第13話 募る愛情、深まる葛藤

「さて、そろそろ私たちのやることはなさそうだな」


 額に張り付いた髪を整えながらアネッテが練武場を見渡した。

 彼女は侍女リューリの転落事故の件を調査した後、練武場でカエトスたちの試験の様子を見ていたらしい。事故直後から部下のヨハンナ、そしてカエトスとともに負傷者の搬送や練武場内に飛び散ったつぶてなどの後始末を行っていた。それも一通り済んで、練武場内は人が随分と減っている。

 現在は、レフィーニアとクラウスのために設えられた演壇と玉座の撤去が始まるところだ。薄い緑や黄色がかった制服を着た兵士たちが赤い絨毯を丸めて、木製の演壇を四つに分割して運び出している。


「それにしても、すごい威力でしたね、あの石つぶて。私、ミュルスの暴走なんて初めて見ましたよ。あ、ほら。あんなところにまで跡がありますよ」

 

 ヨハンナは結い上げた黒髪は揺らしながら、練武場を取り囲む石壁を指差した。そこには竜巻によって撃ち出された石つぶてが無数にめり込んでいた。

 

「怪我をした者たちが無事だといいのだが」


 アネッテがそう言って目を向けたのは、いまも地面の上に生々しく残る血痕だ。

 竜巻が放ったつぶてによって負傷した者は百人を越えていた。なかにはかすり傷程度で済んだ者もいたが、腕をまるまる吹き飛ばされたり、胴体に重傷を負った者もいたのだ。彼らが助かるかどうかはかなり難しい状況だろう。


「この試験の扱いはどうなるんでしょうか」


 声をかけるのが躊躇われたが、カエトスは思い切ってアネッテに尋ねた。

 カエトスに課された試練は『レフィーニアの望む結果を出すこと』だ。そして彼女の望みはカエトスが手柄を立てること。

 イルミストリアを譲ってくれた老人ゼルエンの言によれば、試練の未達成は本の所持者の破滅に直結する。試験が無効になってしまうと、条件を満たせない恐れがあった。

 

「それはいま、ミエッカたちが上の人間と会議をしているところだ。予定通り明日霊獣の討伐に向かうのか延期するのか、人材はどうするのか。それらも含めて夕方までには結論が出るだろう」


 アネッテから返ってきた不確実な答えに、カエトスの不安が募る。そこにいつものように姿を消したままカエトスの右肩に座っているネイシスが言った。


(心配するのはわかるが、たぶん大丈夫じゃないか? あの後、次の記述が出てきたんだから)

 

 ネイシスの言うように、試験が中断された後、イルミストリアには新たな記述が出現していた。ゆえに試練は達成されたと見ていいかもしれない。ただやはり問題となるのが記述の内容だった。

 数は三つ。そのうち時刻の早いものが次の二つだ。

 

『大陸暦二七〇七年五月十四日、八エルト四十二ルフス(午後五時二十分ごろ)の刻までに、カシトユライネン・ナウリアと接触し、親交を深めよ』

『大陸暦二七〇七年五月十四日、九エルト五ルフス(午後六時ごろ)の刻までに、アルティスティン・レフィーニアと二人で会い、親交を深めよ』


 今回は時限を表記しているのが大きな違いだ。しかしそれはいい。問題は、肝心の場所が記載されていないことだ。しかも〝親交を深めよ〟という非常に曖昧な記述。


(毎回思うんだけどな、情報をこれだけしか寄越さないのはどうなんだよ。この本は俺に試練を達成させる気があるのか?)


 カエトスは唸るような思念をネイシスにぶつけた。未来を見通せるのなら、もう少し具体的な内容を記せるはずなのに、イルミストリアはそれをしようとしない。どうにも納得できなかった。


(敢えて難度を上げている可能性も捨てきれないが、三つめの記述には今まで通り場所と時間がある。いつどこでというのを指定できないのかもしれないぞ)

(その三つめも、どうすりゃいいのか……)


 カエトスは途方に暮れながら、ネイシスに読み聞かされた内容を思い浮かべた。

 三つめの内容はこうだ。

 

『大陸暦二七〇七年五月十四日、九エルト三十八ルフス(午後七時十五分ころ)の刻、王城アレスノイツ、兵部省内練武場において、カシトユライネン・ミエッカと接触し、友好関係を築け』


 正直、手段が全く思い浮かばなかった。

 カエトスは、現在のところミエッカとは親しいどころか、まともに会話すら交わしていないのだ。

 彼女の性格の片鱗には触れてはいるものの、嗜好や好みの食べ物などの情報は皆無。そんな状態から一体どうやって友好関係を築けというのか。

 

(ここで気を揉んでいても仕方がない。いまは、新たに出現した試練に取り組むしかあるまい)


 ため息をつくカエトスの首筋を元気づけるようにネイシスが叩く。


「それでアネッテさん、これからどうするんです? 武具の手入れに戻るんですか? それともリューリさんの件をこっそり調べちゃいます? 勝手に体が動いたとか言ってましたし」

「勝手に動いた?」

(勝手に動いただと?)


 ヨハンナの一言に図らずもカエトスとネイシスの疑問の声が重なった。リューリの件といえば、例の転落事故に違いない。

 ネイシスがなぜ反応したのか問うよりも早く、ヨハンナが水を得た魚のように喋り始めた。


「そうなんですよ~。カエトスさんがお使いに行ってる間、わたしとアネッテさんでリューリさんに話を聞きに行ってたんですけど、リューリさんは普通に庭の手入れをしていたら、体が勝手に動いて飛び降りちゃったんですって。で、中郭に行ってそれを見ていた人たちにも聞き込みに行ったんですけど、ヴァルヘイムさんがやって来て、事故の調査はこっちで引き継ぐとか言われて、まともに話を聞けなかったんですよぉ。アネッテさんはそれを気にしていたから、こっそり調べに行くのかなぁってあいたっ」

「喋り過ぎだ」


 アネッテがヨハンナの頭を軽く小突いた。カエトスを静かに見つめる。

 

「いま聞いたことは、口外するなよ」


 どうやらアネッテは、リューリの転落事故について何か裏があると見ているらしい。ヴァルヘイムが聞き込みを止めさせたという点に引っかかっているのなら、クラウスが怪しいとまで考えているかもしれない。なぜなら、ヴァルヘイムはクラウスの腹心だからだ。

 カエトスへ他言を禁じるのも、クラウスへの叛心ととられるのを警戒してのことだと思われる。

 無論カエトスにそのような重要なことを吹聴する気などさらさらない。すぐに頷いた。

 

「もちろん、他言はしません。ご安心ください」

「……まあ信じてやろう。今後、お前から目を離すこともないだろうしな」


 アネッテはカエトスの真意を窺うようにじっと見つめて、屋外練武場に併設されている建物に目を向けた。そこは昨日ミエッカとの決闘を行った屋内練武場だ。


「さて、我々はここにいても仕方がない。カエトスをこき使えと言われている以上、遊ばせておくわけにもいかない。よってこれから少し稽古でも──」

「アネッテ殿、一つ聞きたいことがあります」


 カエトスはアネッテが言い終える前に割り込んだ。

 イルミストリアが課す次の試練は、時間的な余裕があるとはいえ、決して容易いものではない。時間が空いているのなら少しでも動いておきたかった。

 気分を害したのか、アネッテの眉間に少ししわが寄る。

 

「何だ」

「侍女長殿と話をしたいのですが、いまどこにいらっしゃるかわかりますか?」

「ナウリア殿と? そういえば、ミエッカの使いの途中で事故に巻き込まれたという話だったな。たしか……典薬寮に運ばれたと聞いたが」

「典薬寮?」

「宮内省に属する部署で、医療に関する職掌を司っているところだ。今回の負傷者もみんなそこに搬送されている」

「もしかして……何か怪我をされたのですか?」

「いや。大事をとって医者に診てもらうだけと言っていたから、そんなことはないだろう。それで何の話をするのだ?」


 カエトスはアネッテの返答に胸を撫で下ろしつ答えた

 

「アネッテ殿が仰った事故について伺いたいことがあるのと、試験のことについてお耳に入れたいことがあります。できればそこへ案内していただきたいのですが、よろしいですか?」

「……いいだろう。ではついて来い」


 いくらか難色を示されると思ったが、アネッテはさほど迷うことなく承諾した。練武場の入口に向かって歩き出す。

 動機を詮索されずに済んだことにカエトスはもう一度胸を撫で下ろした。

 アネッテに続くヨハンナと並んで歩きながら、気になっていたことをネイシスに尋ねる。

 

(なあ、ネイシス。さっき勝手に動いたってところで反応したよな。あれは何だったんだ?)

(うむ。リューリとやらの体が本当に勝手に動いたのなら、王女を殺そうとした者と同じ人間が関与した可能性が高い)

(何でそう思うんだ?)

(どちらもハルヴァウスの力を使えば実行できるからだ)

(……そうなのか?)

