奴隷邂逅【10-5】

 翌日の天候も、イギリスに似つかわしからぬ快晴が続いた。本日の夕暮れ時にはホテルをチェックアウトし、叔父に別れを告げてヘリフォードへ戻る段取りとなっている。時刻は一〇〇〇時。クラプトン家の次男坊は、中東みたいに灼熱の太陽ぎらつく空の下、砂浜に差したパラソルの陰に佇んでいた。

 前方には透き通る海が、眩い陽光を反射している。有象無象が露出度の高い水着を身に着けて、けたたましい笑声を上げている。避暑地の風景に、俺だけが溶け込めずにいた。

 「海行こうぜ!」部屋で朝食を口へ運んでいる最中、他の宿泊客への迷惑も顧みずやかましく訪問してきたのは、金色台風こと我らが末弟ジェローム君である。最近は大人しかったので安心、もとい危惧していたのだが、時分が彼の暴走の周期に至ってしまったらしい。こいつはいけない。迅速に避難しないと、竜巻に巻き込まれる。

 俺がジャガイモを咀嚼していて口を開けないのをいい事に、嵐は部屋に図々しく踏み込み、こちらへ紙袋ふたつを押し付けてきた。こいつが差し入れなどと気の利いた真似をする道理はない。訝しみつつ片方の封を切れば、シンプルな黒い男性用水着と、オレンジのどぎついアロハシャツが収められていた。

「海だよ、海!黄金の太陽、真珠の砂浜、エメラルドの海に浮かぶあの子はダイヤモンドだ!」

 朝から鬱陶しい野郎に付きまとわれたものだ。さっさと自分の部屋に戻って、大人チャンネルのテレビを前にマスかきに勤しんで戴きたい。もう片方の紙包みを破こうとするや、ジェロームは血相を変えて俺の手からブツをもぎ取った。

「馬鹿野郎、こっちはブリジットちゃんの!今見たらお楽しみが半減するだろうが!」

 何が悲しくて、弟に唾を撒き散らして罵倒されなければならないのだろう。不運は重なるのが常であり、果たせるかなこの愚弟に賛同者が現れてしまった。

「いいですね、海。折角来たんですし、行きましょうよ」

 両の指を合わせて変態に同調する恋人に、頭を抱えてしまった。正直なところ、サウナや海水浴場といった衆目に自分の肌を晒す場は敬遠したかった。この身体には、色々と歴史が刻まれ過ぎている。観光客に重圧を掛けるし、個人的にも好奇の視線を受けるのは不本意だ。

 されども彼女さんの期待に応えず、一人で海へ遣るのも気が引ける話だ。ここは自己のコンプレックスを押し殺してでも付き添うべきか。口惜しいがジェロームの戯言は真理で、ブリジットの水着姿の拝謁は魅力的である。プレイメイトなんざ物の数ではない至宝が、向こうからいらっしゃるのだ。半ば気乗りしないものの、懸想した少女の柔肌へのふしだらな欲望に屈し、愚弟の誘いにぎこちなく首肯したのであった。

 水着にアロハ、黒光りするサングラスと胡散臭さ全開の次男は、家族に先んじて砂浜にキャンプを設営した。兵営で自然と身に付いた手際で事を済ませると、レジャーシートで体育座りに、人でごった返す海を心ここにあらずと眺めていた。何だか、体良く雑用を押し付けられた気がするよ。

 売店で調達したコーラを片手にしょんぼり待っていれば、何やら後方でなよなよと軟派な男声が耳を不快にさせる。――あいつかな。当たりを付けて振り向けば、予想通りの人物が、見せ掛けの筋肉を付けた野郎に言い寄られていた。

「ねえ君、何処から来たの?」

 うわあ、止めておけ。そいつはお前には過ぎた女だ。イギリス基準でEカップはあると見える胸を黒のビキニで強調した女は、片手で男をいなす。その顔立ちはスラヴ系の色が強く、黒子ひとつない肌はヘロインの粉末よりも白く、陽光を倍加して反射する。ぞっとするまでに整った容姿、均整の取れた長身に、パレオから優雅に延びる長い脚。彼女こそ、我らがお義姉さんたるニーナ・クラプトンである。ちなみに今年で三一歳。魔物なんだろうな、きっと。

「なあ、ちょっとそこで飲もうよ。ちょっとだから」

「失せな、坊や」

 取り付く島もない物言いに、優男は一瞬怯んだ。あの冷凍したウォトカみたいな瞳に睨まれれば、委縮するのも頷ける。そんな折に、ホテルの方から親父がたぷたぷとビール腹を揺らして駆けてくる。愛妻のむちむちすっきりばいんばいんを前に、興奮気味に名を呼んでいる。優男が、それに気付いたのがいけなかった。

