腕を突き出していたとしたら力が集中してしまい、ミエッカはただでは済まなかっただろう。


「ま、まだまだぁっ!」


 力の大半を逃がしているとはいえ、ミエッカが受けた衝撃は激しく何十発と殴打されたのと同程度のはず。なのにミエッカはまだ闘志を失っていなかった。数百という剣撃の果てに歪んでしまった模擬剣を投げ捨て、地面に転がっていた別の模擬剣を拾い上げて、再び斬り込んでくる。

 

「隊長殿、これ以上は明日に差し支えます!」


 カエトスは制止した。ミエッカはもちろんのこと、カエトスの体も問題だ。これ以上酷使したら満足に動けなくなる。

 

「いいから……戦えっ!」


 しかしミエッカは聞く耳を持たなかった。全力で駆け寄っては斬撃を放つ。その威力に衰えはない。筋力ではなくミュルスの力によって動かされているため、剣の威力自体が落ちることはない。

 すなわち気を抜いた瞬間にカエトスが死ぬ状況に何ら変わりはない。そしてそれはミエッカにも当てはまる。カエトスが反撃の手加減に失敗すればミエッカが、ミエッカの攻撃を防御しきれなければカエトスが死ぬのだ。カエトスが全神経を集中して、戦いの流れを主導するしかない。

 

 休むことなく猛然と繰り出されるミエッカの攻撃に、カエトスの神経と体力が急速に摩耗する。そんな中、刹那の隙を突いて放たれたカエトスの反撃を食らい、ミエッカはさらに四度吹き飛ばされた。地面をごろごろと転がりうつ伏せになって止まる。

 

「はぁっ……はぁっ……!」

(カエトス、そろそろやめさせたほうがいいんじゃないか?)


 膝に手をついて空気を貪るように取り込んでいると、さすがに心配になったのか、傍観していたネイシスが懸念を伝えてきた。

 小さな女神の言う通りだった。さすがにこれ以上はもうまずい。明日、満足に動けなくなる。

 そもそも、当初の目的はミエッカと親交を深めることだったのに、もはやそれどころではなくなっている。間違いなく関係は悪化したはずであり、これ以上悪い方向に進めるわけにはいかなかった。

 カエトスはここまで女を叩きのめした経験など、これまでに一度もない。どう巻き返したらいいのか、それを思うと暗澹たる気分になる。


 とにかくカエトスは強引にでもやめさせようと、疲労した体に鞭打って横たわるミエッカに駆け寄ろうとした。だがその足が止まる。

 ミエッカはまたもや立ち上がってきた。両腕を前に垂らし、ゆらりと体を揺らしている。いまにも倒れそうだったが、カエトスは制止の声をかけられなかった。

 ミエッカが笑っていたのだ。

 それは傲慢でもなく嘲りでもなく、そして戦士のものでもなく、まるで子供が夢中になって遊んでいるような無邪気な笑み。彼女の中でいったい何が起きたのか、つい先刻まで親の仇でも見るかのような険しい目つきだったとは思えないほどの変貌ぶりだった。

  

 ミエッカが地面を蹴った。嬉々としてカエトスに斬りかかる。疲労のために余計な力が抜けたのか、それは今までで最速の斬撃だった。

 カエトスはミエッカの底なしの体力に戦慄した。淀みない足さばきに、目にも止まらない速さで翻る無数の刃。攻撃を受けるカエトスに余裕はほとんどなかった。ミエッカの斬撃を利用して、最短でミュルスへの命令を作り出す。

 

 ミエッカが鋭く踏み込んだ。同時に足元からのすくい上げるような斬撃が走る。

 回避するのは不可能と見て、カエトスは左手の剣に右手を添えて受け止めた。その凄まじい威力にカエトスの体が宙に浮く。

 

 ミエッカが剣を引いた。柄を右肩に、切っ先をカエトスの体の中心に定めて、足をたわめる。刺し貫く気だ。その結果カエトスが死ぬとわかっているのかいないのか、その顔に浮かぶのは心底楽しそうな笑み。