(うむ。王女が殺されそうになったとき、水に雷が走ったことは話したな。その雷を使うと人間の体を操ることもできるんだ)

(そんなのは初耳だぞ)


 ハルヴァウスとは雷を司る源霊の名だ。

 カエトスはミュルスやマールカイスと同じようにハルヴァウスも使役できるが、それを頻繁に使うことはほとんどない。実生活や戦闘において最も使用頻度の高い源霊は、運動エネルギーを司るミュルスや熱を司るリヤーラであり、その次に引力のマールカイス、光のイルーシオと続く。ハルヴァウスを使う機会はかなり稀なのだ。そのため、ネイシスの言葉がにわかには信じ難かった。

 

(これを使いこなせるのは、ハルヴァウスの扱いにかなり習熟した者だけだからな。お前が知らないのも無理はない)

(どういった理屈なんだ?)


 カエトスの問いに、ネイシスは短く沈黙した。


(……簡単に説明するぞ。人間の体の中にはものすごく弱い雷が走っていて、その力で体が動いている。例えば腕を上げるときには、そのための雷が体内に流れるといった感じだ。それで普通は自分が考えた通りの部分に雷が流れて腕や足が動くんだが、外部から雷を流すことでも体を動かせるんだ。あの侍女を転落させた奴は、きっとそれをやったんだろう。だから本人の意図していないところで、勝手に体が動いてしまったというわけだ)

(……なるほどな。何となくわかった)


 自分の体に雷が流れていると言われてもカエトスはぴんとこなかったが、ハルヴァウスの力なら人を操れるということだけは理解できた。

 

(ということは、あの転落事故も王子が関与してると見たほうがいいってことだな)

(そういうことだ。とりあえずこの本に危機を告げる記述はないが、油断するなよ)


 ネイシスの忠告にカエトスは気を引き締め直すと、練武場の門をくぐった。アネッテに付き従って兵部省内を進み、正面の門から敷地外に出ると、王都シルベスタンの街並みが視界に飛び込んできた。

 王城アレスノイツの内郭は中郭ほどではないがそれなりに標高が高いため、街やその先にあるビルター湖までを一望できる。

 

 その内郭は扇形の土地になっており、外郭側の崖の縁には転落防止兼防衛用の石壁が続き、中郭とを隔てる崖側に各省庁がずらりと立ち並んでいる。その中央に位置するのが中務省だ。

 ここには中郭の宮殿アルアサークスとの間を行き来する昇降機が設置されているほか、国王が政務を執り行う場所や、カエトスがレフィーニアやクラウスたちに尋問された謁見の間がある。ここを境に街に向かって右側を右翼、左側を左翼といい、練武場のある兵部省は右翼側、アネッテが向かっているのは左翼側だ。

 

 中務省内部へと続く門は、赤や青、黄色のローブを着た役人たちが慌ただしく出入りしている。先刻発生した、練武場での一件と無関係ではないだろう。

 激しい往来の邪魔にならないように中務省の前を通過したアネッテは、隣の庁舎の門をくぐった。そこも中務省に負けないほどに人の出入りが激しい。

 

「ここが宮内省ですか?」

「そうですよ。あれが本庁舎で、典薬寮はあっちです」


 アネッテの後を追って進むカエトスが尋ねると、隣を歩くヨハンナが控えめに人差し指を持ち上げた。石畳の通路は正面へ向かったのちに右へと曲がっており、ヨハンナの指は正面の三階建ての建物を指差した後、右折した通路の先にある二階建ての建物を示した。そこはガラス扉が大きく開放されていて、宮内省にやって来た人間の大半がその中に消えている。

 

「あれが典薬寮ですか。侍女長殿もそこに?」

「え~っと、えっと……アネッテさん、どうなんでしょう?」

「ここは一般の役人が利用する本館だからいない。ナウリア殿は別棟のはずだ」


 自信なさそうなヨハンナの問いに、アネッテは歩みを止めないまま答えた。典薬寮本館前を通過して、石畳に沿って左へと曲がる。その先は生垣に囲われた空間へと続いていた。入口に立つ兵士に目礼するアネッテに倣って中に入る。

 緩やかに蛇行する通路の奥に平屋の建物があった。これが典薬寮の別棟らしい。本館の半分はあろうかという大きな池が隣接しており、対岸には奇妙な雰囲気の広大な庭が広がっている。

 外の喧騒とは無縁の静けさに満ちたその庭には、建材に使うものよりも何倍も太い石柱が何本も地面に屹立し、それに覆いかぶさるように巨大な広葉樹が青々とした葉を茂らせていた。

 こういった王宮には、中郭のように隅々までを人の手を入れた庭園が一般的と思っていたが、この庭は自然の姿をそのまま切り取ってきたかのような荒々しさが前面に押し出されている。何か特別な謂れでもあるのだろうか。

 そんなことを思いつつ石畳の通路を進むと、アネッテが建物の手前で立ち止まった。

 

「いいか。ここは王族の方が利用される施設だ。そしてお前はまだ監視下にある身。無用の騒ぎは厳禁だぞ」

「了解しました」


 アネッテはカエトスに一言釘を刺すと、池と向かい合うように設置された玄関へと向かった。

 中郭にある宮殿や別殿は舞踏会に参加する貴族のような華やかな雰囲気を纏っていたが、典薬寮別棟はそれとは対照的に、庵に佇む老賢者のような静かな重みを湛えている。石造建築が主流の王城内にあって、屋根や壁に木材が多用されているのがこのような印象を抱く要因だろう。

 典薬寮の役割は、病人や負傷者の治療を行うこと。より安らかに過ごせるように、石の持つ冷たさを木材に置き換えることで緩和しているのだ。

 

 両開きの木製の扉の左右に、濃緑の制服を着た兵士が立っている。アネッテは彼らの前で立ち止まり、姿勢を正して話しかけた。


「親衛隊ヴァルスティン副隊長のリースペルト・アネッテです。こちらに王女殿下の侍女長ナウリア殿がいらっしゃると聞いてやって来たのですが、まだ滞在されていますか?」

「ええ、いらっしゃいますよ。先ほどまで隊長のミエッカ殿もおいででした。滞在されている部屋は中でご確認ください」


 さすが王女付きの親衛隊に所属しているだけのことはある。兵士は特に訝ることもなく扉を開けた。これがカエトスだけであったら、当然ながらすんなりとはいかない。ナウリアと接触するだけでも多大な労力を割かなければならないところだった。

 アネッテが兵士に目礼をして扉をくぐる。ふとカエトスの右肩に乗っていた柔らかい感触が消えた。

 

(私は外を見張っていよう)


 気の利く小さな女神に頼むと答えながら、カエトスはヨハンナとともに典薬寮へと入った。

 中は広間になっていて正面には壁画が飾られていた。青と金を基調とした背景に、ゆったりとした白い衣服に身を包んだ女が描かれている。優し気な笑みを浮かべるその雰囲気にカエトスは見覚えがあった。神殿の禊の間にあった立像や、謁見の間の鉄扉に刻まれていた女と同じだ。

 その女の絵の影響か、どことなく神秘的な空気を帯びる広間の奥から左右に廊下が延びている。アネッテは左奥に向かい、廊下を遮るように立つ女に声をかけた。濃紺の制服と胸元にある〝三日月を囲む星々〟の記章から、彼女もヴァルスティンの隊員とわかる。

 

「ナウリア殿はここか?」

「はい。手前から三番目の部屋です」


 女隊員に軽く頷きかけてアネッテは廊下を進む。

 典薬寮内は、人が少なく雑音がほとんどなかった。静寂に包まれた空気は神殿のものと酷似している。

 廊下の左にはガラス窓が、右には等間隔に五つ扉が並んでいた。アネッテは女隊員に聞いた通り、三番目の扉の前で立ち止まると、扉を軽く三回叩いた。中からどうぞと女の声が応える。

 扉を押し開いて中に入る。広い室内には、とても一人用には見えない大きな寝台が中央にあり、奥のガラス窓からは緑豊かな庭が見えた。壁際にある落ち着いた色調の家具と調度品が、控えめに存在を主張している。

 

「お邪魔します」

「……カエトス殿? なぜここに?」


 カエトスの姿を認めたナウリアが小さく驚きの声を上げた。服装はカエトスと別れたときのままの白い侍女服で、寝台に腰を下ろしている。

 カエトスはアネッテとともに寝台に歩み寄りながら答えた。


「侍女長殿がここに運び込まれたと聞きまして、アネッテ殿に頼んで連れて来てもらいました。特に怪我をしてはいないと聞きましたが、大丈夫でしょうか? 私と別れた後に何かあったのかと心配だったのですが」

