奴隷邂逅【10-4】

 ホテルの部屋に戻ってソファへ尻を沈めるのと同時、ここ三日の疲れが両の肩に大口径の榴弾を落とした。長時間の移動、見知らぬ連中の訓練、ジェイクの不祥事、ブリジットの告白への返答……。不器用な身で、大層な無理をしたと感じる。眼球に鈍い重みを覚え、小さく息を漏らす。認めたくはないが、歳やもしれない。余り直視したくない現実が垣間見えたその時、首の後ろに心地良い圧迫が加えられた。ブリジットが、凝り固まった首筋を揉み解していた。

「本日もお疲れ様でした」

「大した事はしてない」

 惚れた女には格好付けしいのが、悲しいかな男の性である。ニーナのやつが相手なら「そう思うならビールの一杯でも注いでこい、おっぱいお化け」と吐き捨てて、ぶん殴られる。第一、あの鉄の女が弟を労うなど、米軍のUFO撃墜成功の報せよりも稀有である。あと、米軍ならやりそう。か細い指が、首筋に突き立てられる。

「肩もかなり強張ってますね」

「そうねえ……。地下のスパでマッサージでも受けようかしら」

 味気ない返答が不満だったのか、ブリジットはぷうと頬を膨らせる。フグみたいで可愛い。彼女は俺の頬を両手で拘束して自分へ向かせると、半ば眉を吊り上げた。

「どう捉えていらっしゃっても構いませんが、私これでも性奴隷ですよ?主人への奉仕くらい、施設で仕込まれたんですからね?」

 これには度肝を抜かれた。何せ包み隠すべき肩書きを、真っ向から武器として切り出してきたのだ。言うなれば「自分は穢れている」と明示したのと同意義である。余程の馬鹿か、でなければ相手を相応に信頼していなければ出てくる言ではない。そりゃあ己惚れたくもなる。

「任せていいの?」

 恋人はその小さな胸に手を置いて豪語する。

「その為のメイドですから」


 遂にお馴染みとなったブリジットによる洗体が終わると、バスタオルを敷いたベッドでうつ伏せになる。ブリジットは何やら用意があるとかで、機嫌良く退室してしまった。

 部屋にひとり残された事で実感したが、ただ数分の間とはいえ、心の表層に物寂しさを覚える。どうも相当に深い部分まで、あの子に依存してしまっているらしい。いい歳のおっさんがこうも幼稚だと恥も感じるが、目蓋を閉じれば、あの子の屈託なく微笑んだ顔や、心底おかしそうに吹き出す声が想起される。それが今日び何物にも代え難い拠り所になっているのだから、己の矮小振りには閉口する。最強の特殊部隊とのたまってはいるが、結局はただの卑屈な人間に過ぎないと実感した。いざ認めると、山頂で重荷を下ろす様に気が休まる。

 年寄りらしく感慨に耽っていると、可愛い小指が部屋に戻ってくる。その腕に、小さなボトル数本が抱かれていた。

「地下のスパからオイルを分けて貰いました。クラプトンのお名前を出したら、喜んで貸して戴けましたよ」

 ボトルを配置しつつ、ぱあと満面の笑みを向けてくる。何がそんなに嬉しいのか知らないが、とりあえずは俺も笑っておく。やはり未だ慣れないらしく、無用な力で眉が下がった。

 ブリジットはベッドの脇に立つとオイルを手に取り、こねくり回して温め始めた。つい数日前まで、素肌に触れるまで気を許す女などいなかった。そいつが肉を揉まれるのだから、お笑い草だ。しかも、ちょっと期待していると来やがる。繋がっておらずとも、やはり血は争えない。

「楽にして下さいねー」

 その一言を合図として、肩に粘質の感触が落ちる。ぬるいオイルが骨張った皮膚へ塗りたくられ、体重の掛かった柔らかな手が背筋を滑る。きめの細かい掌が腰から肩甲骨へ掛けて円を描いて血行を促進し、体内の老廃物が絞り出される心地があった。

 足回りへも、集中的な手当てが施される。腐っても特殊部隊の脚だ。筋肉の鎧が外力を阻む筈なのだが、ブリジットはしっかりリンパ節まで不純物を誘導してくれる。むにぐにと大腿部をさすられて間抜けな声が漏れると、楽しげな息が耳をくすぐる。

 丸太の如き四肢の疲労を揉み出すと、今度は仰向けにされて腹部を撫でられる。訊けば腸の活動を活性化させるとかで、翌日にはうんちがもりもり出てくれるとのお言葉だ。日々のうんこは大事なので、これは素直に嬉しい。

