奴隷邂逅【10-2】

 部屋に戻ると既に酒瓶が用意されており、夕食前にソファでブリジットと一杯やった。疲労の溜まった身に、芳醇なアルコールがじわりと染み渡る。筋肉の緊張を解すのに、適度な飲酒は有効だ。可哀想に、サウジアラビアに駐屯する米兵は、アルコールの摂取の許可が下りない。日がな意思疎通の能わぬ現地民に不審の目を向けられ、何処で爆弾が炸裂しても不思議のない隘路を抜けて基地に戻れば、冷房の効く個室でふんぞり返る士官が嫌味を垂れる。明くる日の英気を養おうにも、夜半の酒宴は御法度と来ている。一般兵の乏しい勤労意欲を、誰が責められようか。

 グラスを傾けて唇に残る液体を舐める度、悶々と思考が乱れる。この歳でようやく知ったが、どうやら一線を越えた男女が酒を飲み交わしていると、酩酊の有無にかかわらず『そういう』雰囲気が生じるらしい。どちらからとなく肩に触れ、そっと抱き寄せて髪を梳き、肺に懸想した異性の匂いを満たす。角がなくそれでいて重い、古樽で熟成されたモルトウィスキーの如く強い香りに、脳が甘く痺れる。

「くすぐったいですよ……」

 腕を華奢な腰に回し、確かな重みを膝上に乗せて尚愛でる。犯罪と同様、一旦吹っ切れてしまえば抑制は無意味になる。備え付けのテレビに映画が流れていたが、音声は一切耳に入らなかった。

 この恋情は、一時の気の迷いではないか。疑念を抱いた回数の計上は、両の手指のみでは不十分である。轟々と燃え盛る男女の仲が、何かの拍子に冷水でも掛けられた様に鎮火する災難は、大勢の同僚から聞いている。傷の舐め合いや、ストックホルム症候群(吊り橋効果)で結実した恋仲は脆く、腐敗も早い。傍から見れば喜劇的なこの定石に、疑いはない。が、その一方で事が自身に及ぶと大衆論理に反発したくなるのがヒトである。腕の中の少女は、女々しくいじけた三十路前の欠損を緩く受け入れた上で、愚かにも交際を持ち掛けてくれた。怖い物見たさと捉えれば可愛げもあるが、美少女の一生を左右する決定ともなれば二の足も踏む。年齢差、実に十と一つ。衆目には不健全に映るだろうが、既に薄紅色の煙をもうもうと走り出した恋慕の機関車は、レールも外れて爆走している。ぽーっ!

 陶磁の腕が野太い首に触れ、ひび割れた唇を啄む。若く瑞々しい花弁が隙間なく接触し、こそばゆい快感が粘膜を走る。息苦しさを覚えた辺りで首を引こうにも、如何せん腕を首に巻き付けて放してくれない。そうこうしていると、長きに渡る兵役を以て前例のない攻撃を仕掛けられる。――こいつ、躊躇いなく舌をぶち込んできやがった!口唇と歯列を割いて侵入した切っ先が迷いなく純朴な舌を補足、ねっとりと絡み付いてくる。潤沢に唾液を含んだ肉布が口内をに蹂躙し、歯肉から歯の裏まで網羅される。そしてこの娘、可愛い顔をして存外に舌が長い。いい大人がされるがままに、果てしなく長い時だか須臾が過ぎ去った。やがて銀の糸を伴って濡れた唇を離し、魔性が妖艶に微笑む。

「お味は如何でしたか……?」

 今日び陸軍でさえ使わぬ下品極まる物言いにかかわらず、彼女に骨抜きにされている軟弱な身を実感する。慕情以外の感情など抱けず、純粋に眼下の女の子が愛しい。であるからこそ、機能不全の分身が憎らしい。好いてくれた子が続く段階を望んでいる故に、甘ったれた意気地から自己嫌悪に陥る。望外の幸福へ手を伸ばせば届くのに、いたたまれぬ板挟みに陥る。稚拙な見識が間違っていなければ、この子はプラトニックな恋愛など求めてはいない。

 歳ばかり上の彼氏の心情を汲み取ってか、良く出来た恋人はやんわりと頭を撫ぜてくれる。――駄目元で、また心療内科に通ってみようか。掛かり付けのベンのやつ、元気かな。

 唇がふやける程に乳繰り合う最中、不届き者が部屋のドアを叩く。不機嫌を露にドアスコープを覗けば、丸く歪んだレンズに夕食のカートを押すボーイ君が映る。標的を失った憤りを揉み消しつつ彼を室内に迎え入れ、にこやかに送り返す。そうしてドアを閉めた途端に、心中でのいかがわしい不発弾処理から無気力に襲われた。幾ら何でも、タイミングが悪過ぎるじゃないか。

 運ばれた夕食を味わう余裕なく摂る中で、睦言に水を差された筈のブリジットはご機嫌であった。折角の恋人らしい時間であったのに。そう悲嘆する辺り、焦り過ぎていたのかもしれない。今日を生き延びるとも限らない職が為の苦悩とはいえ、これには参った。少しは大人の余裕をわきまえるべきか。その実、童貞だけど。

 イギリスにしてはまずまずの夕食の食器が片付けられると、再び密月が訪れた。ソファで寄り添い、何の面白みもない映画を観る。変わり映えない一瞬が、実に貴重に感じる。同じ時間軸でアルカイダが麻薬取引で資金を肥やし、独立国家樹立を企てるクルド人がIED(路肩爆弾)の起爆を画策する中で、遊覧船に揺られる一時を過ごしている。生きててよかった!