「そうでしたか。いらぬ心配をかけたようですね。見てのとおり、私は何ともありません。警備隊の方が気を回し過ぎて大事になっただけ。あなたのおかげで無傷です」


 ナウリアが口の端を微かに綻ばせる。今までは表面上は穏やかに笑っていても瞳は氷のように凍てついていた。しかしいまのナウリアは、表情も瞳も春の日差しのように柔らかい。ナウリアとの関係は、少しずつではあるが着実に前進している。そう思わせるに十分な魅力に満ちた笑みだった。


「カエトスさんのおかげ?」

「お前をここに連れてきたのはそれについて聞こうと思っていたからだ。ナウリア殿と一緒に出掛けたはずのお前が一人で戻ってきたと言うし、いったい何があったんだ」


 きょとんと問いかけるヨハンナに対して、アネッテは落ち着き払った口調で尋ねた。

 カエトスは知らずナウリアに引き寄せられていた視線を引き剥がすと、ナウリアとともに遭遇した事故について話し出した。

 

「あれは隊長殿に言いつけられた品物を工房で受け取った後のことでした」


 建設中の壁が崩落したというところでヨハンナが顔色を変え、鋼鉄製の吊り上げ機がそこに追い討ちをかけてきたという部分でアネッテが目を細めた。

 

「……そんなところをよく無事に切り抜けたものだ」


 感心したように言うアネッテの視線は、それとなくカエトスの腰に向けられている。さすがにアネッテはカエトスがどんな技術を持っているのか気付いたようだ。


「運がよかったのもあって何とかなりました。それで侍女長殿にお聞きしたいのですが、現場の状況について何か情報は得られましたか?」

「ええ。駆けつけた警備隊の方に同行させてもらって、作業者の話を聞いてきました。それによると、積み上げ中の壁はしっかりと鉄骨で支持されていて、吊り上げ機も簡単に転倒しないように固定されていたそうです。あのときは風もほとんどなかったので倒れるのは考えにくいと、皆が口をそろえていました」

「なるほど……」


 ナウリアが相槌を打つカエトスを静かに見つめる。事故についてカエトスは暗殺の可能性が高いと告げていたが、ナウリアもそのように判断したようだ。


「は~、カエトスさんって、今日は災難続きだったんですね。お昼はリューリさんとぶつかりそうになるし、お使いに行ったら事故に遭うし、試験のときはミュルスの暴走に出くわしちゃうし」

「それです。練武場で何が起きたんですか? 幸い殿下にお怪我がなかったのはさきほど確認しましたが、そこでカエトス殿の名を聞きました。殿下が不可解な行動をとられたということも。あなたは何を見て何をしたのか、聞かせてください」


 ヨハンナの言葉にナウリアが食いついた。カエトスに向かって身を乗り出してくる。その態度は自身を襲った事故について話すときとは打って変わって、危機感と緊張感に満ちていた。

 カエトスはその気迫に気圧されつつも、試験会場で起きたことを順を追って話した。

 

「要点をまとめますと、突然竜巻が発生して、その風で周りに石つぶてがばらまかれて、受験者や教官、見物人が怪我をしました。その原因についてですが、ヨハンナ殿が言われたようにミュルスの暴走によるものというのが大多数の方の見解のようです」


 カエトスは〝大多数〟という言葉を僅かに強調してみせた。言外に何者かの関与の疑いありとの含みを持たせたが、ナウリアはすぐにそれに気付いた。カエトスの目をじっと覗き込みながら小さく頷く。


「あなたの名が出たのはなぜです?」

「それはちょうど選考の順番が私に回って来たときに竜巻が現れたからでしょう。それと、偶然私が殿下をお守りすることになったのもあるかと」

「カエトス殿が?」

「はい。親衛隊が石つぶての嵐からお守りしていたところ、殿下が突然そこから抜け出したのです」

「抜け出したというのは……一人で矢面に立ったということですか?」

「そうなります。侍女長殿が仰った、殿下の不可解な行動とはおそらくそれのことです。私は竜巻の発生直後すぐに殿下のもとに向かっていたんですが、何とか間に合って石つぶてを防ぐことができました」

「そんなことが……」

「ほんと、あれはびっくりしましたよね、アネッテさん」


 ナウリアが絶句する中、ヨハンナが無邪気な様子でアネッテに同意を求める。

 

「ええ。すぐ傍にいたミエッカですら、一瞬動きが止まっていましたし、誰も予想できない行動だったのは間違いありません。この男が駆けつけていなかったらと思うと……その先は想像したくはないですね。ナウリア殿は、なぜ殿下がそのようなことをされたのか、お心当たりはありますか?」


 アネッテは冷静に感想を述べると、厳しい表情で押し黙るナウリアに問いかけた。

 レフィーニアの行動を目にしたときにはわからなかったが、カエトスはその理由にすでに思い当たっていた。

 王女は神託により、未来に何が起こるのかを知ったのだろう。それゆえ、傍目には気が狂ったようにしか見えない行動に出たのだ。

 ナウリアに目を向けると、彼女もカエトスを見ていた。カエトスと同じ結論に至ったのだと、その瞳の光からわかる。

 

「……殿下は神官であらせられます。神との関係が深いでしょうし、何らかの働きかけがあったのかもしれません」

「つまり、殿下を助けるために神が力を貸したということですか?」

「あくまで推測です。確かなことは殿下のみが知ることです」


 言葉を濁すナウリアに、ヨハンナが明るい口調でそれに同意する。

 

「きっとそうですよ。だって、あのままじっとしてたら、殿下はお怪我をされたと思いますもん。だって、ヴァルスティンのみんなは、最初の衝撃で万全とは言えない状態になっちゃってて、カエトスさんのところに行ってなかったら守り切れなかったかもしれないんですよ。石つぶての威力は銃槍の弾丸くらいもありましたし、それがこう雨あられと降り注いでましたし」

「殿下は……そんな恐ろしい目に遭ったのですか」


 そう言ってカエトスに向けるナウリアの顔には、驚愕と恐怖と強い後悔、そして今後もレフィーニアを襲うであろう脅威への色濃い懸念があった。

 その辛そうな表情は見ているだけで胸が締め付けられる思いがする。

 カエトスはこれ以上ナウリアに不安を与えたくなかった。イルミストリアはナウリアとの親交を深めろと指示を出しているが、それとはまったく別にナウリアを安心させたかった。

 しかしどうすればいいのか。レフィーニアが強い恐怖を覚えたのは事実であり、カエトスはそれを目の当たりにしている。王女は怖がっていなかったなどと適当な嘘をつくことはできないし、この先二度と危険な目に遭わないとも言えない。

 結局言葉にできたのは、何のひねりも工夫もない謝罪だけだった。

 

「申し訳ありません。私がもう少し早く気付いていれば、もっと余裕を持って対処できたのですが」

「お手柄だったんですから、そんな謙遜しなくてもいいのに。そういえば工事現場の事故でもすごい力使ったんですよね? だってそう考えないとちょっと変ですし。やっぱりその剣に秘密があるんですよね。そろそろ教えてくださいよぉ」


 重い空気をまるで感じていないのか、ヨハンナは変わらず明るい声でカエトスにねだってきた。

 カエトスはそんな彼女の言葉にふと思いついた。ナウリアの懸念を払拭するのにこれはいいかもしれないと。早速それに乗っかって話を広げる。


「私が何をやっているかはわかりましたか?」

「剣の鍔に空気を通して、そのときに出る音を使って源霊に呼びかけた。違うか?」


 カエトスの問いに、ヨハンナではなく静謐な声が答えた。アネッテだ。その視線はカエトスの腰に向けられている。

 

「さすがアネッテ殿。その通りです」

「わ、私だってそれくらいわかりましたもんっ。でもでも、私たちが源霊に呼びかけるときよりもずっと強く応えてますよね。まるで、ミエッカ隊長がリヤーラを使ってるときみたいに。私の剣もそういう形にすれば、同じことができるんですか?」

「残念ながら、それは少し難しいですね」

「じゃあじゃあ、やっぱりその構造以外の秘密があるんですねっ?」


 そう言って、抑えられない好奇心に輝く眼差しを向けるヨハンナ。アネッテも押し隠してはいるものの詰問するように静かにカエトスを注視している。


「わかりました。お教えしましょう。ただ、私の立場からこういったことを頼むのはおかしいと思いますが、このことはなるべく内密にお願いします。無用の混乱を招きかねないので。よろしいでしょうか」

「……まあいいだろう。約束する。さあ話せ」


 アネッテが少し間を置いて承諾した。

 これを告げれば、ナウリアの懸念をいくらかでも軽減できるだろう。カエトスはそう期待しながら腰に差した剣の柄に左手を置いた。 


「これの材質は神鉄です」

「……何だと?」


 アネッテが声を上げて、ナウリアは無言のまま目を丸くし、ヨハンナはきょとんと首を傾げた。

 

「え~と……それって神さまの住むところでしか採れない鉱物ですよね」

「そうです。霊鉄に源霊の魂が宿るように、神鉄には神の魂が宿り、その所有者は神の奇跡を起こせると言います」


 ヨハンナの問いに答えたのはナウリアだった。その声は冷静な口調とは裏腹に微かに震えている。カエトスの告げた事実に少なからず動揺しているようだった。

 

