第四話 風

 午後の授業とホームルームが終わり、小熊と礼子はカブの座席より面積は大きいのに狭苦しい席から立ち上がった。

 皆が帰り支度を始める中、小熊はブレザー制服の上に赤いライディングジャケットを、礼子は緑のフライトジャケットを着込む。

 ただ漫然と歩いている人間にとっては秋だか冬だかわからない気候。他県の人間からしばしば言われる通り山梨県民は総じて寒さには強く、周りのクラスメイトの中でもコートを着込んでいる生徒は、まだそれほど多くない。

 バッグを片手にブラ下げ、二人で駐輪場に向かっていると、同じクラスの生徒が近づいてきた。

「カッコいいな。二人でこれから風になるのかい?」

 他人から積極的に話しかけられるのが苦手な小熊は、目を合わせず黙って頭を頷かせた。人間関係の構築が上手い小器用な人間を、どこか見下しているところのある礼子は、胸を張って「そうよ」と言った。

 それ以上話が続くこともなく、クラスメイトは離れていく、小熊は礼子を見て言った。

「風だって」

 礼子は軽く鼻を鳴らしながら答える。

「風が何だってのよ」


 小熊は普段の通学姿でカブに乗っていることは知れ渡っている。それを最も広く知らせたのは、先日の修学旅行。乗り遅れたバスをカブで追いかけてきたという珍事で、周りに認識されるような個性が皆無だった彼女に、カブに乗っている奴という印象が残された。

 礼子もまた、優等生のお嬢さまで小熊よりも幾分目立つ生徒ながら、部活も趣味も無い彼女に個性を与えるのに、赤い改造カブは役立っている。

 そんな二人がよく言われるのが、この風というものの絡んだフレーズ。バイクに乗ることをよく風になるというが、小熊も礼子もカブに乗り始めて以来、そんな印象を持ったことは無い。

 バイク乗り、特にカブのような原付に乗る人間にとって、風は一体感を覚えるものというより、忌避すべきものだった。


 ただでさえ非力な原付は、風が吹くと最高速度を削られる。スクータータイプの原付より、車重の有利は多少あれど側面投影面積の大きいカブは、横風にも弱く、不意の突風で車線の左右に押し付けられ、肝を冷やす思いをさせられる。

 カブで限界に近い走りをするのは、いつだって風の吹く時ではなく、無風を選ぶ。最高速を出そうという時に、止まぬ風に忌々しい思いをさせられた経験の無い原付乗りは居ない。

 雨の日も、レインウェア無しで乗り切れそうな小雨は、風が吹くと全身をズブ濡れにさせる風雨となる。

 ただ、それだけに憎むべき敵である風のことについては、それなりに知るようになった。 

 吹く風が冷たく湿っている時は雨が近く、乾いている風は体から水分を奪い体力を低下させる。礼子のような改造バイクに乗っていると、季節によって変わる風に合わせて燃料や足回りを調整しなくてはいけない。

  

 昇降口から外に出た小熊と礼子は、外気に触れ、視線を交わして言った

「無風ね」「うん」

 互いの口から止めどもなく出そうになった風への恨み言は、その一言で止まる。所詮それだけ。バイクに乗れる楽しみ、あるいは必要性に比べれば些細な事に過ぎない。

 ジャケットのジッパーを締めた小熊と礼子は、カブのエンジンをキック始動させる。

 二人で構内をカブで走る。途端に強い風が吹いた。先ほどの無風は一瞬の凪ぎだったらしい。 

 徒歩やバスで帰る生徒たちは、南アルプスの風に寒そうな様子でブレザーの襟をかき合わせ、コートを着ていた生徒が自分の準備のよさを自賛する中、小熊と礼子はヘルメット越しに顔を見合わせて笑う。

 カブに乗り始めて数ヶ月。小熊は人が言うように風になった記憶など無いが、バイクに乗っていると常に風に晒される。上着の縫い目さえ引き裂く最高速の風に比べれば、木枯らしや台風などノロノロ走りの風に過ぎない。

 わたしたちは風を知っている。

 ヘンな優越感を味わいながら、小熊と礼子は、軽く手を上げる挨拶を交わし、各々逆方向の帰路へとカブを走らせた。 

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