奴隷邂逅【13-3】

 要らぬ不安を抱かせまいと、平静を装って日々を送る内に、その日はやってきた。臨時で休みを取り、サスペンションのへたれた愛車で首都へ繋がるM4自動車道を辿る。件の手紙を警察や軍に提出しようかとも考えた。だが徒労に終わる結果が見えていたし、こいつは他者を巻き込むには複雑な事態だ。俺が首都へ行く間だが、ブリジットには休暇中の隊員の許へ遊びに行かせた。ヒステリックな思い過ごしで済めばいいが、あの子を失う事だけは避けたい。仮に大概の厄介が訪れたとしても、連隊なら人知を超えた力で蹴散らしてくれる筈だ。都合の悪い詮索もせずに自宅まで迎えに来てくれた同胞を送り出した後、半ば狂気と自覚しながらも、爆弾の類がないか自車の車体下を鏡で覗き、ヘリフォードを発った次第である。くそったれ、何だって俺がこんな目に。


 三時間半後、車載ナビの男声に従って到着したホテルは、見るからに場末の雰囲気を醸し出していた。外壁に枯れたツタ植物が絡み、諸所にヒビと剥がれた塗装が見受けられる。怪文書によれば、そこの駐車場へ迎えが寄越されるとの事だ。無駄と知りつつも、収まらない緊張を殺す為に抗不安剤をラムで飲み下した。

 アルコールを煽って、三分ほど経った頃だ。さびれたホテルの玄関口から、二人組の背広――肩幅を見るに、本物のホワイトカラーではないだろう――が仰々しくBMWまでやってきて、サイドウインドウを叩いた。警戒しつつウインドウを下ろすと、背広の片一方が腰を屈めて車内へ首を突っ込んでくる。

「近くの駐車場へ駐めてくれませんかね。我々の車で案内しますので」

 口振りから想像するに、手紙の送り主本人ではない。誘導されるままに付近の有料駐車場に車を移動して降車すると、有無を言わさず入念なボディチェックを受ける。二人組はボイスレコーダーはおろか、ボールペンの一本さえも奪うと、区画の隅に駐まる黒塗りのメルセデス――見てくれがベンツというより、メルセデスだ――の後部座席へ乗せられた。勿体振りやがって。現時点でこの雑兵をぶっ飛ばして親玉の情報を吐かせ、その足で凶弾をお見舞いして帰りたかった。そうすれば万事が片付くのに。

 十分ほど、スモークの貼られた暗い車内で揺られ、ぶっきらぼうなブレーキに車体が前後する。辿り着いたのは、英国が誇る某一流ホテルであった。背広ふたりは、一言もなしにフロントを素通りする。居心地悪さを味わいつつ着いていくと、装飾にまみれた巨大な扉が現れる。一般利用者がお目に掛からない、特別なエレベーターだ。無意味に金の臭いがするゴンドラで最上階の一室まで揺られ、降りた先で毛足の立ったカーペットを踏み荒らす。何故に敷物に金糸を織り込む必要があるのか、諸々の怒りで奥歯がすり減る。前方で唐突に出現した派手な彫り込みのドアを、黒服の片一方がを叩く。内側から想定通りの、怠惰で不遜な低声が返される。強面のボディガードが、顎をしゃくってドアを指す。むかつく野郎だ。金メッキのドアノブを捻って室内へ踏み込むと、豪奢な応接スペースの上座に、その人物は横に大きい躯を据えていた。