 切っ先がゆらりと揺れた。動くと見えた瞬間、カエトスは宙で体を旋回させた。右足で大気を薙ぎ払う。

 瞬時に発生した暴風に牙をむかれたミエッカは、またしても攻撃に移ることなく吹き飛ばされた。


 着地したカエトスは膝に手をついた。滝のように流れる汗が地面に滴り落ち、呼吸が苦しい。もう体力がない。

 ぎりぎりのところでミュルスのへの命令が完成し、そして自ら跳び衝撃を逃がすことに成功したが、もう次はない。これ以上起き上がられたら殺されてしまう。

 

 カエトスは息を荒げたまま顔を上げた。ミエッカはうつ伏せに倒れていた。ぴくりとも動かない。手加減はできたはずだった。しかしミエッカも疲労困憊。満足に受け身を取れなかった可能性があった。

 カエトスは震える膝を気合いで黙らせるとミエッカに駆け寄った。傍らに膝をつき肩に手をかけて、慎重に仰向けにする。

 

「うおっ……!」


 カエトスは思わず声を上げた。

 ミエッカは気を失っていたわけではなかった。いまだ力を失っていない瞳でカエトスを睨み付けると、いきなりカエトスの右手首を鷲づかみにしてきた。さらに左腕や服をつかみ、崖をよじ登るような手つきで襟元に到達、そのまま首を絞め上げようとする。しかしその手は小さく痙攣していて、全く力が入っていない。彼女の体力は限界に達していた。

 そしてそれはカエトスも同様だった。膝立ちの姿勢で何とか耐えようとしたものの、足の踏ん張りが全然利かない。襟をつかむミエッカの体重を支えきれずに、正面から抱き止めるような形で地面に転がってしまった。汗に混じった華やかな匂いが鼻孔をくすぐり、ミエッカの熱が密着した体から伝わってくる。

 

「私は……まだ……やれるっ……!」


 カエトスの襟をつかんだまま、必死の形相で言うミエッカ。先刻までの笑みはどこへやら、カエトスのすぐ眼前にある汗だくの顔は、疲労と悔しさと執念に染まっていた。

 

「それじゃあ、私の上からどいてもらえますか? それができたら相手をしましょう」

「馬鹿にして……! ……んっ、くっ……力が入らない……」


 ミエッカはカエトスの体にのしかかったまま、両腕を地面について体を起こそうとした。しかしカエトスの体をよじ登るのに力を使い果たしたのか、左右の腕はぷるぷると震えるだけで、体は全く持ち上がらなかった。

 

「だから言ったでしょう。その調子じゃ、剣も持てないはず。今日はもうおしまいです」


 カエトスが諭すと、ミエッカは再びカエトスの襟に手をかけた。

 

「勝ち逃げは……許さない……! お前は……私が勝つまで──」


 そこまで言って、ミエッカの頭からがくんと力が抜けた。カエトスの顎に額を乗せるようにしたまま、完全に動きを止める。

 ふと天を見上げるカエトスの視界に、金髪の女が出現した。仰向けに寝転がるカエトスの額の上にふわりと降り立ち、思念で呼びかける。

 

(……死んだか?)

(物騒なこと言わないでくれっ)

 

 ネイシスはカエトスの顔面を遠慮なく足蹴にしながら、カエトスの左肩に降り立った。横を向いているミエッカの顔をしげしげと覗き込む。

 

(ふむ。寝てるだけか)


 確かめるまでもなく、体を密着させているカエトスにはミエッカの鼓動も、徐々に落ち着きつつある呼吸も感じ取れていた。その寝顔は、カエトスの予想に反して穏やかそのものだ。ついさっきまで鬼神のごとく暴れ回っていた戦士にはとても見えない。


(カエトス。この女とは話にならないどころか、剣を交えただけで終わったわけだが……これで仲良くなれたのか?)


