奴隷邂逅【15-5】


【30】


 卑小な政治家の目覚めは、冷たく尖った感触で始まった。無理矢理に覚醒させられるや、アボットは正面に立つ男を視界に捉える。清掃作業員らしき上下とキャップ、気絶する寸前に見た青い生地。そして、大きな傷跡の走る顔。アボットは侵入者の氏名と生年月日に止まらず、所属組織や家族形態、あまつさえその者の所有する奴隷の出生についても知り得ていた。男の名は、ヒルバート・クラプトン。現役で陸軍特殊部隊に籍を置く、生粋の兵士であった。

「おはよう、議員先生。氷水のモーニングコールは如何でした?」

 ヒルバートは手にした樹脂バケツを脇へと放り、冷笑を浮かべる。――どうなっている。アボットは歯をうち震わせた。そこは、彼が停電までスコッチを煽っていた書斎であった。書斎机は部屋の隅へと寄せられ、アボットは部屋の中央に置かれた椅子に、麻縄で拘束されていた。

「私をどうするつもりかね」

 気丈に振る舞ってみせるも、アボットの黒目は震度七で飛び回っていた。

「どうするかは、御自身が一番お分かりではなくって?なあ、アボットさん」

 藪から棒に、アボットの頬へ軍手の打擲が飛ぶ。鈍い殴打が脂肪を揺らし、切れた唇から悲痛な呻きが零れた。

「初々しい反応だ。だがまあ、豚の面を殴ったって面白くないな」

「一体どうやって入ってきた……。警備は……!」

 顎に鮮血を伝わせるアボットへ鼻息を漏らし、ヒルバートはにべもなく書斎の一角を顎で指す。その先へと視線をなぞり、アボットは薄闇に目を凝らす。暗がりに沈んだそれの全貌を理解するや、議員は自分の股間へ胃液を嘔吐した。部屋の隅に、警備員だった骸が乱雑に積まれていた。その何れもが腹を無残に引き裂かれ、ねじくれた腸を床に零している。

「おいおい、ひでえな。こちとら、こいつらの体内で砕けた弾の摘出に必死だったんだぜ。他人の努力は表面上だけでも労って貰いたいね」

 ヒルバートは解体に用いたナイフと手斧を指先で弄び、口を尖らせる。作業着の袖に黒ずんだ染みがこびり付き、作業の非人道性を物語っていた。彼のはめるピンクのゴム手袋にも、乾いた脂肪が斑点となって残っている。

 せり上がる消化液を吐き散らすアボットの頭髪を鷲掴み、ヒルバートはナイフを頬に押し付けた。

「何が望みだ……。私を殺したところで、貴様には何の利得もない……」

「無駄口を利くなよ。お前なんかと一緒の部屋にいるだけで、肺が腐りそうなんだ。さっさと済ませようじゃないか」

 頬に生じた小さな切り傷に、アボットは目尻を痙攣させた。

「ようし、それじゃあ手始めに金庫の暗証番号をゲロって貰いましょうかねえ」

 ヒルバートはナイフを頬から離し、切っ先で壁際に鎮座する黒塗りの金庫を指した。扉にテンキーが埋め込まれ、如何にも大金が詰まっていそうな風体である。爆弾で鍵を壊すには、眠っている街ひとつを叩き起こす必要があった。

「こんな脅しで、私が屈するとでも思っているのか」

 腐臭を放ちながらも憮然と振る舞うアボットの右目に、鋭い拳が突き刺さった。兵器と称するに相応しい正拳で、豪奢な椅子ごとアボットの身が宙を舞う。大打撃で内出血した左手を庇いつつ、ヒルバートは見当識障害に呻く仰向けの捕虜を見下ろした。

「今の台詞、映画みたいだったよ」

 ポリバケツの水にタオルを浸し、清掃員は酸欠の魚の様相を示すアボットの顔面を覆う。本能的に危険を察したアボットが何か喚くが、弛んだ皮膚に麻縄が噛み付くだけであった。バケツを抱えたヒルバートが、肥えた腹部を踏み付ける。

「第一ラウンドだ」

 酷薄な呟きの直後に、バケツが傾けられる。落水の勢いは大したものではない。が、水が布越しにアボットの口に触れるが早いか、おぞましい咆哮が書斎を満たす。アボットと一体化した椅子が床を叩き、タオルを地に落とそうと躍起になる。議員が一瞬で正気を投げ出したこの行為、その名を水板責め(ウォーター・ボーディング)という。殴る蹴るといった直接的な暴行ではないが、精神への負担は桁違いだ。対象は視界を遮られた環境下、絶えず浴びせられる水に溺死する未来を脳に叩き込まれ、呼吸もままならずに失神する。意識を失えば無理くり覚醒させられ、間髪入れず人間性を水底に沈められる。『9.11』の後、アルカイダ幹部の所在を求めてアメリカが多用した訊問だが、温室育ちの世論からバッシングを受けた手法である。その外法が、丸腰の文民に施されていた。