「御会い出来て光栄だよ、クラプトン君。自己紹介は不要かな?」

 そいつは尻を具合の良いソファから浮かそうともせず、対面のソファへ座る様に促す。瞬間的に生した不服を露ほども隠さず、俺は上質な低反発性素材へと腰を沈めた。

「……議員の大先生に睨まれる悪事を、やらかした憶えはないんですがね」

 一緒に入室した黒服により、部屋のドアが閉じられた。退路が断たれた焦りを気取られぬ様、三メーター先の下卑た笑みを冷ややかに見据える。保守党議員が一人――マーティン・アボット。我が国でさえ見直しを推し進める働きがある奴隷制度を、自己の損益目的で継続に血眼な、下衆の親玉だ。メディアが声高に囁く噂によれば、奴隷関連の組織を幾つも傘下に抱えており、それが資産の大半だというタレ込みもある。加えて脱税疑惑で何箇月もパパラッチのワゴンに追われ、深夜帯に特番が組まれる槍玉具合だ。この男の非公式フォーラムにアクセスすると、巨人と化したアボットが年端もいかぬ少女を股間にいっぱい侍らせる低俗な風刺画――一部は『素敵なファンアート』と呼ぶ――が、決まってヘッダーに現れる。そいつが直々に片田舎の軍人を呼び付けるとは何事か。

 不敵な嘲笑を張り付けるアボットが、用心棒に命じて冷めたコーヒーを用意させた。茶黒い沼に、俺は砂糖を沈めただけで放置した。甚だ不快だ。さっさと目的を聞き出して帰りたい。

「今日は『彼女』をお連れでない風ですが……そちらのご趣味もお持ちで?」

 リードパンチ代わりに、ドアの前で守衛を務める黒服へ親指を突き出す。一向に口火を切らないアボットも、これには卑猥な口許を歪ませた。

「私も暇ではないのでね。どうだい、我々はビジネスの話をしに来た。違うかな?」

 奇遇だな、同感だよ。今すぐ守衛ふたりをぶちのめしてから、こいつの喉笛を引き裂いて帰りたかった。他人を不快せしめるのも一種の才能で、こいつはそういう星の下に産まれたのだ。如何に甘い看護婦だって、担当になったら尿瓶で脳天をかち割る。

 目下の状況を整理した。目の前におはすのは、否定のしようなく現役議員様のマーティン・アボットだ。人嫌いが周知の事実で、住宅地から離れた閑静な自然の中に家を構えている。批評家やアナリスト曰く、自己以外を甚だ信用せず、エゴイスティックに公約を掲げる姿勢は同業者からも倦厭され、水面下で暗殺案が構築されつつあるとも目されている。ボディガードに民間企業を雇わない事も著名で、元軍人やならず者を大金で抱き込み、自分に刃向かう人間を始末させているとさえ噂が飛び交う。小耳に挟んだところによると、地元の麻薬密売業者とも接点があるというから、悪餓鬼だらけのヘリフォード民も呆れる。屑もここまで腐れば、一種の神と化ける。

 郵送されたくそ紙が言うには、やつが用があるのはブリジットであり、彼女の掃き溜めへの譲渡を所望されている。馬鹿も行き過ぎると清々しいとか誰かがのたまったが、そんな事は全然ない。いよいよ以て募る厭悪に痙攣する目尻を目ざとく察知し、アボットはセラミックの歯を覗かせて目を三日月に崩す。ぶよぶよの手で守衛に退室する様に促し、肘掛けに頬杖を突いた。

「さて、邪魔者も去った。そろそろ有益な話をしよう、クラプトン君?」

 名を呼ばれる度に、我が家の表札がタールで汚れる気分だ。体型で台無しなスーツのポケットから〈ダンヒル〉を一本取り、アボットの脂肪に覆われた指が火を点ける。室内にたちまち紫煙の渦がくゆり、やつの呼気と混じった忌々しい煙が吐かれる。ちくしょう、さっさと始めろよ。痺れを切らして踵でカーペットを叩きたがっているのを見透かしてか、アボットはあくまで延引を続けた。

「ご存じかな、クラプトン君。かの『ウィキペディア』の記載だが、私の保有する奴隷の数に誤りがある。素人が編集するあの下らぬ百科事典は、二〇〇九年四月時点で私が二五人を所有していると豪語しているが、実際は二七人だ。どうだ、二も違うのだよ」

