奴隷邂逅【11-3】

 満腹で脳が麻痺する身でさえ状況の把握が叶うのは、ひとえに心身を連隊で痛め付けたからか、はたまた単に現実味を帯びぬ現況への猜疑心からか。今や、そんな問いは何処かへ投げやってしまうのが適当だろう。ゴミ箱ぽい。

 うちに来て長らく使っているソファに、ブリジットが腰掛けている。その手に、べっ甲の耳掻きが握られていた。手前のテーブルには、水の張られた器と綿棒のケースの用意がある。ここに来て、親父の戯言の意味を悟った。

「ささ、こちらへ」

 アルコールで少々頬を赤らめたブリジットは、スカートに包まれたふとももをぽんと叩き、蠱惑的な釣り針を垂らす。反射的に、欲望の生唾が口内で糸を引く。まるで食虫植物の蜜に誘因されるハエよろしく、ふらりと千鳥足に歩み寄ってしまう。墜落寸前のヘリコプターみたいな足取りでソファに接地するなり、ブリジットのおみあしへとだらしなくしな垂れ掛かった。シルクのエプロンが火照った頬に優しく、酒とは一線を画する重い香りが感じ取られた。

「ふふっ、いい子いい子……」

 硬い頭髪を潤いある指の腹が掻き分け、頭皮に慕情が降り注ぐ。枕にしている心地良さに、寝入りそうになってしまう。

「それじゃあ、掃除していきますね」

 初体験に心臓を高鳴らせつつ身構えていると、綿棒のかさついた感触が耳に触れた。どうやら、最初は耳掻きとやらを使わないらしい。

「ん……ここもね、意外と汚れるんですよ……」

 耳孔ではなく、その周辺の耳殻の壁や耳裏に溜まっている垢がこそぎ落とされる。実に丁寧な仕事に、嘆息を禁じ得なかった。

「あら、お耳が熱くなってきた。お酒が回ってきましたか?」

 うちのメイドは意地悪だ。柄にもなくぷいと口を尖らせていると「冗談ですよ」と頬にキスの詫びを入れられる。これだから憎めない。耳殻の垢が削り取られると、落ちたカスをそっと拭い取られる。これだけでも、少し清潔になった心地だ。

「それでは、お耳の中に失礼しまぁす……」

 何処か官能めいた囁きが、吐息に乗って聴覚を直撃する。桃色の大規模爆風爆弾の炸裂で背筋が粟立つと同時に、快い酔いが彼方へと吹き飛んでしまった。理性の城塞の跡地には、剥き出しの期待と色欲だけが取り残される。やがてべっ甲の固体らしからぬ軟らかい質感が、外耳道の入り口にあてがわれる。そうと穴の壁に沿って扁平な先端部分が進み、中程で壁の垢を剥がす作業が始まった。これが他人にして貰うと存外にこそばゆく、手探りに自分でやるよりも明らかに有効なのが分かる。加えて、耳の内を擦る音が、不思議と安らかな情感を呼び起こす。

「痛く、ないですか?」

「うん、大丈夫」

 ブリジットは上機嫌に笑むと、再び緻密な作業に熱を上げた。ヘラが皮膚を掻く度に、ぞりぞりとおっかない音が木霊するのだが、慣れるとこれが癖になる。小刻みな掘削音に身を任せていると、遂に切っ先が最奥に到達した。

「あらら、結構溜まってますよ」

 何やら大変に恥ずかしい。繊細な指遣いで鼓膜周辺に張り付く耳垢を剥がし、次々と汚物の塊を掻き出していく。包み隠さず言えば、幼少期にこういった経験がない所為か新鮮味を覚えると共に、無償の母性の享受に少なからず動揺していた。自分如きが斯様な感情を抱いてよいものかと束の間をよぎりもしたが、すぐさま改悛した。もう、無駄な悔いは捨てたのだ。これくらいの恩賞があっても、誰も責めまいて。

 でかい耳くその石が掻き出される毎に、耳孔に新鮮な空気が取り入れられる錯覚を抱く。ブリジットは巨大なくそを排除すると「大きいの取れた」と、喜びを露にする。何がそんなに面白いのか計りかねるが、止める理由もないので好きにさせた。

 主立った堆積物を除去し終えると、ぐでんと無警戒に脱力したところへ、出し抜けに生温かい吐息が吹き入れられる。たまらず背筋を反らせて素っ頓狂な叫びを上げたが、小憎らしい恋人はしゃあしゃあと「びっくりしました?」と問うてくるので、怒る気にもならない。くすくすと鼻を鳴らす彼女はそれから綿棒を軽く濡らすと、今しがた掘っていた耳にそれを挿入した。

