第五章

第1話 水の音

 しのりんはそのまま、僕らが電車を降りたあの大きなほうの町にある病院に入院した。命に別状はないということだったけれど、怪我の治療をするほかにも念のために検査が必要なのと、少し衰弱しているのでその手当てを受けるためだった。


 一応はご遠慮したのだったが、お父さんやお母さんが「そんなことを言わないで。是非いっしょに」と熱心におっしゃってくださったので、僕らはご家族がそちらに向かう車に一緒に乗せてもらうことにした。

 僕と茅野は、もしもしのりんが僕らに会いたくないと思うようだったら、そのままそこから電車に乗って、もと来た道を帰ろうとこっそり相談していた。とにかくしのりんをそっとしておいてあげたかった。

 車の後部座席に乗せてもらうおうとしてふと見上げると、西の空が不穏な色の雲に覆われて、雨の匂いがしてくるのが僕にもわかった。なんていうのか、周囲の緑の匂いが増してくるのだ。

 どうやら虫たちもこれからの天候の変化をお見通しのようで、昨日のような合唱を聞かせる気はないようだった。ただ、蛙だけは元気らしくて、どこからかげこげこ、けろけろと暢気な声が聞こえていた。



 その病院に着いたのは、その日の夕刻のことだった。

 地元の人にとってはそれなりに「大きな病院」ということになるようだったけれど、それは都会にある病院とは比べるべくもない、ずっと小さな建物だった。でも、最近新しく建てかえたのだということで、大きめのガラス窓やタイルなんかはおしゃれでセンスのいいものだった。

 それがなんだか、田んぼや畑や真っ暗な山を背景にしてたったひとりで「都会らしさ」をアピールしているかのようで、ひどく唐突な感じがした。

 内装についても同様で、病室へと続く廊下は落ち着いたピンクベージュでまとめられ、至極きれいなものだった。


 彼女は、奥まった個室に入院していた。

 ご家族は、僕らを病室の前で待たせて先に中に入った。その後しばらくして呼びいれられ、僕と茅野は足音をしのばせるようにしながらその部屋に入った。

 目を真っ赤にしたお母さんと真響まゆらちゃんが、うつむいて口もとをおさえるようにしながら僕らに会釈をし、入れ替わりに出て行った。僕らが病室に入ると、お父さんはそれを見届けるようにしてからそっと自分も出て行った。

 部屋には僕と茅野、そしてベッドの上の人だけが残された。


「ほづ……。ゆのぽん……」


 ひきつれたような声でそう言った、ベッドの上に横たわった人を見て、僕ははじかれたようにしてそちらに駆け寄った。

 腕に巻かれた包帯や、頬の大きな絆創膏が痛々しかった。

 包帯のないほうの腕には、点滴の針が刺さっている。着替えのパジャマなんかはお母さんが持ってきてはいるのだろうけれど、今はまだ、前であわせになっているピンク色の入院着の姿だった。

 多分、性別を問わずにこの色と決まっているのだろう。こんな時にこの人が、他人からこんな色を着せられていることが、僕にはとても皮肉に思えた。


 僕は点滴の支柱台のないほうの側から彼女の腕をとって、ベッドの脇にかがみこんだ。しのりんの腕には、よく見れば擦り傷や打ち身がいっぱいに広がっていた。


「しのりん――」


 声が震えて、しのりんの顔があっというまに熱くぼやけた。


「なにしてんの。……なに、してんだよ……!」


 茅野は僕の背後に立って、両手をカーゴパンツのポケットに突っ込んだまま仏頂面をくずさずにいるようだった。


「ごめん、ね……ゆのぽ――」


 握ったしのりんの手をそのまま額に押し付けるようにしてうつむいてしまったので、僕には彼女の表情は見えなかった。いや、顔を上げていたって、ろくに見えなかったと思うけれど。

