四ノ四、墓碑に刻む銘

 夜虚綱の額からも胸からも背中からも、大粒の汗が溢れ出る。筋骨がギリギリと音を立てながら、桜大海の肉体からあらゆる生命力を絞り出し続けている一方で、餓蝶の四腕は疲れる様子もなく、徐々に夜虚綱を圧倒して身体を寄せている。桜大海の右手がぶるぶると震えだし、ついにその指が餓蝶の廻しから外れるかと思われた、そのとき。


「夕姉さん!」


 稽古場に現れたのは松井だった。すぐに桜大海が追い詰められているのを見て取って、土俵に駆け寄ってくると、懐から小瓶を六つ取り出して次々と蓋を開けた。それぞれの中には白や薄黄色、または茶色の粉末が入っている。左右両手の指に挟んで三つずつ小瓶を持ち、松井は土俵の中央に向かってそれらの中身をぶちまけた。

 土俵定格超越オーバークロック――土俵に米、麦、粟、豆、黍の五穀と塩を捧げることで、五穀豊穣を祈願する。全て生命は地から産まれて地に還る。それは五穀も同じく、豊穣祈願は地より来たりて地へと還る者共を奮い立たせ、土俵へと殺到させる。すなわち、土俵の死霊呼び出し能力は定格値以上に引き上げられて、理器士が計算に用いることのできる死霊は増強される。土俵マニアの間ではよく知られた裏技である。ちなみに塩がそうであるように、五穀も粉末で問題はない。

 がくん、と桜大海は膝が抜けたような感覚に陥った。本当にそうなっていたならば、あっという間に餓蝶に押し飛ばされていただろう。だが実際には、その感覚は土俵を通して呼び出す死霊の質と量が格段に増したことによる副作用であった。自分の身体が、意識の制御下から脱出しようともがいているように、触覚が断続的に途切れて手足がどのように曲がっているのかが分かりにくくなる。だが筋肉が激しく活動しているのは、はっきりと感じられた。破裂せんばかりに腕も脚も盛り上がり、その強化だけで押し付けてくる餓蝶の腕を押し返す。死霊力は筋力である。そして筋力は計算力であるのだ。

 通常であれば、定格超越は土俵上の両理器士に益をもたらしたはずだった。だが半霊半人の餓蝶は土俵を通して死霊を呼んではおらず、ゆえに桜大海にだけ恩恵が与えられることとなった。松井がそこまで知っていたわけではない。ただ、たとえ相手も強化されようと、それは敬愛する夜虚綱ほどではないと信じての行為であった。


「ゲギャギャギャ、ビグィグィグィグィ」


 モーターが回転数を上げたように、餓蝶の呻きが音程と音量を高めて周囲を圧倒する。だが相撲において実際に圧倒していたのは桜大海の方だった。倍ほどにもなった体格を使って、餓蝶を反対側の土俵際へと押し込めてゆく。それはじりじりとした動きではあったが、確実に夜虚綱は前進していた。単純な力比べでは勝てないと判断した餓蝶が、今度は離れようとして、桜大海の顔や肩、腿などに手を掛けて夜虚綱の動きを鈍らせる。邪魔をされた桜大海の前進は、あえなく土俵の中央にて止まってしまった。

 定格超越は長続きしない。通常可能な死霊呼び出し能力を超えて使用することによる高負荷を受け続ければ、土俵は遠からず崩壊するだろう。あるいは理器士の計算力が低ければ、土俵よりも先に死霊回路の方が異常をきたしてしまうだろう。理器士がそうなってしまえば、二度と死霊計算ができなくなるか、より酷ければ全身不随となり感覚も麻痺して精神は消滅してしまう。さもなければ目の前の餓蝶のごとく半霊半人となる末路が待っている。

 やむなく桜大海は、餓蝶の望み通りに組み付いた両手を離して突き飛ばすように間合いを取った。その瞬間に土俵上から餓蝶の姿がかき消える。腕二本分の重さが増えたとはいえ、餓蝶は本来、理器士としては細身であることを活かしたスピードと多彩な投げ技を得意としていた。離れれば当然、桜大海の視界の外へと移動するだろう。しかしながら。