「何だよ、でぶの先約済みか」

 あーあ。俺はたまらず片目を覆った。捨て台詞を紡いだ男がその場を去ろうと踵を返した途端、ニーナの新雪の腹部に深い溝が浮き出た。やつの滑らかな皮膚の深層には、ヒマラヤ山脈並みの腹筋が暗器よろしく隠されている。彼女はごく自然に優男の後頭部の髪を掴むと勢い後方から地面へ引き倒し、その締まりない顔に唾を吐き掛けた。男は茫然自失と天を仰ぐのみで、脱色した頭髪が数百本抜けた痛みさえも感じる余裕がないと見える。

「お待たせー」

 親父は仰臥する男へ目もくれずにニーナの手を取り、このキャンプへと手を振る。親父への慕情が強過ぎるが故、あの魔女は時たま手痛い対応をなさる。当事者の親父も制止しないから、尚更に性質が悪い。ニーナはもぎ取った毛玉を砂の地面に放ると、親父と指を絡めてこちらへ歩んできた。如何程に装備が整っていても、あいつだけは敵に回したくない。倒れた男は数秒後に正気を取り戻すと、その場を足早に去った。歯をへし折られなかっただけ、彼は幸運だった。

 それから少し経って、兄弟が人数分のビールを買ってきた。その中にジェロームの姿もあったが、やつが女よりも着替えが遅いのに合点がいった。真っ赤なブーメランみたいなビキニパンツと、菩薩でさえも他人の振りを決め込みたくなる風体で、しかも全身がオイルでねっとり照っている。やつ曰く、「女は俺様を前に大洪水」だと豪語なさる。女の股ぐらが濡れる以前に、兄の涙腺が決壊しそうだよ。

 恥晒しの末弟は早々にガールハントに砂浜へ駆け出し、ヴェストも今日限りの女を釣り上げに海へ行ってしまった。ショーンはヘリフォードのシェスカが気に掛かっている様で、ベースキャンプから動く気配が見られない。親父はと。

いえば、パラソルの陰で人外の嫁さんに日焼け止めを塗られている。その内にショーンは二杯目のビールを買いに席を立ち、親父夫婦も弛み過ぎた旦那の腹を締めに海へ去ってしまう。そうして次男は再び陣地で置いてけぼり喰らうのだが、行楽地で孤独というのは中々に心苦しいものがある。この場から動けない理由は一つ、ブリジットの着替えを待つが故である。――それにしても遅い。女性なる生物は身支度に時間の掛かるものだが、親父夫婦が海へ繰り出して既に十分が過ぎている。ブリジットは化粧をする様な娘ではないし、ヘアメイクにも凝らない。身支度に時間を要さない、これでもかと男に都合の良い子なのだ。

 殆どなくなったビールを含んで頭を捻っていると、胸ポケットの携帯が振動する。見れば最愛の君からで、出れば少々狼狽した声が窺える。状況を尋ねると、「ホテル前に来て戴けますか」との要請が返ってくる。――まさかな。彼女が風邪を患った時と、同じ類の疑惑がよぎる。ぬるくなったビールを飲み干すと、ホテル前へと駆け足に向かった。

 叔父のホテルを正面に見据え、観光客の雑踏の中から慕った姿を求めて視線を巡らせる。背筋に、どろりと黒い予感が走る。鼻の頭に脂汗が浮かぶと同時、ブリジットの砂色の髪を見付けた。軽薄そうな男ふたりと一緒に。あの子の表情に、怖じ気が悟られた。――この野郎。咄嗟に湧き起こる憎悪に、血管の浮いた腕がわななく。観光客を掻き分けてブリジットの許へ歩み寄り、男の一方の肩に手を置いた。不機嫌に首を向けた不埒者の肩を掴む手に力を込め、アロハの裾を手で捲って腹の傷を見せてやった。向こう見ずの顔から、にわかに血の気が引く。

「うちの子にご用かな?」

 最大限にどすを効かせた声を絞り出すと、悪い虫共は尻尾を巻いて敗走した。敵を選ぶだけの頭がある連中らしく、身体に教えてやる手間が省けた。不完全燃焼の怒りを散らせてブリジットに向き直ると、未だ不安に駆られている面持ちである。あの不届き者も、厄介事を持ち込んでくれたものだ。とりあえずは気付けと埋め合わせに、警戒に見回す頭をぐりぐりと掻き撫でる。