 ひと前で泣くなんて、何年ぶりのことかと思った。

 でももう、ここで我慢なんてできなかった。


「ダメでしょ。……こんなことしちゃ、ダメなんだからっ……」


 言いながら、握ったしのりんの手の上にぼろぼろと雫を落としてしまう。

 しのりんも仰向けになったまま、ぽろぽろと耳の方へ雫をこぼし続けていた。

 ごめんね、ごめんねと、ただそれだけを繰り返しながら。





「ほんと言うと、ボクにも、よく分からなくて。親戚んちの庭に出て、あのスマホを見て……。もう……頭ぐるぐるになっちゃって」


 それから、しのりんは訥々とつとつとあのときの様子を教えてくれた。

 今は話をするために、少しベッドの傾斜をつけて半分起き上がったような体勢になっている。


「気がついたら、なんにも持たずに山のなかをずんずん、ずんずん歩いてて……」


 しのりんがふと我に返ってみたときには、もう彼女は月明かりを頼りに夜の山道をやみくもに登っていた。それがなんだかもわからなかったけれど、とにかくなにかに突き動かされるようにして、どんどん奥へ奥へと進んでいたのだと。

 慣れない山道であることだとか、噂になっている熊のことだとかは不思議となにも怖くはなくて、それよりも何よりも、背後から何か恐ろしいものに追い立てられているという恐怖があった。

 得体の知れない何者かが、足を止めれば自分を食らい尽くしてしまう。精神を削り取られるような、そんな妄想が止まらなかった。それがなにより怖かった。

 少しでも立ち止まったら、スマホに入っていたあの不特定多数の悪意に満ちた言葉の数々が、しのりんの背中に今にも追いついてきそうに思った。ねっとりとした真っ黒なそれに取り込まれたが最後、もう自分はどこにも逃げられないんだと、しのりんは本能的に感じていた。


 だから、足許のことなんて気をつけてもいなかった。

 ただ坂道をずんずん登って、道がありそうなところへ分けいっただけだった。


「そうするうちに、多分、どこかで足を滑らせたんだ。声をあげる暇もなかったよ。それでただもう止まるところまで、ごろごろ転がり落ちちゃった……んだと、思う」


 そこから少し気を失っていて、しのりんは足の痛みで目を覚ました。

 立ち上がろうとしたがうまくいかず、足の痛みはどんどん増して、やがてひどく腫れてきた。

 そこは沢の近くだった。

 しのりんはそこで、ただぼんやりと木の根元にうずくまって過ごしていたらしい。


 死にたいとか、死のうとか、思っていたわけじゃなかった。

 でも、そうなったほうがいいんだということは分かっていたし、実際そうしようかと何度も思った。

 これでもう、親にも妹にもこの秘密はばれてしまった。親にはもちろん申しわけなかったけれど、まだ学校に通っている妹の真響まゆらには、ものすごい迷惑を掛けることになるのは明らかだった。しのりんにはとてものこと、彼女にあわせる顔がなかったのだ。


 自分のことはいい。言ってみれば、これは自業自得みたいなものだ。

 でも、妹はそうじゃない。

 自分がこういう身体に生まれてしまったことは、厳密には誰のせいでもない。ないけれど、妹は本当に、何の責任もない立場なのだ。

 こんな「兄」をたまたま持ってしまったことで、二学期からあの妹はどんな学校生活を送らなくてはならなくなることだろう。


 もしもそれで、あの子がいじめにあったりしたら。

 それでもし、学校へ行けなくなってしまったら。


 たとえそこがどうにかなったとしても、その先はどうなるのか。


 あの子に彼氏ができたとしたら。

 そしてやがて、結婚することになったら。

 自分の存在が、彼女の人生を、それを幸せにすることを決して邪魔しないなんて言えるだろうか。


 もしも、もしも、もしも――。


 恐ろしい予感はつぎつぎに生まれてきては、どんどん積み重なってしのりんの頭を占拠し、押し潰した。

 いっそ自分がいなくなれば、家族は学校や家をかわって、ほかの土地でいちからやり直せるかも知れない。こんな「変な」子どもさえいなければ、あの家族はきちんと穏やかな生活を営んでいけるのだ。両親と、いる家族として。

