奴隷邂逅【11-1】

【21】


 曇天がボイコットでも起こしたのか、最近のヘリフォードは青く澄んだ快晴に見舞われている。穏やかな陽光の下でのランニングを終え、シャワーで清めた身体をソファに沈めてテレビを点ける。数秒の遅延の後、でぶの中年男性が報道機関にマイクで四方から殴られる画が、液晶画面に映っていた。――ああ、こいつか。つい先日も奴隷制度にまつわる裏取引とやらで追及を受けていた、マーティン・アボット議員だ。どうやら決着がつかないらしく、未だメディアのちょっかいを受けている次第だ。特殊部隊としては煩わしいだけのマスコミ連中だが、叩かれているのがいけ好かない政治屋なのもあって、この時ばかりは彼らに賛辞を送るのもやぶさかではなかった。腐れ文民め、ざまあみろ!くそ野郎の苦悶に引きつる面で満足したので、幼児向けの教育番組にチャンネルを変えた。

「朝食が出来ましたよ」

 視界の隅を、ブラウンのメイド服が掠める。紅茶のカップを両手に持つブリジットの呼び掛けで、ソファから腰を上げる。ダイニングテーブルに並んだ食事から、まどろむ胃袋を揺り起こす芳香が漂う。席に着く直前に、壁に掛けた英陸軍のカレンダーへ目を向けた。――八月の十五日。日付の下に、赤のインクで追記がある。「ヒルバート様のお誕生日」と。この歳になってはめでたくもないが、仮とはいえど恋人に出生日を憶えていて貰うのは嬉しい。ハッピーバースデー、おめでとう三十路。逃れ得ぬ現実に悲壮感が駆け抜けたので、さっさと朝食の席に着いた。

 食事を口に運ぶ間、ブリジットは終始にこやかであった。こんな塩梅の彼女は、何かしら企みを孕んでいる。事案の中身に大方の予想は付くが、問うのは無粋と、自分から切り出しはしなかった。

 食事を終えて玄関先でブリジットから鞄を受け取り、彼女の方から優しいキスを貰い、玄関を抜ける。とうとう彼女の口から誕生日に関する情報は出なかったが、自らの内だけで温めておきたいのだろう。その分も期待して、愛車のペダルを踏み込んだ。


 毎度の検問を抜けた先、照り返しが激しい駐車場で車を降りる。平生なら同僚が集う本部ビルへ歩みを向けるが、今日は別の場所に用がある。クレデンヒルのSAS基地内に設けられた、医療センターだ。病院と称するには少々清潔感の欠けた施設のガラス戸を開き、受付のおばちゃんに挨拶を済ませる。取り立てて彼女に非はないが、ブリジットの顔が如何に素晴らしい造形かが分かる。遊び心が溢れる故、神は残酷である。

「おはようジェニー。先生に会いたいんだけど」

「アーリー先生なら空いてるわよ。診察かしら?」

「そんな感じだよ」

 恰幅の良い看護婦が、内線で何やら伝える。幸い、今日の医療センターは閑古鳥だ。ジェニーは背後の抽斗から、俺の診察履歴が記録された書類を肥えた指で探り当てた。

「いつもの診療室でお待ちよ。彼、貴方がまたここに来る様になってから機嫌がいいの」

「そいつは複雑だね」

 かねてより自分を悩ませた患者に快方の兆しがあるのだから、肩の荷も下りるだろう。担当医の彼にも、随分と迷惑を掛けた。今度、お気に入りの葉巻でもプレゼントしてやろう。

 書類の茶封筒を小脇に指定の診療室へと足を運び、引き戸をノックする。汚れた戸板の奥から、まったりとした返事が寄越された。了承を得て入室した先に、白衣を着崩した男性がデスクに肘を突いていた。知命を幾ばくか過ぎ、それなりの口髭を湛えるこの御仁こそ、俺の掛かり付けたるベン・アーリー医師である。

「やあヒルバート、三日振りだね。何か変わりは?」

 言いながら手振りで着席を促され、腰を下ろす。

「特に変化はありません。倦怠感もかなり和らぎました」

 患者の現状を受けると、彼は満足げに首肯した。ベンは俺が連隊に入った頃からいる医師だ。専門は内科だが、こうして戦地で心的外傷を受けた帰還兵のカウンセリングも担当している。もっとも、彼が受け持つ患者は大概が精神を病んでいるか、前夜に飲み過ぎて胃薬を欲しがる酔っ払いなので、専業の方はかなり出番が限られる。だのに、彼は進んでD中隊専属の心療内科医を担ってくれている。