 ネイシスがミエッカの額をつんつんとつつきながら思念を送って来る。

 カエトスは重いため息をついた。

 

(……どう見てもそれはないだろうな)

(じゃあ、最後笑ってたのは何なんだ? 私はあれが関係改善の兆しだと思ったんだが)

(俺には、単純に戦いが楽しくなっただけのように見えたんだが……よくわからないな)


 いずれにしろ、カエトスに対して抱く感情が好転したと見るのは、楽観過ぎるだろう。


(本の内容にも変化がないな。これまでなら、試練をこなせばすぐに新しい記述が出てきたのに。やっぱりお前の言う通り、関係は進展してないのかもしれないな)

(失敗した……ってわけじゃないよな?)


 背中を覆う金髪の中からイルミストリアを取り出したネイシスに、カエトスは隠し切れない不安の滲む思念をぶつけた。

 

(どうだかな。本の内容は、この機会を使って仲良くなれともとれるし、この一件をきっかけに関係改善に努力しろと言っているようにもとれる。もう少し様子を見るしかなさそうだ)

(これでおしまいじゃなきゃいいんだけどな……)


 カエトスはもう一度ため息をつくと、体に覆いかぶさったままのミエッカの両脇に手を差し入れた。上半身を持ち上げて横にずらし、ゆっくりと地面に仰向けに寝かせる。


(それでこれはどうするんだ。ここに置いていくのか?)

(こんなところに放置できるわけないだろう。不埒な男に見つかったら襲われるぞ)


 ミエッカを『これ』呼ばわりするネイシスに答えながら、カエトスはミエッカの両腕を自分の首に回して背中に背負う。

 

(こんな獰猛な女を襲おうとする男がいるか甚だ疑問だが。逆に男の方がとって食われるんじゃないか? いや、この女はリヤーラの使い手だから焼き殺されるか)

(……それは否定できないな)


 想像してみる。ネイシスの指摘した通りの光景、すなわち骨も残らないほどの高温で焼き尽くされる姿しか思い浮かばなかった。

 カエトスがぞくりと背筋を震わせていると、ネイシスがカエトスの右肩に降り立った。背負われたミエッカを指差しながら若干心配そうな調子で尋ねる。

 

(カエトスはどうなんだ。こういう女でも大丈夫なのか? これは私が見てきた人間の女とはかけ離れた特徴を持っているだろう? お前自身が愛せないとしたら、上手くいく可能性はもっと低くなると思うが)


 ティアルクでカエトスが口説いた三人の女を、カエトスは愛していたと間違いなく言えるだろう。それだけ好意を抱いていたし、彼女たちのためなら何でもしてやろうとも思えた。それは今も変わらない。

 しかしそれだけ感情を込めても、結局彼女たちの愛情を得ることは叶わなかった。ならば感情を込められなかったとしたら、親しい関係を築ける確率はさらに下がるのではないか。ネイシスはそう指摘しているのだ。

 

(確かに……愛しているかといえば、まだそんなことはない。何しろまともに話してないんだから、好きなのかどうかもわからないさ。ただ自分のやりたいことをはっきり口にする人間は嫌いじゃない)

(……ふむ。そういえば、あの三人も真っ直ぐな信念を持っていたな。お前はそういう人間を好むというわけか。となると、やはり問題はこの女がお前を好いてくれるかどうか、という点だな)


 ネイシスが口にした『三人』とは、ティアルクでカエトスが口説いた女たちのことだ。その一言に彼女たちの顔が思い浮かぶ。

 

(……ああ。積極的にいかないとな)


 カエトスの心中を、言葉とは裏腹な暗い想念が埋めてゆく。

 そこにあるのはカエトスが関わることになった女たち全てへの罪悪感。

 しかし今更それを意識したところで、もはや引き返せないところにいるのだ。

 カエトスはそれを頭の奥に押しやると、寝息を立てているミエッカを起こさないように静かに歩き出した。


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