結、土俵において因縁を解きほぐすこと

結び前、報いを土に刻む

 車は舗装路から未舗装路へと曲がり、畑の間を走ってゆく。その先に感じる死霊回路痕が徐々に近付いてくるのが分かり、そこが目的地であることを鬼天は知った。


「靖実……」


 隣に座る桜大海が漏らした悲痛な声で、助手席から松井が振り向いて心配そうな目を向ける。死霊回路を持った者が死んだときに、その場所にはしばらくの間、死霊回路痕が残る。理器士ならば自身の死霊回路との共振によってその存在を知ることができた。そして、同じ稽古を重ねたものならば、より大きく共振を感じることができ、それが誰の痕なのかも知ることができる。

 目的地と谷村靖実の死に場所とが同じであると、姉弟子の悲しみが、鬼天に教えてくれた。彼女に近い手を、悲しみと怒りで震える肩にかけてやるが、かけるべき言葉は見当たらなかった。


「兄さん」


 声は震えてはいなかった。けれど、どの感情が含まれているのかを聞き取ることはできないほどには平板な調子で、桜大海は話しかけてくる。なんだ、とも、どうした、とも言うことが適切には思われず、鬼天はただ、ん? とだけ聞き返す。


「あたしは、どうするのが良かったんだろう」


 聞き慣れた問いだった。鬼天が現役で夜虚綱を務めていたとき、後から同じ地位についた桜大海は、よくそう言って、夜虚綱の取るべき態度、言うべき言葉、行うべき親切などについて質問してきた。それは、鬼天が引退するまで続いていた。

 懐かしいな、と思う一方で、久しぶりのそれは、桜大海が想像以上に余裕をなくしているのだと鬼天に察せさせた。だから、回答が彼女の望みとは、かけ離れていることが分かっていながらも、鬼天はこう答えざるをえなかった。


「どうもしなくてもいい。大丈夫だ。あとは俺に任せろ」

「イヤだよ!」


 思ったとおりに、即座に拒絶が返ってくる。けれど、桜大海の身体が不調であることを、車に揺られている間に鬼天は見抜いていた。加えて、目的地が近付いてくるに従って、精神的にも追い詰められてきている。こんな状態で、市間や、もしかしたら勇王山と争わせては、桜大海の身が危ぶまれる。だが。


「一番だけでいい、勇王山と取らせてほしいんだ」


 相撲の取組みを数える単位を、番という。理器士としても、姉弟子としても、市間に報いを与え、勇王山に土をつけなければ、桜大海夕という夜虚綱の気が済まない。そういうことであろう。気持ちは、鬼天にも理解できた。

 桜大海は、鬼天が肩にかけた腕をとり、真っ直ぐに先代夜虚綱と目を合わせる。こんなに真剣に向き合ったのは、いつぶりだろうか。熱意が握力になり、鬼天の腕は痛いほどに握り込まれていた。以前にも、こうして頼み込まれたことはあった。鬼天が良しとしたことが、その通りだったことも、その逆だったこともあった。鬼天がダメだと言ったところで、納得できなければ、言うことを聞く夕ではなかった。今回は、おそらく納得させることはできないだろう。鬼天が心配を伝えたとしても、死力を尽くして実行してしまう。桜大海はそういう夜虚綱だ。それを最も知っているのは、あるいは師匠よりも鬼天だったかもしれない。


「分かった。だが俺の言うことは聞けよ」

「うん」


 有効性に大いに疑問がある保険をつけた鬼天の回答に、桜大海は神妙な顔で頷く。それから、助手席の松井を見て、あんたはあたしの言うことを聞きな、とだけ言った。


「あの、夕姉さん」


 何かを訊ねたそうにした松井を、桜大海は睨んで黙らせた。言ってはならぬ。桜風部屋の廃墟で、鬼天を待ちながら言いつけたことを、ここで明かしてはならぬ。今日、勇王山と相撲を取ることになったなら、始めから土俵定格超越をしてくれと、頼んだことは。


「どうかしたのか?」


 鬼天が代わりに問いかけるが、松井はそれに、いえ別に何でも、と言葉を濁して、車の進行方向へ向き直る。何かあるな、と感づかない鬼天ではない。だが、それらも全て含めて、最後は自分が請け負う。その覚悟はいつでも持っている。


