第16話 多難な前途

「疲れた……」


 カエトスは力なく呟くと、石造りの湯船の縁に後頭部を預けながら手足を伸ばした。一度に二十人は入れそうな大きな浴槽はちょうどいい熱さの湯に満たされていて、酷使した肉体から疲れが溶け出すようだった。

 ここは親衛隊ヴァルスティンの宿舎一階にある隊員用の風呂だ。


 練武場での稽古の後、眠ってしまったミエッカを背負い何度も転倒しそうになりながら、まさに這うようにして宿舎に戻って来たカエトスは、入口で待っていたアネッテに遭遇した。

 彼女はそうなることを予見でもしていたのか、カエトスがミエッカを背負ってきたことにさほど驚く様子もなく、カエトスに替えの制服や下着類などを渡すとともに、風呂を使えと伝えてきたのだ。


 ヴァルスティンを構成する隊員はカエトスを除いて女しかいない。ゆえに、浴室に入るときには入浴中の誰かに遭遇したりはしないか、カエトスを親衛隊から追放するため裸の隊員と鉢合わせさせようと目論んでいるのではないかなどと勘繰ってしまったが、その心配が現実のものになることはなく、カエトスはこうして湯船に浸かっていた。

 やはりアネッテとの関係は、それなりに改善されていると見てもいいのだろう。

 そんなことを考えながらカエトスは浴室の天井を仰いだまま口を開いた。


「……なあ。その格好でうろうろするのはやめてくれないか。目のやり場に困る」


 カエトスが天井を眺めているのは、全身の力を抜きたかったからでもあるが、それだけではない。水面上を仰向けに浮かぶネイシスが、一糸纏わぬ姿になっていたのが大きな理由だった。

 彼女を飾り立てていた黒のドレスや腕輪や指輪、首飾りなどが姿を消していて、淡い褐色を帯びた裸身が平然とさらされている。彼女の服や装身具は自分の力で作り出した一種の幻覚のようなもので、自在に出現させたり消したりできるとのことだった。


 ネイシスは天井から垂らされた見えない糸に引っ張られるように体を起こした。水滴を滴らせながら水面の上に立つと、豊かな乳房を持ち上げるように腕を組む。

 

「風呂には全裸で入るものだろう。お前も裸になっているし、私だけ服を着るのはおかしい」

「じゃあ、せめて胸と股間は隠してくれ」


 ネイシスの体は、小人のようになっているとはいえ、れっきとした女の体をしている。それもかなり魅力的な。

 一方のカエトスは一応若い男であるわけで、ネイシスを直視し続けると体の一部に色々な変化が起きてしまいかねないのだ。

 

「ふむ。つまりカエトスは私の体を見て欲情するのを懸念しているというわけか。だが、私は気にしないぞ。むしろ、お前に欲情されることで、愛というものを知ることができそうで願ったり叶ったりだ」


 カエトスがちらりと目を向けると、金髪の女神は全てを受け入れるとでも言いたげに両手を広げていた。

 

「いや、神さまに欲情するわけにはいかんだろう」

「これでは魅力不足か? ならばまだ作っていないが、ここを見せれば欲情するか?」


 カエトスはその瞬間、両手ですくったお湯をネイシスの頭にかけた。

 

「……何をする」


 ネイシスが憮然とした顔で、長い金髪を左右に振って水滴を飛ばす。それに対してカエトスはため息混じりに答えた。

 

「あのな、お前は神さまなんだから、股間を見せつけるのはやめろって。お前はそんなことしなくても十分魅力的なんだから。だいたい、作ってないってどういうことだ?」

「そのままの意味だ。この体は愛を知るために作ったのはお前も知っているだろうが、今はまだ製作途中でな、中身はまだ空っぽのままなんだ。ようやく食事関連の器官が形になって来たから、今度は生殖器を作ろうかと思っているところだ。何しろ愛に関わるもっとも重要な器官の一つらしいからな」