「ま……まじですか?」

「まじです。ただこの剣についていえば、奇跡を起こせることは重要じゃありません。大事なのは、神の魂が宿っているという点です」


 まじまじと見つめるヨハンナに、カエトスは腰の剣を軽く叩いて見せた。それをじっと見つめながら今度はアネッテが問う。 

 

「それがお前の技に源霊が強く応える理由か?」

「はい。神鉄を用いて発生させた音は、そこに宿る神の魂のおかげで、神自身が発する声そのものには及びませんが、それに近いものになります。そのため、源霊がより強く要求に応えるというわけです」


 アネッテが腕を組んだ。短い沈黙を挟んで口を開く。

 

「……我々が源霊に命じるときと比べて、発揮できる力はどのくらい違うものなんだ?」

「比較する使い手にもよるのではっきりとは言えませんが、おおむね数倍から数十倍といったところです」

「……凄まじいな、神鉄の力というのは。それを持つお前を野放しにしておいていいものかどうか、不安になるほどに」


 懸念を滲ませるアネッテの一言に、カエトスは体を硬直させた。

 強すぎる力は当然ながら警戒の対象になる。ましてやカエトスはまだ十分に信頼を得たわけではない。アネッテの反応は当然考えられることだった。

 ナウリアのためと思って明かしたが、場所と時機の選定に失敗してしまったかもしれない。

 カエトスは急いで対策を模索した。イルミストリアの記述を見る限り、現時点ではカエトスに危機は訪れないらしいが、いつ何時剣が必要になるかわからない。ここで没収されるのは何としてでも避けたい。

 カエトスは賭けに出た。剣を鞘ごと外してアネッテに差し出す。


「ではアネッテ殿にまた預けましょうか? 剣さえなければ、私が何をしようとも対処できるでしょう」

「……本気か? その剣にどれほどの価値があるか知っているんだろう?」


 眉をひそめて信じられないものを見ているかのようにアネッテが言う。

 

「私にとってはこの剣よりも、みなさんの信用を得ることのほうが大事です。それに昨晩も預けましたから」

「昨日はまだその価値を知らなかっただけのことだ。しかし今は違う。持ち逃げするかもしれないぞ」

「そうなったとしても、アネッテ殿に不安を与えるよりはましです」


 真意を探ろうとするかのようにカエトスの目を見つめるアネッテの視線を、カエトスは正面から受け止めた。

 ならば剣を預かると言われてしまうと、それはそれでとてつもなく困る。しかしそれ以上にアネッテの不審を買うのはまずい。イルミストリアには、アネッテとの友好関係を築けともあるからだ。

 沈黙が落ちる中、ヨハンナが腰を曲げてカエトスが差し出す剣に顔を寄せた。


「……どういうことです? この剣ってすごく高価なんですか?」

「神鉄はかなりの高値で取引される希少品なんですよ。盗賊にとってはまさに垂涎の的。これ以上の獲物はそうはないでしょうね」

「ふ~ん。ちなみにどのくらいの値打ちがあるんです?」

「詳しい相場は知りませんが、金の百倍の価値があると聞いたことはありますね」

「ひゃ、百倍っ!?」


 驚きのあまりヨハンナが飛び退いた。そこにナウリアが静かに指摘する。

 

「カエトス殿。それは桁が少ないのでは。私が聞いたのは豊穣の神マリシィズに縁のある神鉄でしたが、そのときは一レイリー(十七グラム強)の重さの神鉄に、一万ラケアの値がついたそうです」

「い……いちっ……!?」


 あまりの金額に、ヨハンナは見開いた目でカエトスの剣を凝視したまま絶句してしまった。表情はそのままにじりじりとカエトスに近づく。その視線は剣に釘付けだ。

 

「そ、その剣はどう見ても五十レイリー(約八百六十グラム)はありますよね。ということは……五十万ラケア……!」


 ヨハンナの喉がごくりと鳴った。

 五十万ラケアとはラケア金貨五十万枚のことだ。それがどれほどの価値かというと、ラケア金貨一枚あれば、慎ましい生活を送るという条件はあるものの、大人一人が一年は暮らせる。つまり五十万ラケアとは、単純に計算しても五十万人を一年間養えるだけの価値があるというわけだ。


「し、しょうがないですねぇ。じゃあ、アネッテさんの代わりに、先輩である私が預かっておきますね。こんな危険なものを見習いの人に持たせてちゃいけませんから。あ、大丈夫ですよ、柄の部分を削って、その粉を売り払おうなんてこれっぽっちも思ってませはうっ!」

「馬鹿者。目の色を変えるんじゃない」


 明らかに不審な笑みを浮かべながら、カエトスの剣にそろりと手を伸ばしたヨハンナの頭に拳骨が落ちた。その拳の主は言うまでもなくアネッテだ。やれやれと頭を振りながら、再びカエトスを見やる。

 

「お前は本当に変な奴だな。昨日の一件といい、私には理解できないことばかりする」


 心底不思議そうに言ってナウリアへ話しかける。その顔には苦笑があった。

 

「ナウリア殿。カエトスの監視役としては取り上げるべきでしょうが、カエトスがこれを持っていたことで殿下が怪我をせずに済んだとも言えます。そこで、いまは預けたまま様子を見ようと思うのですが、侍女長としての見解はいかがでしょう」


 ナウリアは柔らかな曲線を描く顎にほっそりとした指を当てながら、小さく首を傾げた。

 

「……そうですね。私もアネッテ殿と同じ意見です。たしかに懸念はありますが、それを人助けに使ったという事実はそれなりに評価するべきですし、何より殿下が登用した人物でもあります。現時点では、彼からそれを奪う正当な理由は乏しいかと」

「わかりました。というわけだ。その剣はとりあえずお前が持っていろ」

「ありがとうございます。お二人の判断に感謝します」


 カエトスは内心安堵しながら、小さく頭を下げた。鞘を腰に戻しつつ、それとなくナウリアに目を向けると、彼女もカエトスを見ていた。

 

「今後も、その力を殿下のために振るうことを期待しています」


 そう告げるナウリアの表情はいくらか和らいでいた。彼女もカエトスと同じく、剣が没収されずに済んでほっとしているようだった。剣が神鉄製であるという事実も、きっとそれに一役買っている。ナウリアの不安を僅かではあったが取り除けたようだ。

 

「この剣の素性については、カエトスの言うように黙っていたほうがよさそうですね」

「ええ。良からぬことを考える輩が群がってくるのは想像に難くありません。大臣たちにも知られないようにしたほうがいいでしょう」


 アネッテとナウリアが深刻な表情で顔を見合わせ、次いでその視線が涙目で頭を押さえるヨハンナに移動する。


「……え? や、やだなぁ、さっきのは冗談ですってば、冗談っ」


 目の前で激しく手を振りながら、身の潔白を訴えるヨハンナ。

 アネッテは無言のまま脅すようにじっとヨハンナを見つめた後、カエトスに顔を向けた。


「カエトス。ナウリア殿への用件はこれで全てか?」

「いえ、もう一つあります。殿下はこちらにいらっしゃるとのことでしたが、ご様子はいかがでしたでしょうか?」

 

 口に出してすぐにカエトスは、今日何度目かわからない後ろめたさに襲われた。

 それは王女の身を案じての問いに間違いなかったが、同時にイルミストリアが課した試練を達成するためという下心もあったからだ。さらには実質的にナウリア、レフィーニアの姉妹二人と婚約状態である事実も、それに追い討ちをかける。

 そんなカエトスの葛藤はナウリアに伝わることはなく、彼女はカエトスを安心させるように微かに笑みを浮かべてみせた。

 

「私が先ほどお会いしたときは、とても落ち着いてらっしゃいました。練武場で危険な目に遭ったとはとても思えないほどでしたし、先ほども言いましたがお怪我もされていません」

「それを聞いて安心しました」


 レフィーニアはまだこの典薬寮別棟にいる。カエトスはそう判断すると、沈みがちな心を奮い立たせながらネイシスに呼びかけた。

 

(王女がどこにいるかわかるか?)