「遅れて悪かった。まあ、こういう事もあるさ。お前、可愛いから」

 彼女の双眸を正視せずに頷いてやると、幾分か安堵した様子でシャツの裾を抓んでくる。成る程、こいつは見知らぬ土地で一人にしてはならないらしい。不心得者のせいでじっくり検分出来なかったが、ブリジットは白いパーカーを羽織っており、その下にライトグリーンの布が窺えた。人知れず、唾液が口内に満ちる。ええい、こらえろスケベ。

 周囲を観察すると、平時より開放的に乳繰り合うカップルが多数確認される。あれの一部となるのには世間体が口を挟んでくるが、これも乗り越えるべき障害か。鼻息で踏ん切りを付けると、そっとブリジットの手を取る。五十過ぎの親父に出来て、息子に叶わぬ道理はない。

「早く行かないと、陽が沈んじまうぞ?」

 羞恥紛れに急かして手を引くと、いつもと変わらぬ微笑みが戻ってきた。全く、上玉の彼女を持つと苦労をする。だが、こちらからの接触で上機嫌のブリジットを見れば、こうした厄介事も悪くはない気がした。遅過ぎる青春など存在しない。それは親父が証明してくれている。

 ベースキャンプへ戻ると、誰もいないパラソルの陰に新しいビールのカップが置かれていた。ショーンが買ってきてくれたのだろうか。当の三男坊は何処へと考え耽りつつシートに腰を下ろすと、ブリジットが荷物を漁って小さな瓶を取り出す。またマッサージでもしてくれるのかとも期待したが、どうやら親父夫婦も使っていた日焼け止めであるらしい。

「上着を脱いで下さいね」

 「あいよ」と条件反射で返事をしてしまう辺り、かなり手懐けられている。日陰ではあるものの、この傷跡だらけの身体を外気に晒すのは気が滅入る。それでも懸想相手が海遊びを希望しているのだからと、断腸の思いでアロハを脱ぎ捨てた。潮風が、傷跡の一つひとつに沁みる。

 白濁した日焼け止めが、背中に丹念に揉み込まれる。弾力を持つ掌と指の腹に、強か性的興奮を覚えた。肩や首まで日焼け止めを塗り終え、後はブリジットが日焼け止めを塗るのを待つ次第となった。俺がビールをあおるのを、何ぞ言いたげにじいと見つめてくる。ビール欲しいの?構わずにいると、かすかに頬を染めて口を開いた。

「あの……背中に塗って戴いてもよろしいでしょうか?」

 麦汁が鼻腔に逆流し、炭酸が粘膜に激痛をもたらす。どうやら聞き違いではないらしく、鼻先へ日焼け止めの瓶が差し出される。健全な青少年であれば鼻血と先走りがだだ漏れだが、こちとら脂汗のバケツがひっくり返る。つい数日前まで、神経系が女性との身体的接触を拒絶していた身である。現状は何らアレルギーを示さなくなったとはいえ、こちらから素肌に触れるとなれば、腕が爆散するのではなかろうか。掌がじわりと嫌な湿り気を帯びる。こいつの由来は精神が快復した確証がない為か、はたまた単にスケベ心からか。逡巡の末に、脳内の議会が導き出した回答はこうだ。「スケベだっていいじゃないか」そうだ、腕が弾けるから何だ。スケベでいいんだ!

 目の周りの汗を腕で拭い、ぐずぐずにふやけた手を瓶に伸ばす。ええい、ままよ。ブリジットはパーカーの前を開くと、脱いだそれを畳んで脇へ置く。成る程、こいつは想像以上の破壊力だ。普段の給仕服からは窺い知れなかったが、その肢体はあどけなさの残る容姿に反して艶めかしく、妖艶な色香を発していた。全体的にスレンダーながらも、付いていて欲しい部分にはしっかりと脂が乗り、かつ程良く引き締まっている。腹には縦に綺麗な筋が走り、僅かばかりも弛みが見られない。健康的な脚部はすらりとしていながら、肉感を十二分に有する代物だ。

「余り見られると、その……」

 視線を逸らす恋人の嘆願は、鼓膜を素通りする。これが視姦せずにいられるか。分厚いメイド服の下に、斯様な戦術兵器を隠していたとは。とはいえ、一つ気に掛かる点があった。ジェロームが届けた、ライトグリーンのホルタービキニだ。大人しい色味とデザインは、確かにブリジットの印象に適合していた。小振りな尻を包むショーツに控えめなフリルがあしらわれ、デザイナーの巧みな意匠が覗く。だが、サイズが合い過ぎている。果たしてあの変態は、如何にして彼女のスリーサイズを知り得たのか。鳥肌が背筋を埋め尽くす。今度、うちの監視カメラの映像を確認しよう。

