奴隷邂逅【11-2】

 職務を終えると同僚から飲みに誘われたが、後日誘ってくれと丁重に断りを入れた。祝ってくれる厚意は嬉しいが、やはりあの子の健気な思慕は裏切れない。気を抜けばふわりと浮きそうな身体を何とかBMWに乗せると、帰路へ緩やかにアクセルを踏み込む。いつの間にやらダッシュボードに置かれた消臭剤が揺れ、俺の不在時に交換されていたタイヤが家路を踏み締める。日常生活の至る所に、あの子の影が垣間見える。ガムまみれで塗装の剥げたゴミ箱や、道端の犬の糞さえ輝いて見えた。

 かつてない程の安全運転で帰宅し、愛車をガレージに停める。通りに面した窓から、生活感が零れている。誰かが自分の帰りを待つ暖かい暮らしが、今や自分の周囲に散らばっている。現実離れした環境に、だらしなく頬が緩む。貰った酒瓶の紙袋を抱えて鍵をドアに挿し、錠を解く。ありふれた金属音に、たまらない充足が湧き起こった。肘でドアノブを押し下げ、僅かな隙間に爪先を差し入れてドアを開く。シリアルの箱がはみ出す袋を抱える父ちゃんの動きで、身を滑り入れる。瞬間、家中に漂う芳しい香りが鼻を酔わせた。部類が普段よりも多く、果たして何品目の用意があるか知れない。

 大量のガラス瓶がぶつかる音を聞き付けて、両手にミトンをはめたブリジットがキッチンから駆けてくる。暗く湿った地下室で配線を弄っていた頃は生じ得なかった、柔らかな火が心に灯る。そのともしびが、今はただ愛おしい。

「お疲れ様です。お風呂の用意が出来ていますが、如何致しますか?」

「シャワーは基地で済ませてきた。何も食ってないんだ、空腹で死にそう」

 メイドさんは朗らかに微笑むと、やにわに主人の手を取ってダイニングへと誘導する。珍しく、子供っぽい一面を見せてくれる。廊下を抜けた先ののダイニングテーブルには、中華で言うところの満漢全席に匹敵する量の皿が配されていた。数種類の前菜がテーブル外周を彩り、その隙間を埋める様にラザニアやソーセージが配置されている。中央に大きな空間が取られており、今はただ鍋敷きが置かれている。取り分け強い主張を放っているのが、籐のバスケットに盛られたガーリックバゲットだ。焼き目が程良く付けられ、こってりとバターが染みている。恐らく、生地から作ったのだろう。この子は凝ると、際限なく尽力する傾向にある。主人がまだ眠る夜明けから、せこせこ小麦粉を練っていたのだろう。甲斐甲斐しいやつめ。籐籠の隣にはでかいステーキ肉が、グレービーソースの布団を被って横たわる。品目を数えている間に、ブリジットは調理場から巨大な寸胴を運び、テーブル中央に配した。二人分にしては多過ぎるビーフシチューが、香辛料で胃腸へ手招きする。

「驚いたな。一人でやったのか?」

 小さな料理長が、無言で胸を張る。同年代と比較して控えめなおっぱいが強調されて、心臓が小躍りする。促されるままに食卓に着くと、手許のワイングラスに、食前酒としてドライ・ベルモットが注がれる。白葡萄の甘い香りが立ち昇り、食欲が唾液を垂らして頭をもたげる。諸々の刺激に酩酊してると、左腕にブリジットの指が絡み付いてくる。数秒で彼女の繊細な手が離れると、真新しい腕時計が黒光りしていた。

「お誕生日、おめでとうございます」

 頬に柔らかな唇が触れ、ほのかな潤いを置いて離れる。今日までかなりの回数を受けた筈だが、今のは相当におもはゆかった。

「ブーツにしようかとも迷ったんですけど、サイズの都合が付く方が良いかと」

 そう言ってはにかむ彼女は、祝っている側のくせにやたら嬉しげである。礼と一緒に小さな頭を抱き寄せて撫でると、目尻を垂らして頬を緩める。何処ぞの変態が吹き込んだ知識の所為で『忠犬ブリ公』なる洒落が思い浮かんだ。やはり、血は争えない。

 ブリジットが向かいの席に着き、自分のグラスにも白のベルモットを注ぐ。どちらからともなくグラスを低く掲げ、ガラスのボディを軽く打ち合わせる。ワイングラスの正しい乾杯ではないが、これくらい俗っぽい方が構えずにいられる。同時に薄黄緑の液体を口に含み、そっと口内で転がす。醸造酒としては高めのアルコールが粘膜に染み渡り、未成年の知り得ぬ多幸感が内側から広がる。胃が十分に温まったのを見計って、取り皿にポテトサラダがよそわれた。ジャガイモの塊は大き過ぎず小さ過ぎず、口に含むと適度な歯応えが返ってくる蒸し具合だ。俺が料理を一口やる度に、ブリジットは嬉々として矢継ぎ早に次の一品を勧めてくる。ここまで興奮している彼女を目にするのも久しい。半ばバービー人形の如き扱いを受けながら、腹と心が満ちてゆく心地があった。


 貰った〈トレーサー〉の腕時計の長針が一回転した辺りで、胃の拡張の限界が訪れた。とはいえ、肉やパンといった皿は美味しく平らげたし、残っているのも寸胴シチューと僅かなサラダくらいだ。普段の数倍の食物を腸に収められたのは、他ならぬブリジットの祝意に年甲斐なく舞い上がっていたのが大きい。ぼっこり盛り上がった下腹部をさする最中、食卓の片付けを終えたブリジットがミキシング・グラスで液体を掻き混ぜる音が耳に優しい。程なくして見憶えのないカクテルグラスが眼前に置かれ、マティーニが注がれる。俺がオリーブの実が嫌いなのも、好みで香り付けにレモンピールを絞るのも、彼女はこの二箇月に満たない期間で知り得ていた。オリーブ成分ゼロのマティーニからは、レモンの爽やかな香りと〈ボンベイ・サファイア〉のジュニパーベリーを始めとする香辛料が息吹を発し、霞みの掛かった複雑な快楽を脳に演出してくれる。慣れないカクテルグラスを目線まで掲げ、高アルコールのカクテルをやおら口に含む。口腔の粘膜が焼かれる感触を、酒の神と恋人への敬意と共に味わった。メンソールの様に鼻腔を突き刺す痺れが通り過ぎると、じぃんわりと乾いた苦みの余韻が漂う。――美味い、この一言に尽きる。既に五杯程の酒を干した身に、とうとう甘い酔いが回ってきた。脱力して背もたれに身体を預けると、左の大腿に硬い感触がくつろぎの邪魔をする。ポケットを探って誰何すれば、親父から受け取った桐の箱であった。蓋を開けば勿論、飴色に煌めく工芸品が仰々しく収まっている。

「なあブリジット、親父からこいつを貰ったんだが……」

 白く輝くダイキリのグラスを手に着席したメイドさんに棒切れを見せると、彼女はぱあと満面の笑みで深い関心を示してくれた。

「あら、日本の耳掻きですね。しかもべっ甲ですか?珍しいなあ」

 何で知ってるんだ。イギリスという土地は――まあ、欧州全般はそうだが――耳孔の清掃に綿棒を用い、その他の道具は格別扱わない。そのイギリス国民たるブリジットさんの視線は、俺が指先でつまむ棒切れに注がれていた。ダイキリを一口で干した彼女は、とろんと熱の籠もった瞳で囁き掛ける。

「ねえ、その耳掻き……試してもいいですか?」

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