「着いたみたいですね」


 手元の名刺と、車内に表示されるGPS情報とを見比べて、松井が教えてくれた。車が停まり、鬼天と桜大海はそれぞれ反対側の扉を開いて土の上に降り立つ。視界に入ったのは、小さな苫家と、その脇を流れる小川だった。鬼天は屈んで、足元の土を摘み上げてみる。親指、人差し指、中指を使って、指先で磨り潰すようにして土質を確かめる。小川の湿り気と田畑による肥沃が、ほどよく粘土質を含む土を作っている。土俵作りに、使えそうだ。

 鬼天をおいて、桜大海と松井は先に市間の家へと向かい、その扉を引き開ける。施錠も音もなく、迎え入れさえするように扉が開き、ふたりは無言で遠慮なく室内へと踏み込んでいった。そのあとから、鬼天も敷居をまたぐ。

 土間には何も置かれていなかった。上り框から続く部屋も空で、そこにあるキッチンにも生活感はまるでなかった。奥の部屋とを仕切るはずの襖は、全てが取り外されて、どこかへ持ち去られたようだ。市間がここから引っ越すときに、荷物を載せる台として使ったのだろうか。

 建物の最奥部は、薄暗い影の中にあった。そこに男が一人、座っている。


「遅かったな」


 声にはもちろん、聞き覚えがある。忘れようもない。


「そうでもないわよ」


 桜大海が闘志を剥き出して言うのを聞いてか聞かずか、その男は姿勢を変えることもなく、淡々と言葉を継いだ。明かりの照らす範囲に見える男は、廻し姿であり、土俵上の理器士のごとく、既に肉体変化を済ませているようであった。


「市間は去った。我輩は残った。何故かはわかるであろうな、仁」


 それには鬼天は答えず、ただ桜大海の舌打ちだけが、無視された苛立ちをのせて聞こえてくる。ゆらりと、男は立ち上がった。一歩ずつふたりへと近付きながら、話し続ける。その重厚な理器士姿が露わになってゆき、ついに頭にのった大畏弔までが明かりの下へと至る。


「長い眠りであった。いや、そうでもなかったかもしれぬ。いくつもの死霊が我輩の身体に入ってきては、我輩の魂に呑まれて消えていった。それも、全て、仁! おまえとここで結びの一番を為そうとするためだ。だというのに……」


 暗がりから姿を見せた勇王山武雄は、鬼天を見ていた目を桜大海へと向けて、言葉を切った。その目を、正面から桜大海の目が、殺意にも似た闘志を込めて見返す。


「あんたは、あたしの妹弟子いもうとたちを殺した。円根宗を使って、大勢を化け物にして、あたしに殺された。今度も、今年中には関取になろうかっていう靖実を、ここで殺した、そうだろ」


 裁判所で罪状を読み上げるように、淡々と桜大海は述べる。だが、その死霊回路には暗い感情の凝りが満ちていくのを鬼天と勇王山は、はっきりと感じ取っていた。


「なら、あたしがあんたと一番取って、何が悪い。妹弟子たちの仇を討って、何が悪いって言うんだよ。あたしは、あんたに土をつけたくてしかたないんだ。来なよ、ガイにしてやる」


 完敗を味わわせてやると宣言した桜大海に、勇王山は一度、思案するように瞑目すると、ゆっくりと瞼を上げて、事務的とすらいえるほどの冷淡さで、よかろう、と応じる。この二人に、今は戦ってほしくはない鬼天としては、一縷の望みを賭けて問うてみた。


「土俵は、あるのか?」

「もちろん」


 鬼天の思惑とは裏腹な、桜大海の気合に満ちた返答がある。夜虚綱は、懐から土鏡の欠片を取り出して見せた。それは餓蝶との取組みのあと、桜風部屋の稽古用土俵から抜き取ったものだ。そのせいで、稽古場は崩壊し、引き摺られるように建物全体が廃墟と化した。けれど後悔することはない。師匠に説教されるのは慣れている。妹弟子の死には、慣れることなど、できようはずもないからだ。

 無言で勇王山は上り框の縁のあたりを指差した。よく見ると、その下、土間のところに穴がある。二十センチ四方で深さが三十センチといったところか。桜大海は素早くそこに、土鏡の欠片を放り込み、続けて松井から手渡された六つの小瓶も入れた。