 なにより、大好きな父や母を、これ以上心配させたり、悲しませるには忍びなかった。

 そう思ったらいたたまれず、かといって痛む足ではろくに動くこともできないで、しのりんはその足をおさえながら丸くなって、ごつごつした木の根方のところでほとんど眠れもせずにその一夜を過ごした。ときどき気持ちの悪い声でほう、ほうと聞こえるのは、恐らくフクロウのものだろうなと思った。

 朝方、もっとも気温の低くなる時間帯になると、夏場とはいえひどく冷え込んで、薄着のままのしのりんはがたがた震えて歯の根も合わないほどだった。こうして次第に体力を奪われていけば、行きつくところは決まっている。

 でも、心の奥底ではいつもだれかが「それでもいいじゃないか」と囁いていた。


 ……このまま、消えてしまいたい。


 はじめから、こんな自分は、

 この世界にはいなかったことにしてしまいたい。


 ただそのことだけを一心に心に繰り返しているうちに、やがて周囲ではさっそく朝の仕事にとりかかった森の鳥たちの声がしはじめて、周囲が明るくなってきたのだった。


 ほどなく白々と夜が明けて、しのりんはまるで沢のほうから聞こえる水音にいざなわれるように、ごそごそと動き出した。もちろん片足はいう事をきかないので、ほとんど這うようにしてのことだった。

 傷めた足は熱を持って、ひどく腫れているのが自分でもわかった。

 夜じゅう寒いところにうずくまっていたために、身体全体がばきばきと音をたてるほどに堅くなってしまっていて、なんだか自分が急にひどく年をとってしまったように思われた。


 ときどき、傾斜の急になったところで転がってしまったり、傷ついた足を岩場に挟みそうになって悲鳴をあげかけたりしながらも、しのりんはやっとのことで沢の近くまで這いよった。そうして流れのきれいそうなところを探して、そこからそうっと水をすくって口に入れた。

 水はとても清らかで、冷たくておいしかった。

 急に喉の渇きをおぼえて、しのりんはまた、ふたくち、みくちとそれを掬って飲んだ。


 気がつくと、ぼろぼろ涙がこぼれていた。


(……どうして。)


 ついさっきまで、「死んじゃってもいい」なんて思っていたくせに。

 身体は勝手にこうやって、「生きたい、生きたい」と叫んでいる。

 そうして勝手に、こうやって命をつなごうとして動いてしまうのだ。


 おなかがすいた、喉がかわいたと叫ぶということは、とりもなおさず、「生きたい」と叫んでいるのと同じではないか。生まれたばかりの赤ん坊が、それを欲して大声を上げて泣き喚くのと同じように。

 家族のためだったら死んでもいいだなんて、結局、そんなのはきれいごとに過ぎないのだ。生まれてきて、ここにこうして生きている以上は、やっぱり、だれだって生きていたいのに違いない。

 だれだって、こうやって追い詰められてしまわなければ、自分から死を選んだりはしないのだから。


 しのりんは、川の水でばしゃばしゃと顔を洗い、そばにあった川べりの岩に手のひらを何度もたたきつけた。そうして、獣みたいな声でわめきちらした。何を叫んでいたのかは、まったく覚えていない。ただただ、あふれてくる言葉ともいえないような胸にたまっていた澱おりのすべてを、めちゃくちゃに吐きちらかした。

 どんなに泣いても騒いでも、森の中のだれも、しんとして何もいわなかった。

 深い森の緑たちは、しのりんの声を吸い取っていくようだった。

 そうして、ただ川をさらさらと流れてゆく水だけが、穏やかな朝の光の中でしのりんに笑いかけているだけだった。


 気がつけばしのりんは、そばの岩に身体をもたせかけたまま、両足を放り出し、ただもう周りに響くような大声をあげて、ひとりでわあわあ泣いていた。


 ひとりだ、ひとりなんだと、ただそれだけをくりかえしながら。

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