奴隷邂逅【13-4】

「彼女の出生を知りたいとは思わないか?」

 冷酷な半眼が、不気味な視線を絡みつけてくる。何をとち狂っていやがる。こちらの興味を惹く為のブラフか?尻を浮かせたまま、脂の乗った面を盗み見る。駆け引きを試みている様子は窺えない。気に食わない。この腐れ文民くんだりが、はったりでこうも強く出られるだろうか。暗く淀んだグリーンの光彩からは、その意図を汲み取れない。ひょっとすると、既にやつの手中に落ちているのでは?敵意も露わに、俺は再びソファへ浅く腰掛けていた。

「それでいい。全く、君は予想通りの行動を見せてくれる」

「御託は結構、何を知っている」

 アボットの瞳が、遺骸を見付けたハイエナよろしく爛々とぎらつく。駄目だ、殺すな。殺してしまったら、このくそとブリジットの関係を知れなくなる。咥えていたダンヒルを灰皿へ放り、やつは俺に葉巻を勧めてきた。手振りでそれを振り払ったにもかかわらず、やつは満足げであった。

「クラプトン君、この記事をご存じかな?」

 傍らに置く鞄からiPadを取り出して操作すると、こちらへ差し向ける。不承不承受け取れば、〈アドビ〉のスプラッシュ・ウィンドウがPDFの読み込みを案内していた。数秒後に画面が切り替わり、周辺視野で警戒しつつ端末を操作する。液晶画面に、指で塩の軌道が引かれる。内容は五日前の〈デイリー・テレグラフ〉で、首都近郊のスラム街で腹部を切り開かれた女性遺体の発見が報じられていた。添付された現場近影には、ヘドロと血とで形容し難い色に染められた側溝が、多くの警官に囲まれる画が展開されている。

「……で、これが何だ」

 アボットはすこぶる上機嫌に眉を上げた。

「私は妻を持たぬ主義でね、恥ずかしながら奴隷を持つまでは、こうした貧民のねぐらで夜の女を買ったものだ。はした金を放れば、後腐れなく自らの処理を済ませられる。こんなに気楽な生活は類を見ない」

 スラム街のゴミ溜めも、売女のミズダコみたいなまんこも、てめえの肝に比べれば可愛いだろうよ。基地にいる時みたいに「おえーっ!」と身振りが示せたら、どれだけ気が安らいだだろうか。

「正に十九年前だよ、私がこの恥知らずと関係を持ったのは。彼女はロンドンの娼婦の枠では上物でね、あれの具合も悪くなかった。当時まだ名の売れない地方議員だった私は、あの女のフラットに通っていた。気立ての悪い性悪だったが、何しろ手頃な上玉には違いなかった」

 その独白はいつ終わらせて戴けるのでしょうか?退屈を明言する目的で鼻をほじったが、やつは目蓋を閉じて自己陶酔に浸っていた。

「……だが、事情が変わった」

 アボットは片目だけ開き、両手を胸の前で組む。うわあ、完全に自分にのめり込んでるよ。頭痛の始まるこめかみを拳でぐりぐり解し、欠伸を噛み殺す。

「彼女――セルマ・コーウェンと関係を持って、一年が過ぎた。丁度その頃だ。それまで以上のポストを得て、名声を高める機会が私に巡ってきた。以降の身の振り方を、考慮する時宜だった訳だよ。高名な組織の重鎮に求められるのは、その人物の確固たる地盤だ。無恥低俗な社会的責任も果たさぬ輩とつるんでいるなどと、根も葉もない噂をマスコミに声高に囁かれる訳にはいかんのだよ。お分かりかな?」

 数多の人間を殺してきたが、これ程まで自己の欲求だけで人を惨殺したく思ったのは、クラプトン性を名乗ってこの方初めてだ。我慢に奥歯を噛み締めるのも限界だった。自律を振り切った拳がテーブルへ急降下し、コーヒーが床に染みを作る。。

「なあ、そろそろ満足したろう?俺はあんたのご高名で、爛れた色情沙汰を聞く為に来たんじゃない」

 わななく拳に青筋が浮いていたが、アボットは意に介さなかった。むしろ愉しげに口角を吊り上げ、その尊大な眼をおっぴろげた。

「他人の話は最後まで聞くものだ。幸い、私にはまだ時間が残っている」

 こっちは一時でも早くお前を亡き者にしたいよ。まずはその如何にも高価であろう紅のネクタイを掴み寄せて、でかい鼻を噛み砕いてやる。

「セルマ・コーウェンに関係の途絶を切り出した時、彼女は酷く反発した。向こうからすれば当然だろう。実入りの良い顧客を失えば、まともな学歴ひとつ持ち得ぬ売女は死に失せる。やがてコーウェンは私の子を身籠もっていると脅しを掛けてきたが……。言うまでもなく、私はまともに取り合わなかった。それでも、念を入れて相応の手切れ金だけは送っておいた」

