奴隷邂逅【15-6】


【エピローグ】


 窓の外を木枯らしが吹き抜け、厚手のコートを纏う通行人が我が身を抱いて歩く。三十路を迎えて初めての十月。休日の午後を何処かへ出掛けもせず、自宅で尻の形に馴染んだソファへ腰を沈めていた。手にした推理小説は既に佳境の真っ只中で、残り十数ページで奥付に達してしまう。このペースだと、あと十分ほどで読み終えるだろう。

 あの日、マーティン・アボットを殺害してから、ひと月の時が流れた。事件は炎上する邸宅に気付いた奴隷の通報で発覚し、即座に警察と消防が現地に出動した。しかし途方もなく回りの速い火の手に彼らは為す術なく、アボットの古城は石の基礎を残して全焼した。炎が仕事を終えた後で調査が入ると、母屋の中から男性と見られる遺体が六つ、殆ど炭化した状態で見付かった。その内の一つは歯の治療痕からマーティン・アボット本人と結論付けられ、数日前に密葬が行われたという。

 上院議員の死はその日の内に各社新聞の第一面を飾り、首都をそれなりに震撼させた。恐怖に拍車を掛けたのは、焼け残った金庫から発見された一枚のポラロイドで、それには額を銃で撃ち抜かれ、腹部を八つ裂きに背骨が覗いたアボットの変わり果てた姿が写っていたという。いやはや、何とも肝の冷える話だ。しかも、彼の頭蓋骨は顎を残して砕かれ、弾丸は見付からないとか。いやあ、誰が犯人かは知った事ではないが、プロの仕業に違いない。

 これ程に狂気を孕んだこの一件だが、警察が大挙して犯人捜しに駆け回るといった事態にはならず、極めて小規模な調査本部が設けられるのみに留められた。というのも、件の金庫からは元から入っていた現金や書類、きちがいポラロイドと一緒に、「復讐は完了した」と印刷された紙が入っていたからであった。金庫の内に大金が残されていた事からも、金目当ての犯行とは思われなかったのだろう。先に起こった奴隷の惨殺事件も相まって、本件は同一人物による犯行と断定された。狂乱に満ちた状況から、現場のPC全てからハードディスクが抜き取られていた事実も軽視された様子だ。第一、あの男に恨みがある容疑者を募ったらきりがない!

 そして、人々は非情であった。何せ被害者は『あの』アボット様だ。市井から同情を誘う事はなく、政界でも喜びの声が上がったというくらいだから、その嫌われ様は推して知るべしである。死後も彼の後釜を巡る論争が起こり、本人の死を悼む者はいなかったとかであるから、ここまでくると笑えてくる。我々の住むヘリフォードでも、当日こそ街の女の噂はアボットの死で持ち切りであったが、翌日には連隊のピーターが性病を貰ったというものにすげ変わっていた。そう、この国の何処にも、アボットを愛していた人間はいなかったのだ。

 著者の強引と妄想に満ちた密室の解明で締められた小説を閉じると同時、目の前へ紅茶のカップと形の良いマドレーヌが配される。

「そろそろ、小腹がお空きになるかと思いまして」

 声の方には考えるまでもなく、俺が自分の意思で守り抜いたメイドさんが控えている。小説を脇へよけて礼を述べると、実に快い笑みを返してくれた。

 アボット暗殺の直後、何処の誰とも知れない金持ちが小遣いをくれたお蔭で、俺はブリジットの購入金を一挙に支払えた。当の彼女はその事実を知る由もないが、主人の機嫌が芳しいので、何かあったという事は知り得ている様だ。彼女は隣に腰掛けると、硬い肩に小さな頭を預けてくる。ふわり、と柔らかな少女の香りが立ち上る。

「夕飯は何に致しますか?」

「そうねえ……米が余っているなら、カレーが食いたい」

「はい、かしこまりました」

 恋人は屈託なく微笑むと、俺の手に自分の指を絡めてきた。失いたくなかった温もりが、まだここにある。

 確かに、一般からかけ離れた部分は多い。現状の獲得に犯した過去の罪業は、これからの人生全てを費やしても贖えないだろう。それでも、ブリジットは俺を赦してくれた。そろそろ人生を謳歌すべき時だ。紅茶に映る緩み切った間抜け面を眼下に、それをすんなりと受け入れられた。俺はもう、孤独じゃない。


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奴隷邂逅 紙谷米英 @Cpt_Tissue

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