(ちょっと待て。これから移動する)


 ネイシスの声が頭の中に響く中、アネッテがおもむろに切り出した。

 

「ナウリア殿、私からも一つ報告があります。リューリ殿の件です」

「それは私も聞こうと思っていました。何かわかったのですか?」

「こうして報告できるほどの内容ではないのですが──」


 そう前置いてアネッテが伝えたのは、先刻ヨハンナが口を滑らせた内容とほぼ同じものだった。勝手に体が動いて飛び降りたというリューリの証言と、中郭での調査をヴァルヘイムが引き継いだことでそれ以上の情報が得られなくなったことの二点だ。

 

「ナウリア殿のご友人のことなのに、お役に立てずにすみません」

「……いえ。リューリはサイアットの侍女なのですから、イーグレベットが調査するのは当然のことです」


 頭を下げるアネッテをナウリアが労う。どのような感想を抱いたのか、膝に置いた手に僅かに力がこもった。

 

「それでは我々はそろそろ失礼します。お休みのところをありがとうございました」

「こちらこそ、わざわざご足労いただきありがとうございました。おかげで大事な話を聞くことができました」


 アネッテが一礼すると、ナウリアも寝台から立ち上がり、両手を前に揃えて優雅な仕草で頭を下げる。

 踵を返したアネッテが、ヨハンナとカエトスに視線で退室を促す。

 カエトスはまだ心残りがあった。ナウリアとの親交を深めるためには、もう少し言葉を重ねるべきではないかと。しかしナウリアの顔を目にするほどに、カエトスの内の罪悪感が強くなる。これ以上ここに留まってはそれを悟られそうだった。

 

「カエトス殿」

 

 アネッテに従って出口に向かおうとしたところでナウリアが呼び止めた。

 振り向くと、ナウリアが静々と歩み寄ってきた。カエトスの体に触れそうなほどのところで立ち止まり、首筋に細い指をすっと伸ばした。険しい眼差しでカエトスにだけ聞こえるように囁く。


「いまの話を聞いて改めて思いました。リューリの件は自殺でも事故でもないと。リューリは慎重な性格ですし、結婚が決まったと喜んでいたんです」


 その口振りからして、ナウリアも当初からリューリの転落がただの事故ではないと睨んでいたとわかる。

 カエトスの制服の襟を柔らかな手つきで直しながらナウリアはさらに続けた。

 

「それと妖精の能力が事実であることも実感させられました。まさか、本当に殿下が危険な目に遭うなんて……。あなたがいてくれてよかったと言わざるを得ません。殿下のことも、リューリのことも」


 ナウリアはこみ上げる恐怖を抑え付けるように一度きつく目を閉じると、カエトスの目を訴えかけるように覗き込んだ。

 

「あなたに了解していただきたいことがあります」

「何でしょう?」

「なるべく早くミエッカを交えた話し合いの場を設けます。あの子をそこに引っ張り出すのに、妖精と神鉄のことを伝えます。よろしいですね?」


 ナウリアの提案は願ってもないものだった。現在、最悪と言ってもいいミエッカとの関係を改善する足掛かりになることは間違いない。カエトスは二つ返事で了承した。

 

「構いません。殿下をお守りするのに隊長殿の力は不可欠ですから。……ですが隊長殿は私のことを認めてくれるでしょうか」

「それは私が何とかします。任せてください」


 ナウリアは力強く言って体を離した。そして説教染みた口調で苦言をぶつける。

 

「あなたも親衛隊の一員なのです。身だしなみには気を付けてください」

「申し訳ありません。以後注意します」


 無論、これはいまの会話をごまかすための演技だ。カエトスもそれに倣い、神妙な態度で頭を下げる。ナウリアともう一度視線を交わし、出口で待つアネッテたちと合流して玄関に向かう。

 

「カエトスさんの格好、そんなにおかしかったです?」

「侍女長殿の目にはまだまだと映ったんでしょう。お眼鏡に叶うよう精進しなければいけませんね」

 

 カエトスと並んで歩くヨハンナがじろじろとカエトスの服を眺め回す。

 カエトスは胸に去来する複雑な思いをおくびにも出さずに答えた。

 

「そんな深刻に受け止めるなんて、カエトスさんは真面目ですねぇ。先輩として鼻が高いですよ」


 知らず硬い口調になってしまったカエトスの態度を好意的に解釈したヨハンナが得意げに頷いた。そこへアネッテが容赦のない言葉をかける。

 

「お前は何もしていないだろう。カエトス、わかっていると思うがヨハンナは悪い例だ。間違っても見習うなよ」

「もちろん承知してます」

「二人ともひどいっ。私だって一つくらいいいところが──」


 真面目に頷くカエトスにヨハンナが抗議の声を上げたが、それが途中で止まる。

 玄関広間を挟んで向こうにある廊下から、こちらに向かって侍女が小走りに駆けてくる。白服を着ていることから王女付きの侍女だ。ヨハンナが口を噤んだのは、彼女が隠し切れないほどに切羽詰まった表情をしていたからだった。

 侍女はカエトスたちを認めると足を止めないまま会釈をして通り過ぎ、ナウリアの滞在する部屋へと駆け込んだ。


「……どうしたんでしょうね?」


 立ち止まったヨハンナが首を傾げ、アネッテは無言のまま扉に視線を注ぐ。

 

(ネイシス、何かあったのか? 王女は?)


 カエトスは嫌な予感がした。別行動をとっている女神に呼びかけると、思いもよらない言葉が返ってきた。

 

(それなんだが、王女がいなくなったらしい)

「何!?」


 思わず声を出してしまったカエトスを、二対の視線が見つめる。

 

「どうした?」

 

 カエトスは嫌な汗が背中に流れるのを感じた。当然ながらネイシスの存在は明かせない。どうごまかそうか考えようとしたが、すぐに方針を変更。情報の出所を少しだけ変えて、あとはそのまま事実を伝える。

 

「声が聞こえてきたんですが、王女殿下がいなくなったようです」

「……何だと?」


 アネッテはすぐさまナウリアがいる部屋へと駆け出した。慌てて飛び出してきたナウリアと鉢合わせになる。


「よかった。まだいましたね」

「ナウリア殿。殿下のお姿が消えたとカエトスが言っているのですが、本当ですか?」


 アネッテに尋ねられたナウリアが、驚いた様子でカエトスに目を向けた。カエトスが口だけを動かして〝妖精に聞いた〟と伝えると、納得したように小さく頷く。

 

「そのようです。彼女の話によると、体調の検査が終わって少し目を離した隙に見失ったと」


 ナウリアの背後の室内では、たったいま駆け込んだ侍女が泣きそうな顔で頭を下げていた。

 考えられるのは、王女の暗殺を目論む者による誘拐だ。ナウリアもその仮定に至ったようだった。厳しい表情でアネッテに告げる。

 

「ヴァルスティンの二班の方もすでに捜索を始めているとのことです。アネッテ殿も手伝ってください」

「わかりました。それでは我々は外を捜索しましょう。行くぞ」


 アネッテは短く命じると、早足で玄関広間に向かった。

 カエトスはヨハンナとともにその背中を追った。焦る自分自身に冷静になれと言い聞かせながら、小さな女神の名を呼ぶ。

 

(ネイシス、誰かがここにやって来た形跡は?)

(我々の後にここに入って来た人間はいない。お前が考えてるように誘拐だとするなら、何者かが最初から中で待ち伏せしていたことになる)


 ネイシスの監視をかいくぐるのは至難の業だろう。何しろ彼女は透明化していてもそれを見破れるのだから。


(じゃあ、本の内容はどうなってる?)


 イルミストリアの記述では、いまの時間帯にレフィーニアに危険が訪れることを示唆するものはなかった。王女が危機に遭遇しているのなら、何らかの変化があるはずと思い尋ねたが、ネイシスはそれを否定した。


(いま確認したが、変化はない。ただこれは神が作ったものだ。あまり過信はするな)


 つまりレフィーニアが危険な目に遭っている可能性も考えろということだった。

 

(わかった。俺は中を探せないから、ネイシスはそっちを頼む)


 ネイシスが承諾の思念を送る中、前を歩くアネッテが玄関広間に足を踏み入れた。やって来るときにいたヴァルスティンの隊員は、玄関広間を挟んで反対側にある廊下に向かって駆け出している。そこには同じく濃紺の制服を着た隊員たちが慌てた様子で廊下を行き来していた。先ほどナウリアやアネッテが口にした、親衛隊二班に所属する隊員なのだろう。

 アネッテはそれを一瞥すると、広間を突っ切って外に出た。入口を守る兵士に短く問いかける。


「不審な人間を見かけませんでしたか?」

「いえ、あなた方の後には誰も来ていません。……何かあったんですか? 騒がしいようですが」

「殿下のお姿が見えなくなったそうです」

「何と」

「我々は外を探します。あなた方は持ち場を死守なさってください」


 動揺を露わにする兵士に、アネッテが冷静に声をかける。

 

「そ、そうですね。ここを離れるわけにはいきませんね。どうかよろしくお願いします」


 敬礼する兵士に答礼したアネッテは、池のほとりまで進んで立ち止まった。


「ヨハンナ、カエトス。殿下は姿を消した何者かにさらわれた可能性がある。それの向かう先だが、私に二つ心当たりがある。ヨハンナとカエトスはその一つ、ここから外郭庭園を通って外に向かう経路を捜索しろ。私はもう一方の様子を見てくる」


 ヨハンナが首を傾げながら尋ねる。

 