 うつ伏せのブリジットを眼下に、生唾を嚥下する。トップを留める紐が、かすかな衣擦れと共に解かれる。ブリジットの体重で、胸の双丘が脇から柔らかく零れる。どうしよう、あとちょっとで見えちゃうぞ。甘い誘惑に意識が遠のくが、自前の精神力で何とかやり過ごす。猛烈なプレッシャーが、後頭部辺りにのし掛かっている。

 乳白色の日焼け止めを掌に垂らし、合図と共に背中へ近付ける。手を裏返して彼女の肩甲骨に触れた際に、小さな悲鳴が漏れた。健康な身であれば、今ので勃起していた。白斑の一つもない皮膚は凹凸なく、上質な絹を彷彿とさせる。しっとりと潤いある肉質は、腰に近付く程に柔らかみが増す。自身のがさついた、爬虫類の如きそれと同じ成分で構成されているとは思えない。それこそ、美少女のみが生息する異星から流れ着いたとうそぶかれても疑いない。公共の場でなくば、自我を放って舌を這わせていたやもしれない。日焼け止めでべたべただけど。

 額を欲望の汁でずぶ濡れにして背中への塗布を終えると、ブリジットは気前よく脚にまで触れさせてくれた。背中より遥かに柔らかそうな美脚に、双眸が釘付けにされた。気を取り直して白濁液を手に取り、おぼつかない手付きでふとももにあてがう。ややもすれば喘ぎとも取れる悲鳴が再び空気を震わせ、忍耐が絶頂を迎える寸前であった。弾力ある珠の肌に乾燥した掌に吸い付き、力を加えれば何処まででも沈む。くすみない膝裏を経てふくらはぎへ至る道程は、さながら官能の聖地巡礼である。適度な筋肉が付いており、それでいてちょっとひんやりしている。遂に灯った独占欲の炎に、劣情の薪がくべられる。いつしか自分も度し難い変態に墜ちてしまうのではないか。否、ジェロームと同類は勘弁してくれ。

 足首まで日焼け止めを塗り終えると、ブリジットはおずおずとトップの紐を結び直した。起き上がった彼女は日陰でも知れる程に紅潮していて、それがたまらなく男心をくすぐる。

「お手を煩わせました」

 様々な桃色の念で主人が混乱している間に、前にも日焼け止めを塗り終えたブリジットがやにわに立ち上がる。

「ちょっと火照っちゃいましたね。海へ行きましょうか」

 言うなり俺の手を取ると、有無を言わせずに引っ張られる。少しばかり強引にやらねば、俺がいつまでも日陰から出ないと踏んでいたのだろう。弱冠十八の少女にさえ敵わない自己を不甲斐なく呪ったものの、天高く輝く太陽よりも眩しい笑みに、諸々の劣等感は打ち砕かれた。可愛い恋人が、折角お膳立てしてくれたのだ。今日くらいは、童心を丸出しにしても天罰は下るまい。


 陽が半分ほど水平線に沈み、観光客の人足もまばらになった頃、我々も仮拠点を畳みに掛かった。ヴェストは予定通りに浅黒い肌のブロンドねーちゃんをお持ち帰りしたので、家族とは別に帰るらしい。対して自称女たらしのジェロームだが、誰の股も濡らす事なく炎天下を彷徨っていた所為で、真っ赤に焼けて放心していた。志願者の皆様、SASは女遊びが不得手な御仁でも、分け隔てなくお待ちしております。

 パラソルを畳む脇目に見たブリジットが、鮮やかなオレンジの夕陽に照らされていた。身体に落ちる陰影が、野郎にはない曲線美を強調している。片付けを終えると、立ち尽くして夕陽に焦がされるジェロームを抱えてホテルへ戻り、着替えて荷物をまとめる。ありがとう、ブライトン。ここで天日干しされたお陰で、心のカビをまた少し駆除出来た。行き詰まった時は、環境を変えるのも一考だ。セックスレスに悩むアベックが、気分作りに青姦をやらかすのも分かる気がする。

 今回の遠征で、ようやくブリジットとの段階を一つ進展させられた。かなり遠回りはしたが、こうして徐々に男女のあるべき形へ近付いている。あの子は自分を無闇に卑下しなくなった。マーティン少年は、自らの贖罪の落としどころを心得た。ホテルをチェックアウトして車に乗り込んだ辺りで、陽が完全に海へと沈む。薄暗い車内、ブリジットの「帰りましょう」の語り掛けに深い感慨を覚えつつ、家路へ車を走らせた。

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