 硬質化した皮膚に覆われる手の指から足裏まで揉み解され、全身が熱を持っていた。為すがままに上半身を起こせば殴打法で肩を叩かれ、それまで緊張していた神経が弛緩する。肩肘を張って、他人との接触を絶っていた自分が滑稽であった。思い返せば、ちんけな過去に引きずり回されていた日々を、随分と長く送っていた。

 仕上げに頭皮のマッサージをして貰っていると、ブリジットが弱々しく唸る。大方、原因の予想は付いていた。主人の頭部を見下ろす彼女は、同情的な瞳を向けていた。

「……帰ったら、ちゃんと髪染めしましょうね」

 幼少期に抜けてしまった頭髪の色素は、今になっても再生せずにいた。お蔭で二箇月に一度は白髪染めの必要があるのだが、その周期が来てしまったらしい。恐らくは、毛髪の根本が白んでいるのが見えたのだろう。別に弱点でも何でもないが、少々恥ずかしい気味である。

 仕上げとばかりに足裏の指圧まで施術されたのだが、これには悲鳴を禁じ得なかった。何しろ押された箇所全てが、地雷を踏んだと錯覚するまでに痛い。専門家に言わせれば、きっと全身病気まみれなのだろう。「今の何さ!何処が悪いの!」「性機能が低下してます!」ちくしょう、当たってる。

 全身をくまなくメンテナンスされた事で、何やら解放感に満ちていた。今なら銃弾より速く走れる。滑走路さえあれば、両手を広げて戦闘機よろしくぶーんと飛び立って、そのまま洋上の不審船を撃沈する勢いだ。

 未だオイルでべた付く身にバスローブを着せて貰い、ブリジットがシャワーを終えるのをソファで待つ。体温が上がっている所為か、水音が余計にいかがわしく聞こえる。いつか――。そう誓って、股間の分身を撫でた。ちくしょう、ここの呪いは少しも解けちゃいない。

 サイズの合わないバスローブを羽織った恋人が戻り、そのまま自然な成り行きで隣に腰掛けてくる。部屋の芳香剤とは別に、とろりと甘い芳香が漂った。これを独占する権利が自分にあるのだから、興奮するのも致し方あるまい。耐え切れず肩を抱き寄せて首筋に鼻を埋めてしまうと、その天然の香料に理性が霧散しそうになる。突然の掻い付きに小指は幾らか戸惑った素振りを見せたが、やがて子供へする様に後頭部を撫でてくれる。この矮躯の何処に、これ程の母性が湛えられているのか。それに体裁もなく寄り縋る我が身のマザコン振りも大概だが、そこは今日まで飢えていた埋め合わせという自己弁護で理解が得られるのを祈る。どうあれこの恋情が倒錯的であるのに疑いの余地はないが、だからとして何が問題か。ようやく無防備で脆弱な自身を晒せる人を見付けられたのに、ここまできて尻込みするのに足る理由とは思えない。

 それから酒をちびちびやりつつ、持参したラップトップでブリジットと銃の選考をした。扱い易さと彼女に適したサイズを条件に絞り、数あるブランドから数件の案を導く。大事な恋人に怪我をさせる訳にもいかないので、安全性も十分に考慮されたモデルを選んだ。比例して必然的に価格は跳ね上がるが、それはご愛嬌だろう。金で救える命なら、妥協はすべきでない。海外でわざわざ安い水を購入して、腹を下すのは愚かしい。

 通常、男がこういったリゾートホテルに宿泊すれば、日中から女漁りにビーチへ飛び出し、陽が落ちるまでビールを浴びて、夜にカジノでおっぱいの大きなディーラーに散々負かされて、憂さ晴らしに風俗店ででぶを抱くのが通例である。それがクラプトンの次男ときたら海へも行かず、硝煙の臭い――正確には雷管の燃える臭い――に一日中包まれ、ギャンブルは苦手だとバカラやルーレットに目もくれず、ただ愛しい少女と寄り添ってアルコールを嗜むだけだ。傍からは面白みのないバカンスだろうが、これで結構満足している。ブリジットの思慕に応えられたのはPSC訓練に参加したからだし、彼女への理解も深められた。これを機に、積極的に人生と関わりを持つのも悪くなかろう。ひょっとすると、病を克服する決定打になるやも分からない。人知れず肩に体重を預けて眠りこけるブリジットをベッドに寝かせてやると、久しく忘れていた穏やかな心境を味わう。産毛の生える頬を指でそっと突いてやると、緩やかに口角が上がった。

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