「あ、おい」


 鬼天の隙をつくような素早い所作で、声をかけたときには既に土俵の円環が黄金色の輝きを見せ始めていた。


「悪かったね、兄さん」


 桜大海がせり上がっていく土俵の上から謝ってくる。そう思ってるなら、もっと自分を労わってくれ、と思いながら、鬼天は自分のスーツのジャケットを脱ぎ捨てる。こうなってしまっては、鬼天にできることは、何かあったときに助けに入ることだけだ。

 市間の住まいであった建物が、土俵の出現によって下から突き崩されていく。紙と木と枯れ草でできた家屋が分解されて落下する音に混じって、嗚咽を噛み殺すような声が聞こえて、鬼天がそちらに目をやると、松井が口を真一文字に結んで桜大海をじっと見ていた。その目には涙がいっぱいに溜まっている。ぼやけた松井の視界の中で、着物をはだけて裾を捌いた桜大海が、女性の姿から夜虚綱の威容へと変貌を遂げてゆく。

 倒壊した建物の破片に囲まれた中に、定格超越オーバークロック済みの土俵が完成し、その上で桜大海は、いつもの土俵上の倍ほどもの筋肉と脂肪を纏って蹲踞をした。対する勇王山は、何をするでもなくただ立って、その様子を眺めている。予め死霊を体内に与えられている勇王山には、土俵定格超越も無関係であり、死呼の必要もない。


「十分に死呼を行うがいい。我輩とは異なり、根の国から死霊を呼び出さねばならぬ貴様らは、それでようやく我輩の相手にもなろう。まして」


 勇王山はゆっくりと片腕を上げて、桜大海を指差す。それを受けながら夜虚綱は柏手を何度か鳴らした。


「まして、手負いの夜虚綱などでは、いくらも保つまい」


 そういうことか。鬼天はようやく桜大海と松井の隠し事を、全て理解していた。餓蝶が市間と手を組んでいたのならば、その身が勇王山のようにされている可能性はあった。それゆえ、桜風部屋の建物は破壊され、対抗するために定格超越を既に一度、行っていたのか。桜大海の空元気も、松井の大人しさも、今このとき、勇王山と対するためのものだったのだ。そのことを、桜大海は鬼天に謝ったのだ。騙して悪かった、と。


「夕!」


 やめろ、と叫ぼうとして、鬼天は名を呼びかけただけで、言葉に詰まった。いまさら、桜大海の意志に逆らうことなどできない。その気持ちを反故にすることなど、不可能なのだ。結果、鬼天にできたのは、松井と同じく唇を噛み締めて土俵の上を見つめることのみだった。

 高々と上がった太い脚がある。桜大海の渾身の死呼が、急流のごとくに土俵を通して根の国から死霊を呼んでいる。土俵のサポートを受けて、夜虚綱の死霊回路も鉄鉱が赤熱するように限度を知らずに加熱していく。身体の中に病気があるように、吐きそうな熱さが体力を削ってゆく。

 死呼を終えた桜大海が構えるのに合わせて、勇王山も同じく構える。両膝の間に、両肘を入れて、拳と頭で相手に狙いをつける、とりなれた相撲の構え。ひと呼吸だけ息を合わせるために使ってから、両者は引き寄せられるように土俵の中央へと突進する。

 バチン、という張り手の音が響く。衝突寸前に、タイミングを合わせた勇王山の張り手が、桜大海の右から左へと走り抜けた。ぐらりと上体が傾いたとき、自然と右脇が空いてしまう。そこに、張った後に引きおろした手を勇王山は差し込んで、難なく下手したて廻しを握り締めた。左右のどちらからでも自在に繰り出す勇王山の張り差しは、現役時代も彼に多くの勝利を齎していた。

 他方、桜大海の左手は、素早く勇王山の前褌を掴み取っている。その腕を廻しから外すべく、勇王山は桜大海の肘に手を掛け、自分の前腕で相手の前腕を上方外側から押し込むように押さえつけた。

 ふんぬ、という着合いの鼻息とともに、桜大海は前褌を掴んだ腕を軸にして勇王山を押していこうとする。だが勇王山に差された右脇が、相手の腕が邪魔で下へ降りないために、両足をバランスよく踏ん張ることができず、前進は半歩に留まった。桜大海としても、右肘をできるだけ脇につけるようにして、勇王山に差し手を使わせないようにしているものの、それをなんとか廻しから外さなければ、押すにも投げるにも邪魔だった。

