空白 21

Botan

第1話

今日突然消えてくれないかな、と毎日思う。

近寄られるだけで頭痛がする。

精神的に耐えられない。

私にこんなに嫌われる人間も珍しいと思う。

と同時に他人を嫌いだという感情を持つ、

私もただの、ありきたりな人間なんだと自覚した。

この感覚は絶望にも似て

私を突き落とすのに充分過ぎるほどの理由だった。

決して思い上がっていたわけではないが、

私も彼と同じ人間なんだという現実が

吐き気がするほど嫌だ。

もう嫌だ。

もう限界だ。

もうこれ以上は耐えられない。

今まで何度そう思っては誤魔化してきたのか。

無理矢理抑え込み目を逸らしてきたこの努力と費やしてきた時間は無駄でしかなかった。

あの時、私は死んだのだ。

もはや、何のために生きているのかわからなかった。

私という個人は、どこへ行ってしまったのか。

人はひとりでは生きられないと言うが、

周りに何人いようが自分という存在が認識出来ないのなら、他者との共存の意味は何だ。

命あるものは与えられた生を全うすべく

日常に感謝し、命の喜びを謳うべし。

何のために?

喜びが見いだせない生は苦行でしかない。

決して死にたいわけではなかった。

でも逃げることすら許されないのなら、

終わらせたいと願うのは自然なことではないのか?

私はただ、自分を失くしたくなかっただけだ。


愚痴を言うのが怖い。

一度口にしてしまえば堰を切ったように溢れだし、あっという間に飲み込まれてしまうのではないかという恐怖がある。

事実私は私の中の嫌悪感を再認識して

そのドス黒い感情に窒息しそうになっている。

好きも嫌いも全ては自分の頭の中の出来事で

目を瞑っていればやり過ごせる程度のものだ。それを今こうやって反芻するから増幅し意識しないところでのさばっていくのではないか。

そして私はそれに逆らえない。

もはや後戻りは出来ないところまできた。

ああ、まったく自分が嫌になる。

どうやら負の感情は他人だけではなく自分にも向くらしい。

こんなことを考える自分が嫌だ。

楽しかったことが、ことごとくつまらない。

目の前が灰色になっていく。

光など見えない。

どちらが前なのか後ろなのかもわからない。

私が進んでいるのはどっちだ?

弱い私はその矛先を彼に向け

また感情に支配されて堕ちていく。

メビウスの輪のようにぐるぐると

堂々巡りを繰り返す。

出口など見えるはずがない。

見えているものは頭の中の幻想。

紫煙の中で自分を甘やかして、溜め息をついて一日が終わる。

全くもって、醜い。


プツリと糸が切れる音がした。

張りつめていた糸だ。

自分を保っていた糸だ。

切れてしまったらどんな風になるのかと、考えるのも恐ろしい程

奈落を想像していた。

自分が自分でいられる、最後のラインだと思っていた。

切れてみると案外穏やかで

予想していたような半狂乱の醜態など晒していない。

ただ、ぽっかりと穴があいたような気分だ。

進め進めと言い続けてきた声が、パタリと止んだ。

目から鱗が落ちたのか、急に目隠しをされたのか

どちらなのかはわからないが

動き続ける意味がわからなくなったのは確かなようだ。


あの時微かに感じた違和感は本物だったようだ。

気付くのに10年かかった。

慣れれば変わるかもしれない。

自分が至らないせいかもしれない。

実績を積んで、成果を上げるようになったら変わるかもしれない。

いつか変わるかもしれない。

私が変わっても相手が変わらなければ何の効果もない。

みんなそうだ、という言葉が嫌いだ。

そんなもんだ、という言葉が嫌いだ。

合わせてくれなきゃ困るといわれる。

10年自分を歪め続けた。

私は私であって、あなたではない。

こんな単純なことが通じない。

もう息ができない。


腹の辺りが気持ち悪い。

胃が痛い。

内側から掴まれるようなモヤモヤしたものが

常に漂って消えない。

正体は何だ?

どうすれば消える?

ぼんやりと頭の隅に浮かんでは消える答えのようなものが

手招きしている。

誘いにのるか?

いや、まだだ。

軽率な行動は自分の首を絞めるだけで

何の解決にもならないことは知っているだろう?

楽になりたいというだけで、衝動的に動くのは得策ではない。

時計の針は今日もぐるぐるとまわって

カチコチと秒針の音を部屋に響かせている。

少しひんやりとした空気。

嫌いじゃない。


頭痛のせいか吐き気が治まらない。

薬が効かない。

この時間を耐えているのが嫌だ。

でも明日になっても、また同じこと思うんでしょ?

明日を望んでも明日になったらまた疎ましいと思う、

何も変わらない毎日。

変えたいのは日付けじゃなくて、自分なんだって言うのはわかってるってば。

言葉が浅い。

思考が軽い。

一度深く潜りたい。


もう全てが嫌だ。

何もかもが裏目に出る。

前を向こうと顔をあげる度に

運命が嘲笑って唾を吐きかけてくるようだ。


ここまで書いて手を止めた。

運命?

目に見えない大きな力をそう呼ぶのか。

誰も見たことはないはずなのだが、誰もが信じている得体の知れない存在。

神の采配。

抗えない流れ?

風に煽られふらふらと流される笹の葉の小舟が頭を過ぎった。

辿り着く先は大海か、はたまた枯れ枝の溜まる溝のフチか……。

どちらにせよ正解なのだろうと漠然と思った。

意味など、後からつけられるものなのだ。

小さな頭で言葉を捻り出し、ただ書き連ねている様子は

さながら己の所業を棚に上げ盲目に救済を求める行為のようで、

否定と肯定が入り混じった、何とも掴みどころのない気持ちの悪い形をしていた。


雨上がりの歩道を歩く。

空は青く、流れる雲はくっきりと白く

光を反射して眩しくたゆたう。

水たまりが風に吹かれて波紋をつくる。

踏み入れると不規則に揺らめいて

インクとなった雨水が私の歩調でスタンプを押していく。

子供の頃は入りたかった。

雨がくれたご褒美のような置き土産。

避けて歩くようになったのはいつからだろうか。

濁った水の中に映る自分の姿は今どんな風に見えている?

覗き込むと過去の自分と目があったような気がした。

夢を語った公園のブランコ。

思い描いた未来。

真っ直ぐに手を伸ばしたあの日の延長線上に今日という日があっただろうか。

背が伸びるほど見える景色は変わり

足元を気にして遠回りを繰り返した。

世界は広いと知れば知るほど、一歩踏み出すのが怖くなり

手を伸ばすのが怖くなった。

そして臆病になればなるほど、涙は簡単に流れなくなった。

何でも出来ると信じていたあの頃がやけに眩しく感じた。


その時、一陣の風が街路樹を揺らした。

葉に残っていた雨粒が降り注ぐ。

ポタッと一粒頬を伝って落ちた。

雨が、代わりに泣いてくれているような気がした。



ため息をひとつついてページを閉じる。

日課になったこの作業。

口に出せない物語をこの中に閉じ込める。

この小さな画面の向こうが、逃げ場のない私のシェルターだった。

フォルダの名前は「空白 21」

……今日、うまく笑えますように。




─おしまい─

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空白 21 Botan @botan

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