奴隷邂逅【12-1】


【22】


 涙で濡れた恋人の目尻を指で拭ってやり、そっと目蓋に口付ける。少しの塩気と共に、にわかに上がり始めた体温を唇に感じた。感極まるブリジットのなだらかな腰と膝裏に腕を差し入れ、慎重に抱え上げる。されるがままの少女はほうと夢見に浸っている様で、小さな胸の前で手を組むのみであった。

 腕の中で縮こまるブリジットを二階の寝室へ運搬し、シーツの張られたシングルベッドへ横たえる。自分もその脇に腰掛けて息を整え、密かに口臭を確認した。うん、多分問題ない。新風の吹き抜ける爽やかさはないが、力強いジャガイモの臭いだ。

 変わらず指を絡ませているブリジットを見下ろすと、いたたまれなげにはにかんでいる。滅多にお目にかかれない反応に当惑するが、ともあれ悪感を抱かれていないのは確かだ。今更になって現状への実感が湧くと、鼻の頭に脂ぎった水気を帯びてくる。軍に入って初めてイラクに派兵されて、初の市街戦に臨んだ折より緊張している。こいつは手強いぞ。手の甲で額を拭い、意を決して最愛の少女へ向き直った。

「本当に俺でいいのか?」

 少女は目を細め、腕を伸ばして脂の浮く頬に触れてくる。しっとりと温かくも適度に冷えた手が、野郎の持ち得ぬ素晴らしい癒しを与えてくれる。

「ご自分を卑下なさらないで下さい。私、こう見えても面食いなんですよ?」

 明け透けな虚言には苦笑してしまったが、お蔭で張り詰めた神経が幾らか解れた。塩気でふやけた両手をシャツで拭い、ブリジットの可愛い頬に触れる。産毛越しの肌はほのかに温かく、万物を受け入れる。普段からこれくらいのスキンシップは経ていたが、此度のそれは意味合いが明確に違う。遂に訪れた性の時間に今一度、生唾を飲み下した。

 無言で互いを見つめ、艶やかな砂色の髪を撫ぜる。野太い指の間を清らかな流れが走り、煌めき音もなく重力に引かれる。出逢った時から綺麗な御髪だと感嘆していたが、こうして一人の男として、彼女の唯一の恋人としてこの金糸に触れ得られるのは、この上なく心躍った。頭を慰撫する内にブリジットの表情が緩み、目が閉じられる。彼女なりの、最大の求愛だ。ささやかな要望に応えるべく、狙撃銃の引き鉄の最後を絞るが如く繊細に、小さな桜貝を啄んだ。何を隠そうこの不肖ヒルバート・クラプトン、未だに見つめながらだとキスの一つもままならない。ここまで来ると最早童貞の一言で片付けられる支障に止まらず、稚拙が過ぎる。経験あるヴェストに指南を仰ぐのも格好付かず、今日まで放置していた次第であるが、安い自尊と体裁を先立たせた始末がこれだ。この好調子は、ひとえにブリジットの面倒見で成り立っている。瑞々しい唇を食む内にぴたりと合わさる二枚貝が開かれ、その奥から招きの手が伸ばされる。待っていましたとばかり、ぬめりを帯びた舌が愚鈍な俺を捕らえて、自らの内へと引き込む。あたかも柔道の有段者の如く対象を組み敷くと、ねっとりと甘ったるい唾液を以て嬲る。柔軟ながらも時に硬く尖る舌が絡み付き、淫靡な罠にのめり込んでしまう。

 濃密なキスを続けて口を離すと、熱に浮かされてうっとり悦に入ったブリジットが微笑む。余す事なく警戒を解いた面持ちと、丸っきりの自然体な態度に、こちらも防護をほだされる。

「ヒルバート様、どうぞ……」

 腕を広げて受容を示す彼女に、元奴隷は首肯した。他ならぬ、自らの意志で。


 何もかもが新鮮であった。掌に心地よい、乳房の温かみ。恋人が初めて見せる、女の色香。寝室を満たす、掠れた喘ぎ。そして遂に知り得た、肉体の交流の実感。学者先生曰く、ナイフによる人間の殺傷はセックスと酷似している。ヒトが腕の延長線にある武器で敵を貫く行いは、ともすれば恋人との性交渉と同等の覚悟を必要とする。年端も行かぬ内にそれを強要された訳であるから成る程、道理で心も壊れる。回り道を経たが、今この見に宿るは敵の排除を遂げた一瞬の多幸感や、その直後に襲い来る致命的な罪悪感と嫌悪などではない。ただひたすら甘美な夢心地に、俺はたゆたっていた。

 文字通り精根尽き果てたブリジットは、旦那の胸に身を預けて額を擦り付ける。滑らかな背中を撫でてやると、やり切った表情を浮かべた。

「ご満足、戴けましたか……?」

 言うべくもない答えで応じると、微笑みを一つ、そのまま魂が抜ける様に寝入ってしまった。やはり十代の少女、体力馬鹿の特殊部隊員に合わせるのは無理がある。大人しく寝息を立てる嫁さんを抱き寄せ、自分も眠る姿勢へ移行する。安堵の面持ちで鼻を鳴らす恋人を前に、明朝どういった顔で向き合えばいいか考えあぐねた。さりとて、こんな苦悩も独りでは知り得なかった。面倒事も加味して人生を愉しむがよかろうと、冷めやらぬ興奮を殺して目蓋を閉じた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る