奴隷邂逅【13-5】

【26】


 首都で巨悪から逃げて、ろくに眠れぬ夜を二つ過ごした。ブリジットは夜伽を持たない事に疑問を抱いていたが、不出来な旦那の苦悩を汲み取り、俺が眠りに落ちるま熱した額に手を置いてくれた。

 基地での勤務中、ブリジットには親父の家でニーナの厄介になって貰った。秘書が基地にいないので親父の職務能率は落ちるが、そうも言っていられない。流石に姉貴は状況を問いただしてきたが、こんな相談が出来る道理もなく、茶を濁して逃げた。そうやって事態の悪化を恐れていた矢先、勤務終わりにブリジットを引き取って我が家へ戻り、拳銃を片手に部屋の安全を確保しつつ、テレビの電源を入れた時であった。

 栗色の髪を生やすBBCの女性キャスターが、急場凌ぎの原稿を手に舌を回している。内容を掴めないままに画面が中継先へ移ると、首都の近郊だと分かった。夜闇の中で、複数のパトカーがランプを煌めかせている。どう見ても穏やかな報せではない。自身の何処に由来するのものか、他人事とは思えなかった。音量を上げて、眼鏡を掛けた長身の報道官の言葉に傾注する。要約すれば貧民街の側溝から、腹を切り刻まれた女の遺体が発見されたという。腹部の切開と、側溝への死体遺棄。その手口には憶えがあった。一般市民であれば、近代の切り裂きジャックを騙った連続猟奇的殺人、或いは複数の模倣犯による蛮行と聞き流していたであろう。そうすれば、さっさと衣服を脱いで疲労を湯に流せた筈だ。報道官が語を継ぐ。

〈この女性の遺体は、昨日より警察に捜索願が出されている、保守党議員マーティン・アボット氏の所有する奴隷と身体的特徴に類似点が多く見られており、現在真偽を確認して――〉

 感情が、鉄鎖で縛られた様だった。その先はもう、眼鏡ののっぽが何を言っていたか把握していない。単語が幾つか耳に入ったが、前頭葉がある一点へ集中していた。無心に二階へ駆け上がるところに、ブリジットの懸念が籠もる声が掛かる。

「ご入浴とお食事は如何なさいますか?」

「風呂は後だ。夕飯が出来たら呼んでくれ。ちょっと集中しなきゃならない」

 大量の銃を保管している作業部屋のドアを跳ね開け、ラップトップを立ち上げてディスプレイに食い入る。椅子に背を預ける余裕さえなかった。〈マイクロソフト〉のBIOSは、こちらの気分を少しも理解してはくれない。ようやく現れたログオン画面で叩き付ける様にパスワードを入力し、すぐさま〈グーグル〉を呼び出した。新聞社やニュースサイトを巡ると、一番ではないにしろ、それなりの規模の見出しに、件の猟奇殺人の記事が組まれている。何れも闇の垂れ込める裏路地の写真を掲載し、この残忍な犯行の原因究明に多くの人員が割かれていると述べている。――見付かる訳がない。画面上のマウスポインターが細動する。このふざけた事件の首謀者を知り得る者は、絨毯爆撃したって燻り出せない。だが、俺はその少数に入っている。あの野郎、狂ってやがる。マーティン・アボットは所有する奴隷を、ブリジットの所有者への見せしめに殺害したのだ。

 胃の辺りが捻られる具合に痛みを訴え、ラップトップへ突っ伏す。落ち着け、ヒルバート・クラプトン。狼狽えている場合ではない。気付けに手許から一番近い、壁に掛かるG3A3ライフルを取り上げて、しばらく胸に抱いた。武器は良い。如何に困難な状況でも、打開策を打診してくれる。掻き乱された心拍が落ち着くのを見計らい、液晶画面へ向き直る。俺だってひとかどのSASだ、並み以上の観察眼は自負している。あの男が、こうも控えめな意志表示で済ませるものか。やつは他者の手が届かぬ天上から、敵が白旗と一緒に賠償を差し出すまで攻撃を繰り返す。それも、自分の手は汚さない卑劣漢だ。