「もう一方? どこですか?」

「お前は知らないほうがいい」


 そう答えるアネッテの視線が、一瞬だけ上に向いたのをカエトスは見逃さなかった。その先には内郭と中郭とを隔てる崖がある。アネッテはおそらく中郭に向かうつもりなのだ。アネッテが何をどこまで把握しているのかは不明だが、リューリの件との関連があると睨んだのかもしれない。

 

 レフィーニアが誘拐されたとして、その関係者がクラウスの息のかかった者であれば、別殿サイアットに戻る可能性がある。カエトスもアネッテに同行したいと思ったが、同時に疑念も生じていた。

 こんな白昼堂々誘拐などするだろうかと。

 見たところ、レフィーニアの周囲はかなり厳重な警戒態勢が敷かれていた。

 犯人が姿を消していたとしても、足音が消えるわけではなく、また扉や壁をすり抜けられるわけでもない。空気を揺らさずに動けもしない。ゆえに、勘の鋭い人間ならば気付くこともある。その上、すでに不審者の存在がカエトスの手によって示唆されていて、姿を消している可能性にも言及しているわけだから、親衛隊にもそれは周知されているはず。透明化しているとはいえ、戦士としての経験を持つ親衛隊の面々が身構えているところに接近するのは、自殺行為とまではいかないまでも、かなり無謀な試みと言えるだろう。油断を誘うために敵が敢えて日中を選んだ可能性もあるが、現在は王女が事故に遭った直後。時機としては不適切だ。

 だとすると、考えられるのは──。

 

(王女が自分で脱け出した……?)


 この場合も誰にも悟られずに姿を消せるのではないだろうか。

 典薬寮別棟の構造をカエトスは知らないために何とも言えないが、その線から調べる価値はありそうだった。

 ネイシスに頼もうとすると、それに先んじてネイシスの声が頭に響いた。

 

(カエトス、当たりだ)

(当たりって……王女が脱け出したことか?)

(そうだ。中にいなかったから、外の庭を見たら人影がいた。お前の位置からだと、池の対岸の岩陰になる。あのひらひらした服は王女に間違いない。一人でいるのを見ると、お前の予想が正しいんだろう)

(さすが、探すの早いな)

(私の目は特別だからな。若干像はぼやけるが、壁の向こうでもある程度は見える。人間一人探すことなど造作もない)


 やや得意気に答えるネイシスに賞賛の思念を送りつつ、カエトスは緊張の糸を緩めた。

 無事とわかれば、あとはそれをアネッテに伝えるだけだ。アネッテには妖精を伴っていることを明かしていないため、その辺りをどう曖昧にするか。そう考えながら、カエトスは王女の所在を確認しようと池の対岸に目を向けた。するとネイシスがそれを制する。

 

(ちょっと待て)

(どうした?)

(これは……お前のいるほうを見てるみたいだぞ。岩陰に隠れながら時々顔を覗かせてる。もしかしたら、お前に個人的な用があるのかもな。お前がここに来ていることを知って脱け出したとか、そんな理由かもしれないぞ)

(でも、それならこんなところじゃなくても、シリーネスに戻ってから呼び出せばいいんじゃないか?)

(……ふむ、それもそうだな。ならばここで聞きに行ったらどうだ? どうせ話をしなきゃならないんだし、王女をこのまま一人にしておくのもまずいだろう?)


 ネイシスの指摘はもっともだった。

 カエトスはレフィーニアとの親交も深めなければならず、そして彼女はナウリアよりもさらに会話を交わすことが難しい立場にある。王女が単独で行動している今は好機だった。

 

 しかしレフィーニアと接触するのに、アネッテやヨハンナがいては自由に会話できない。つまりカエトス一人で王女のもとに行かなければならない。監視下の身である今の状況で、単独行動の許可を取るにはどうするべきか。カエトスは話しかける内容を手早くまとめると、アネッテたちへと注意を向けた。

 

 ネイシスとやり取りする思念は音声ではないため、普通の会話よりも短時間で多くの情報を交換できる。

 カエトスが方針を定めるその間に、アネッテとヨハンナは次のような会話を交わしていた。

 

「じゃあ私はカエトスさんと外郭に行きます。どの方面を重視するか指針のようなものってありますか? それと誘拐だった場合、犯人を見つけたらどうします?」


 さすがのヨハンナいつものような能天気そうな口振りではなく、真剣そのものだ。行き先を濁すアネッテに食い下がることもなく、捜索に必要な情報を尋ねながら腰の剣に手をやり、自身の武装を確認する。


「手掛かりがない以上、どこに向かうかは不透明だ。お前の判断に任せる。発見した場合はそのまま尾行。見つかってしまったら、殿下を助けられるなら行ってよし。無理なら合図をしろ」

「了解です。それじゃあカエトスさん、いきますよ」

「少々お待ちを」


 駆け出そうとするアネッテとヨハンナをカエトスは呼び止めた。


「灯台下暗しという言葉があります。殿下が何者かにかどわかされたとして、この庭園に潜伏している可能性もあると思います。ゆえに、私はここを探してみたいと思うのですが、よろしいでしょうか」

 

 咄嗟に用意した言葉を口にしたカエトスを、アネッテが静かに見つめる。

 

「何か根拠があるのか?」

「敢えて言うなら勘です。もし私に単独行動をさせるのが不安でしたら、これを預けておきます。剣がなければ、私の力の大半は使えませんから」


 カエトスは腰の剣を鞘ごと外してアネッテに差し出した。この短時間でカエトスが思いついたのは、先刻の会話により跳ね上がった剣の価値を利用することだった。これで駄目なら他の手はない。

 カエトスが返答を待っていると、アネッテは先ほどと同じような苦笑を浮かべた。

 

「そんな状態で敵に遭遇してしまったら、お前は何もできずに殺されるじゃないか」


 呆れたように言って、再び真剣な表情に戻す。

 

「いいだろう。カエトスはここをしらみつぶしに探せ。剣も渡す必要はない。ただしここの敷地外に出ることは禁ずる。支援が必要なときは、私の名を出して二班の連中を頼れ。すぐにここの捜索を始めるはずだから、待っていればそのうち来る」

「ありがとうございます。了解しました」


 嘘は言っていない。しかしどうしても騙しているという思いがこみ上げる。カエトスはそれを悟られないように礼を言いながら頭を下げた。

 

「では行動開始。行くぞ、ヨハンナ」


 アネッテとヨハンナの二人はすぐに駆け出した。凄まじい勢いで速度を増すと、あっという間にカエトスの視界から姿を消してしまう。ミュルスの力を利用して運動能力を底上げしたのだ。

 カエトスは剣を腰に戻しながらそれを見届けると、内にわだかまる濁った感情を追い出すように鋭く息を吐いた。

 現在地は池のほとり。レフィーニアが隠れているという岩はその対岸にある。そこに行くには池を迂回しなければならない。

 カエトスはすぐに駆け出した。池のほとりを沿うように進みながらネイシスに呼びかける。


(王女はどの辺りだ?)


 尋ねるととともに、カエトスの右肩に慣れ親しんだ感触が生じた。ネイシスが戻ってきたのだ。依然として姿は消したまま、カエトスの右耳を小さな手でつかみながら指示を出す。

 

(目の前の岩を右に避けて真っ直ぐ進め。次の三叉路みたいなところは左で──)


 ネイシスの言葉に従って、苔生す地面を踏み締めながらカエトスは進んだ。

 巨木と石柱の林立する庭の中はまるで迷路のようだった。どこにいても手を伸ばせば風雨にさらされてでこぼこした岩肌か、ごつごつとした樹皮に触れる。先が見通せる場所はほとんどなく、小さくない圧迫感を覚える。

 

(──そうだ、そこで止まって右にいるぞ)


 ネイシスの指示通りに移動したカエトスは、五叉路のようなところで体を右に向けた。そこに巨岩に左手をかけた姿勢で、びくっと体をすくめる少女がいた。

 純白のドレスを纏った王女レフィーニアだ。

 派手な装飾品の数々は身に付けておらず、今朝方目にしたときと同じように三日月を模した銀の首飾りが首元で静かに揺れている。木漏れ日を浴びて佇むその姿は、彼女自身が持つ控えめな雰囲気と相まって、さながら森を住処とする妖精のようだ。

 カエトスは、王女を発見したらまず無事であったことを喜ぶ素振りを見せ、そしてなぜ抜け出したのかを聞こうと頭の中で段取りを組んでいたが、それも忘れて見入ってしまっていた。

 先に我に返ったのはレフィーニアだった。

 