「冷たくないですか?こうやってお耳の中を拭くと、残った汚れがよく取れるんですよ」

「へえ……」

 他人にやって貰う耳掃除の趣を知った今や、自分でやる選択肢はないだろうが。しっとりと湿り気を帯びた綿糸が、熱された耳の血管を程良く冷やしてくれる。成る程、確かにこいつは気持ちがいい。

「ん、水は残ってないかな……。はい、じゃあ反対のお耳も見せて下さいねー」

 そう告げるなり、ブリジットは有無も言わせず俺の頭を逆に向かせる。おいおい、本気か?耳掃除を止めさせる気は更々ないが、今までテレビの方を向いていた鼻先は、事もあろうに彼女のデリケートゾーンの延長線上の被服に没した。その点に気付いているか定かではないが、ブリジットは相変わらず自分のペースで事を進めている。否、彼女の場合は意図してやっている節が濃厚だ。地上最強のSASといえど、酸素なくしては死んでしまう。耳の中をごそごそやられるのも忘れて息を止めていたが、アルコールで血流が盛んな身では一分と保たない。遂には折れて、鼻腔から諸々の物質を吸入してしまった。途端、平時に触れる空気とは明らかに異なる、重く濃厚な雌の色香が肺に侵入。直後に肺胞の一つひとつに至るまでが、あたかも桜の如く開花する心持ちに至った。神経ガスに匹敵する威力で脳を侵されたところに暇も与えず、ブリジットの電撃戦は止まるところを知らない。

「おっと、大物を発見……」

 高圧蒸気でも吹きそうな俺の頭――まるで一触即発のバルカン半島の如き爆弾と化したそれに止めを刺したとすれば、正にこの時の彼女の行動だろう。余程狩りたい獲物だったのか、その姿をしかと捉えようとブリジットは俺の耳に顔を近付けた。必然的に姿勢は前傾し、彼女の上半身は俺の顔面に強か接する。これが何を意味するか、結論を述べよう。たった今、片頬にブリジットのおっぱいが当たっている。滑らかなシルクのエプロン、実用性を重視した被服のその向こう、ワイヤーの入った硬い感触を通しても隠し切れない若い弾力と、桁違いに強烈なフェロモンの色香が、積んだ過去を時空の彼方へ抹消し、俺の意識は細胞レベルで分解されて宇宙へと旅立った。須臾の時を浮遊した思念体は稲妻と化して自己の肉体へと再び勢い落ち、幽体離脱から復帰する。過去前例なき衝撃――それこそが、元マーティン少年を憎き戒めから解き放った。


「――うん、綺麗さっぱり。ヒルバート様、終わりましたよ。如何でしたか?」

 ぶっ飛んだ夢幻より覚醒した身体に、暴力的なまでのアドレナリンの濁流が血管を駆ける。訓練や実戦で味わったものではない。それでも、この感覚には憶えがあった。久しく相まみえなかった、旧知の友人と再会した心情。幼少期を共にした、懐かしき幼馴染み。姿なき彼に駆け寄り、その身を強く抱いた。「お帰り」と――。

「ブリジット」

「はい?」

 耳掃除の達成感に浸るブリジットはきょとんと首を傾げると、咄嗟に口許へ手をやり目蓋を見開く。その視線は、俺の下腹部で厳かにそびえる巨峰――数年振りに顕現なさった、我が愚息へと一直線に注がれていた。赤熱する勢いの血流は、海綿体を力強く復活、雄々しく天を衝かせた。幾らか平静を取り戻したブリジットが、そっと雇用主の顔色を窺う。もう、やるべき事は決まっている。静かに上体を起こし、愛する少女の名を呼んで肩を掴む。生半ならぬプレッシャーに、彼女は大きく身を竦ませた。その真剣かつ不安の混在する表情には、少なからず願望が含まれていると信じたかった。緊張で乾いた唇を唾液で濡らし、俺は一言一句を大事に発音した。

「ブリジット、こんなふざけた状況ですまない」

 愛する少女の瞳が、潤んでいた。もう、立ち止まる理由はない。

「お前を、抱きたい」

 目尻に溜まり、零れ落ちる感情を隠そうともせず、腕の中の恋人は力強く頷いた。

「喜んで……!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る