 熱を持った頬を銃の金属部分で冷やしつつ、グーグルの画像検索を開いた。俺の概算が正しければ――恐らく、そう大きく外れちゃいないだろうが、やつは俺がこの件を具に調査すると踏んでいる。そしてその通りに踊らされている。冗談じゃないくらい、でかい掌だ。抜け出すのは至難に思える。甚だ面白くないが、今は割り当てられた使命に沿って動くしかない。あの野郎を出し抜くには、ご自分の脚本に酔いしれた時分を見極める必要がある。

 テキストボックスに例の事件に関する単語を三つほど放り込み、検索を掛ける。画面いっぱいに現れる、似通った市街の画像、画像、画像……。その中に、彩度の強い画像が点々と紛れ込む。点在する明るい画像の一つのリンク先を調べると、死体や損壊した人体といったゴア画像が投稿されるフォーラムに繋がっていた。最早趣味の枠に収まらない、精神病棟ものだ。まだ新鮮な肉の窺える切断面や、神経が繋がったままの眼球とか、直視に耐えない嗜好の数々に吐瀉物がこみ上げる。だが、本旨はこれではない。マウスホイールを転がしてようやく目当ての画像を発見すると、固まり切らない決意を握り締めて拡大した。新規のタブに引き延ばされる、高精細の写真。……ああ、くそ。下衆の意図的なリークに、内なるヒトが耐え切れなかった。

 無修正の写真が網膜に像を焼き付けた時、不思議と嫌悪は抱かなかった。そんなものが些末に思える程に、彼女の小さな身体は惨い有様だった。滲む視界を袖で拭い、現実と対面する。カメラのストロボの中にくっきりと浮かび上がる、少女の骸。細く、すらりと延びる青白い四肢。あらぬ方向へ曲がり捻くれ、体躯が動物の様相を示していない。栗色の頭髪は黒い血液と汚泥で固まり、元は白色だったらしいヘッドドレスと同化して、下水に沈んでいる。覚醒したまま殺害されたのか目蓋が恐怖に見開かれ、変色して萎んだ眼球はマグロの様だ。特筆すべきはその腹部で、鋭利な刃物で八つ裂きに斬り開かれて、赤黒い臓物が淀んだ外気に晒されていた。涙と鼻水が止まらなかった。自分で言うのもおこがましいが、ブリジットは俺に買われた事で、新たな軌道に乗り換えられた。その一方、こうも非人道的な性倒錯者に全権を弄ばれ、光明を知らずに人の生を絶たれる子が存在する。これが非道と言わずして何であるか。事件現場の様相をパスワード付きのフォルダーに保存して、再び大衆向けのニュースサイトを訪れると、連続する猟奇殺人を警戒して、アボットが身辺に平時を超えた警備を付けたとの報せが追加されていた。馬鹿な。個人の重要なセキュリティ事情に関して、わざわざ本人の口から言及される筈がない。お粗末な自作自演に拳が震え、口内に鉄の味が広がった。我々特殊部隊は、下劣なテロには屈しない。こんなやつが、ようやくで人並みの救済を覚えたあの子を玩弄しようとしている。そんな不条理が、為されてなるものか。

 だが一軍人に過ぎぬ俺に、司法の天上人たるアボットを打倒する選択肢など存在するだろうか。政治・法律的な問題から、周囲には相談が叶わない。渦中のブリジットに真実を打ち明けられない状況で、何が出来るのだろう。兵士としての動物的本能が、直感を研ぎ澄ます。――確かに、アボットの魔手からブリジットを逃がすのは困難だ。やつは彼女が如何に小さな障害であろうと、地の果てまで追ってくるだろう。小さな混沌が、頭の片隅で蠢く。……逃げられないなら、打ち負かすしかない。己が内の獰猛な獣が、鎌首をもたげる。傷ひとつないお上品な手に、研き抜かれた牙を突き刺せばいい。

 幾らか不安の混じった呼び声が、下階より掛けられる。どうやら夕餉の用意が整ったらしい。大丈夫、お前はもう何も恐れなくていい。こいつは俺の戦いだ。誰も何も知らないままに、全てを終わらせる。


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