「こっちに来て」


 すっとカエトスに近づいて左手首をつかむと、有無を言わせない力強さでぐいぐいと引っ張る。


「殿下、どちらへ?」

「二人になれるところ。すぐ着くわ」


 戸惑いつつ尋ねるカエトスに短く答えたレフィーニアは、木と岩の合間を縫うように進む。

 ほどなくカエトスの目の前に、複数の石柱と巨木とが互いに支え合うように屹立する姿が現れた。どことなく祭壇のような厳かな雰囲気を放つそれにレフィーニアは迷うことなく歩み寄ると、石柱と樹木の間にできた隙間に体を滑り込ませた。純白のドレスがこすれて汚れるのも構わず、蟹のような横歩きで何度か折り返しながら進む。すると視界が開けた。頭上には青空が見える。そこは折り重なる巨木と石柱によって外と切り離された小さな空間だった。

 

 ほとんど円形に近い空間の中央には、あつらえたような石塊が横たわっていた。

 レフィーニアがそこに座ろうとするのを見て、カエトスはいまだつかまれたままの手首をやんわりと外した。制服を脱いで石塊の上にかける。


「どうぞ」

「ありがとう」


 少しためらう素振りを見せたものの、レフィーニアは礼を言ってそこに腰を下ろした。カエトスを見上げて左隣をぽんぽんと叩く。座れということらしい。

 王女と同じ高さに座るという行為に一瞬二の足を踏む。しかしここに人の目はないし、王女自身特別扱いを好まないようだったことから、カエトスは素直に従って腰を下ろした。

 

「カエトスの方から来てくれてよかった。上手く脱け出すところまではよかったんだけど、どうやってカエトスだけ呼ぼうか困ってたの」

「私に用があったんですか?」

「うん。二人で話がしたくて。だから来てくれて助かったわ。でも、他の人に見つからないように隠れてたのに、どうやって見つけたの? やっぱり妖精?」

「ええ。彼女の目は特別で、物陰に隠れていても人を見つけられるそうです。それよりも──」


 カエトスはレフィーニアの問いに答えつつ、一度言葉を切った。

 レフィーニアの行動はカエトスにとっては歓迎すべきことではあった。そのおかげでこうして会話ができるのだから。しかし自分に都合のいい展開だからといって何も言わないのは、臣下として不自然過ぎるし、暗殺の危険があるこの状況で勝手な行動をとった王女を諫めなければという思いもあった。

 カエトスは相反する感情を押し隠しながら、重々しい口調で告げた。


「これは少しやり過ぎではないでしょうか。殿下が私のことを気にかけて下さるのは大変嬉しく思います。ですが侍女長殿を始めとした周りの方々に黙って脱け出すのは、やはり色々とまずいでしょう。大勢の方が大慌てで殿下を探していますよ」

「それは……たしかに悪いとは思ってるけど、ここが一番ちょうどいいと思ったし、カエトスの妖精が見つけてくれると思ってたし、それに置手紙もしてきたのよ? ナウリア姉さまなら、今頃見つけてるころだと思うし、分散させて置いてきたから、時間も稼げるし」

 

 カエトスの苦言に当初はしゅんとしたレフィーニアだったが、最後にはいたずらに成功した子供のような得意げな笑みを向けた。ただそれもすぐに鳴りを潜め、真剣な表情になる。正面に向き直る直前に見えた彼女の瞳の奥には小さな、しかしはっきりとした怯えがあった。

 組んだ手を膝の上に置いてレフィーニアは沈黙した。

 何か言おうとしているが言い出せない。そんな気配を察したカエトスは自分から声をかけた。


「殿下。私に話があるとのことでしたが、どのようなものでしょうか?」


 レフィーニアの組んだ手に力がこもる。一拍置いた後に、やや上擦った声で答えた。

 

「う、うん。えっと、それはね、練武場でのこと。助けてくれたお礼を言おうと思って」

「いえ。私は殿下をお守りする親衛隊なのですから、当然のことをしたまでです。何より……殿下は家族となる方ですし、私自身の望みでもあります。ですから、そのようなお言葉をいただくほどのことではありません」


 カエトスを見上げるレフィーニアの濃褐色と鮮緑の瞳が揺れる。そこにあるのは感謝だったが、微かに苦しさが混じっているように見えた。その様子にカエトスは練武場で抱いていた疑問を思い出させられた。レフィーニアの瞳を見つめながら尋ねる。

 

「殿下。一つ伺いたいのですがあのとき、親衛隊の囲いから脱け出したのは、もしかして神託に関係がありますか?」


 顔を正面に戻すレフィーニア。小さく頷くその手にくっと力が入る。


「……うん。カエトスなら守ってくれるってわかってたから、急いで向かったの」


 やはりか。

 これであのときの王女の不可解な行動に納得がいった。神託という確信があったから、レフィーニアは迷うことなく走り出したのだ。

 

「そのおかげでわたしは助かったし、カエトスの名前も知れ渡ったはずだし、終わりよければよしね」


 そう言ってレフィーニアは再びカエトスに笑いかけた。

 たしかにあの場所での最善の選択だった可能性は高い。カエトスの防御能力は、神鉄製の剣の力もあって非常に高い域に達している。だから石つぶての嵐を完璧に防げたのであり、結果として神託の指示は適切だったとは思う。しかし綱渡りだったことも事実。カエトスの反応やレフィーニアの行動が遅れていたら、最悪の結末になったかもしれないのだ。

 レフィーニアの笑みがどこか硬く、組み合わせた両手が微かに震えているのは、彼女自身がそれを痛いほど自覚しているからに違いない。

 カエトスは、怯える王女をこれ以上刺激しないように言葉を選びながら口を開いた。

 

「殿下。いくら神託だからといって、あれは少し危険過ぎませんか? 結果として無事に乗り切ることができましたが、非常に危うかったと言わざるを得ません。そこでもう一度伺います。姉君たちに神託のことを告げて、協力を仰ぐというのは駄目なのでしょうか。情報を共有できれば前もって備えられます。そうすれば今回のような危険な目に遭わずに済むでしょうし、姉君は誰よりも殿下の身を案じていらっしゃいます。きっと一番近いところにいたいと願っているはずです」

「それは……だめ。姉さまたちは絶対に巻き込みたくないから」


 やはり王女からは芳しい答えは返ってこなかった。俯いたまま力なく首を振る。

 レフィーニアの気持ちは痛いほどにわかるが、愛しい者を助けようにも助けられない姉の立場もカエトスにはよくわかる。

 カエトスはもう一つの案ならば王女も承諾してくれるはずと考え切り出した。


「では私に話していただくというのはどうでしょうか? 殿下の身に何が起きるのかわかれば、私の方で最善の支度を整えることができます。練武場の件のように際どい形になることなく対処できるでしょうし、事前に姉君を危険から遠ざけることも可能でしょう」

「……ごめんなさい。カエトスにもきっと話せないの」


 レフィーニアは奇妙な言い回しで申し訳なさそうに答えた。

 カエトスは首を傾げた。これはやはり神が与えた言葉だから、ということなのだろうか。それを確かめようとしたところで、ネイシスに右耳をくいっと引っ張られた。

 

(カエトス、ちょっと待て。それ以上聞かないほうがいい)

(何でだ?)

(王女の神託は、未来のことに言及しているからだ。お前が内容を聞いて何らかの行動を起こすことで、予見されていた未来はきっと変わるだろう。そうなったときに何が起きるかと言えば、新たな神託が下されるか、神託が役立たずになるかのどっちかだ。いずれにしろ、ここで聞いた情報は使えなくなる)

(……なるほど。王女も何が起きるかわからないから話せないってことか)

(そういうことだ。この本の内容を王女たちに知られるのと、状況としては似ている。どっちも未来を覗いているからな)


 カエトスはそれを想像してしまって、一気に心が重くなるのを感じた。

 レフィーニアが浮気厳禁と釘を刺しているにもかかわらず、イルミストリアにはナウリアやミエッカと親交を深めろとの指示が記されているのだ。そんなのを見られてしまったら破滅だ。そして何よりもカエトスを打ちのめすのは、レフィーニアを騙しているという動かせない事実。

 地面に視線を落とし黙りこくったカエトスに、隣に座るレフィーニアがじりじりと距離を近づけてきた。恐る恐るといった遠慮がちな仕草で、カエトスの顔を下から覗き込む。


「……後悔してる? わたしに関わったこと」


 か細い声で問う王女は、不安そうに眉を寄せていた。カエトスが沈黙した理由を、レフィーニアは別の意味に受け取ってしまったらしい。


「だって、今日だけで二回、試験のときも入れれば三回も事故に遭ってる。そしてそれは本当の事故じゃない。そうでしょ?」

 

 カエトスは即座に頭を切り替えた。自身の葛藤よりも、レフィーニアに余計な心配をかけないことが最優先。

 王女の指摘通り今日カエトスが遭遇した事故は、いずれも暗殺の疑いが非常に濃厚だが、それをそのまま伝えてしまえば、王女が不安を抱いてしまう。カエトスはそれを悟られないように、平静を装いつつ答えた。

 

「たしかにところどころ気になる点はありますが、そうと決まったわけでは──」

「嘘つかなくていいの。カエトスは、昨日殺されるはずだったわたしを助けたから、犯人に目を付けられた。きっとそう。だって三回も事故に遭うなんて、絶対に不自然だし」

 

