奴隷邂逅【15-4】

【29】


 オーク製の掛け時計が、午前の三時を告げる。正方形の文字盤で秒針が飽く事なく働き、こつこつと瞬間を刻む。マーティン・アボット上院議員は性奴隷を収容施設へ返し、書斎で独りスコッチを飲み直していた。平生であれば、奴隷に二回ほど濁った欲望を吐き散らせば安眠に落ちる彼だが、この晩は違った。産み落ちて五十年を経た身でさえ形容し難い、定形を作らぬ不安が彼の襟首を掴んでいた。ダブル(六十ミリリットル)を軽く超えたスコッチを注ぎ足し、冷たい氷の緩衝が入る前に喉へ流し込む。老いた粘膜に過ぎた熱と刺激が、咳の形で返ってくる。――馬鹿な、何を怖れている。アボットは口許をバスローブの袖で拭い、生え際の後退しかけた頭を抱えた。この掴みどころのない焦燥は何か。方々のコネクションを駆使し、障害を完膚なく捻じ伏せてきた上院議員の自分に、恐るるものなどありはしない。書斎机に散った唾液もそのままに、アボットは癇癪に打ち震えた。

 間接照明の薄明でも見て取れる程に、アボットは赤面していた。が、アルコールで満ちた胃は尚も凍えていた。強迫神経症患者もかくやと手がふやけ、瞬きが止まらない。胸の至る箇所で痒みが暴れ、起毛のルームシューズが熱帯雨林と化した。気配を感じる。長年を人の世で生きたアボットには、ある種の確信があった。物事の転機、その兆しを察してきたからこそ、手練手管で現ポストに上り詰めた。そんな大御所が目下、霞の如き存在に怯えていた。

 何かがいる。アボットに分かるのはそれだけであった。スコッチをラッパ飲みで喉に叩き込み、机の抽斗から銀色に輝くリボルバーを探り当てる。〈スミス&ウェッソン〉のM66。信頼性は抜群の一品だが、貴族様はこれをまともに撃ったためしがない。同じ場所に仕舞い込んでいた弾薬を――安全上の理由から御法度である――何度も取り落としながら装弾した。金属同士をがちがちぶつけつつ、ようやくでアボットは六発の弾薬を装填し、おぼつかない手付きでシリンダー(回転弾倉)をフレームに押し戻した。撃鉄を指で起こす音を聴くと、上院議員は幾らか気の休まる心地を味わった。

 気配は頭上。否、今となっては家中を練り歩いていた。自身も音を立てない様にと摺り足を繰り出すも、素人の酔っ払いが出来る業ではない。余計に乾いた摩擦が喘ぎ、その音に竦み上がる。そうこうしていると、不穏な気配が邸宅全体を包囲してゆく。――あの傭兵共は?アボットはカーテンを僅かにずらし、真下の玄関を窺った。荒くれ者の姿はなかった。二人が同時に小便へ行く筈はない。机に向き直って警備詰め所へ内線を飛ばすも、空虚なコールばかりで誰も出ない。怒気も露に受話器を机に叩き付け、今度は〈ブラックベリー〉の携帯電話へと手を伸ばす。政界のブラックボックスたる自宅に警察を迎えるのは癪だが、この期に及んで贅沢も言っていられない。わななく指で九を三回押すだけの操作を何度も失敗し、やっとで端末を耳に押し当てる。――繋がらない。充電は足りている、だが繋がらないのだ。まるで、飛ばした電波が丸ごと死霊に食らわれる様に。無機質に明るい液晶表示が、その答を教えてくれる。そう、圏外だから。スピーカーからは、発信場所の変更を推奨する音声ガイダンスが無機質に流れるのみであった。

 アボットの濡れた手から、携帯電話が取り落とされる。自分の両脇を固めていた厳つい番犬が、ここへは来てくれない。脂肪に覆われた顔面を崩壊させて動転しながらも、奴隷の収容施設へ内線を飛ばそうと、床に落ちたままの受話器を取り上げる。今度こそ、今度こそ通じる筈だ……。血の気の失われた指先が、樹脂のキーパッドに触れた。

 時を同じく、書斎の証明がふっと落ちた。意図せぬ事態に、アボットは受話器を放り出して尻餅をついた。僅かな光源の中で、リボルバーの銀色だけが生気なく存在を主張していた。数秒前まで机に鎮座していた固定電話は、持ち主の動転で何処かへ飛んでいった。矢継ぎ早に襲い来る異変と精神の圧迫に理解が及ばず、アボットは寂しい髪を掻き乱し、床を這って固定電話を手探りした。バスローブの紐が乱れるのも構わず必死で受話器を探り当て、カールコードを辿って本体のキーを叩く。だが、操作を終える前に彼は異常を察知した。いつも秘書や同業者が五月蝿い受話器が、今や何の音も発していない。――通電していない。心臓が暴れ、アボットは口から腸が飛び出るストレスを感じた。