「き、消えたぁっ?」


 土俵の外、正方形に土が盛り上がった範囲を全て見渡せる位置に立っている松井の視界からも、餓蝶は消え失せていた。

 ボンと破裂する音がして、稽古場の壁が大きくへこむ。そこから連続して部屋を一周するように、全ての壁に大蛇が通った跡のように溝が掘られ、継続してそれが深く大きくなっていく。音速を超えて移動する餓蝶によって発生させられた衝撃波の影響だ。うっ、と呻いて松井が鼻血を垂らした。


「伏せてな」


 桜大海の忠告を受けて、松井は手足を縮めて地面に丸くなった。背中の向こうで空気の裂ける爆発音が何度も何度も連続している。

 音の衝撃波程度では、夜虚綱が負傷することはない。超音速移動の合間に餓蝶が、突きや張り手を叩き込んでくるが、それにも桜大海は、ぐらりぐらりと揺さぶられはするものの、倒れるほどのことはなく、しっかりと土俵を踏みしめている。なぜなら、餓蝶のその動きは予言されているからだ。夜虚綱はその死霊計算力の最大限を費やして、相手の動きを追っている。左右から来る突きを逆側に踏ん張ってしのぎ、背後に回られないように向きを変え、正面から帯を狙う腕を叩き落す。今はまだ、予測を計算する速度が餓蝶の移動速度をなんとか上回っている。だが、これ以上速くなれば、いずれ死霊計算が追いつかなくなるときが来るだろう。そのときには、餓蝶の肉体も耐え切れなくなるだろうが、予測できない桜大海の不意を突く一撃を決められさえすれば、勝負は決する。

 すなわち、定格超越が限界を迎えて土俵が崩壊するか、同じく桜大海の死霊回路が異常をきたすか、さもなくば死霊計算による予測算出の速度が限界に達するか、あるいは餓蝶の肉体が耐え切れなくなるか。このいずれかが決着をつける。それを良しとしないのであれば、時を待たずしてぶつかり合うしかない。

 しかしながら、桜大海は土俵中央から動こうとはしなかった。受けて立とう、という構えである。人としての形も、自我さえも失っても、なお挑みかかってくる餓蝶という理器士への、それが夜虚綱にできる最大限の表敬であった。そのことを理解したのであれば、餓蝶麻子には、まだ相撲取りとしての気概が残っていたのかもしれない。超音速移動は徐々に、桜大海の正面で一瞬の停止を挟むようになっていった。真正面からぶつかる、その闘志があると主張する。


「来い」


 夜虚綱が迎える。その胸を目掛けて、超音波の槍が突き刺さる。今度は、駆け足と体重と距離のみによるぶちかましではない。音速で鋭利となった餓蝶の頭と四本腕が、桜大海の五体を刺し千切らんとばかりに、錐となり夜虚綱を穿ち抜いた。

 衝撃波が、いちどは桜大海の背後の壁から内装を粉にしてこそげ落とし、跳ね返って餓蝶の背後でも空間に存在する全てを壁に叩きつけた。餓蝶麻子に生前の意識があれば、会心の相撲となっただろう。だが植えつけられた死霊によって、己の何たるかを感覚することさえ不可能となってしまった理器士には、夜虚綱に一矢報いたという満足感は、ついぞ味わうことができなかった。そして、その満足感さえも、ただの幻でしかなかったということも。

 桜大海は、己の両腕と両脚、それと腹に刺さっている餓蝶の肉体を見下ろして、冷たい気持ちになっていた。定格超越がなければ、自分は負けていただろう。餓蝶の払った代償が、夜虚綱にそうまでさせた。しかし、このような化け物の身体になってしまっては、何の意味があろうか。桜大海の脳裏には円根宗と靖実のことがある。自分の相撲を強くするのに、半霊半人になってしまっては、何の意味があろうか。人の意識を失っては、相撲の喜びも、予言の価値も、何も無くなってしまうではないか。勝利も敗北も、今、灰燼に帰した――。


「餓蝶、根の国で会おう」


 弔いを口にして桜大海は、動きの止まった餓蝶の背に頭を落とすように圧し掛かり、その身体を体格で押し潰した。間もなく四本腕の身体は黒い泥へと変わり果て、餓蝶麻子という理器士は現世から完全に姿を消した。