 これだけでも市井から袋叩きに遭うべき蒙昧振りだが、更にこう付け加える。「――そして、間もなく二八人になる」意図せずして毛が逆立った。こんなのは人間ではない。まともに相手していい存在ではない。この場から一秒でも早く離脱しなければ、こちらの精神が冒されてしまう。

「なあ、先生。俺はあんたの奴隷がどうとか聞きに来たんじゃない。あんたが名乗りもせずに送りつけた、こいつについてだ」

 応接テーブルに忌々しい紙切れを放る。この書簡さえなければ、誰がこんなくそったれと口など利くものか。アボットは憤慨した風に鼻息を吹き出すと、背を椅子に預けた。

「どうやら、君とは馬が合わないらしい」

「ビジネスとやらを急かしたのはおたくだ。さっさと本題に入って戴きたい」

 肩をすくめつつ、アボットは指先で葉巻を弄ぶ。つくづく回りくどいのがお好きらしい。それとも、他人の苛立ちを煽るのが愉楽なのか。何れにしても悪趣味が過ぎる。息をつく間に、持てる徒手空拳の全てを用いて殺してやりたい。アボットはダンヒルの灰をガラスの灰皿に落とすと、膝を組んでようやく本題に移る。あれを武器に使うのもありだ。重そうな灰皿は丁度、手の届く距離にある。

「君に宛てた書面の通りだ。単刀直入に申し上げて、私は君のブリジットが欲しい。相応の額を用意するし、希望するなら純金という形でも応じよう」

 この野郎、本旨を出しやがったな。回答は元より定まっているが、どうにも気味が悪い。この胸くそ悪いもやを欠片ばかりでも晴らさねば、気が狂いそうだ。

「あんた程の男なら、新品の性奴隷なんか幾らでも手に入るだろ。わざわざブリジットを指名する道理は何だ」

「理由などない。君のブリジットを手許に置きたい、それだけだよ」

 やつは表情を毛ほども動かさない。その腹の脂肪の下に、何を隠していやがる。無意識に盗聴器が隠匿されていそうな場所へ目線を巡らせていると、にわかにアボットはソファの後ろへ手を伸ばし、鈍色のアタッシュケースがテーブルに叩き付けられる。――おいおい、冗談だろう。ダイヤルロックがちきちきと音を立てて回り、ジュラルミンの硬い殻が持ち上げられる。気持ち程度の緩衝材が敷かれた空間に、皺のない女王の師団がすし詰めされていた。

「前金で六万ポンド。奴隷の引き渡しに応じた暁には、更に三倍を払おう。これで不満かね?」

 現実離れした実弾を差し向けられて、嫌忌しか抱かなかった。このケースには、追跡装置が仕掛けられているだろう。札の内の何割が偽造なのか。そして確実に、一枚残らず特殊インクでマーキングされているであろう危険に、悪寒が駆け抜ける。受け取ったところで、まともに扱える代物ではない。わざわざ自ら身に余る爆弾を背負うものか。

「質問に答えろ。大金を出してまでブリジットに拘る理由が知れない。何を企んでる」

「君が奴隷を引き渡す、私は金を君に与える。そこに何の支障がある?極めて単純な取引だ。君は何も考えず、私の商談に従えばいい」

 ああくそ、こいつを殺したい。本能の雄叫びからカップを鷲掴みしそうな拳を抑えつつ、傷ひとつ見られないケースを突き返した。

「いいかいアボットさんよ。こいつは交渉だ。あんたの下らねえ要求は分かったが、俺が条件を呑むかは別問題だ。あんたが名指しでブリジットを欲しがる意味が分からないし、彼女を渡すつもりは毛頭ない。時間を割いて貰ったところ悪いが、帰らせて戴く」

 そう吐き捨ててソファから腰を上げたところであった。

「彼女の出生を知りたいとは思わないか?」

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