 互いに互いの廻しを引き、腕を抑えながら、ギリギリと筋肉を引き絞り、相手に技を繰り出す余裕を与えないようにしている。さながら鍔迫り合いのようであった。自らの隙を見せないようにしながら、相手の隙を探る。その間も半瞬たりとも力を抜くことはできない。噛み締めた奥歯がギギギと鳴る。桜大海の死霊回路が力比べに耐えて異常加熱を加速する。視界が暗い――そう思った直後に、桜大海の意識は暗転した。

 ギャリン、という音が唐突に響く。松井の悲鳴が聞こえる。桜大海の意識は復活して、師匠がくれた浄銭のひとつが身代わりに砕け散ったことを理解する。預けた松井の手の中で、ひとつの五円玉が粉砕されていた。まだ、やれる。


「こんなものか、夜虚綱というのは」


 静かな、あまりにも静かな勇王山の声が、桜大海の右肩の上から聞こえる。耳が合うような位置で組み合っているために、顔は見えない。だがその声には、全身のどこにも、筋繊維の一本にすら力など入っていないような穏やかさがあった。前褌を掴んでいる桜大海の左腕が、肘から手首へと撫でられて、勇王山の肘が背後へと突き出る。肩越しの夜虚綱の視界に、カエルかバッタかというような、跳躍前の撓みを見せる筋肉の折り畳みが存在を現す。まさか、この距離から突けるわけが――。


「会得して、いたのか……」


 記憶の中に、廻しを掴み合った距離からの突き手の話をしたことがある。その光景のフラッシュバックに伴って、鬼天の口からは自然と呟きが漏れていた。

 指先を内側に向けた掌底、それが至近距離から桜大海に向けられている。だが打たれなければ、何でもない。夜虚綱はさらに強く、左腕で前褌を引き付けた。そうすれば、相手の掌から自分の身体までの距離を縮め、突きの威力を抑えられる。加えて、たとえその突きが強力であったとしても、廻しを掴んでいさえすれば、押し飛ばされることなく踏み止まることができるはずだ。


「おおおおおっ!」


 桜大海の雄叫びに、勇王山が喉の奥で鳴らした、ふぬ、という気合いが重なる。かの突き手は、掌底を回転させながら、夜虚綱の腹へと潜り込んだ。どぐん、という嫌な音。太鼓の中を水で満たして、釣鐘を突くように勢いよく木材を当てたなら、似たような音がするだろうか。脂肪の壁を押しのけ、筋肉の盾にヒビを入れるばかりの衝撃が、桜大海の内臓をぐちゃぐちゃに引き千切って暴れまわる。口から、赤黒い血が、ごぼと溢れる。

 ギャリン、と浄銭のさらに一枚が粉砕され、残る身代わりはあと一枚になった。


「夕、もういい!」


 鬼天が叫んだときには、桜大海は完全に浮き足立っていた。勇王山の突きの衝撃は、掴んでいた前褌から夜虚綱の指を剥ぎ取り、上体を大きく後ろへと反らさせた。なんとか倒れずにあるのは、右脇の廻しで勇王山に支えられているからだ。桜大海の右腕も、大きく天へと振り上げられている。並みの理器士ならば、これで終わっていただろう。しかし、桜大海夕は当代最強の夜虚綱である。全世界の理器士の誰よりも強く、その頂点に君臨し、数多の取組みにおいて土の味を知らずに二足で土俵に立つ。これで終われるわけがないのだ。


「ぬう」


 勇王山が呻ったのは、その顔に桜大海の右手が覆いかぶさったからである。顔面を握り潰そうとするかのごとく、五指の全てが牙であるように勇王山へと噛み付いた。同時に夜虚綱の右脚が、勇王山の脚に股の内から外へと絡みつく。突かれて上体こそ崩れたとはいえ、桜大海の足腰はまだ生きている。それが上体の傾いたバランスに引かれて倒れゆく前に、必死の内掛けうちがけに踏み切った。右側へ寄りかかる桜大海の全体重が、勇王山の腕と顔面にかかり、反対に脚は掛けて掬おうとする。他方の腕は、勇王山が突いてきた腕がまだ上に残っていて、桜大海がふたたび前褌を取りに行くことを妨げている。その左腕を、夜虚綱は相手の腕に外側から巻きつけるようにして、上下の位置を入れ替えた。そのまま勇王山の腕を外へ押しのけながら、相手の前褌まで左腕を突き込もうとする。だが、腕の位置を巻き替えたのは失敗だった。桜大海の左腕に押し出されるまま、勇王山は自分の腕を外へと広げる。その途中、夜虚綱の左膝の内側に手を当てた。