 水流を顔面に受けるアボットの手が、爪まで真っ赤に染まる。脚まで椅子に緊縛されている所為で、身をよじる事さえ叶わない。水の四割を浴びると椅子を起こされ、ぴったり貼り付いたタオルを引き剥がされる。

「どんな気分だ?」

 片目を腫らしたアボットが、顔の穴全てから水を垂れ流して毒づく。

「……法廷で罰してやる、ただで済むと思うなよ」

「そうかい!」

 ふくよかな胸部を足裏で蹴り飛ばされ、アボットはまたも天井を仰ぎ見た。潰れた鼻がずぶ濡れのタオルと再会し、合図もなしにバケツの残りが注がれる。ごぼごぼとタオルが泡立ち、口と鼻がくっきりと浮き出る。バケツが空になるまで、実に六リッター以上の水を被って、アボットは髪を引き千切られながら身を起こされる。

「お望みとあらば、次は一杯丸ごとぶっ掛けてやる」

 ヒルバートは控えのポリバケツを、更に二つ用意していた。しかも一方にはマットプレイ用のローションが混ぜられ、呼吸器を殺す粘性で濁っている。顔のタオルを剥がすと気付けに頬を一発張り、ヒルバートは片手でアボットの頬を挟み込んだ。

「どうだ、少しはお口が軽くなったかな?」

「分かった、言う!もう水は嫌だ!」

 訊問官が次のバケツを抱えたのを見ると、アボットは涙を流して懇願した。

「金庫の番号だな!言う、言うからもう止めてくれ!」

 ヒルバートがバケツを床に下ろすと、アボットは気管に侵入した水分をむせ吐き、しわがれた嗚咽を発した。金庫の鍵を伝えると、アボットはぐったりとうな垂れた。

「その六桁で金庫は開く。もう勘弁してくれ……」

 殺人清掃員は顎に手をやって逡巡し、椅子の周囲を巡り始めた。屍肉類が獲物の絶命を待つ様に、ゆうっくりと議員の様子を窺う。焦れったく一周して正面に戻り、指で頭を掻くと、肩をすくめて嘆きの吐息を漏らす。やにわにナイフを握ると、事前動作もなしにアボットの首を掴み上げた。

「何をする!番号は言った、乱暴は止せ!」

「眼がね、泳いでるんだよ」

 まだ抵抗の残る訴えに聞く耳持たず、ヒルバートはアボットの左の耳を切り落とした。血管がずさんに断ち切られ、目を背けたくなる深紅が深緑色のカーペットに滴る。薄闇を狂気の叫びが跳ね回り、息をつく間に地獄絵図が繰り広げられた。持ち主を失った耳を床に放り、ヒルバートはアボットの胸ぐらを掴んで唾が飛ぶ距離まで詰め寄る。

「出任せこいてるんじゃねえぞくそ野郎!あの御大層な金庫は特注品で、見当違いな数字を入れると通報が行く特別仕様だ!てめえのちゃちな脳味噌で思い付く悪知恵なんざ把握し切ってる!もう片っぽの耳が惜しけりゃ、大人しく番号を答えろ!それとも部下みたいに臓器をもぎ取るか!」

 どくどくと流血する耳を庇う事も出来ず、アボットは涎と鼻水を垂らしてすすり泣く。

「やれ反骨精神剥き出しだ、番号は言わねえ、水は止めてくれだの……お耳とさよならすりゃあ、今度は赤んぼみたいに喚きやがる。お次は何が宜しくて?」

「言う、言うよ!頼むからこれ以上乱暴しないでくれ……!」

 すっかり文明人らしさを欠いたアボットの嘆願に露ほども同情を見せず、ヒルバートは人質の眼球へナイフの切っ先を差し向けた。

「端っからお利口にしていれば、大切なお耳ともずっといられたんだ」

 彼の本気を感受したアボットは、心の奥底に秘めていた宝物庫を明け渡した。

「……成る程。今度のは本当らしい」

 ヒルバートが鼻を鳴らし、金庫の前に膝を折る。そして手に入れた番号を入力すると、電子音の後に鉄扉の奥でかんぬきが外れた。分厚い扉の向こうには十万ポンドを凌駕する現金の束と、土地の権利書や政界の暗部が記された書物群が収められていた。彼は機密文書には目もくれず、現金だけ取って金庫を離れた。アボットの目の前でボストンバッグに札束を仕舞うと、書斎机の〈ダンヒル〉の葉巻をアボットに咥えさせる。先端を切り落として火を点けてやると、苦痛にもだえるアボットの表情が幾ばくか和らぐ。飴を与えた殺人者は、銃を手に語を発した。