「処方した薬はちゃんと飲んでいるかな?」

 訊問と同時に、ベンが前時代的な額帯鏡を覗き込む。「様になるでしょ?」という理由だけで、耳鼻科でもないのに装備しているのだ。

「ええ、恋人が管理してくれるので」

「ならよかった。彼女には、私からも礼を言っていたと伝えておくれ」

「そうします」

 額でぎらぎら光る円盤が、定位置へと跳ね上げられる。ベンの診療を受け始めたのは、三年ほど前からだ。数人の医師を巡って辿り着いたのが彼だったが、当時の俺は誰も信用出来なくなっていたし、平穏な環境に身を置く医者の理解など得られないと、自らの心を固く閉ざしていた。他人に傷心を踏み荒らされるくらいなら、と素人判断で病院通いを止めていたのだが、つい先日から再び世話になり始めた。やはり大切な人と暮らすには、互いの為にも健常な心身でいるに限る。過去への踏ん切りという着地点を見出す目的で、自分の傷口と真っ向から殴り合う決意を固めた。

「まだ飲酒を続けているらしいね」

「ええ。でも深酒は止めました。今は恋人に付き合うくらいで」

 その恋人が結構なうわばみである事実は伏せておいた。

「飲酒後に頭痛は?」

「いいえ、全く」

 ベンが満面の笑みを浮かべる。戦場で精神を損壊した兵士は大半が悪夢に苦しみ、過度のアルコールの摂取に走る傾向にある。次第に廃人化する心身に歯止めは効かず、戦場を知らぬ一般人は彼らに社会の落伍者の判を押す。命からがら母国に戻った帰還兵が、帰る場所を失ったら?その先を、現代社会は言及すべきである。

「……今の生活に不安は?」

 ベンの口調が緊張を帯びる。この問いには即答しあぐねた。確かに現状は充実している。家は片付いているし、座っているだけで紅茶が出てきて、仕事を終えれば温かな夕食と甲斐甲斐しい彼女さんが待っている。歯車を総取っ替えした具合に、世界が変わった。過去に囚われて止まっていた時間が、目まぐるしく動き出している。それでも、全機能が健全に動作しているとは言い難かった。

 目下、ブリジットと俺は一つ屋根の下で同棲している。互いに恋情を抱く間柄で、かつての「奴隷と主人」なる垣根は取り壊されている。この上で何を望むか。明快だ、男なら尚更に。

「先生……その、〈バイアグラ〉の処方を願いたいんですが」

 余りに情けない申し出にお医者様は腕を組み、低く唸った。そもそも、この医療センターにあの青くて菱形の錠剤はあるのだろうか。ベンは唇を噛み締めて、そっと言葉を紡いだ。

「余りお奨めは出来ないな。そりゃあ世間的には、バイアグラやレビトラを用いたED治療は有効かもしれない。でもね、これは医者ではなくて一個人としての意見だけど、君の症状にはどうも……効果的ではない気がするんだ。心療内科医ではないから確実な事は言えないけど、あんなへんちくりんな薬物の手を借りずに、正々堂々と自分のご子息で闘いたいとは思わないかな」

 今度は俺が唇を噛んだ。高性能の精力剤を使用して彼女と行為に及んだとして、それは病を克服した事になるのだろうか。分からない。沸騰も寸前の頭を垂れて額を押さえる。

「こう言っては何だけど、焦っているんじゃないかな。君は幼少期から、辛い思いを経験し過ぎた。失った時間は短くない。残念ながら、その事実は覆せない。でも、無理に急いて見切り発車をしたら、せっかく乗ったレールから脱線してしまう。そうは思わないかね?」

 三十路を踏んで十時間も経っていない身では、彼の様には割り切れない。外面もなくうんうん呻く俺に、ベンは力を抜く様に言った。

「そう肩肘を張ってもしょうがない。まずは今後も彼女と暮らして、様子を見てはどうだい。彼女がすぐにでも君と性交渉を持ちたくて仕方ないのであれば、それから対応を考えよう。聞いたところ、その子の身持ちは固いみたいじゃないか。ゆったりと構えておきたまえ」