 レフィーニアはカエトスの弁明を即座に看破してしまった。体を起こしたカエトスの両腕にぬっと手を伸ばして鷲づかみにする。

 

「でもカエトスに逃げられると、とっても困る。そんなことになったら……わたしは絶対生きてられないもん……!」


 カエトスの上腕を握り締めるレフィーニアの力は、華奢な少女とは思えないほどに強かった。鮮緑の左目が怪しい輝きを増し、カエトスに強く訴えかける。そこにあるのは生への執着と死への恐怖。

 カエトスは上腕に食い込む王女の指の痛みをおくびにも出さずに、レフィーニアに微笑みかけた。


「殿下、ご安心ください。昨日、約束したではありませんか。殿下の期待に全力でお応えすると。それに私も殿下に危ういところを助けられているのです。そのご恩を返さないまま逃げることなどあり得ません」

「……本当? 実は思った以上に面倒なことに巻き込まれたとか、王女の言うことなんだから断れるわけがないとか、できれば仕官なんかやめて逃げ出したいとか、わたしみたいな陰気な女の相手なんかごめんだとか、脅迫しておいて何を言ってるんだこの小娘はとか……そんなこと思ってない?」

「お、思ってないです」


 王女の指摘の中には、カエトスの脳裏に一度はよぎったことも含まれていた。それを悟られないようにカエトスは神妙な面持ちで頷く。

 

「……本当に?」

「はい」

「本当の本当?」

「本当に本当です。私が殿下を見捨てることは、絶対にありません」


 レフィーニアはカエトスの腕をつかんだまま、顔を寄せてきた。濃褐色と鮮緑の瞳で、カエトスの目を不安そうにじっと見つめる。本心を探り出そうとするかのように。

 それは逆にレフィーニアの心をカエトスが覗くことでもあった。そこにあるのは自分のわがままに巻き込むことへの迷いと葛藤。そしてそれはカエトスの内にあるものでもあった。本心を悟られれないよう心を深く沈めて、王女を安心させるように見つめ返す。

 

 枝葉のざわめきが外部から切り取られた空間に優しく反響する。

 レフィーニアがふと目を逸らした。カエトスの腕から手を離し、石塊の上に座り直す。その様子からは、不安を取り除けたかどうかまではわからなかった。

 言葉が足りなかったか。もしくはカエトスが抱える葛藤に勘付き、それを否定的な感情と受け止めたのか。

 カエトスは不安に駆られ、さらに言葉を継ごうとした。そこで不意に右肩を引っ張られた。それは思ったよりも力強く、カエトスはそのまま引き倒された。


「……殿下、これはいったい……?」


 カエトスは恐る恐る声を上げた。視界は横倒しになり、側頭部には柔らかくそれでいてしっかりと押し返す温かい感触がある。カエトスはレフィーニアの大腿部を枕にして横になっていた。


「お礼。カエトスがしてくれたことと言ってくれたことに、わたしまだ何もお返ししてなかったでしょ。だから、いまできることをやってみたの。男はこうされると喜ぶって本で見たんだけど……嬉しくない?」


 自身も緊張しているのか、レフィーニアがぎこちない手つきでカエトスの髪に触れる。

 

「い、いえ、そのようなことはありません。ただ突然のことに驚いてしまって……」


 カエトスはすぐに起き上がろうとした。人の目がないとはいえ、王女という身分にある人物に膝枕をされるというのは、カエトスの立場では許されないことだ。しかしそんなことが吹き飛んでしまうほどに、レフィーニアの膝は心地よかった。温もりと柔らかさが心と体を解きほぐしていく。それだけではなく、香水なのか王女自身の体臭なのか、どこか安心するような匂いが鼻孔をくすぐる。レフィーニアへかけた言葉は彼女にきちんと受け入れられた。その安堵が全身に広がっていく。

 

「そう。よかった……」


 髪に触れるレフィーニアの手から緊張が抜けた。その一方で答える声は微かに震えている。

 カエトスはレフィーニアに後頭部を向ける形で横になっているため、彼女の表情は窺えないが、その声音から今朝カエトスに抱き着いてきたときのように赤面している様が容易に想像できた。

 ただいくら心地よいからといって、いつまでもこうしてはいられない。

 カエトスは折を見て起き上がろうとしたが、それより早くレフィーニアが硬い口調で切り出した。


「あと、カエトスが言ってくれたからっていうわけじゃないんだけど、わたしも伝えることがあるの」


 静かに大きく呼吸をした後、意を決したように続ける。

 

「あのね、カエトスに求婚したのは利用するためだけじゃなくて……ううん、最初はそのつもりだったんだけど、今は違う……と思うから。その……えっとね、二回も助けられたら……変わったの、気持ちが。つまり…………こういうことっ」


 レフィーニアは何度も言いよどみながら、最後には膝上のカエトスの頭に覆いかぶさるように抱き締めた。


「……伝わった?」


 カエトスの耳元に、恐る恐る囁くレフィーニアの吐息が触れた。


「……はい。しかと」


 カエトスはようやくのことでそれだけを口にした。レフィーニアは、カエトスに好意を抱いていると、それを仕草で表現したのだ。

 そう理解しつつも、カエトスは動揺を抑えるのに一苦労だった。何しろ、カエトスの頭部は、王女の膝と年齢の割にはとても豊かな胸の双丘とに挟まれる形になっているのだから。

 ただそれも一時のこと。王女はすぐに体を起こしてしまい、温かい感触は去ってしまった。それを惜しむ一方で、カエトスは自身の心境が変化したのを感じていた。

 

 正直なところ、禊の間や試験のときに王女を助けたのは、義務感であったり本に記述されていたからだったというのは確かにあった。目の前で王女のようなか弱い少女が危険にさらされていればできる限り助けようとするのは当然であったし、練武場では王女やミエッカに降りかかる危難を打ち払おうという一念がカエトスの原動力だった。そこにレフィーニア個人に対する愛情があったのかと問われると、自信を持って肯定できない。

 それが切り替わるのをカエトスは感じた。

 

 工事現場での倒壊事故に遭遇したときに、ナウリアの人を思いやる姿勢に触れたときと同じだった。

 レフィーニアの不器用ながら真っ直ぐな仕草と言葉にカエトスは心打たれてしまった。愛しさがこみ上げて、そしてより強く思った。必ず彼女の願いを叶えてやろうと。

 

 しかし熱い感情が湧き立つのと同時に、それとは別の暗く淀んだ感情が心中に渦巻くのを感じてもいた。それはナウリアと会話していたときにもあったもの。

 カエトスの目的は、呪いを解くために女たちから真の愛情を得ること。ゆえに、カエトスこそが当初からレフィーニアを利用しようとしていたのだ。そこにさらに、王女と交わした浮気禁止という約束を実質的に破ってしまっているという事実が追い討ちをかける。

 レフィーニアやナウリアがカエトスに対して抱きつつある信頼や愛情は、光のようなものだ。それに対してカエトスの内にある罪悪感は影。光が強くなるほどに、影はより際立つ。カエトスはそのことを強く思い知らされていた。

 

「……よかった」


 レフィーニアがほっとしたように呟いた。左手をカエトスの左肩に乗せながら右手で頭髪を優しく撫でる。


(カエトス。どうやらそこから離脱できそうだぞ。人間が近づいてきてる)


 葛藤渦巻くカエトスの脳裏にネイシスの声が響いた。カエトスが膝枕されたときから小さな女神の感触が消えていたが、外の見張りをしていたらしい。彼女の言い回しは、カエトスの内心を読み取った上でのものに違いなかった。

 カエトスはレフィーニアの膝に預けていた頭を持ち上げた。温もりを惜しむ感情と、これ以上葛藤を突きつけられずに済む安堵がこみ上げる。それをまとめて奥底に追いやり体を起こした。


「どうしたの?」

「誰か来たようです」

「そ、そう? もう少し話したかったけど……ここまでね」


 レフィーニアは名残惜しそうに言うと立ち上がった。石塊にかけた上着を羽織るカエトスに向かって手を差し伸べる。

 

「カエトスは手柄を立てなきゃいけないんだから、ここでわたしを見つけた成果をちゃんとものにしないと。だから……はい」

「……それもそうですね。では参りましょう」


 王女の強かさと抜け目のなさに舌を巻きつつ、カエトスは王女の手を取った。やって来たときに通り抜けた岩と大樹の隙間に向かって進む。手から伝わるレフィーニアの温もりが、カエトスの胸に芽生えた愛しさと罪悪感を再び思い起こさせた。

 

 隙間を抜けると大樹と石柱の間に空が見えた。それはカエトスの胸中とは裏腹によく晴れていた。

 あの空のように心が晴れることはあるのだろうか。

 カエトスは不安を押し込めるように歩き出した。迷路のような庭園内には、レフィーニアを探す侍女たちの声がこだましていた。

 


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