 映画が終われば、昨晩と同様にバスルームで身体を洗って貰う。柔らかなスポンジが皮膚の不純物を落とし、黒ずんだ垢が削り落とされる。特殊部隊の矜持は何処へやら、童心とはこういうものか、慣れない心地良さに数分寝入ってしまった。目覚める要因となったのは、皮肉が利いていると言うべきか、お姫様の接吻であった。冗談の分かる子は、おじさん嫌いじゃない。

 部屋に戻り、ブリジットもシャワーを終えてくると、誰の妨げもない平穏を満喫する。先に阻害されたいちゃいちゃを再開しつつ、薄れてきたアルコールを飲み足し、恋人の導きで少々過激なスキンシップへ踏み込む。小さな耳の裏を撫でると、悪寒に襲われた様に身を縮ませる。艶めかしく身をよじる仕草に気を良くして首筋へ唇を這わせば、石鹸の匂いに混じって甘ったるい吐息を漏らす。よもや自分がこうも性的な行為に及ぶとは、世も末である。

 恥も外面も捨ててじゃれ合う内に、ブリジットの囁きで耳許に生温かい風が渦巻く。

「ヒルバート様は、どうして特殊部隊に?」

 この子に脚本家は向いていない。雰囲気とか話の筋道を、何とも思っていないらしい。はて、疑問の焦点は何処だろう。親父に拾われてからこっち、陸軍への入営とパラシュート連隊、選抜訓練と継続訓練を経る経緯というのが正答だろうか。頭を捻っていると、やにわに顎を掴まれてキスを強制される。ふやけた感触と同時に、何やら唾液と異なる液体が喉を焼く。ちくしょう、ウォトカだ。

「だって不思議じゃないですか。それまでよりずっと苦しい労働環境なのに、楽な部署からの異動を望むなんて」

 その疑問と、高濃度の蒸留酒を口移しする暴挙の関連性をご教授下さい。水気を吸った砂色の髪に指を差し入れ、濃密な酒気で朦朧とする脳に、返答を思案させる。ええい、止めろ。ない頭で必死に考えているのに、耳を食むな。

「まあその、何だ。通常部隊にいると関われない仕事っていうのが、どうしても存在する。それが世界平和に繋がるとか、貧困に苦しむ子供を救うとか、そう都合良くはいかない。戦争で平和が実現出来るなら、聡明な学者先生なんか要らないからな。むしろ衆目から隔絶された秘匿作戦は、世論の反発を買う可能性の高い、後ろ暗い利権と陰謀にまみれてる。俺らが馬鹿みたいに訓練して給料に見合わない戦地に赴くのは、名誉や勲章の為じゃない。もっと別の理由からだ」

 うら若き女の子にする話題ではないが、本人が望んでいる以上は真摯に応えるべきだろう。恐らく、こんな与太話は途中で飽きられるだろうが。

「そうだな……兵士であれば、元来の闘争本能を合法的に運用する許可の下において、持てる知識と技術の行使に敬遠なんざ示さない。文民の道徳に反しても、国家の窮地に誰かがやらねばならない仕事が――他でもない、我々が望む厄介事が向こうから舞い込めば、血生臭い泥を自ら被りに行く。陽の当たらぬ仕事場に赴き、脳内麻薬の興奮を味わった者にしか知り得ない快楽……連帯意識とか、同志愛だ。公衆の倫理に背くとしても、包み隠す道理はない。

 辛苦を味わう道筋でも、絶やせぬ探求心と克己心が、次なる戦場に備えて技術を磨き上げる。内に潜む獰猛な獣を手懐けて得た、統率された暴力は、机上でしか物事を計れないやつらの想像を超えた成果を上げる。

 ……つまり、我々の個々の目的は、終点の存在しない究極の自己満足だ。危険極まる特殊部隊に籍を置く理由なんざ、それで十分だよ」

 流石に寝てしまっただろうかと視線を落とすと、意外にもブリジットは口を一直線に結び、くそ真面目に聞き入っていた。酒の所為か頬が紅潮しており、えらく扇情的だ。ちんちんの不能が、ただただ悔やまれる。

「職場の同僚は戦場を知ってる。俺を構成する要素の一部を理解してくれる。軍に身を置く事が、生命維持そのものだったんだ」

「じゃあ、その一部以外を理解してくれる人は――」

 自嘲めいた笑みが自然と浮かぶ。

「そこなんだろうな、抜け落ちちまった歯車は」

 長々と穴だらけの自論を垂らし終えると、乾いた喉を潤すのに〈マイヤーズ〉のトニック割りを煽る。かすかに鼻を抜けるレモンの香りが、重い甘味を伴って失せゆく。

「悪いな、長話に付き合わせて」

 ブリジットはとぼけた風に目を丸く、首をかしげた。そして両の手指を組み、上半身を預けてくる。心地よい重みだ。

「自分で言うのも何ですけど、奴隷として売られたお陰で、私は普通の子と比較にならない経験をしてるんです。だから、有り体なレールを滑走してる人が書いた本なんかは面白く感じなくて……ヒルバート様のそういう珍奇なお話、好きですよ」

 超音速で胸郭を突き破る弾丸に、視界がぐら付いた。おじんを相手にあっけらかんと言い放つ物好きに苦笑したが、否定なく歩み寄ってくれる行為が嬉しかった。

 しかし、何と数奇な運命か。愛するメタボリック親父の差し金とはいえ、奴隷の――しかも美少女のそれと、同居はおろか同衾する仲にまで発展するとは。この短期間で、俺の内に巣食う癌は電撃戦もかくやという勢いで撃滅されている。いつの間にやら寝息を立てるブリジットの後頭部を掻くと、夢心地に妙ちきりんな声音を発した。PSCの訓練は、明日の午前中で終わりだ。その後は、僅かでもこの子の要望に応えてやりたい。

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