 俺は片目をしかめて眉毛を弄っていた。ストレス下に置かれた鳥や獣が、自身の体毛をむしる行為に似ていると思った。

「それから十八年だ。保守党議員へと生業を変じていた私の許に、生前のコーウェンが連絡を取ってきたのが一週間前だ」

 にわかに、アボットの眉に憤懣やるかたない感情が宿った様に見えた。

「秘書が迷惑電話として処理する間際だったが、コーウェンの連絡というのは、彼女が産み落とした娘についてだった。彼女と肉体関係を持っている間、私は避妊具の使用を欠かしたためしなどなかったのだが……どうやらその避妊具の残渣を回収して、子を成したらしい」

 アボットといい、故コーウェンといい、ろくなやつが出てこない。神がこういった輩を、餓鬼の内に疾病で殺さない理由が見当たらない。

「子を産んだ理由は働き手にする為だとの言だが、出てきてみれば女だ。落胆したコーウェンは子供を路地裏で皿洗いに出し、そこで得た金と私の手切れ金で十五年間を食い繋いだ。

 しかし、だ。今日の人間という生物は、適切な衛生の許でなければ生命活動に支障が出る。老いも重なっていた所為で、コーウェンは病を患った。大方、性病の類だろう。度重なる通院で日銭に困窮し、とうとうその子供も三年前に奴隷企業に売り渡したと言う」

 ――三年前。まさかと口許を覆いたくなったが、アボットの発する狂気に身体が自由を失っていた。

「三年後、再び金に困窮したコーウェンは子供のDNAデータを元に、私に強請を掛けてきた。君も軍人なら知っているだろうが、こうした不届き者は一度要求が受け入れられるとエスカレートする。外交と同じで、譲った側の不利は決まっている」

 澱んだ藻の浮く瞳に、冒涜的な輝きが戻る。

「そろそろ気付いているのではないかね?そうだ、今は亡きセルマ・コーウェンの子供……三年前に人の世から抹殺されたその娘こそ、クラプトン君。――君の買った奴隷だ」

 心臓から喉の粘膜まで、液体窒素の固まりが張り付いた心地だった。ブリジットが、この男の遺伝子を受け継いだ娘。受け入れ難い状況に、呼吸もままならなくなる。だが、否定する要素も持ち得ない。確かなのは、こいつがブリジットの過去を、少なくとも俺よりは多く握っている現実だ。

「これで理解したろう、クラプトン君。たかだか娼婦の証言など幾らでも揉み消せるが、それを端緒に今の地位を失うのは御免でね。ただでさえ報道機関の鬱陶しい蝿の対処に追われる身なのだ。これ以上の些事には辟易している。幸い、君はコーウェンより賢そうだ。どうかね。今一度、君のブリジットを私に譲り渡す意志というのは……」

「帰る」

 口の減らないアボットを遮り、衝撃でアボットのカップまでひっくり返して立ち上がり、足早にドアへ向けて大股に歩いた。こんなところにいたら、脳髄がスポンジになってしまう。後ろ髪を引くつもりの感じられない、抑揚のない声が背中にぶつけられる。

「君が望むのであれば、政界にポストも用意出来る。オクスフォードを出ておらずとも、市井に名を響かせるのも難くない」

「俺は今の暮らしが気に入っている。金も要らん。心配せずとも、あんたの汚名をタレ込むつもりはないし、厄介事にも巻き込まれたくない。分かったら放っておいてくれ」

 ドアの向こうで待機していた黒服から、没収されていた荷物の入ったビニール袋をひったくり、足音高く部屋を逃げ去った。不快な液体でねばつく首筋に、不気味な宣告が巻き付く。

「君の荷に、私の連絡先を添えておいた。期限は一週間だ、その間に決めたまえ」

 この時は単なる単語の羅列が、子供じみたこけおどしにしか聞こえなかった。


 こうまで酷い悪寒を負ったのは初めてだ。マーティン・アボットは、並の政治屋と同じカテゴリーに入れて構わぬ怪物ではない。地下鉄で自車の駐まるホテルへ戻り、エンジンを吹かしてM4自動車道を戻る最中も、背中に濡れた鳥肌が張り付いて離れなかった。あいつは……アボットは人ではない。やつの支配下から物理的に逃れたいが為に、俺は首都へ一度として振り返らなかった。脳裏では、ブリジットを虚空に失う妄想が延々繰り返される。冗談じゃない。ハンドルを荒っぽく切りつつ、俺は明日からの勤務中にブリジットを預かってくれそうな連中へ電話を掛けまくった。――冗談じゃない。


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