「さて、次の質問といこうか。『あの子』とあんたの関係を知る人間は、この世界にどれだけいる?」

「私と君だけだ、他には誰もいない……」」

 大股に距離を詰め、ヒルバートはアボットの喉に冷たいサプレッサーを押し付ける。

「嘘が御身の為にならないのは教えた筈だ。本当の事を言え」

「誓って本当だ!嘘じゃない!」

「お前ひとりで調べ物が出来る訳ないだろう。探偵か?それともお抱えの駒かな?」

 幼子が否定の意志を表す様に、アボットは首をぶんぶん振った。

「確かに部下に命じて君達を調べさせた!だが、それだけだ!私とあの娘の相関は誰も知らない!信じてくれ!」

 それを聞くなり、ヒルバートは破顔した。

「そうか、安心したよ!」

 闇に歯を輝かせて、銃をアボットの額へ突き付ける。

「何を……?」

 自分の伝え得る情報を残らず手放したアボットには、彼の行動に至った論理が読めなかった。

「あの世があるなら、数日前に殺した奴隷に詫びるんだな」

「待て、金は渡したじゃないか……。どうして……!」

 未だ状況が掴めない愚者に、特殊部隊の男は声高に噴き出した。

「どうして?あんた、それでよく議員様になれたな!決まってるじゃないか。俺の女に手を出したからだよ!」

 勘の悪い男の額をサプレッサーで小突き、裏社会の英国紳士は語を継いだ。

「俺は隊の中じゃあ、かなり甘い方だ。訓練で失敗しても無闇に責めないし、後続の連中を可愛く思ってる。その分、敵に対しての引き鉄は特別に軽い。お前みたいな屑野郎が相手なら、ことさらにな」

「待ってくれ、金なら幾らでも出す!今日の事も不問にしよう!警察には強盗が侵入したと言っておく!だから……!」

 正しく映画じみた命乞いに、アボットより余程悪役然とした男の口角が歪む。

「だから何だ?警備を殺した、不法侵入を見られた、顔を見られた、銃を見られた、血を見せた……。ここまで来て、思い止まる理由があるか?そもそも、あんたが悪いんだぜ?ちょっと金を包んで示談に持ち込めば、万事すんなり済んだのにさ」

「嫌だ……欲しい物があるなら何でもやる……!命だけは……死ぬのは嫌だ……!」

 体裁も外面もなかった。アボットは見苦しく暴れ、地団太を踏む事さえ出来ずに椅子ごと倒れた。芋虫の様に地も這えず、自尊もかなぐり捨てて自らの存命を望んだ。

「考え直してくれ!そうだ、奴隷だ!好きなのを連れていっていい、何なら新しい性奴隷の購入金を出してもいい!それに、私を殺してどうする?死体が見付かれば、君とて無事では済まないぞ!早まるんじゃない!」

「残念ながら、我が家のお家芸は『殺し』なんでね。ご高説はあの子を狙った過去の自分にのたまうんだな。あんたを守る下らない法の楯は、この場に存在しない。俺が怖れるのは、あの子を失う事だけだ。もっとも、そうはさせないがね。……そろそろお喋りも過ぎる。五十年間楽しんだんだ、幕引きくらいは往生際良くしたらどうだい」

 呆れた語調を伴い、ヒルバートはアボットの傍らに屈み込む。その間も尚、銃口は額へ向けられたままであった。

「お願いだ、何でもする……。頼むから命だけは……」

 半ばうわ言で呟く上院議員に、最後のねんごろな言葉が掛けられる。

「惜しいなあ、こちとら神父じゃないんだ。あんたにやれる手向けは、これだけさ。しかしまあ、全く――」

 幾度となく人命を奪った指が、引き鉄に掛けられる。災厄の根源に照準を重ねる彼の表情に、自嘲めいた色が浮かんでいた。

「マーティンって名前には、ろくなのがいないな――」

 くぐもった破裂が一つ転がり、そして何も聞こえなくなった。


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