  ■


 桜風部屋へと約束どおりにやってきた鬼天は、変わり果てた建物の姿に呆然として、しばらく立ち尽くしていた。周囲は静かで、廃墟のそこここには自分の荷物を探す桜風部屋の弟子たちらしき姿が見える。もう騒動は終わったらしい。


「先手を取られたか」


 桜大海はどうしているだろうか。また師匠に説教されていなければいいが、と思いながら周囲を歩いていると、ほどなくして、妹弟子に指示を出している夜虚綱を見つけた。


「あら兄さん。遅かったじゃないか」

「よう。何があったんだ?」


 瓦礫の上に座り、こちらへと近付いてはこない桜大海に、鬼天の方から歩み寄りながら問いかける。にやり、とあくどさすら含まれたような笑みになった桜大海を見て、珍しいな、と少しだけ違和感を覚えた。


「それがね。びっくりだよ。師匠オフクロが屁をこいたら、どかん、さ」

「はぁ?」


 さしもの鬼天も、滅多に聞かない夜虚綱の面白くない冗談に、とるべき反応を失った。


「やだね、冗談よ冗談。ちょっと餓蝶を倒してさ。それよりも」


 呆気に取られながらも鬼天は、桜大海が口にした理器士を思い出してみる。建物を破壊できるほどの計算力があったという記憶はない。そもそも、どんな相撲をとる理器士だったのかさえも、朧気にしか想起されなかった。強敵ではなかったはずだ。

 よっこいしょ、などと言いながら桜大海は座っていた瓦礫から立ち上がり、歩き出す。すぐに黒い車が寄せてきて停まり、後部座席の扉が開いて松井が顔を出した。


「さ、市間を潰しに行くよ、兄さん」

「ああ。けど大丈夫なのか、夕」


 振り向いて手招きする桜大海への問いには、もちろんさ、という答えがあった。餓蝶であれば桜大海がひと捻りするだけで、労もなく倒すことはできるだろう。建物の倒壊については疑問が残っていたが、このとき鬼天はそれ以上に具体的には考えなかった。土俵定格超越が理器士の身体に与える負担については知っていたが、それを今の桜大海が抱えているとは、想像もしていなかった。


  ■


 畑仕事を終えて、市間内郎はスーツ姿の首にかけたタオルで額の汗をぬぐう。


「いやあ、今日もうちの野菜ちゃんたちは元気だなあ。やっぱり栄養がいいからなのかなあ。有機肥料は優秀だなあ。うふふふ、うふふふふ」


 上機嫌で家に入り、上り框に腰掛けて長靴を脱ぐと、板の間に上がって汗まみれのタオルとジャケットを床に放り出す。同じ床には、靖実の着ていた着物が丸められていた。ふう、とひと息つきながら、市間がワイシャツのボタンのほとんどを外すと、胸筋と胸毛が波打つ様子が、その隙間から覗いた。


「さあて、そろそろかなー」


 両手を擦り合わせながら、にこにこ笑顔で奥の部屋に続く襖を眺める。今もまだ、それはぴったりと閉ざされていた。だが、その中に寝かされていたふたつの人体は、ただひとつに減っている。


「やっぱ急造だと、人の姿を保ったままって難しいんだよねー。そういう点では、あれは失敗だったってことになるわけだけど、さ」


 ひとりで何度も頷いてから、不意に市間は片脚を軸にくるくると回転するダンスをしながら、家の中を何周も回りだす。そして歌声も。


「うっふっふー、こんどはぁー。素っ晴らしいよー。傑作さー、ヘイ! なにしろぉー、まっくしった! 幕下理器士ぃー、食わせたもんねー」


 そこまで歌ったところで、つんのめって市間は床に尻餅をつく。だがそれでも愉快で仕方がない様子で、引き続き、うへへうへへ、と楽しそうに笑っていた。その手元に靖実の着物があるのを見つけて、いちど手に取り、また放り出す。


「うーん。さすがに私も、もう魂と肉体を分離するのも手馴れたもんだねえ。プロの技だね。うっふっふっふ」


 ひとしきり笑ってから市間はごろりと床に横になり、それから襖の方を向いて、片肘を突いた腕で側頭部を支えて、嬉しそうにその一室の扉を眺める。彼の瞳にある光は、たとえるならば、まるで慈愛のそれであるようだった。

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