 打ちのめされた上院議員の脳味噌でも、ブレーカーの落下へ理解が及ぶ余地はあった。当のブレーカーボックスは、一階キッチンの壁に設置されている。だが、そこへ辿り着くには孤高の優越が瓦解した書斎を出て、数ある部屋が枝分かれする廊下を経て軋む階段を下り、バスルームの脇を抜ける必要があった。それも、自己に敵意を向ける者がいる中で。

 常識的に考えれば、アボットは書斎で銃を抱いてうずくまっているのが最も安全である。骨の一本を犠牲にする肝があれば、窓から飛び降りるのも不可能ではない。第一、ブレーカーを復活させれば光は戻ってくるが、根本の脅威は去らないのだ。が、こんな緊急を要する事態に対処出来る人材は、腐敗の跋扈する政界にそう籍を置いている訳もない。ぬめる手で銃を身に引き付け、アボットは御身を守るドアを開いた。

 及び腰に木製のドアを抜けると、月明かりなき廊下が粘ついた闇を広げていた。壁の化粧板を手探りに階段へと歩みを進め、前後に絶えず銃口を向ける。衆目があれば、間違いなく気が触れていると判を押される光景である。一歩を踏み出す毎に、カーペットの毛足が囁く。顎を伝う液体が異臭を放ち、遠近感の掴めない視界は正誤を狂わせる。害敵の気配は一層強まり、周囲三六〇度から監視のプレッシャーが心を蝕む。壁を濡らしつつ階段の一段目を踏み、闇の奥深くまで沈んでゆく。冷たい殺気は尚も付きまとうが、直接に危害を及ぼす知らせはない。リクガメの歩度で階段の終点を踏み、キッチンに繋がる廊下へ向く。採光窓から差し込む青白い光が、カーペットの幾何学模様を不気味に演出していた。

 ここでアボットは失態を犯す。汗でぬめる右手から、銃を取り落としたのだ。一キロを超える質量が、ごとりと大層な物音を立てる。自ら位置を晒した議員はその場でうずくまり、頭を抱えて神の名を連呼した。矮小な姿を晒して死を否定する言葉を連ねるも、一分経って何者も接近もないので、呼気荒く銃を手探りした。薄明を反射する銃身を見付けると、再びキッチンへ向けて踵を擦った。

 厭世家アボットは広大な自宅を呪った。全身の水分を五割も失ったのではないかという発汗の果てに、彼はキッチンへと到達した。意味もなくだだっ広い調理部屋を、銃を前に歩を進める。てんでなっていないフォームで、突き当たりの壁に設置されたブレーカーボックスへの、最後の道程を踏みなぞる。目標を前に余裕が生じたアボットは、数メーターを辿る最中に思案を巡らせた。一体、何処の誰が何の目的に自分を脅かしているのか。確かに、職務において他者を破滅に追い込んだ前例は、両の指を以てしても計れない。であるが、それらは彼に言わせれば些事の域を逸さない。過去に踏み越えた者に、警備付きの邸宅へ突撃を敢行する度胸があるとは考え難かったのだ。何より彼の精神を平安に導いたのは、独力で目標地点に至った快挙であった。子供の遣いで勝ち誇った笑みを浮かべた。

 奴隷の働きに毒づきつつ、アボットは埃を被ったメインの配電スイッチを押し上げる。途端、家の方々で電子機器が動作を再開し、人家が息を吹き返す。初めから何事もなかったのだ。書斎で抱いた懸念は単なる悪寒で、体調不良からもたらされるものであった。齢は実に五一、人生の折り返しを過ぎたアボットは、キッチンの明かりを点けた。ほうら、やっぱり何もなかったじゃないか――。

「やあ」

 不意に発せられた男声に、アボットは振り返る。再来した恐怖にぎらつく銃口を向けるも、その手からリボルバーが弾き飛ばされる。議員の身が、壁に押し付けられる。アボットは物音なく現れた脅威に抵抗を示すも、哀れ後頭部を殴打されて崩れ落ちた。薄れゆく意識の中、重力に引かれる視界に青い衣服を収めたのを最後に、マーティン・アボットは絶入した。

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