 顔面を掴む桜大海の指の間から、勇王山の目が鋭い光を宿して相手の動きを見ている。内掛けを仕掛けられている側は、あまり見えないが、その反対側はまだしも視野がある。夜虚綱の掛けていない方の脚、すなわち唯一残って土俵に着いている足は、案外近くにある。とくにその膝は。

 勇王山の手刀が、桜大海の膝を内側から打った。内無双うちむそうである。さして力の入った動きには見えなかったが、力の入った桜大海の膝関節を揺さぶるには、それで十分であった。

 最後の瞬間まで耐え抜くべく、桜大海の喉が鳴って、全身の骨格と筋肉でバランスを取ろうと粘りはするが、既に勝敗は決していた。尻から右半身を土俵にぶつけるように、倒れ落ちる。その音と同時に、地割れの音も響いた。二度の命拾いを経ることができた桜大海とは異なり、その間もずっと定格超越で稼動し続けていた土俵は、ついに限界を迎えて崩壊し始めていた。四隅から、ふたりの居る中心部へ向けて、ひび割れ、砕け、土石流のように崩れ落ち続けている。最終的に土鏡を粉にするまで、それを止めることはできないだろう。


「味気ないな」


 言い放って勇王山は倒れた桜大海を蹴り飛ばした。ギャリンという最後の音が、そのせいで聞こえた。軽く振っただけに見えた勇王山の足から蹴り上げられた夜虚綱の身体は、体格に見合う体重を感じさせない勢いで宙を飛び、土俵の外へ出て、姿を元の桜大海へと戻す。


「いっそのこと、殺しておくか。我輩の魂の餌食になれば、このような者でも、まだ強くなることができよう」


 鷹揚に、伏した桜大海まで歩み来る勇王山は、嬲る様子も侮る様子も辱める様子もなく、むしろ真剣な表情で、哀れむように声をかける。


「夕姉さん!」


 松井が駆け寄って、桜大海の身体に縋りつく。呼吸も脈も、体温もある。正常だ。生きている。ただ、体力と死霊回路の消耗が激しすぎて、昏倒しているだけだった。そちらには近付かずに、鬼天は自分の方に勇王山の注意を向けさせるべく、問いかけた。


「もう、外法相撲技とやらは使わないのか、勇王山?」


 耳から入った言葉が、勇王山の足を止めた。ゆっくりと、鬼天に向き直る。


「ほう。仁よ、我輩をそのように呼ぶようになったか。それも良いだろう」


 にたり、と勇王山の顔に挑戦的な笑みが浮かぶ。そのとき土俵の最後が崩壊し、市間の家があった場所は、ただの砂場となった。


「勘違いをするな、仁。外法相撲技など、所詮は我輩が完全なる魂になるまでの補助でしかないもの。今となっては、なんと貧弱な玩具であることか」

「そうかよ」


 応じながら鬼天は、場所を桜大海から離すべく、じりじりと移動していく。市間の家の脇を流れている小川の方へと。そうしながら、目で松井に逃げるよう促す。今のうちに桜大海を連れて行ってくれれば、思う存分に暴れることもできるだろう。

 鬼天の視線を受けた松井は、頷いて車から手下を呼び、桜大海を抱えて運び去った。ほどなくして、エンジン音が遠ざかっていくのが聞こえてくる。


「さて、邪魔も居なくなったようだが、どうする仁。土俵もないまま、我輩に立ち向かってくるか」


 勇王山に話しかけられて、鬼天は優しく微笑んだ。頑是無い赤子にするような、無知を慈しむような笑みだ。


「土俵か」


 そして鬼天仁太郎は蹲踞の姿勢をとる。開いた両膝の間に腰を落とし、上体は直立させて、両手の甲を膝の上に置くように、両腕を広げて下ろす。ゆっくり空気を吸って、ゆっくり空気を吐いた。


「あるさ。土俵なら、ある。見せてやるよ、俺の相撲ってやつをな」

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