第三話 ライディングジャケット

 秋の終わりを思い知らされた翌日。小熊は昨日と同じ時間に目覚め、同じような朝食を済ませる代わり映えしない朝の時間に、一つの変化を付け加えた。

 ブレザー制服の上に着る赤いライディングジャケット。

 小熊が整備や部品購入等の用で出入りしている中古バイク屋で貰った未開封品で、まだ暑かった頃に物珍しさで何度か着てみたスイングトップ・タイプの上着を、必要に迫られた用途で着るのは初めて。


 小熊は以前に着た時も思った。このジャケットをデザインした人間は、オートバイでのライディングという用途に必要な予算を与えられていなかったんじゃないかと。 

 通常のライディングジャケットには背中にベンチレーションと呼ばれる切れ込みが入っているが、小熊の着ている物に付けられているのは見た目だけのイミテーションで、強風時に左右の襟を喉元で止めるボタンは、最初に使った時にあっさり縫製が千切れた。

 だからこそどこかの二輪レーシングチームで、スタッフへの配布用に作られたライディングジャケットを、未使用のままタダで貰えたわけだが、もうちょっとマシな物が欲しくなる。

 

 ジャケットのデザイナーは限られた想定単価の中で頑張ってくれたらしく、一応はジッパーが布で覆われ、袖や裾が伸縮素材で封鎖される防風仕様になっていたが、ジッパーそのものは冬のかじかんだ手で操作するのが厳しそうな、ちっぽけなタブしか付いていない。

 襟のボタンといいスリットといい、貰った人間が自分で何とかしろということかと思いながらジッパーを締め、ボタンが取れた残骸の糸だけ残る襟を立てた。

 このタブに何か操作しやすくする物を付け足せば、襟にスナップボタンを付ければ、ディパックを背負いながら玄関を出て、カブに跨りながらあれこれと考えているうちに、とりあえず新しいジャケットが欲しいという散財の誘惑は落ち着いてくれた。

 

 ブレザーの上に一枚着たことで、昨日よりだいぶ楽になったと思いながら、小熊は学校の駐輪場に着く。

 礼子が先に来ていて、ハンターカブの前輪をチェーンロックで駐輪場の柱に繋いでいる。

 彼女もまた、昨日とは装いを変えていた。グリーンの米軍フライトジャケット。礼子もこれ以上寒いと言って小熊から罰金を取られるのがイヤになったらしい。

「おはよ、二万円」


 近づいて来る音で既に小熊だとわかっていたらしき礼子が、小熊に向かって手を差し出す。カブを停めた小熊が後部のスチールボックスから自分のワイヤーロックを取り出して渡すと、礼子は小熊のカブも柱に半固定する。

 二万円は礼子が着ているフライトジャケットの値段。いったいカブに乗ってどんな事態に遭遇することを想定しているのか、難燃性ナイロンで作られたジャケットを礼子が冬に備えて買ったと聞いた時、小熊は「二万円が歩いてる」とからかった。

「何よそっちはタダじゃない!」


 立ち上がった礼子が小熊の綿ナイロン混紡のライディングジャケットに触れる。それから自分のジャケットを撫でて難燃繊維の感触を掌で確かめ、買って良かったといった感じの満足げな吐息を漏らしている。

 まだ予鈴には少し時間のある駐輪場で、ジャケットを着た小熊の上半身をいじくっていた礼子は、腕のあたりに触れた時に何かに気付き、悔しそうな顔で手を引っ込める。

 小熊は礼子が何を見つけたのか、だいたい察しがついた。友達としての関係が長いわけじゃないが、同じカブに乗る者として感性や感覚を共有している部分も幾つかある。


 小熊は自分のジャケットの袖に触れてから、腕を隠そうとする礼子を強引に押さえつけ、二万円のフライトジャケットの袖を見た。袖の外側、手首から肩口まで、袖布を縫製するステッチライン。バイク乗りが上着を選ぶ時、真っ先に見る部分の一つ。

 ただ着て街を歩いたり山に登ったりするのではなく、バイクに乗って耐えず風に晒されるジャケット。うっかり安物を着ると、ここの縫製が風圧で真っ先に裂け、破れる。

 小熊のライディングジャケットは、無料配布用だけあって布地もジッパーも安物だったが、袖と身頃の縫製だけは三重のラインでしっかりと縫われていた。一方礼子のフライトジャケットは、航空パイロット用という用途のためか、ステッチは二重。


 小熊の着ている貰い物のライディングジャケット、そのデザインをした人間はどうやらバイクをわかっている人間らしい。あちこちケチりながらも、限られた仕事の中で自分のバイク乗りとしての矜持を示した。

 だったらその言葉通り、襟ももうちょっと丈夫に作って欲しかったと思いながら、小熊は教室に向かって歩き出した。 

 礼子は小熊の後ろに付き従いながら、すっかり負け犬の顔になっている。

 ほんの縫い目一つ、一本の糸だけが、時に生死を分ける違いになる。それがバイクに乗るということ。

 そんなことを気にするのが、バイクに乗る人間の頭の悪いところかもしれない。  

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