 ネイシスがすっきりと引き締まった下腹部をぽんぽんと叩いた。

 知ってはいたが、神というものはやはり人間とは感覚がかなり異なるのだと思い知らされる。彼女たちにとって肉体は、自分にとって唯一無二の物ではなく、いくらでも替えの利く服のようなものなのだ。だからといって、平然とさらしていいものでもない。

 カエトスはネイシスの裸体を直視しないように顔を反らしつつ、一言釘を刺した。

 

「確かにその通りなんだけどな、完成しても今みたいなことはするなよ?」

「安心しろ。お前以外の人間に見せるつもりはない」


 そういう意味ではないのだが。

 もう少し詳しく話すべきかカエトスが迷っていると、ネイシスは軽く目を閉じた。すると一瞬で黒布が現れ、ネイシスの胸と腰が覆われた。

 確かに要所は隠された。しかし胸を覆う布は包帯のように細く、腰は足の付け根より少し長い丈しかない。大事なところが見えそうで見えないその状態は、はっきり言って全裸よりも扇情的だ。

 そんなことにはまるで気付かないネイシスはふわりと宙に浮かぶと、立ち上る湯気をかき分けながらカエトスに向かってきた。

 

「さて、風呂というものを堪能したし、呪いの様子を見てやろう」

 

 体を起こしたカエトスの左上腕を正面に見る位置で停止し、そこに刻まれた紫の薔薇に小さな指を這わせる。

 

「……うむ、呪いが発動するまで、あと二十日といったところか」

「だいぶ進んだな」


 カエトスは唸るように呟いた。

 昨晩ネイシスが調べたとき、呪い発動までの猶予は三十日弱だった。今日一日で十日ほど縮まってしまったということになる。


「この調子で推移すると、解除する前に呪いが発動してしまいそうだな。あの王子の横やりはもっと激しくなるだろうし、手に負えなくなるような事態にならなければいいんだが」


 ネイシスが忌々しそうに言いながら空中で胡坐を組んだ。背中を覆う金髪の中に右手を差し入れ、そこから自分の上半身よりも大きい本、イルミストリアを取り出す。

 

「怖いこと言わないでくれ。現実になったらどうするんだよ」


 太腿に本を乗せて濃紺の表紙を開くネイシスに、カエトスは呻くように言った。

 今日だけで、生きた心地がしないぎりぎりの場面に三度遭遇している。これ以上の何かが起きてしまったら、ネイシスの力にさらに頼らなければならなくなるだろう。そうなれば、命は助かっても呪いが発動したなどという状況に陥りかねない。


「……カエトス。先に言っておくが、私が口にしたせいじゃないからな」

 

 本を開いたままネイシスが低い声音で言う。それがカエトスの不安を否応なくかき立てる。


「……何だよ。どうした?」

「これを見ろ」


 宙を滑るように移動したネイシスが、カエトスの眼前に開いた状態の本を向けた。

 紙面に視線を走らせる。カエトスは絶句した。


「……!」


 記述の方法は今までと同じだ。時間と場所、そしてそこで何をするのかが記されている。

 そして内容も、ありふれていると言えばありふれているもの。ミエッカとナウリアを守れ、というものだ。

 なぜあの二人を名指しで守れと告げるのかそこに疑問が湧くが、それはまだ些細なことだった。問題は時間と場所だ。

 二つの文章の内容はこうだ。

 

『大陸暦二七〇七年五月十五日、五エルト十六ルフスの刻、ビルター湖中央ウルトスにて、カシトユライネン・ミエッカを守りつつ、共に霊獣と戦い、これを討伐せよ』

『大陸暦二七〇七年五月十五日、五エルト十七ルフスの刻、王城アレスノイツ内において、カシトユライネン・ナウリアを守れ』


 つまりほぼ同じ時刻に、別々の場所にいる二人を守れと本は告げているのだ。


「……どうするんだよ、これ」


 カエトスはそれ以上何も言えなかった。

 ただ一つわかるのは、明日は今日以上に過酷な目に遭うだろうということだけだった。

 

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