 精力剤を処方してくれない事には納得していなかったが、それ以上は何も言えずに首肯して、診察室を退出した。この歳になって、オスとして焦りを覚えているのは否定出来ない。何しろ三十路で童貞だ。とても周囲に言いふらせたものではない。おまけにこの頃のブリジットは胸を後頭部に当ててきたり、ベッドの中で脚を絡ませてきたりと、露骨に肉体的なスキンシップを取ってくる。生殺しと不甲斐なさから、急かないのが異常というものだ。ホモでない限り、性欲に抗える兵士はいない。

 受付で内服薬を受け取ると、ようやくで職務に向かう。本部ビルの自分に割り当てられた個室に赴く途で、書類仕事をほっぽり出してぶらついている親父殿が視界に入った。手にした握り飯――でかいエビのフライ……ではなく、天ぷらが刺さってる――をもぐもぐやりながら、施設内の各部署を冷やかしに練り歩いているらしい。他人の迷惑などいざ知らず、今にも情報班の部署を襲撃しそうだったので、駆け足に近付いて肩を捕まえた。

「奥さんに仕事押し付けて何してんだよ」

「あいつ綺麗だろ?誰にも触らせねえぞ」

 あーん、会話にならない。突如と襲来した眩暈に、目頭を押さえる。丁度十六年前に北アイルランドで拾われた時、少なくとも俺の目には輝いて見えていた男は何処へ。あわや涙が零れるという間際、鼻先に小奇麗な装丁の小包が差し出される。「終戦おめでとう!」と、メッセージの書き殴られたメモが添えられている。

「何さこれ」

「パパから息子への愛だよ」

 そうしてウィンクしつつ小さく舌を見せる。首筋にさぶいぼが立った。警戒しながら小包を受け取ると、早く開けるようにせがまれる。止せよ、そうがっつくな気色悪い。暑苦しい期待の眼差しに耐えて、飛翔する鶴の和紙包装を破くと、イギリスには珍しい上品な桐の箱が姿を現す。おっかなびっくり蓋を上げれば、綿の敷き詰められた中央に、細い棒切れが収まっていた。小耳に挟んだ限りだが、へその緒ではあるまいな……。震える指で取り上げて光にかざすと、飴色に彩られたマーブル模様が透ける。どうやら干からびた肉ではなく、べっ甲で出来ているらしい。

「日本の職人が作った『ミミカキ』だ」

「耳……牡蠣?」

 貝の干物か……?

「中途半端に言語を憶えるからそうなるんだ、馬鹿者。いいか、こいつは『耳掻き』といってな、自然な流れで女の子に膝枕をして貰える戦術兵器だ。本国じゃあ、こいつを使った風俗店まで開かれてるんだぞ」

 何故に仕事で使わない言語について糾弾されているのか釈然としないし、そんな知識は要らなかった。確かに日本語はかつての敵性言語ではあったが、五十年も前の話だ。

「要するに、耳掃除の道具だ。いいな、絶対に自分で使うなよ」

「使えない物をくれるなよ」

「じきに分かる」

 親父は含み笑いで言い残すと、情報班の邪魔へ足早に駆けていった。しまった、不可解な誕生日プレゼントで頭を悩ませている隙に、厄介なネズミを逃がしてしまった。憐れな情報班に憐憫を寄せながら、受け取った小箱をパンツのポケットに収めた。

 個室で真っ黒の戦闘服に着替え、一時間遅れでキリングハウスに到着する。細長い建築物群は既に何枚ものドアが吹き飛ばされて、荒廃した第三世界の様相を呈していた。いいぞ、もっとやれ!

 キリングハウスでのCQB訓練に合流し、同僚と窓や壁をぶち壊して休憩を挟み、午後は屋外の広大な射撃場で自前のライフルを構え、しばらく蔑ろにしていた狙撃に勤しむ。八百メーター離れた標的のブルズアイを初弾で撃ち抜くと、興奮ににやけ面が直らなくなった。ライフルを担いで本部ビルへ戻る時はステップを踏みそうなくらい上機嫌で、鼻歌まで吹かしていた始末である。終業時には同僚からそこそこ高級な酒を貰うと、これほど幸福な誕生日があっただろうか!余りに浮かれていたので、ダニエルが俺の紅茶にしこたま塩をぶち込んでいたのにも気付かなかった。あの野郎、ナメクジだったら死んでいたぞ。

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