奴隷邂逅【13-2】

【25】


 ブリジットが我が家に来て、二箇月が経つ頃だった。それまで続いた、なだらかな天候は何処へやら。この休日はイギリス上空を死にたくなるくらいの暗雲が垂れ込め、湾岸戦争の『砂漠の剣』作戦における砲撃もかくやという豪雨に襲われた。ランニングへも行けず、湿った自宅でげんなり食後の紅茶を啜っていると、ブリジットが郵便受けから便りを持ってきてくれる。殆ど読まない新聞やビラの束を選別していると、見慣れぬクリーム色の封筒が紛れていた。請求書の時期ではないと訝りつつ宛名を見やると、確かにヒルバート・クラプトンの名義が愛想ない印刷で証明されている。古めかしく深紅の蝋で厳重に封が施されているが、そこに家紋や社章はおろか、送り主の名さえも見受けられない。うわあ、嫌だなあ。ブリジットはキッチンで、朝食の後始末に背を向けている。こんな不気味な書簡をわざわざ見せる必要もないと踏み、〈ガーバー〉のナイフで封を破った。――爆発なんてしてくれるなよ?今日の爆薬は著しく高性能だ。板ガムみたいに薄く加工出来るし、ごく少量でも人を火星まで吹き飛ばす威力がある。顔を封筒から遠ざけつつ中身をテーブルにぶちまけると、A4のコピー用紙が一枚、角を揃えて折り畳まれているのみであった。空の封筒の覗き込むと結構な厚みがあり、内側には透視防止に経典の如く意味不明な文字列が並ぶ。

 不快できな臭い封筒を放り、畳まれた漂白紙を取り上げる。もう爆発の危険はないと書面を広げれば、手書きの文字の一つも見られない、味気のない文章が印字されている。ちいとも可愛げのない書体だ。だが、内心でごちていた苦言も、えらく格式張った文を読み進める内になりを潜め、顔面が凍り付く心地を味わった。

 画像の一枚も添付されていない、四段落から成る文書。その送り主は依然として知れないが、少なくとも連隊に関わる組織でないのは確かだ。堅苦しい挨拶の定型文から入る文面は、段落を越える毎に筆者の性根の腐り様が垣間見える。そして三段落目から綴られる内容に、忘れかけていた戦慄が蘇った。


 さて、此の頃は購入なされた奴隷と如何お過ごしでございましょうか。さぞ蜜を啜るが如き、甘やかなる日々を享受している事と存じます。如何せん完全なる性奴隷は現在では此処、英国のみが維持し得る、誠に理解を得難き文化。此の地を置いては堪能し得ぬ愉悦でございます。私めも一紳士として其の悦楽に一抹の造詣は有するが為、貴殿の放蕩が目蓋の裏に浮かびます。


 ――気味が悪い。己が見識を超えた独白に、不屈の心臓が総毛立つ。ともかくこれで、相手が奴隷繋がりの人物という点は汲み取れる。だからどうしたと、忌避の衝動のままにゴミ屑を燃してやろうとライターを手に取る。フリンジに指を掛けた瞬間、視界の隅で捉えた文面に、二度目の悪寒が脊髄を逆撫でる。


 本題へ移らせて戴きましょう。貴殿の所有致します奴隷・ブリジットを、私に御譲り戴きたいのです。無論、当方も其れに見合う以上の条件を御受け致します。つきましては交渉を円滑に進行させるが為に、直接の謁見を望む所存でございます。


 この直後に、正体不明の主は首都外れのホテルと「九月十日 一三〇〇時」という記書きを残して文は締められる。――何だこいつは。先程の不気味さと打って変わり、燃え盛る憤怒が生される。主旨に関しては後で触れるとして、まずは表面上だけ取り繕う慇懃無礼な物言いに臓物が煮えくり返る。こちらの情報を軒並み調べ上げておきながら、自分の尻尾は僅かばかりも見せぬ不平等な立ち位置に陣取り、明らかに見下した態度を隠そうともしない。自分と根本から相容れぬ存在に、反吐を催す思いだ。おまけに手紙という媒体を鑑みても異常に高圧的な調子と、それに追随する傲慢な要求。こちらが眼前にいないのをいい事に、勝手に話を進行させるお役所みたいな姿勢。面倒に拍車を掛けているのが、口の良く回るだけの中年主婦とは違い、深い知見をも備えているであろう事実だ。心理学者でも分析官でもないが、オクスフォードとかケンブリッジ、或いはイートン、ヴァージニア辺りの法・経済部門の出身と見て間違いないだろう。理系のやつは、こんなに結論を先延ばしはしない。そうなると、職場も自ずとそういった場所に行き着く。つまり、地方知事とか政治屋だ。それも、格別に曲者の。

 首を巡らせて、ブリジットを見やった。大丈夫、まだ昼食の仕込みをしている。書面に目線を戻し、握ったままのライターを置く。由々しき事態だ。額にあてがった手に、並みならぬ熱が移る。幾ばくかの根拠があるとはいえ、相手は殆ど霞の様な存在だ。そいつが理由はどうあれ、俺の大事なブリジットをかっ攫おうとしている。彼女に関して思い当たる節は皆無だ。では、俺はどうだろう。北アイルランド時代、サンドハーストでの暮らし、連隊での作戦……。ひょっとすると、記憶のない幼少期か。いや、それだとブリジットも産まれていない。では、何故?手掛かりのない臆説は、暗礁に乗り上げた。

 奇怪な脅迫にようやく平静を取り戻した頃、冷め切った紅茶で糖分を補給する。何にせよ、陳腐な悪戯にしては手が込み過ぎている。この文面を見る限り送り主は――このくそ野郎は、俺の職場や身辺状況をも手中に収めているだろう。広範に渡る部署を使役可能なポストに居座る、顔も見当付かぬ敵に奥歯を噛み締めた。

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